再度鳴る電話
時刻は23時。予期していた通り鳴り出したスマホに、私は通話のボタンを押す。
「もしもーし」
「もしもし?…こんばんは」
私の耳に届いたのは、今この瞬間に綿花から取り出されたばかりのような、ふかふかとした少し高い声だった。
「なぁに、今日は何があったの?」
直前までのメッセージのやり取りで私の落ち込みを察したらしい優しい彼は、心配した声音でそう問いかける。
耳に馴染んだイントネーションは、長年使いこまれた革張りのソファーのように、人をダメにする。
「んー?…あ、そういえば、サザンテラスでイルミ始まるみたいだよ。行く?」
「ほら、まーたそうやってはぐらかそうとするんだから…。んー、人多いところあんまり得意じゃないんだよね俺」
「あ、そうなんだ。じゃあ友達と行くから、写真送るよ」
「やぁだよ。一緒に行きたい。頑張るから…俺と行って?」
甘やかに乞うその声がくすぐったくて笑ってしまう。
その間も、右手ではせわしなく会話のメモを乱雑に取っていた。
お酒が入ると記憶のほぼすべてを無くしてしまう悪癖を持つ私が、電話好きな彼とのやり取りをつなぎ留めておくための苦肉の策だ。
「じゃあまた今度、予定があったらね」
「うん。…で?今日はどうされましたか、×××さん」
医師である彼は問診をするように私に問う。
このモードに入ったら、どんなにはぐらかそうとしても彼は優しい追及をやめない。この一週間でそれを学んだ私は観念して今日あったことをぽつぽつと話す。
「仕事がね。ちょっと…ミス?じゃ、無いんだけど、あんまりうまくいかなくて。それが…、んー、…1週間ぐらい準備してきたやつだったから。ちょっと、疲れたというか。悲しかったというか。…そんな感じです。先生」
「…そっかぁ、お疲れ様」
「うん、疲れた」
「…俺に当たりたかったら当たっていいよ。頑張り過ぎなくていいから。一人で抱え込まないで」
「…また泣かそうとしてくる」
「別に泣かそうとしてるんじゃなくて、思ったことを言ってるだけ。俺に何かできることがあれば言って。約束して」
死なない恋を頂戴。
絶対に裏切らないと。居なくならないと約束して。
そんな会話は彼と知り合ってすぐにしていた。
金木犀の彼のこと、湘南に染まった彼のことも話していた。
優しい私の主治医は、泣きながら私の話を聞いてくれた。そして、俺は絶対に裏切らない、居なくならないからと言い含めるように私に説いた。
私はそれが嘘だと知っている。
絶対は絶対に無い。それだけが世の中で唯一絶対に正しい。
「…うん、ありがとう。今日も■■■さんは優しいね。いつも、優しくしてもらってるばっかりで、何も返せなくてゴメン」
「そんなこと無いよ。俺は、×××が朝ちゃんと起きてくれるだけで充分。おはようって言ってくれたら最高」
彼は気づいていないであろう、その言い回しに潜んだ、彼の悲しい過去を思って私の胸が少し痛む。
「ねえ、今度お休みいつですか。一緒にどっか行きたい」
せめて私は自分が彼に与えられるものを与えようとする。
「えー?そんな嬉しいこと言ってくれるの?…んーとね、28日かな」
「一緒に本屋さん行かない?■■■さんと一緒に行ったら楽しそう」
「…それ、いいね。絶対楽しい。…嬉しい。ありがとう」
―喜ばせようとしているから。思惑通りに喜んでくれてありがとう。
もう、彼が何に喜んで何を悲しむのかを私はよく知っている。
「あ、…もう、てっぺん回った」
「えー…?ああ、本当だ。じゃあ、また明日?」
「うん、また明日。オヤスミ」
「おやすみ」
寝る前のその一言を、彼はとてもとても大事に口に出す。
私は多分に後ろ髪をひかれながらも通話を切った。
あの恋も、あの恋も、死んだ。
だからきっと、この恋もいつか死ぬ。
私は、自分が、それぞれの恋の死にざまを楽しんでいるのではないかとすら疑いたくなる気持ちだった。
私の来し方には死屍累々と横たわる恋の道がある。
そしてきっと私の行く末にも。
この恋の死に際は、優しい私の主治医様にとって悲しくないものであればいい。
そう願いながら私は薬指のリングを眺めた。
この恋は、死んだ。 @amane_ichihashi
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