〈12〉 ②

「痛い?」

「……痛くないわ」

「さなえちゃんの指を、持ってるの。本物の、小指」

「……そう」

 気持ち悪い、とさなえは微笑んで、甘く囁きます。嫌悪ではなく陶酔が滲んでいました。

「さなえちゃんの妹も、持ってるの」

 刹那、さなえの表情が凍りました。目を見開き、唇を無意味に開閉させ、失った小指を庇うように両手を握りしめます。

「なに、言ってるの?」

「大丈夫。売ったりしてないから。ちゃんと国内で、育てられてるよ」

「売るって……なに?」

「ヒロムさんの子供、覚えてる? ウサギのケージに入ってた子。さなえちゃんを傷物にした罰で、ビデオに撮られてた女の人。元レディースの総長」

 さなえはゆっくりと瞬きました。それが肯定なのか、ただ過去を思い出しているだけなのかは、どちらでもよかったので無視します。

「あの人の子ね、あのあと、すぐに、海外で養子になるために売られたんだって。ふたりとも。偽物の身分で売られたから、大きくなっても自分がドコの誰なのかもわからないままだよ。ヒロムさんがさがそうとしたって、見つけられない。まあ」ふふ、と歩はさなえを真似て吐息で笑います。「あの子たちをさがそうとする人なんて、もう、いないんだけどね」

 さなえが口を開きます。でも言葉はありません。酸欠の金魚みたいに口を開閉させるばかりです。しばらくして、ようやく「なんで」と喘ぎます。

「なんで、おまえが、そんなコト……」

「だってわたし、あのビデオの撮影現場にいたの」

「は……? え? なに、言ってんの? だって……当時、おまえ、んなコト一言だって……」

「だって、お父さんの仕事について行っているなんて言ったら、さなえちゃん、わたしのことあんな風に、ただの子供みたいに、扱ってくれなかったでしょう?」

 さなえは、言葉遣いが昔の荒さに戻っていることすら気づいていないようでした。体を揺らめかせ、縋るように再び柵を掴みます。

「おまえが……おまえが、ただの子供だったことなんて……」

「うん」歩はそっと柵から体を離します。「さなえちゃんだけが、わたしをただの子供として扱ってくれた。たとえ下心があったとしても、わたしはそれが嬉しかったし、それを手放したくなかったの」

 だからね、と歩は後退ります。たとえさなえが手を伸ばしたとしても届かない距離で、目を細めて笑います。

「お父さんの仕事についていったの。もし、さなえちゃんがビデオに出演なきゃいけなくなったときに、なんとかできるように、頑張ったの。だからね、さなえちゃんの妹が生まれたあのビデオのときも、ヒロムさんが連れて来られたときも、いたの」

「……フカシくなや」懇願するように、さなえは呻きます。「ドコの親が、自分の子に……」

「あの父親ならやると、さなえちゃんだって思ったでしょう? さなえちゃんが、嘘だと思い込みたいだけでしょう? いいよ。さなえちゃんが嘘だと思いたいなら、そう思ってていいの。だって、どっちにしても、忘れられないでしょう? ずっと考えちゃうでしょう? 妹のことも、わたしのことも」

「……生きてるはず、ないだろ」

 歩は答えませんでした。身を翻して、手を振って、「またね」とホームへの階段を駆け下ります。

 愕然としたさなえの表情が、痛快でした。彼女の心の深くに自分が刻まれていることを確信しました。


 家に帰り着くと、歩は着替えることもせず机の引き出しを開けました。小さな金属箱を取り出します。

 おもちゃの錠前がついている、新幹線柄の手提げ金庫です。ちゃちな鍵で錠を外して蓋を開けます。茶色く干涸らびた枝の入った小瓶がありました。

──さなえの、本物の小指です。しおれた指の先には、黄色く濁った爪が必死にしがみついています。

 指を入れた小瓶の下には、父の名刺がありました。一枚だけではありません。二枚、三枚、四枚。父の仕事に立ち会う度に、父の名前を振りかざしてなにかをする度に、父から手渡されたのです。

 初めてもらったのは、さなえの母親の腹から赤ん坊が流れ出た日でした。歩はあの撮影現場に立ち会っていたのです。

 赤ん坊がカメラのレンズの前に吊り上げられたとき、手を伸ばしたのは無意識でした。カメラを構えていた男の人が、慌てて撮影を止めたのを覚えています。

 仕事を邪魔してしまった、と気づいたのはずっとあとになってからでした。そのときの歩は、自分でも説明のつかない衝動に支配されていたのです。

 ──これが、ほしい。これが、必要だ、と。

 黒いゴミ袋に入れられてなお蠢く赤ん坊に心が痛んだわけではありません。助けたいと思ったわけでもありません。ただ「ほしい」と思ったのです。まるでペットショップで見かけた小動物を飼いたいと駄々をこねる子供でした。「ソレ」を自分の物にしたいと感じました。

 だから素直に「それ、ほしい」と告げました。歩が父になにかを強請ったのは、アレが最初で最後でした。

「こんなモン、どないすんねん」と不思議そうに問うた父は、それでも頼りなく泣き続ける赤ん坊を、口を縛ったゴミ袋に入れたまま歩に渡してくれました。

 熱い肉の塊でした。袋越しに蠢くそれは柔らかくて不気味で得体が知れなくて、命の臭いがしました。

「切り札にするの」考えるより先に、歩の口が答えていました。「コレがわたしのものなら、さなえちゃんはわたしから離れていかないでしょう? ずっと友達でいられるじゃない。わたしだって父さんみたいに、自由に動かせる人がほしい」

 父は一呼吸だけ虚を突かれた顔をしました。すぐに声を上げて笑い出します。倉庫に反響して地鳴りのような笑い声でした。周囲の男たちが驚いた様子でこちらを窺っています。

「良行ぃ」父は歩の手からゴミ袋入りの赤ん坊を取り上げ、福留に投げ渡しました。「コレ、飯野先生んトコに預けてこい。あの人なら、なんとかしてくれるやろ。そんで、十歳くらいまで育ったら、コイツんモンや。売りに出したらアカンで」

 はあ、と納得できない顔で、福留はゴミ袋と歩を見比べました。コンクリートの床にゴミ袋を下ろして袋の結び目を解くと手を入れ、けれど素早く手を引きました。赤ん坊の温度に怯んだのかもしれません。福留は別の男の人に命じて薄いタオルを持って来させました。バイクだか車のオイルで黒く汚れたタオルでした。

 うにゃうにゃとグズる赤ん坊が福留の胸に抱かれて連れ出されるのを、見送ります。

 父の大きな手が、歩の髪を乱暴にかき乱しました。そして、別の男に目配せをしてカードケースを出させました。

 ケースから取り出されたのは、父の名刺でした。歩が受け取る、二枚目の父の名刺でした。

 父は名刺の裏に住所と電話番号、そして飯野医院と書き付けます。

「ここで育てさせるさかい、気になったら見に寄ったらええ」

 予約済みのペットを観察しに行けばいい、という口調でした。

「せや、アレの名前、おまえが考えや。おまえの子なんやしな」

 飯野医院の住所は、歩の家から歩いて十分程度の場所を示していました。記憶が確かならば、小さな診療所だったはずです。お年寄りがよく用事もなくたむろしているような町医者が、父とつながる闇医者だったのです。

 結論から言えば、歩は一度も、その住所へは足を向けていません。さなえの妹が生き延びたのかどうかも知りません。

 父を通して、名前だけを贈りました。贈ったはずです。候補に挙げたいくつかの名が、「飯野医院」と書かれて父の字の横に書き連ねてありました。

 けれど、その中のどれを贈ったのかは、忘れてしまいました。

 歩は、さなえの妹の存在を、努めて忘れようとしたのです。あの子は、さなえに対する絶対的な、切り札でした。

 切り札とは隠し通して、自分でもその存在を忘れるくらい隠し続けて、いざというときに切るものなのです。

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