エピローグ

二〇二五年三月一八日 火曜日 午前


 快晴だった。

 中世ヴェネツィアを思わせる意匠の建物が、その濃い青空を四角く切り取っていた。緑豊かなイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館の中庭は、セレモニーのために飾りつけられている。すでに多くのマスコミが駆けつけて、いつもは静かなこの場所も大賑わいを見せる。そう広くない中庭を取り囲む回廊にも多くの人やカメラなどが犇めき合っている。

 午前九時半、セレモニーは静かに始まりを告げた。中庭の真ん中に設置された壇上にショートカットの黒髪を風に揺らせた聡明な女性が立つ。この美術館の館長ペギー・フォーゲルマンだ。

「三五年前、我々の美術館から多くのかけがえのないものが失われました。その中にヨハネス・フェルメールの『合奏』はありました。この美術館の創設者であるイザベラにとって『合奏』は特別な思い入れのある作品でした。彼女の美術品蒐集のキャリアはこの作品から始まったのです。そんな大切なピースが欠けることとなった三五年前の凶事は、この美術館だけでなく世界にとっての大いなる損失でありました」

 ペギーは顔を上げて、その表情を明るくした。集まった人々を壇上から眺める。

「今日この日に、我々は嬉しい報告をする運びとなりました。三五年振りに帰って来たのです、『合奏』が」

 スピーカーから音楽が流れて、慎重に絵が運ばれてくる。万雷の拍手の中、ペギーのそばに『合奏』がやってくる。

「長年の我々の夢でした。いつか来るこの日のため、ダッチルームにかけられた空の額縁は主の帰還を待ち続けていました。そして、この夢の実現に尽力して下さった方がいます。ご紹介しましょう、草鹿京一さんです」

 再び巻き起こった熱い拍手の中を草鹿が気恥ずかしそうにはにかみながら壇上に向かう。タキシードに身を包んだ彼に、かつて落ちこぼれていたような面影はない。通訳と共に挨拶に臨む草鹿は青空のように晴れやかな表情だ。

「この絵をこうしてお返しすることができて光栄です。私は美術には明るくなく、この絵がどれほど愛されているか知らなかったのですが、返還に向けて様々な人とやりとりをするこの一年間で、身をもって実感することになりました。今は『合奏』が元の場所に戻り、これから平穏な日々を過ごしながらも多くの人々を楽しませるという未来を思い描けることを幸せに感じます」

「草鹿さんは」ペギーが笑顔で口を挟む。「五〇〇万ドルの報奨金の受け取りを拒否されました」

 称賛の拍手の中でペギーは冗談交じりに笑った。

「用意していた五〇〇万ドルは誰かのポケットの中に入るわけじゃありませんよ」

 笑いが起こって、草鹿がマイクに顔を近づける。

「その代わりといってはなんですが、この絵の返還に至るまでに私が体験した出来事についてのノンフィクション小説を出版することとなりました」

 挨拶が終わり、関係者や記者たちが歓声を上げながらスタンディングオベーションを送った。その人垣の間に、草鹿は父の姿を見たような気がした。


 セレモニーの後、『合奏』はメディアが詰め寄るガードナー美術館のダッチルームに運ばれていった。

 窓から差し込む柔らかな光の中、穏やかな空間が広がっている。淡い緑の壁には、金色の額縁だけがかけられた場所がいくつかある。いずれも三五年前に盗難の被害を受け、帰らない絵画たちを待っている。

『合奏』はダッチルームの奥、窓際の壁に帰還することになった。盗まれた際に刻まれた傷は、ガードナー美術館の希望によって修復されないこととなった。絵に刻まれた歴史は否定できず、その傷を戒めとして残したのだという。一部の有識者はその傷によって絵画の価値がさらに高まるのではないかと見ている。

 スタッフの手を離れて壁にかかった『合奏』は拍手を受けてほのかに輝いた。

 その光景を目の前にして、草鹿は温かな気持ちに包まれて静かに息を吐いた。


***


 二〇一三年三月一八日、FBIボストン支局は、イザベラ・スチュワート・ガードナー美術館からレンブラントやフェルメールなどの一三点の美術品が盗まれてからの数年間、美術品はコネチカット州やフィラデルフィア地域に運ばれ、窃盗犯らによって売りに出されたという見解を発表した。

 盗まれた美術品はいずれも未だに発見されていない。

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ブラフ 山野エル @shunt13

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