いつも通り

幸まる

嘘をつく鏡

白く清潔な廊下の、突き当りの部屋。

ベッドの上で上半身を斜めに起こし、彼女はいつも通り、柔らかな笑顔で私を迎えた。



「今日は秋限定のシュークリームを買って来たよ」

「嬉しい。去年好きだって言ったの、覚えていてくれたのね」


私が紙皿に乗せて渡したシュークリームを、彼女はとても嬉しそうに少しだけ千切る。

溢れ出そうなクリームを千切った皮ですくって、そっと一口食べ、輝くように笑んだ。

けてしまった頬に、笑窪えくぼがうっすらと刻まれた。


「美味しい。やっぱり好きなものを食べられるって、幸せね」

「そうだね」


差し出された皿を受け取り、私は微笑みを返す。


秋限定のそれは、たっぷりのカスタードクリームの中央に、濃厚なマロンクリームが少し忍ばされている。

きっとあんな小さな一口では、マロンクリームが混ざった部分までは食べられなかっただろう。


それでも、彼女の言葉も笑顔も本物だと分かる。



既に、あと十日程の命だろうと宣告されている彼女は、身体の痛みを取る処置だけをして、点滴もせず、食べたい物を口にしている。

最期の時は、決して延命処置をせず、眠るように逝くと決めてあった。




私達夫婦は、いつからか、終末期をどう過ごすか、もしどちらかが亡くなって一人残されたら、どう生きるかを話し合うようになった。


結婚して三十二年。

子は望んだが得られなかった。

互いに一人っ子で、既に両親は亡くなっている。

身内と呼べるほど親しい親族はおらず、何かあった時は一人になるのだという、漠然とした未来を考えるようになったからかもしれない。


幾度となく話し合って決めたのは、互いに趣味を持ち、友人を作ること。

外に出て仕事をすること。

家事は何でも自分で出来るようになること。

最期の時は、いたずらに苦しみを増す延命処置をしないこと。

一人になっても、悲しみに暮れて過ごさず、いつも通り、笑って生きること…。




「じゃあ、また明日」

土曜日明日はキャンプの会でしょう?」

「ああ、明日は人数が集まらなくてね。延期になったから、来れるよ」


彼女は少しだけ、笑顔を薄くした。


「……約束、たがえないでね?」

「当然だよ。心配しなくても、元々私は社交的だから、ひとりで家に籠もったりしないよ。自分のことは自分で出来るしね。料理なんか、君より上手さ」


彼女が軽く顔をしかめる。

冗談ではなく、私は料理も趣味で、趣味が高じて調理師免許を取った程だ。

結婚前は一人暮らしだったので、家事全般は得意で、大雑把な彼女よりも掃除上手だと思う。



一人になったからといって、生活に困ることは全くないのだ。



「……じゃあ、明日はあなたの得意料理が食べたいわ」

「チキンのトマトソース煮?」

「そう」


味の濃いそれを口にするのは、今の彼女にはとても難しいだろうと思ったが、私は快く頷いた。





病室を出て、友人からLINEが来ていることに気付き、駐車場で他愛の無いやり取りをした。

帰り道にスーパーに寄り、料理の材料と、少なくなっていたシャンプーなどの日用品を買う。

帰宅して荷物を置き、洗濯物を取り込まなければと考えながら、手を洗うために洗面台に向かう。



いつも通りだ。



彼女がこの家にいなくても、いた時と殆ど同じことをしている。


きっと、これからも、私はこうやって、日々の楽しみを見つけながら過ごすだろう。

いつも通りに。




洗面台の前に立ち、いつから詰めていたのか分らない息を吐くと、一緒に声が漏れ出た。


「ふ……う…ぁ…」


弾みで洗面台の縁を握りしめ、顔を上げてしまった。

目の前の鏡に写るのは、涙と鼻水で見るに堪えない男の顔だ。



ああ、嘘つきの鏡め。

彼女との約束を守る男は、そんな顔をしていないはずだぞ……。



手を洗い、うがいをしなければ。

彼女にたった一口でも美味いものを味あわせてあげる為に、鶏肉を煮込まなければ。


楽しいと、美味しいと。

……幸せだと思える瞬間を、あと、ほんの、僅かでも。




私は鏡から目を逸らし、勢いよく水を出して顔を洗う。

彼女との約束を守るため、目を腫らすわけにはいかないのだから。


明日も、笑って、何気ない顔で、いつも通りに。




「……嘘つきめ」


顔を上げ、再び見上げた鏡には、濡れそぼった男がいつもの顔で笑っていた。




《 終 》

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いつも通り 幸まる @karamitu

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