2 クモ女の正体

 お姉さんに取った虫をあげた次の日――


 その日も、俺はいつも通り昆虫採集に出かけた。カブトムシを狙って、朝は山へ行って、昼は公園に行くっていう、これまたいつも通りのルーティンでな。


 そうして、公園でしばらく虫取りをしたあとのことだった。


「よかった。今日も来てたね」


 昨日のお姉さんがまた声を掛けてきたんだ。


「これ昨日のお礼」


 そう言って、彼女が差し出してきたのはお菓子だった。好き嫌いか、それともアレルギーがある可能性を考えたのかもしれない。あめとか、ラムネとか、スナック菓子とか、いろんな種類があったよ。


 でも、俺はそれを受け取らなかった。


「どうしたの?」


「知らない人から物をもらっちゃいけないって」


 冷静に考えたら、犯罪目的なら昨日の時点で何かしてきたはずで、そんなの今更気にする必要なさそうなもんだけどな。でも、親や先生にそう教わったんだから、そうした方がいいと、ガキの頃の俺は思ったわけだ。


 すると、そんな俺に対して、お姉さんはこう言った。


「私は芽衣めい西門せいもん芽衣めいっていうの。これでもう知らない人じゃないでしょ?」


 無茶な理屈だよな。当時の俺だって何かおかしいことくらいは分かったよ。ただそれを上手く言葉にすることはできなかった。単純にお菓子が欲しかったっていうのもあるけどな。


 で、結局お菓子を受け取ることにしたんだけど、さっき言った通り種類が多くて。その分、量も多かったんだ。だから、お姉さんに――芽衣さんに悪い気がして、俺は代わりに提案することにしたんだ。


「今日も虫いりますか?」


「くれるの? それじゃあ、お願いしちゃおうかな」


 そうやって、その日も俺は取った虫を渡して、芽衣さんはやっぱりそれを手づかみで持ち帰ったんだ。




 さらに次の日のことだ。


 俺は昼飯をさっさとかき込むと、急いで公園へ走った。たくさん虫を渡せば、芽衣さんが喜ぶかと思ってな。それでこの日は、持ち帰りやすいように、空気穴を開けたビニール袋も用意していったんだ。


 実際、芽衣さんは袋いっぱいの虫を見て笑ってたよ。まぁ、それ以上に驚きもしてたけど。


「今日は随分たくさん取ったね」


「い、いっぱいいたので」


 本当は芽衣さんのためだったけど、そのことは言わなかった。なんとなく恥ずかしかったからな。


 は?


 ないない。相手はどう見たって二十歳はたち過ぎてたんだぞ。いったい、いくつ歳の差があると思ってるんだよ。


 ……いや、確かに子供心に美人だとは思ったよ。でも、そういう気持ちは全然なかった。まだガキだったからな。


 俺のことはどうでもいいんだよ。重要なのは芽衣さんのことだ。


 昨日の分のお礼なのか、今日も俺が取ってくれると思ったのか、芽衣さんはその日もお菓子を持ってきてくれた。だから、虫とお菓子を交換することになった。


 ただ、もう三度目のやりとりで、虫よりもそれを取る俺に関心を持つようなったのかな。この日の芽衣さんは、今までと違ってすぐには立ち去ろうしなかった。


「いつもは虫をどうしてるの?」


「逃がしてます」


「じゃあ、自由研究とかじゃないんだ?」


「宿題は別のが出てるので……」


「捕まえたいだけ?」


「はい」


『遊んでばっかりいないで宿題をやれ』って、芽衣さんにも親みたいなことを言われるんじゃないかと思って、俺はだんだん話を逸らしたくなってきた。


 それに気になることもあったしな。


「芽衣さんはどうするんですか?」


 虫なんて飼うか、標本にするか、そのどっちかくらいしか俺には考えつかなかったから、芽衣さんもてっきりそうしてるのかと思ってた。コレクターの出てくる外国の映画を見たことがあって、標本作りは大人の趣味ってイメージもあったしな。


 でも、実際の回答は全然違った。


 芽衣さんは笑顔を浮かべながらこう答えたんだ。


「私は食べるの」



          ◇◇◇



「……なるほど。それでクモ女か」


 坂本の話を聞き終えた俺はそう相槌を打っていた。虫を食べると聞いて、虫好きの子供がクモを連想するのは自然なことだろう。


 そういえば、ジョロウグモは単にクモの名前というだけでなく、女に化けるクモの妖怪の名前でもあったはずである。もっとも、妖怪の方の絡新婦ジョロウグモは、虫ではなく人を食べるのだそうだが……


「驚いたか?」


「いや、全然」


 坂本の質問に、俺はあっさりと首を振った。


「単にそのお姉さんに昆虫食の習慣があったってだけだろ」


 ホラーでもなんでもない。種が分かればごく単純なことである。


「昆虫食だって?」


「とぼけるなよ。虫を食べるなんて、そんなに珍しい文化じゃないだろ」


「それにしたって、カブトムシを食べるなんて話は聞いたことないけどな。むしろ、腐葉土くさくてまずいんじゃなかったか?」


 俺の推理に対して、坂本はそう反論してくる。どうやら真相を当てられるまでは、ずっととぼける気でいるらしい。


「お前、狙いはカブトムシだってはっきり言うくせに、何故かお姉さんに渡す時の虫は虫としか言わなかったよな。それに、カブトムシは夜行性だから、昼間の公園じゃあ毎日渡せるほど簡単には取れなかったはずだ。

 だから、一番の狙いがカブトムシっていうだけで、そのついでに別の虫も取ってたんじゃないのか?」


「別の虫ってなんだよ」


「夏の昼行性の虫と言ったらセミだろう。昆虫食の中では、セミはポピュラーな方だしな。確かエビみたいな味がするんだったか」


 実際、成分的にも両者は似ているのだという。そのせいで、エビアレルギーの人間がセミを食べると症状が出るとされているほどだった。


「でも、日本の昆虫食と言ったら、普通イナゴやハチの子(幼虫)じゃないか? セミを食べるなんてあんまり聞いたことないぞ」


「それはお姉さんが中国出身だったからだ」


 確か、山東省だったか、浙江省だったか…… とにかく中国にはセミを食べる文化のある地域が存在したはずである。


「じゃあ、芽衣さんは中国育ちの日本人だったってことか?」


「その可能性はあるだろう」


「具体的な根拠は?」


「だから、セミを食べるって言ったことだよ」


「それだけか?」


 そう確認してくる坂本の口元は緩んでいた。勝ち誇っているようだ。


 となると、正解はもう一つの方なのだろう。


「別の可能性としては、お姉さんが正真正銘の中国人だったってことも考えられる」


「西門芽衣って名前なのにか?」


「本当はセイモン・メイさんじゃなくて、シーメン・ヤーイーさんだったんだろ。西門シーメンはともかく、芽衣ヤーイーはわりとよくある名前だったはずだ」


 中国ではワンリーのような一文字の姓が大半を占めており、西門シーメンのような二文字以上の姓(複姓ふくせい)は珍しい。トップ200以内に、欧陽オウヤンという姓がギリギリ入る程度だとされている。しかし、逆に言えば、二文字の姓がまったくないというわけでもないのだ。


「けど、確かにセイモン・メイって名乗ったぞ」


もう沢東たくとうだの、しゅう近平きんぺいだの、日本だと中国人の名前を日本風に読む習慣があるからな。相手が子供だったし、聞き慣れてそうな名前の方がいいと思ったのかもしれない」


 アルファベットと違って、漢字は日本語の発音でも読むことができてしまう。そのため、人名に限らず、深圳しんせん広州こうしゅうといった地名など、中国の固有名詞を日本語で読むのが古くからの慣例になっているのだという(逆に中国は中国で、日本の固有名詞を中国語で発音しているそうである)。


 国際化が意識されだしたのか、近年は現地の発音を重視するメディアも出てきたようだが、それでもまだまだ少数派だろう。俺たちが子供の頃には、ほとんどなかったと記憶している。彼女もそのことを踏まえて、日本風の発音で名乗ったのではないか。


「だから、芽衣めいさんの正体は、クモ女でもなんでもなく、ただの中国人だった。そういうことなんだろ?」


「ちっ、つまんねえな。もっとびっくりするかと思ったのに」


 坂本がすねたようなことを言う。


 おそらく最後に種明かしをして、俺をからかうつもりだったのだろう。そのために、紛らわしい言い方をしたり、一部の情報を隠したりすることで、あたかもクモ女が実在するかのように話していたのだ。


「お前はびっくりしたのか?」


「まあな。すぐに芽衣さんが説明してくれて、そういう国もあるんだと納得したけどな」


 自身は未経験というだけで、虫好きの坂本は、当時すでに日本のイナゴ食やカイコ食のことを知識としては知っていたらしい。そのため、セミ食も受け入れやすかったとのことだった。


「で、芽衣さんとはそのあとどうなったんだ?」


「クモ女じゃないって分かったからな。それからもセミをあげたよ」


「それで?」


「代わりにお菓子をもらって……」


「他にはないのか?」


「ああ、試しにどうかって、揚げたセミを持ってきてくれたこともあったな」


「他には?」


「……あのなぁ、言っとくけど、お前が期待してるようなことは何もないぞ。これはお袋から聞いた話だけどな、芽衣さんが俺の地元に来てたのは、婚約者の親に挨拶するためだったんだからな」


 食べきれなかったお菓子を家に持って帰ったら、その出どころを母親に尋ねられた。それで芽衣さんのことを話した結果、坂本は彼女の詳しい事情を知らされることになったらしい。


 あの人は吉川よしかわさんのところの淳一じゅんいち君のお嫁さんなんだ、と。


「なんだ、坂本少年の初恋は実らなかったわけか」


「好きだったわけじゃないって言ってるだろ」


 しつこくいじってくる俺に辟易したように、坂本は再び缶ビールを手に取る。


 その顔は、もうできあがったように紅潮していた。


 しかし、酒に強いはずのこいつが、こんなにすぐに酔っ払ったりするだろうか。


 会話が途切れたことで、開け放した窓から入ってくる音が、今までよりも鮮明に聞こえるようになる。


 暑い暑いと愚痴りはしたものの、それでももう九月ということなのだろう。すでにスズムシが鳴き始めていた。


 また、そのせいで、セミの声は随分遠くなってしまったようだった。




(了)

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夏休みとクモ女 蟹場たらば @kanibataraba

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