5
あの夜以来、父の寝言を聞いていない。
やはり母はどこか遠くへ行ってしまったのか。そうなるのが自然の流れなら、仕方ないことだと思う。
けれど、私の心はいったい誰が洗ってくれるのだろう。きっとひどく汚れているに違いない。私の知らないうちに、人を傷つけているのかもしれない。口の中に指を差し入れてみたが、当然の如くそこには何もなかった。
それから一年後、父はちとせさんと籍を入れた。
式は挙げず、報告だけがあった。いずれ再婚するのなら、ちとせさんという父の選択は間違いない。それは認めるが、とうとうそうなったかという想いは、やはり私の中に大きくあった。
結婚したのだから一緒に住むかと思ったが、私に気をつかってか、互いの住処を行き来する生活を続けた。
私は県外の大学を志望校に選んでいた。父には負担をかけるが、家を出て一人暮らしを始めようと決めていた。いずれ私がこの家を出たら、二人は一緒に住むだろうか。そんなことを考えながら、ときどき重なり合う三人の時間を過ごした。
家族として、ちとせさんとどう接していいのか、迷っていた。同じようにちとせさんも私とどう接していいのか、わからずにいるようだった。嫌いじゃなかった。それどころか、気さくでとてもいい人だと思う。
「その人に心を許してもいいのよ」
母にそう言ってもらったが、私の心は汚れているし、実際、ちとせさんに冷たく当たったり、避けたりしたことも何度もあった。
このままじゃいけないというのはわかりきっている。あれこれ考えるけれども、そんなに簡単なものじゃない。大人になりたいと思いつつも、私は子供のままだった。胸の辺りに手を当て、心の色を想った。それは川の流れを濁らすほど、どす黒いのかもしれない。
「ふうかちゃんも、食べよう」
二人が結婚して丸一年目のお正月、商店街で振る舞われたお餅をちとせさんはもらってきた。
ちょうど父も帰ってきたので、私も部屋から出てきて、
つきたてのお餅はずんぐりとしたラーメン鉢の中に無造作に収められていた。
「まだ温かいよ」
ちとせさんが千切って、丸め、お皿の上に並べた。それにきな粉をまぶしていく。
父が一つ摘まんだ。その様子に既視感を覚えつつ、私も口に入れる。
甘く、温かい。それが喉の奥をするりと落ちていく。父の夢の中で過ごした、母とのひとときがありありと思い出された。
私を抱き締め、名前を呼びながら、何度も頭を撫でてくれた。
「……お母さん」
何気なく、私はそう呟いてしまっていた。
あ、と口を押さえて顔を上げると、ちとせさんの視線とぶつかった。まるで時間が止まったかのように、ちとせさんは目を見開いたままだ。
ちょっと待って、そういう意味じゃない、と言いかけたけど、もう遅かった。ちとせさんの瞳には見る間に涙が溢れてきたからだ。
「……ふうかちゃん」
ちとせさんはそう囁いて、静かに両手を広げた。その手幅は広すぎず、狭すぎず、作為的でなく、どこか遠慮がちに見えた。
勝手に傾いていく重心に抗えなかった。
ちとせさんの両手の間にすぽっと嵌まり込んでから、心が遅れてついていった。肩に顎をのせ、きな粉で汚れた手を背中に回す。柔らかさと温かさに包まれると、私の目からも涙が出てきた。
「ごめんなさい……」
わんわんと声を上げて、二人で泣き出した。
おろおろとする父を尻目に、ちとせさんにきつくしがみついた。
抱き締め返されるその腕の中で、同時に母のことを想った。
「……ごめんなさい」
〈了〉
お餅を吐く ピーター・モリソン @peter_morrison
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます