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「もう一人の自殺志願者に出会ったのは、中学の時でした。二年生になって、同じクラスになった中に、ほとんど学校に来ていない子がいたんです。あ、わたしは女子校だったんで、その子も女子だったんですけど、暗いとか、逆に目立つとか、そんなことのない子で、寧ろ何故不登校になったのか不思議でした。その子がわたしに訊いてきたんです――『死にたくならない?』と」


 自殺願望はありますか? と尋ねた大垣さんの姿と少し被る。ひょっとすると彼女の中には、私の酒林のように、その彼女がいるのかも知れない。


「わたしは誘拐されたこと、自殺の真似事を何度かしてみたことを彼女に話しました。彼女はそれじゃあ死ねないと言って笑ったんです。本当に死にたいなら、飛ばなきゃって。でも飛ぶのは何だか怖くて。たぶんその先に本当の死があることが分かっていたんです。けど彼女は翌日、本当に跳びました。学校の屋上は使えないことを知っていたので、近所のマンションから飛び降りました」

「死ねたんですか?」

「はい。即死だったと聞いています」

「理由というか、動機というか、遺書のようなものが残されたりは?」

「全然。飛ぶ前日まで彼女は普通に暮らしていました。珍しかったといえば、午前中は登校していたことぐらいでしょうか。でも昼からは姿を消して、見つかったのは翌日の放課後でした。何をしていたとか、誰といたとか、そういうことも調べたみたいですけど、結局何も分からないまま、彼女が死んだ理由は宙ぶらりんでしたね。でも、そういうものだと思うんです。みんな自殺したらその子が何故死んだのか、どういう苦しみを抱えていたのか、知ろうとします。確かに何かあって死ぬ人の方が多いんでしょうけれど、死ぬってそんなに特別なことなんでしょうか? 理由もなく死にたくなるって、みんな経験がないんでしょうか? わたしはそちらの方が不思議です」


 死について考える、というのはとても絶望的な状況でなければ、結局は思考の遊びの延長の一つだ。今夜何が食べたいか? という質問とそう大差ない。何となく今が嫌、ちょっと辛い、苦しい、面白くない。そういう人生の停滞期というか、歩いていて泥水を引っ掛けられたような時というものが訪れた時に何を考えるか、というだけだ。逃避したいという願望の一つの選択肢として“死”がある。ただ多くの人間は、いや、彼らが生きている社会は死というものを特別視し、死なないようにと暗黙に圧を掛けている。だからこそ死について考えるという選択肢は多くの場合、そこから弾かれてしまう。けれど同じ社会に生きていても、そのルールに疑問を抱く人間はいるし、彼女のように「何故死んではいけないのか?」という問いを心に持ち続けている人もいるだろう。そういった一部の人間は死について考えることに抵抗がない。特別なものというレッテルさえ外してしまえば死は夕食のメニューと等価だ。


 そういうことを一時期酒林とよく話した。おそらく大垣さんにはそういう話し相手がいなかったのだろう。だから私は酒林とするように、彼女にもその話をした。


「そうです。その通りなんです」


 彼女は大いに共感し、納得し、私を強く抱き締めて、おまけに口づけをした。三日前に剃ったはずの髭はまた伸びていて、彼女の薄い唇にその感触を与えただろう。それでも構わず、彼女は再度、キスをした。


「死んではいけないという前提を外してしまえば、もっと自由になれると思うんです」

「死ぬことを自由にした時に、一体どれくらいの人がその自由な死というものを選択するだろうか」

「たぶん、そんなに多くないです。だって生きている方がきっと、楽しいから」

「じゃあ、どうして死を選ぶんだい?」

「生きていることも、楽しいことも、わたしには必要ないから」

「だから全てを終わりにする?」

「終わりに、してしまいたいです」


 その時、私は初めて彼女の顔を見た。自分の左肩の上に顎を乗せ、こちらを見上げている。化粧のない彼女はつるんとした印象で、目は小さく、眉毛も薄い。主張するものはそこにはなく、解かれた髪の毛が私の左腕に横たわり、一枚の心地の良い黒い毛布のように感じられることだけが彼女とわたしを分けるもののように思えた。


「終わりに、しませんか」


 彼女がもそりと起き上がり、私の上に馬乗りになる。髪がだらりと左右から垂れ、私の胸の上に触れた。その量が増えていく。彼女は私の首に両手を当てると、ゆっくりと力を入れた。苦しくはない。そのまま近づいて、唇と唇を触れさせた。


 ――もっと絞めればいいのに。


 そう思ったけれど、不意に彼女の力は緩まって、それから唇を彼女の舌が割って入った。舌は前歯を舐め、私の内側に入りたそうにしていたけれど、特に応えることのない私の舌と少しだけ遊んでから、離れてしまった。互いの唾液を僅か交換しただけで、


「ごめんなさい」


 彼女は背を向けて、そのまま眠ってしまった。

 殺されるかも知れない――という予感は、どこにもなかった。


 私はそのまま朝まで目覚めることはなかったが、起きてみると彼女の姿はなく、メモで先に仕事に出かけたというメッセージと昨夜の謝罪が書かれていた。謝罪といっても「ごめんなさい」という六文字だったが。

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