〈12〉 ③

 すべての事の発端は、金魚が死んだことでした。

 小学校五年生のとき、さなえがお祭りの屋台ですくってくれた、歩の浴衣とお揃いの金魚です。

 虹色の薬品にまみれて浮かぶ金魚に、さなえを重ねたのです。

 歩は父に懇願しました。さなえを守ってほしい、と。

 けれど父の答えはひどく冷淡なものでした。

「あれは商品やから、守る云々はでけへんなぁ」

 そう断ってから、父はニッと笑って歩の肩を抱き寄せました。当時まだ小学校五年生であった歩の襟元から太い腕を突っ込んで、わずかに膨らみ始めていた胸を撫でさすりました。

「そういうんは、管理者の責任やから。商品傷モンにしたないんやったら、自分が管理者になるしかないんやで。せやなぁ、おまえ、女の管理任せられるくらい、偉ぁなってみるか? ワシの子やしなぁ。使い勝手はええかもしれんなぁ」

 そうして父は、歩を自らの仕事場に連れ回すようになったのです。暴力が支配するビデオの撮影現場、薬物の精製現場、パッケージ詰め、売買のやり方まで教えてくれました。

 初めて父の仕事場を訪れた日、福留に連れて行ってもらったまずいラーメン屋さんが、ラーメンではなく薬物の受け渡しを本業にしていることを知りました。

 雪野さんが歩を誘ったラーメン屋さんは、まさにあの店でした。あの店に出入りする雪野さんを見かけて、放尿ビデオに出演している女の子もまた雪野さんだと確信したのです。

 だから、偶然を装って雪野さんと再会しました。雪野さんに似た女の子が出演しているビデオのパッケージを見た、と伝えて、彼女を青ざめさせました。

 それから親切面で教えてあげたのです。

「ああいうビデオに詳しい人がいるよ」とさなえの母親の存在を教えてあげたのです。「あの人なら辞め方も知ってるんじゃないかな」と嘘をつきました。同時に、ラーメン屋さんで配っている「小麦粉」を渡さないと相手にしてもらえないよ、とも言いました。

 母親の薬物代を払っているさなえの負担が少しでも減ればいい、と考えたのです。

 少しの間、歩の考えた計画は順調に進んでいました。雪野さんは響子に薬物を運び、さなえの支払う薬物代は軽減されていたはずでした。

 けれど、雪野さんはラーメン屋さんに隠してある「小麦粉」をごっそり持ち出しました。あとで聞いた話では、「小麦粉」を返す代りにビデオ出演を辞めさせてほしい、と交渉する気だったそうです。

 大人が子供と「交渉」するはずもないのに、です。暴力で取り上げられるのがせいぜいなのに、雪野さんはそんな簡単なこともわからなかったのです。

 あまりにも愚かな雪野さんに腹が立ちました。でも、すぐに思い直しました。

 考えなしだったのは、歩自身でした。

 歩の計画はなんの解決にもならない、現状維持でした。対する雪野さんの行動は、会社の破綻という根本解決を招きました。偶然の産物であったとしても、さなえは薬物依存の母親の世話からも歩の父からも解放され、雪野さんも新たなビデオ撮影から逃れることができました。

 いつもこうだ、と歩は大いに反省しました。歩はいつも、自分の行動が悪い結果を招くのではないかという恐ればかりが先に立って、動けなくなっていました。それは、相手がどのように感じ、考え、動くのか。周囲の金がどこからどこへ、なにを介して流れているのか。それを理解しようとしていなかったせいでした。だからその場しのぎで不用意な行動を起こしてしまっていたのです。

 そう気づいたときから、歩は真面目に勉強に励みました。

 幸いにも、あの事件以降、歩が父のような反社会的な人間とかかわることはなくなりました。歩と暴力をつないでいたのは父というただひとりの男だったのです。

 父を喪った会社はひっそりと事業をたたみ、あるいは歩の知らない誰かの手に渡り、消えていきました。

 それを寂しいとは思いませんでした。ただ、状況が変わったのだ、と受け入れました。

 父やさなえと過ごしていた時間のすべてを、勉強に充てました。学校や塾の勉強だけでなく、積極的にクラスメイトに話しかけ馴染もうと努力し、「人間」を学びました。

 いろいろなことを知っていれば、いろいろな予想が立てられます。どんな状況になっても焦らず、別の手を打てます。

「情報にはぎょうさん触れなアカン」誰かのしゃがれた声を、思い出しました。「いろんなテレビ視て、本読んで、人と話さなアカン。平田くんはなぁ、チョイ視野が狭いさかいな。アレはいつか足すくわれるで」

 歩はそっと自分の額に触れます。

「たくさん勉強しなきゃ」記憶の中の、誰かの言葉をなぞります。「愚かな人ばかりの組織は滅ぶしかないんだから……」

 歩は金属の箱を閉ざします。小さな錠前をかけて、引き出しに仕舞い込みます。

 鞄から進路希望の調査書を取り出しました。ボールペンで「法曹業界」と書き込みます。

 今さら、さなえがまっとうな仕事に就けるとも思えません。彼女に最も必要とされるのは、法律関係の仕事でしょう。そういう自分こそが、小指や妹などという小細工なしの、切り札になるはずです。

 国内に取り残され、さなえから送られてくる商品を売りさばくだけの下働きなど、まっぴらでした。

 さなえが言った通り、ふたりは対等なのです。唯一無二の、友達なのです。鏡の中にいる自分のようなものです。

 決して分かたれてはいけない、ふたりでした。

 だからこそ、さなえは歩を誘いに来たのです。ひとりで海外に往くこともできたのに、わざわざ歩の高校を調べ、会いに来てくれたのです。

 歩はあの夜、さなえの小指を手にした日からずっと、彼女に相応しい大人になると決めています。

 他のなにを捨ててでも、さなえと歩むと決めたのです。

「サバンナに生きるサイの角は、二本なんだよ」

 歩は誰にともなく告げます。自分の左右の小指を絡めて、ひとりきりでゆびきりをします。

 引き出しの中にある、干涸らびたさなえの小指を、強く想います。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

リトル・フィンガー/ガールズ 藍内 友紀 @s_skula

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る