金木犀

黎井誠

金木犀

 夕方の家路を辿っていると、金木犀の匂いが香ってきた。刹那的に濃く甘い香りだ。昨年よりも強く感じるのは、新型コロナウイルス感染症が少しだけ鳴りを顰めたのでマスクを外していたせいか。

 歩みを速めながら顎まで下げていたマスクで鼻と口を覆う。しかしもう遅い。その香りはもう私の鼻腔を満たしてしまっている。


 嗅覚は他の感覚に比べて記憶との結びつきが強いんだって、とサチが言ったのはいつだったろうか。出会った当初だった気もするし、別れの少し前だった気もする。

 一つ言えるのは秋ではないということ。この言葉を言った彼女の首筋から金木犀の匂いがしたから。


 サチは常に金木犀の香水をしていて、秋だけがその例外だった。勿論校則には違反していた。出会ってから初めて迎えた秋のある日、香水をしていない彼女にその訳を尋ねたら、

「そりゃ、本物の匂いが嗅げるんだから。自分でそれを邪魔するわけないでしょ」

 と呆れたような半笑いで返されたのを覚えている。


 それ以来香水が苦手な私にとって、秋だけが私の心の休まる季節になっていた。彼女と別れてからは毎日がそうなるはずだった。

 間の抜けたことに私は、金木犀が日本中に生えていて、毎年花を開いて辺り一帯を自らの匂いに包んでしまう植物だということを失念していた。金木犀は私と違って律儀にも開花を忘れない。おかげで忌々しくも毎年の秋にサチを思い出す羽目になっているのだ。


 §


 マンションの自室に帰ると、今朝かけたはずの鍵がかかっていなかった。とはいえいつものことなので、私は動揺せずに扉を開けて部屋に入る。

「ただいま」

「おかえり、お邪魔してるよー」

 リビングの床に従妹のリカが中学校の制服姿のまま寝転がり、クッションの上に携帯ゲーム機を構えている。そこが彼女の定位置だ。ふかふかしているのが苦手だと言って、ソファーには上がらない。おそらく叔父――リカの父親に似たのだろう。母曰く、叔父は幼少期からソファーやベッドを使いたがらなかったらしい。


 リカが私の部屋に入り浸るようになってくれたのは正直有難かった。一人でいるとどうも自分の存在がだんだん空気に溶けていくような感覚になって怖かったから。

 だがリカにはサチの面影がある。特に口元。サチよりも性格が優しく、嫌味も皮肉も知らない純粋なはずのリカ。最近自己評価が低下し始めた彼女は、謙虚より卑屈という性質に近づいている。その時の自嘲の苦笑いは、サチが人を見下すときの半笑いにそっくりだ。


 §


 リカが冷凍庫に眠っていた冷凍食品のパエリアを発見した。賞味期限が近かったので、夕飯はそれで決定した。リカが私の家に来るようになって以来、夕飯を食べさせるのなら手作りの方が良いのかも、と自炊を心がけるようになった。このパエリアは自炊を始める前に買っていたものだ。

 一袋で二人分のパエリアを、二つの皿の上に開けて電子レンジの庫内に並べる。あとは待つだけで完成だ。

 皿の熱さを服の裾越しに感じながら、二人でリビングのローテーブルに持ってゆく。

 リカとご飯を食べる時は必ずテーブルを挟んで向かい合っている。リカと、というより二人で食べるときは他の人も大概そうだ。


「パエリアってなんでこんな色にしてるの?」

 パエリアを口に運びながら、リカは私に問いかける。叔父に似たまん丸の目は伏せられ、黄に色づいた米を見つめている。

「元々サフランって花を使ってるらしいよ。具にしようとして入れたら色が着いたんじゃない?」

 サフランという花を使っていることしか知らないので、適当に話を盛った。

「へぇ。綺麗だからって理由で黄色にしてるんだろうなって思ってた。食紅で」

「まあ実際、これは食用色素でしょ。サフラン高そうだし、冷食には使わなそう」

「確かに」

 楽しそうに口角を上げる。

「ごちそうさま。美味しかった」

 立ち上がって食器を台所に下げに行く背中に、「はーいありがと」と口の中にパエリアが入ったまま、もごもごと返事をする。食べるのが遅い私と早いリカのいつものやり取りだ。


 テーブルに戻ってきたリカは、

「パソコン借りるね」

 と私の白いノートパソコンを開いて立ち上げた。彼女はスマートフォンを買い与えられていないので、ちょっとした調べ物もパソコンで行うのだ。

「ぱ、え、り、あ。い、ろ。は、な。」

 口に出しながら画面だけを見つめ、入力していく。最近まで画面とキーボードを交互に睨みつけていたのに、いつの間にかブラインドタッチに慣れていたようだ。

「出てきた! へえ、使うのは雄蕊なんだって。雄蕊の色は赤……どうして黄色になるんだろう」

 独り言なのか私に話しかけているのか分かり辛い、曖昧な調子で喋りながらマウスを操作している。

 画面に夢中なリカを尻目に私もようやくパエリアを完食し、皿をキッチンに運ぶ。シンクには朝食と弁当を作ったときの洗い物が残っていた。今ついでに全部洗ってしまおう。


 水道のレバーを上げる。まだ暑いので水は温めだが、それでも手に心地良い。

 先程食べ終わったばかりなので、パエリアの皿の汚れはすぐに落ちた。赤いはずの雄蕊が薄まった黄色。いや、これは食用色素だろうか。とはいえ黄色の食用色素だって、粉が一つの狭い容器の中で詰まっているときは、少し赤みがかってオレンジと真っ黄色の間のような色だ。水に溶くとちゃんと明るい蛍光イエローになる。


 皿を洗ったり、コップに少し溜めたりしただけであればめただけであれば透明な水は、海や深い湖に積み上がると青になる。同じように赤も実は黄色を凝縮させた色なのかもしれない。

 赤みがかった黄色の金木犀だって、花そのものは可憐でピュアそうなのに、匂いの主張が激しい。きっと元はもっと薄い生成色だったのが、匂いを強くするにつれて黄色を増して行って、そして赤に近づいているのだ。


 真っ赤な金木犀はどんな匂いなのだろう。きっと臭い。世界最大の花であるラフレシアは毒茸のように赤く、白い斑点がある。そして受粉のために蠅を呼ぼうと、腐ったような強烈な臭いを発するらしい。金木犀も匂いが強くなっていけば、こんな風に人間が好まないほどの臭いにまで達する。


 私は、その行き過ぎた金木犀の甘い匂いを知っている。

 最後に彼女を見た時の匂いだ。


 割れた香水瓶。透明な香水の原液は床の上で血液と混じって見えなくなっていたのに、金木犀の匂いは血のそれより強烈だった。甘さを通り越して苦くて痛かった。血の主であるサチは、頭の上半分を赤黒い色で隠していたのに、相変わらず口元に半笑いを貼り付けたまま。

 彼女の死体の第一発見者となった私は、ショックを受けるより先に呆れ返った。死ぬ瞬間も笑えるだなんて緊張感がないこと。


 私と高校の軽音部で出会ったときも、高らかに歌う私の左側で下手なギターを弾くときも、私が香水を嫌っているのを知ったときも、香水はもう使わないであげると嘘をついたときも、私に告白してきたときも、別れを告げてきたときも、彼女はどんなときでも半笑いだった。そして金木犀の匂いを漂わせていた。


 きっと私を裏切ってリカを十九で妊娠したときもそうだったんだろう。出産したときもきっとそうだ。だって死ぬ瞬間までも半笑いだったんだから。

 あの半笑いを微笑みと勘違いしていた私が分からない。

 いや、サチを亡くして辛いから、大好きだった微笑みが良いものではなかったと思い込もうとしているのかもしれない。

 でもやっぱりあれは半笑いだ。だってリカのネガティブな笑い方と同じだから。


 ああ、でも……。



 §



 皿を洗い終わり、リビングに戻る。

「ねえ、これって……お母さんとユカちゃん?」

 パソコンで何やら見つけたらしいリカが、顔を上げてこちらを見やる。画面を指さして、不安そうに眉根を寄せている。

「どれ?」

 リカのいる方に回り込んで、画面を覗く。

 画素の粗い写真。

 サチと私のツーショットだった。


 高校三年生の冬、受験の息抜きにとクリスマスのイルミネーションを見に行ったときのものだ。舞い上がって珍しく二人で自撮りをすることになって、私がガラケーを構えて「撮るよ」と言った瞬間に、サチが私の頬にキスをしたのだ。

 私は瞬間的に怒りそうになってやめた。サチはこういう人だった。言っても聞かない。そして私自身も意思が弱いから、すぐに言い包められる。


 そういうサチが嫌いだった。

 マイナスの感情を想起させられて、喉にものが詰まったような感覚になった。それをなんとか抑えて、

「そうだよ。サチと私」と答えた。

「お母さんとユカちゃん、こんなに仲良かったの?」

 震えた声。戸惑っているのか、勝手に写真を見て怒られると怯えているのか。

「うーんなんというか、この時は受験生でさ。テンションがおかしかったんだよねえ。後にも先にもこんなことはなかったな」


 私はなるべく、昔を懐かしむような楽しげな声で言った。

「なんだか……付き合ってるみたい」

 リカの慎重そうな言い方で確信した。探りを入れようとしている。しかし私は正直にかつての関係をいうことができない。

 裏切りになるからだ。

 サチは私を裏切った。だから絶対に裏切ってなんかやらない。彼女だけが罪に苛まれていれば良い。


「はは、まあ確かにそうかもね。このとき二人とも彼氏いなかったし、一番仲の良い友達との距離感が近くなりすぎるのはよくあるよ。さすがにこれはやりすぎだけどねえ」

「そうなの?」

「うん。覚えない? クラスで必要以上にひっつく女の子たち」

「……いたような気がする。クラスに行ったの結構前だけど」


 リカが頷いたので、私は胸を撫で下ろした。

 緊張が解けた状態で改めて写真を見つめる。笑顔のまま驚いて固まった十七歳の私の顔。化粧を知らないこの頃の肌は、にきびも肌荒れも少なかった。ただ寒さに赤くなっていた。

 一方サチの顔は満足げだ。薄い眉を思い切り下げて、普段は涼し気だった切れ長の目をとろけるように細めている。そして私の真っ赤な頬にくっつけた口。


 微笑んでいた。

 半笑いではなかった。

 楽しそうな歪みは正真正銘の微笑みだ。


 ああそうだ。

 微笑みだったか、半笑いだったかなんて関係ない。

 サチは常に歪んでいた。

 だって年中金木犀の香りがするなんて狂ってしまうだろうに、ずっと変わらなかった。最初から歪んでいるからなんでもなかったんだ。


 その歪みがサチの正体で本質で、人から嫌われ憎まれ愛される原因だ。


 §


 玄関でリカは私に手を振り、ほとんど通っていない中学校の制服のスカートを翻し、後ろ手に扉を閉めた。私は振り返していた手を下ろし、少ししてから鍵とドアチェーンをかけた。リビングに戻ってソファーに腰掛ける。

 なんとなく晴れやかな気分だった。


 サチの写真はなるべく見ないようにしていた。楽しかった頃を思い出したくなかったからだ。しかし久々に見たサチの笑顔は、高校生の自分が見たときのような煌めきを失っていた。もしまだ生きていれば、今の私から見て魅力的な『サチ』でいたはずだろう。だが社会人になってから長い私から見て、高校生の時のサチはそこまで執心できる人物ではない。


 だから安心した。

 少しはあの金木犀の香水の匂いから遠ざかることができた気がした。


 §


 翌日、仕事場へ向かう途中でマスク越しに金木犀の匂いが漂ってきた。

 私はわざとマスクを外して、歩みを一瞬止めて、深呼吸をして匂いを吸い込んでやった。

 記憶とどこか違う香り。


 やはり香水は金木犀そのものの匂いではない。

 本物の金木犀の匂いは、香った瞬間に消えてゆく。イメージのわりに儚いのだ。

 サチの匂いはもっと甘ったるくて、鼻の奥にずっと残っていた。今も残っている。鼻の奥から脳へ到達し、サチに関するすべての記憶に染み付いている。

 けれどもあの香水をつける実体はもうない。あの香水の匂いとサチ自身の匂いが混じった香りは存在しない。


 私が今後感じられるのは本物の金木犀の匂いだけだ。




 Fin.

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金木犀 黎井誠 @961Makoto

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