最終話 聞こえない
こういう時、決して譲らない人である。真顔で問い詰められ、仕方なく理由を話した。
私の話を聞くと、雪間くんは肩をすくめた。少し笑っている。
「僕の子供時代がそんなに哀れになったってことですか?」
「自分でもよく分からないんだけど」
「何を考えたか知りませんが、そこまで悲劇的でもないですよ」
「それならいいんだけどさ。雪間くんが幸せならいいよ」
恥ずかしすぎて顔が熱い。笑って誤魔化す私を、雪間くんは複雑な顔で見ていた。
口を開け、躊躇ったように閉じる。ややあってから、意を決した様子で、鋭い目でこちらを見つめた。
「一つ、言いたいことがあるんですけど」
「何?」
「僕がいない間に、駿介と交際しないでもらえますか」
「何で駿介。無いよ。向こうも嫌がるよ」
てっきり冗談だと思ったのだが、彼は硬い表情をしていた。
「僕はあなたは、駿介のことが好きなんだと思ってました」
「は?」
「駿介が前に、あなたは歌って踊れる人が好きらしいと言っていたので。僕はそういうのは全くできないから」
「確かに雪間くんよりは、駿介の方が歌って踊れそうだけど。そもそも、前提条件が違うから。そんなのが好みだなんて言ってない」
一体、どういう話になっていたのか。雪間くんは、困ったように自分の髪をぐしゃぐしゃと触る。
「そうだったんですか?」
「大体、そんなの信じないでよ。アイドルならともかく、付き合う相手で、歌って踊れる人なんて条件つける人いないって」
「あなたなら、そういう
「私を何だと思ってるんだ。雪間くんは人の話を聞かないから、そんな誤解をするんだよ」
「どの口が言いますか、それ」
会話が途切れて、沈黙が落ちた。
回転木馬みたいにくるくると回っている、この会話は一体どこに行くのだろう。
彼は顔を赤くして黙りこむと、視線を落とす。
目をそらしたまま、早口で静かに言った。
「とりあえず……
僕が日本に帰ってきたら、一度、一緒に伊豆に行きましょう」
言葉が飲み込めない。咄嗟に思いつきを口にする。
「下見? 駿介も一緒に、とか……」
「何でそうなるんですか?!」
憔悴した顔を見ていたら、ようやくぼんやりと、絵の具が水に柔らかく溶けるように、言いたいことが分かってくる。
「だって、こっち見ないし。そんな言い方じゃ、普通分からないよ。もう少し、はっきりと言ってくれないと」
「これが限界です」
本当にそうなのだろう。出会った最初から、嘘はつかない人だった。
「そこを何とか。もう一声」
「そんな、
信じ難いものを見るような顔をしている。
息を詰めてじっと見つめていたら、視線をそらされた。
やがて、私の目を見ると、観念したように口を開いた。
「……結構前から、伊豆に行くなら、草野さんと二人で行きたいと思ってます」
「本当に?」
「はい。切実に」
ささやいた声は少し震えていた。
「……じゃあ私、伊豆シャボテン公園に行きたい」
「そこ、何があるんですか」
「レッサーパンダがいる……」
再び泣き出した私の頭を、おずおずと雪間くんが撫でてくれていた。
***
通りかかった家の庭に、見上げるほどに高いミモザの木があった。黄色い花が降るように咲いている。甘い香りが漂っていた。
植え込みには、白と淡い桃色の沈丁花が、柔らかな光を浴びて輝いている。
三月の、晴れた暖かい日だった。
待ち合わせた駅前に、雪間くんは立っていた。一緒に映画を見に行く約束をしていた。
手を振って近づく。彼はこちらを見て、神妙な顔つきになった。
「何、その反応」
「いや、別に……」
今日が楽しみだったので美容院に行ったし、新しい服も買った。
私は見るからに浮かれていたのだと思う。服屋の店員さんは笑いながら、私に似合う服を選んでくれた。青と黄色のストライプのシャツワンピースに、淡いベージュのコートを羽織り、靴は白のコンバースにした。
左手の包帯が浮いているが、我ながら、悪くないと思ったのに。反応が鈍くて、やや哀しい。
「可愛いとか、言ってくれるのかと思った。せっかくデートだから、気合を入れたのに」
「そういう事を、よくてらいなく言えますね」
そっけない、いつもの調子で変わらない。つまらないの。
彼は白いTシャツにベージュのジャケットを羽織っている。シンプルだが涼やかな顔立ちによく似合っていた。負けたような気がする。
ふと、思い出したことがあった。
「そういえば、綾菜ちゃんいるでしょう?」
「会社の後輩?」
「そう。綾菜ちゃんに、顔を見たいから、シンガポールに行く前に雪間くんの写真を撮っておいてほしいって言われてたんだ。撮っていい?」
「やっと覚えた」
「え?」
「シンガポールって。インドネシアだのカンボジアだの、あげくの果てにタンザニアとか言ってた人が」
「ああ、それは」
話しながら、思わず自分で笑ってしまう。
「多分、雪間くんが行っちゃうのがすごい嫌だったから、国名が頭に入って来なかったんだよね。でももう、大丈夫になったから、覚えたよ」
「……そういうことを言うから」
ぼそっと小さく呟く。彼は口元に手を当てて、顔を背けていた。
「写真は後で撮ってください。バッグを持ちます」
私が右手に持っていたバッグを見て言う。
「別に自分で持つよ」
「いいから」
よく分からないままバッグを渡すと、空いた右手を彼の左手が握った。
嬉しくなって、顔を上げて笑いかける。
雪間くんは何故か、困ったような顔をしていた。
身をかがめると、耳元に顔を寄せる。小さな声がした。
「可愛いです」
その言葉は、はっきりと耳に残った。
「……声が小さくてよく聞こえなかったから、もう一回言ってよ」
「嘘ですね」
雪間くんはそっぽを向いて、ぶっきらぼうに言った。試しに言ってみたのだが、駄目だった。
「行きますか」
「うん」
つないだ手が温かい。
街路樹の葉が、きらきらと光を反射している。
春の空は淡い水色で、柔らかなレースのカーテンのような雲が波打っていた。
<デイリースパイス 了>
デイリースパイス 糸森 なお @itonao
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