迷宮に翻弄された根無し草が小さな陽だまりに根付くまで

弧野崎きつね

第1話 再生の萌し

「56番の番号札をお持ちの方、5番窓口へお越しください」

 空っぽの頭にアナウンスが響いた。待合のベンチで、項垂れるようにして座って待っているところだった。頭を少し起こすと、両手でゆるく握られた番号札が目に入る。56番。呼ばれた番号だ。重い腰を上げて、指定の窓口へ行くと、すでに控えていた査定員のにこやかな挨拶が待っていた。

「お疲れ様です!査定が終了いたしました。今日は長かったですね?」

「お疲れ様です。そうですか?いつもと変わらないつもりでしたが」

 挨拶を返しつつ、番号札を手渡す。

「あら珍しい。熱中していらしたんですね。外は、もう日が暮れていますよ」

 査定員の視線に釣られて窓を見ると、外はすっかり夜だった。普段の倍近く潜っていた計算になる。身体の重さが増した気がした。

「……道理で。もう年かと思いました」

「ちょっと、やめてください。私までおばあちゃんになっちゃうじゃないですか」

 査定員は、ぷりぷりと抗議しながら、1枚のA4コピー紙を取り出し、その内容を俺に示した。

「今回の査定書です。すごい成果ですね」

 迷宮拾得物評価額査定書と書かれたその紙には、細々こまごまと拾得物の名称、単価、個数が列記され、最後に合計額が大きく記載されている。その額は、普段の3倍に達していた。

「……そうですね、驚きました。何かすごいものでもありましたか?」

「いえ、特別なものは何も。単純に数が多かった感じですね」

 査定員は、査定書を斜め読みしてから、チラリと時計を見た。

「不思議ですね。時間的には、せいぜい普段の倍くらいでしょう?」

「そのはずです。あー、でも、行き帰りの時間があるので。もしかしたら、実働時間は3倍くらいになるのかもしれません」

「なるほど、流石は飯山さん。まだまだ働き盛りの若者ですね?」

 査定員の試すような流し目に応えて、胸を張る。

「勿論です。若く美しい米本さんと同い年ですから」

「あら!ありがとうございます。飯山さんも格好いいですよ」

 査定員は体を少しくねらせながら、だらしなく笑った。釣られて俺も笑った。

「さて。今回も、すべて買い取りでよろしいでしょうか?」

「はい、すべて買い取りでお願いします。指定口座に振り込んでください」

「承知いたしました。着金は明日になると思われますが、よろしいでしょうか?」

「はい。確認も不要です。あとはお任せしてしまっても?」

「構いませんよ」

「ありがとうございます。今日はやたらと疲れてしまって」

「うふふ。それでは、これで本日の手続きは終了です。改めてお疲れ様でした」

 査定が終わり、査定員は恭しくお辞儀をした。あとは帰るだけなのに、後ろ髪を引かれるような思いがあった。「いただきます」を言いそびれて食事を始めてしまったような、「ごちそうさま」を忘れて席を立ってしまったような、収まりの悪さがあり、それを正したいと感じているのだ。しかし、疲れも手伝って、その正体に見当をつけることは諦めた。

「ありがとうございました。失礼します」

「あっ。飯山さん、ちょっと待ってください!」

 踵を返して歩き出したあたりで、査定員が慌てたように声を上げた。足を止めて振り向くと、査定員が口を開いた。

「おかえりなさい」

 なんてことない挨拶だったのに、それですべてが綺麗に一揃いになったような心地がした。迷宮から戻ってなお、いまだ迷宮にいるかのような緊張が、身体から抜け出ていくようだった。

「すみません、言い忘れていました。今日は、ぐっすり休んでくださいね。飯山さんには、まだまだ潜ってもらわないといけませんから!」

 査定員は申し訳なさそうな顔をして、そのあと花が咲いたように笑った。俺は、どうにかペコリと小さくお辞儀を返して、帰路に就いた。それは依然として荒野であったが、月明かりの下、ちらほらと緑が芽吹いていた。途中、小さな白い花が1輪、夜暗やあんに慎ましく輝いていて、査定員とのやり取りが浮かんだ。重かった体は、いつしか少し軽くなっていた。

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迷宮に翻弄された根無し草が小さな陽だまりに根付くまで 弧野崎きつね @fox_konkon_YIFF

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