魔女を愛した騎士

藍沢 しま

魔女を愛した騎士


「あの……ご迷惑をおかけしてすみません……その……少しの間だけでも……どうかよろしくお願いします」



目を奪われてしまうほど強い存在感を放つその赤い双眸を伏せ、か細い声で弱々しく呟くその姿は、どこからどう見ても普通の少女で。

一つの街を滅ぼし、大勢の人間を虐殺し、人々から恐れられる"災厄の魔女"には──とても見えなかった。





✽ ✽ ✽





王宮の北棟にそびえ立つ白い塔。

王宮から伸びる1本の細い橋で繋がるその塔の先には、空中牢と呼ばれる牢屋が存在する。


現在そこには"災厄の魔女"と呼ばれ恐れられる人物が幽閉されていた。


6年前にとある一つの街を滅ぼし、大勢の人々を虐殺したという恐ろしい存在。

王によって捕らえられ、空中牢に幽閉されたのだという。

普段は事情を知る一部の兵士だけがその空中牢の監視を務めているのだが、前任者が不祥事を起こして降ろされたらしい。

そのためこうして自分に監視役の話が回ってきたのだった。


監視役と言ってもやる事はほとんどない。朝昼晩の毎食の食べ物を運ぶくらいだ。

監視しなくて良いのかと聞かれれば、そんな必要がないくらい、この捕らえられている魔女はとても大人しかった。

日がな一日、空中牢の壁に空いている細い隙間からぼんやりと外を眺めるだけ。牢の中には簡素なベッドくらいしかないから、やる事がないのは当然なのだが。

それでも魔女と恐れられるにはあまりにも大人しかったため怪訝に思い──ある日、思わず訊ねてしまった。


「なあ。そんな1日中外眺めて楽しいか?」


昼食を運んだ時だった。

鉄格子の隙間から腕を伸ばし、床に置かれた質素な料理を食べていた少女は驚いたように顔を上げてこちらを見上げる。どうやら言葉をかけられたのが意外だったらしい。

少女はぱちぱちとその赤い瞳を瞬かせると、嬉しそうに顔を綻ばせた。


「……楽しいです。眺めが良くて街全体が見下ろせるので」

「それでも毎日見てたら飽きるだろ。俺なら飽きる」

「そんなことないですよ。朝の日差しに照らされる街並みとか、たくさんの人達が行き交うお昼の大通りとか。毎日同じように見えて、実は少しだけ違う景色があったりして……私は飽きないです」


穏やかな話し声に「そんなもんか?」と首を傾げる。

大人しくはあるけど、やっぱり魔女と言われるだけあって少し変わってるらしい。





その日は雪が降った。

暦上では春だがまだ冬が明けたばかりで、朝の気温が低いとこの時期でも時々雪が降る。

大して美味しくもないだろう元々冷めている朝食が、朝の冷気でさらに冷めないよう少し足を早めて運んでいく。

例のごとく外を眺めていたらしい少女は、うっすら雪が積もる街並みを見て顔を綻ばせた。


「雪、降りましたね」

「春だけどな」

「でもまだまだ朝晩は冷えますよ。風邪、引かないように気をつけてくださいね」

「お前は寒くないのかよ」


白いワンピースを1枚だけ着た少女を見る。簡素なベッドにも薄い毛布が1枚だけ。空中牢だけあってここは高度もそれなりにあり、何より壁には隙間が空いてるから風が入ってくる。

少女はいつか見たように赤い瞳をぱちぱちと瞬かせると、どこか嬉しそうに微笑んだ。


「慣れてるので大丈夫です」

「慣れるもんなのか……?」


夜間警備の兵士は鎧を着込んでても朝晩は寒いと言っている。

やっぱり魔女だけあって、気温の変化はそれほど問題ではないらしい。





その日は天気が悪かった。

朝から空が厚い雲で覆われており、日中でも薄暗い。

昼前から降り始めた雨に晒されながら、料理に雨粒が入らないよう布で多いながら運んでいく。

いつものように外を眺めていた少女は、どこか沈んだ表情を浮かべていた。


「今日は朝から天気が悪いですね……」

「そんな日もあるだろ」

「雨の日はみんな家にいて街は薄暗くて静かになっちゃうので、あんまり好きじゃありません」

「逆に雨が好きな奴なんて珍しいだろ」


ばちばちと塔を激しく打ち付ける雨音を聞きながら昼食を鉄格子の前に置く。

少女はふっくらとしたパンを手に取ると、何が珍しいのかぼうっとその何の変哲もないパンを見つめる。


「濡れてない……」

「そりゃ濡れないように持ってきたからな。濡れたパンなんて食べたくないだろ。少なくとも俺は嫌だ」


当たり前のことを言えば、少女はぽかんと呆けた顔をした。

どうやら濡れたパンの方が良かったらしい。やっぱり魔女と呼ばれるだけあって変わってるなと思った。





その日は春の訪れを祝う祭りが1日中王都で行われた。

ようやく春らしく暖かい風が吹き、花も咲き始めた。

公務で忙しい王の護衛に付きながら、合間を縫って空中牢へ向かっては食事を運びに行く。

あっという間に夜になり、冷たい夜風が吹く中夕食を運びに行けば、例のごとく外を眺めていたらしい少女はまだ祭りで賑わう夜の街並みを見て何故か楽しそうに笑っていた。


「今日は1日中楽しそうだったな」

「もちろんですよ! 大通りが露店で埋めつくされるのとか、パレードとか、花火とか、とにかく見ていて楽しいです!」

「自分は参加できないのにか?」


思った事がそのまま口を出てしまい一瞬あっと思ってしまったが、もう言葉にしてしまったためまあいいかと諦める。

少女を見れば、


「……いいんです。参加できなくても、見てるだけで楽しいですから」


そう言って穏やかに微笑んだ。

その柔らかな笑顔がどことなく寂しそうで、魔女でもそんな表情をするんだなと思った。





その日は朝から天気が良かった。

晴れ渡った青空に響き渡る鳥の鳴き声を聞きながら、作り立ての温かな朝食を運ぶ。

空中牢がある塔へと向かう橋を渡りながらふと横を見れば、朝日を浴びて輝きを見せる城下町と、さらに遥か先にはまだ雪が降り積もる広大な山脈がどこまでも続いており、「ここ、こんなに景色が良かったのか……」と一人ごちる。

塔の中へ入ればすぐ目の前に牢屋があり、いつものように鉄格子の前に料理を置く。

いつもは塔の扉が開く度に少女は「いつもお食事を運んで頂いてありがとうございます」と微笑んで近寄って来るが、今日は珍しく壁の細い隙間から外を眺めるばかりで、すぐに鉄格子へ寄って来ようとはしなかった。

少女は外を眺めながら、緩やかに微笑む。


「今日はすごく天気がいいですね。こんなに天気がいいと……外の空気が吸いたくなっちゃいます」

「……ずっとここに閉じ込められて、出たいと思わないのか?」


その声色がどこか切なげだったため、思わず訊いてしまう。

少女の監視役を命じられてそれなりに日数が過ぎたが、魔女と恐れられるには──少女はあまりにも普通だった。

普通に会話し、普通に喜び、普通に驚き、普通に悲しみ──普通に笑う。

鉄格子の向こうにいるのは、そんなどこにでもいる普通の、年相応の少女だった。

だから理解できなかった。

なぜ"魔女"と呼ばれ恐れられているのか。

なぜ、何年もこんな何もないところに閉じ込められているのか。

少女はこちらを見て驚いたようにその赤い瞳を見開くと──ふっ、と困ったように微笑み、



「……思いません。だってここから出たら──たくさん人を殺しちゃいますから」



そう言って、寂しそうに笑った。











少女の監視役を務めてから数週間が過ぎた。

相も変わらず監視役と言う割にはほとんど監視などせず、毎食の料理を運びに行くだけだが、一つだけ変わった事があった。


──食事の他に、ちょっとした食べ物をついでに持っていくことが増えたのだ。


例えばそれは同僚の騎士からもらった小さな飴だったり、メイドから密かに渡された菓子だったり、城下町へ出た時に見つけた珍しい果物だったり。

自分では食べない物を他人から渡されたり珍しい物を見つけたら、少女へあげるようになったのだ。

どうしてかは自分でも分からない。

ただ──『たくさん人を殺してしまう』と寂しそうに笑った彼女の顔が忘れられなくて、それ以来気がついたら何か持っていくようになった。

自分でも何をやってるんだとは思う。

けれど、ついでに何かを持っていく度にひどく嬉しそうに笑う少女がいて、その笑顔を見る度にまあいいかと思ってしまう自分がいた。




ある日は飴細工職人が作ったという、まるで硝子の花のような飴を持っていった。

上司である騎士が任務で助けたという飴細工職人からもらったというが、自分にはもったいないというので何故か貰ってしまったのだ。

もちろん自分では飴なんて食べないため、捨てるのももったいないしかと言って飾ってもそのうち腐るし、どうせなら少女にあげるかと思ったのだった。

飴をもらった少女はそれは大層驚いていて、「こんな綺麗なもの私にはもったいないですよ」ともう聞き飽きた事を言うので、いらないなら捨てるとその場で壊そうとしたら少女は慌てて受け取って食べた。

素直に受け取ればいいものを、と思ったのが自分でも意外だった。




ある日は大陸の南部地方でしか栽培していないという果物を持っていった。

遠征に行った同僚の騎士が珍しいからと大量に買い、遠征の土産にと2つ貰ったのだ。

1つは自分で食べたが2つもいらなかったため、どうせだから少女にも食べさせるかと思ったのだった。

初めて食べる果物に少女はとても喜び、「こんなに甘くて美味しい果物は初めて食べました」と顔を綻ばせて笑った。

確かに美味しかったが、これより美味しい果物はたくさんあるぞと思った自分に驚いた。




そしてある日は、王の城下町の視察の護衛に就いた際に露店で見つけた、果物のジャムを挟んだクッキーをいくつか買って持っていった。

珍しくも何ともない、この国では一般的な菓子だ。家庭でも材料さえあれば簡単に作れて、子供なら必ず1度は食べたことのある、それくらいごく普通の菓子。

持っていったその菓子を食べた少女はあろうことか「初めて食べたけど優しい味がしますね」なんて言うものだから、さすがの自分でも驚いた。

いくら何でもこの菓子を食べた事がないというのは嘘だろう。かつて浮浪児だった自分ですら食べたことのある、貧困層が自分たちで作って食べれる唯一の菓子なのだから。

そう言えば少女は「子供の頃からあまり家の外に出たことないので」と困ったように笑ったのだが、答えになってないだろと思った自分がいた。




いつからか、食べ物以外に本を持っていくようになった。

いつも外ばかり見てやる事がないと暇だろうと思ったのがきっかけだ。

最初は王宮の書庫で適当に見つけた薄い本を持っていったのだが、少女は文字の読み書きができないという事を知り、食事の合間に文字の読み方を教えるようになったのだ。

少女は最初こそ四苦八苦していたが、要点さえ押さえれば後は覚えるのが早く、読む練習として2日に1冊ずつ本を持っていくようになった。

古文書や哲学書なんかよりは童話や小説の方が読みやすいし内容も分かりやすいだろうと思い、そういう本を選ぶようにした。

少女が特に気に入ったのは、少年少女が空飛ぶ浮島へ冒険しに行くという冒険小説だった。「囚われのお姫様を男の子が仲間になった海賊の人達と手を組んで助けに行く場面が、読んでてとてもハラハラドキドキしました」と少女が興奮が覚めないまま言うため、そんなに面白いのかと返却されたその冒険小説を読めば、続きが気になりすぎて気がついたら徹夜で読んでいた自分がいた。







「そういえば、お名前を聞いてもいいですか?」


ある日、いつものように昼食を持っていけば、本を読んでいた少女からそのような事を言われた。

そういえばまだ名乗っていなかったかと思い出し、別に教えない義理もないため素直に名前を告げる。


「リディオルだ。リディオル・サルヴァトル。まあサルヴァトルは騎士になる時に王から授かった名だから、家名というよりは騎士名みたいなものだけどな」

「リディオルさん、ですね。ふふ、教えて下さってありがとうございます」

「……リオでいい」

「え?」


きょとんとする少女の赤い眼差しがどうにも居心地悪く、つい視線をずらしてしまう。


「愛称。親しい奴らはみんなそう呼んでる。だから……お前も、名前を呼ぶならリオでいい」

「……えと……じゃあ……リオ、さん」

「さん付けもいい。なんなら敬語もいらない。大して年齢変わらないだろ、俺とお前」

「私、16ですけど……」

「2つ下だな。俺は18。ほらな、大して変わらない。だから敬語もいらない」


どうしてこんなムキになっているのか、自分でも分からなかった。

ただ、少女がいつも敬語で話してくるのが、なんとなく距離を感じて。

監視役ではあるけど別に自分は偉い人間などではないのだから、会話するのに敬語はいらないと思ったのだ。

少女はいつかのようにその赤い瞳をぱちぱちと瞬かせると、次第に顔を綻ばせ。


「……それじゃあ、お言葉に甘えて、リオで!」


花が咲くような笑顔を浮かべた。

少女はそう言って今まで見たことのないほど嬉しそうに笑うため、ただ名乗っただけなのに何故だか無性に恥ずかしくなり、思わず顔を背ける。


「そういうお前は、名前、なんていうんだよ」

「あれ、教えてなかったっけ」

「ああ。俺の名前教えたんだからお前も教えろよ。じゃないと不公平だろ」


少女は確かにそうだねと笑う。



「私の名前はね、エレーナっていうの」



そう言って微笑む姿は、今まで見てきたどんな笑顔よりも──綺麗だと思った。





✽ ✽ ✽





「──視察?」


夕食後の果物を食べながら、エレーナは不思議そうに首を傾げた。


「ああ。明日から王が北部の国境沿いの砦へ視察に行くからその護衛でな。10日くらいいないから、その間は他の兵士に監視役を頼む事になった」

「10日……」

「北の砦までかなり距離があるから移動に時間がかかるんだよ。まあでもお前大人しいし手が掛からないから、監視役が代わっても大丈夫だろ」

「……そっか」


そう言って顔を伏せるエレーナの表情がどこか寂しげで、何故か妙な気分になった。

そんな表情をさせてしまったのが申し訳ない──だなんて。


「……なんだ、その、土産買ってきてやるから、そんな落ち込むな。たかが10日だろ」

「……買ってきてくれるの?」

「せっかく行くんだし、まあ、たまにはな。なんか欲しいのあるか? と言っても北部は名産品みたいなものはそんなにないが」


いつもは貰ったものや適当に買ったものをあげており、こうして自分から彼女に何か欲しいものを尋ねるのは初めてだったため、変な気分になり自分にしては珍しく口が濁ってしまう。

エレーナは少しだけ驚いた表情を浮かべると、それからふわりと嬉しそうに笑った。


「……じゃあ、お話聞かせて」

「話?」

「うん。旅のお話。何も買わなくていいから、欲しいものなんて何もないから、どんな景色を見たのかとか、何が美味しかったのかとか、どんなお仕事をしたのかとか、楽しかったこととか驚いたこととか……そんな思い出を聞かせて」

「……なんだよ、それ」


エレーナの言葉に、僅かな憤りを感じた。

何も買わなくていい?

欲しいものなんて何もない?

嘘をつくな。

こんなところに何年も閉じ込められて、ただ外を眺めることしかできなくて、自分以外ここには何もなくて。

だからこそ、俺が何かを持ってくれば嬉しそうに喜ぶくせに。

欲しいものは何もないなんて──見え透いた我慢をするんじゃない。


それでもエレーナは、そんな俺には気づかないで、いつものように優しく笑った。



「私、リオのお話好きだよ。だから私の分まで、たくさん色んな景色を見てきてね」








王の護衛のために北の砦へ到着し、7日目のことだった。


「──それほどあの娘が気になるか」


なかなか夜寝付けず夜風を浴びに外へ出ると、夜の視察をしていたらしい王に声を掛けられた。


「……いえ、別に」

「嘘を付かずともよい。あの娘の境遇に納得がいかぬのであろう」

「そんな事は……」

「貴様が監視に付いて一月ひとつきは過ぎたか。もう分かってはいるだろうが、あの娘に他者を傷つけようとする敵意や殺意などは微塵もない。むしろ嫌ってすらいる。それこそ、幽閉する必要などないほどにな」

「……」

「どこにでもいる平凡で凡庸な、何の力もない、ただの娘だ」

「……それなら、」

「──"魔女"である、という事を除けばな」


力強い声に言葉を遮られ、言葉を飲み込む。


「あの娘に殺意はなかろうと、魔女の力は否応なしに他者を傷つける。老若男女見境なく、な。かつてそれで1つの街が消えた」

「……」

「娘が"魔女"だという事を忘れるな。1歩でも檻の外へ出てしまえば──再び虐殺が起こるだろう」



本人の意志とは関係なく。



王はそう言い残すと、再び視察へと戻っていった。

その後しばらく夜風を浴びてから宿舎へと戻ったが、結局眠れなかった。

翌日、王の秘書官から「王より『ここ数日上の空で貴様は使えん。疾く失せよ』との伝言です。至急王宮へ戻り、本来の任にお戻りなさい」と言われた。要するに"帰れ"とのことらしい。

かつて戦場で拾われた時と変わらない、王の厳しくも優しい心遣いに思わず笑ってしまい、一足先に砦を後にした。





本来ならば10日目に帰還する予定だったが、護衛の任務を解かれて先に戻ってきたため、8日目の夜には王都に到着した。

王宮へと続く城下町の大通りを通っていると、ふと露店に並んでいる赤い果物が目に入る。

──同じ色だな、と思った。

そういえばエレーナは土産話だけでいいなんて言っていたが、道中や任務中は大して面白い事はなかった。

語れるような話なんてないから、やっぱり何か買っていくかなんて思い、露店に立ち寄って赤い果物を1つ買う。




王宮に到着し、空中牢がある北棟へ向かっていると、前方に白い影が見えた。

王の側近であり、俺にエレーナの監視役の話を持ちかけてきた白髪の男──ロマだった。

ロマはこちらに気づくと、薄紫色の瞳を細めてにっこりと笑う。


「やあやあ。こんな夜遅くにご苦労さま。聞いたよ、王様に追い出されたんだって?」

「……あんた視察に着いてこなかっただろう。なんで知ってるんだよ」

「さあ? 何でだろうね」


飄々とした笑い声にじろりと睨む。

王の側近という割には自由奔放で掴みどころのないこの男の事が、嫌いではないが昔から何かと胡散臭くてあまり信用していなかった。

とくに仲良く会話する仲でもないため一瞥して通り過ぎようとすると、「待った」と引き止められる。


「どこに行くのかな?」

「別にどこでもいいだろう」

「エレーナのところかな?」

「……」


だったら何だ、というつもりで睨むと、ロマは感情の読めない顔で笑う。


「だったら今はやめた方がいい。明日にしなさい」

「なんであんたに指図されなきゃならないんだよ。あいつの監視役を頼んできたのはあんただろうが」

「だからだよ。今晩はやめなさい・・・・・・・・


優しい笑顔とは裏腹な制止の言葉に──嫌な予感が全身を駆け巡る。

確かに彼のことは信用していないが、他人の話はちゃんと聞く男だ。そんな彼がなんの理由も言わずに頭ごなしに制止の言葉を言うのは、珍しいと思ったのだ。

そしてふと、思い出す。

俺がエレーナの監視役になった理由を。

前任者が不祥事を起こして・・・・・・・・降ろされたため、後任として俺が就いた事を。



──今、あいつの監視をしているのは誰だ?



ロマの制止を振り切って走り出す。

心臓が、嫌な音を立てているのがわかった。

「おやおや、やっぱり行ってしまうか」とロマが笑ったような気がしたが、そんなのはどうでもよかった。

ただの勘違いなら、それでいい。

けれど、そうじゃないのなら──。



「後悔する事になるよ──いつか、ね」



暗闇の中、白い男の声だけが聞こえた。







夜の静寂に包まれる王宮内をただひたすらに走り、空中牢がある北の塔へと向かう。途中見回りの兵士に何事かと声を掛けられるが、そんな事を気にしている余裕などなかった。

北棟の最上階へ出て、空中牢へと繋がる橋を渡る。

ただの勘違いならそれでいい。

性格の悪いロマがただ煽っただけだ。

そう願いながら、切れた息を整える前に塔の扉を開いた。

そして視界に飛び込んできたのは──




鉄格子の向こう。

冷たい床に押し倒された金色の髪の少女と。

その少女の上にのしかかる見知らぬ男。

少女は両腕を枷で縛られ、その白く細い脚を男の腕によって限界まで広げられていて。

男は、そんな身動きが取れない少女の脚の奥に── 一心不乱に腰を打ち付けていた。



「ははッ、"災厄の魔女"だなんて怖がられてるから、どんな恐ろしい化け物かと、思えば……ッ、顔が良いただの娘じゃねぇかッ」

「……、……っ」

「きっつ……! おらっ、もっと緩めろ!!」

「……っ、……ぃ……いた……ぃ」



──目の前で繰り広げられる光景に、一瞬、脳が停止する。

けれど、男に乱暴に揺さぶられて、そのきつく閉じられた目尻から溢れる涙を男の背中越しに見た瞬間──目の前が赤く染まった。



「──エレーナから離れろッッ!!!」



鉄格子に飛びつきガシャンッ!! と激しい金属音が鳴る。しかし鉄格子はびくともせず、内側から南京錠が掛けられていた。

見れば、男の腰に鍵がぶら下がっている。

行為に夢中だった男はそこでようやく気がつき、腰を止めてこちらを振り返った。


「ちっ、なんだ、もう帰ってきやがったのか」

「何をやっている!! 早くエレーナから離れろッ!!」

「へえ、名前なんて知ってるのかい。王国一の騎士様を誑かすなんざ、さすがは魔女様ってか」


男はそう言うと再び腰を動かす。「やめろ!!」と叫んだ時、




「……ぃで」




か細い、今にも消え入りそうな声が聞こえた。

ハッとすれば、男の下、組み敷かれた少女がこちらを見ていた。

その涙で濡れた綺麗な赤い瞳は──絶望の色に染まっていて。



「……み、ないで……」



いつも穏やかに笑う姿からは想像も出来ない、悲痛な声を上げた。





「ッ見ないでぇ!!!!」






──びしゃあっ






赤が、飛び散った。

真っ赤な液体が壁に、床に、天井に飛び散り、べちゃっと何かが落ちる音がする。

何が起こったのか訳のわからないまま音のした方を見れば──





腕が、2本、落ちていた。






「あああ……ああああ腕があ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"!!!!」


次の瞬間、つんざくような絶叫が空間に響き渡る。男の悲鳴だった。

見れば──男は肩から先の両腕を失っており、おびただしい量の鮮血がそこから溢れ出ていた。


「あああああいたいいたいッ!! なんだよこれ……! なんなんだよぉっ!!」


突然両腕を失った男はとめどなくそこから流れる鮮血を見て泣き叫び、少女から後ずさる。

次の瞬間、がらんがらんと激しい音を立てながら鉄格子が突然崩れた。

何をしてもびくともしなかった鉄格子が、まるで鋭利な刃物によって切断されたかのように破壊されがらがらと転がっていき──そのうちの1本が、床に落ちた男の腕に当たってぴたりと止まる。



──何が起こったのかわからなかった。



一面に飛び散った鮮血。

床に落ちる2本の腕。

転がる鉄格子。

泣き叫ぶ男。

そして──




「……、……ぅ、……っ」




両腕を縛られたまま、引き攣った声を漏らして静かに涙を零す少女。


訳が分からず、その場に立ち尽くす。




「──だから言っただろう? 今晩はやめなさい、と」





取り返しのつかない事になってしまうから。





白い男の声が背後から聞こえる。

次いで「どうした!?」「な……んだこれは……!?」「衛兵を呼べぇッ!!」とどよめく数々の声がする。

けれど、そのどれもがどこか遠くのように聞こえた。



目の前にいた少女は、かたかたと肩を震わせ、




「……さい……なさい……ごめんなさい……」




涙で引き攣る喉を震わせながら、ただひたすらに懺悔の言葉を零していた。





✽ ✽ ✽





この世界に"魔女"が存在するのは、君も知っているだろう?

何せ『良い子にしてないと魔女に殺される』なんて子供への躾文句が昔からあるくらいだからね。それくらい魔女という単語自体は身近なものさ。

けれど、存在は知っていても『本物』は見た事はないはずだ。


それもそのはず。

魔女はある時代、ある年、ある国、ある場所にしか生まれない、非常に限定的な存在だからだよ。その上短命だから存在証明をするにも難しい。

ならば何故、"魔女"なんて単語だけが独り歩きし、こうして世界に広まったのか。



それはね、常人には到底理解できない不可思議な力で、彼女たちが人々を蹂躙していったからだよ。



発火源もないのに突然炎が燃え盛ったり。

声を聞いただけで発狂して心が壊れたり。

見つめられただけで石像に変わり果ててしまったり。

何もしていないのに、突然身体が破裂したり。


そんな得体の知れない恐ろしい化け物を、人々は"魔女"と呼び、遥か昔から畏怖してきたのさ。




彼女・・もそう。

この時代の、この時の、この国の、ある場所に生まれた──恐ろしい魔女。




けれど勘違いしないでほしいのは、彼女自身はどこにでもいる普通の女の子だよ。

普通に笑って、普通に怒って、普通に悲しんで、普通に喜んで、普通に生きる、平凡な人間の子。

魔女の力を持って生まれてきてしまったという──ただの人間の女の子さ。



けれど、生まれた時代と場所が悪かった。



君はたしか先の大陸戦争の戦災孤児だったね?

各地を浮浪していて多種多様な人々を見てきたのなら、君にとっては特別気にするような事ではないかもしれないけれど。


あの赤い瞳。


昔からこの大陸では、赤い瞳は『』と言われ、不幸や災いをよぶ呪われた瞳として迫害されてきた。

もちろんそんなものはただの迷信に過ぎないけれど、自分達とは違う姿形をしているというだけで他者を排斥しようとするのは、なんともまあ人間の愚かなところだよね。


まあ、そんな忌み嫌われる『忌み眼』を持って生まれてしまったんだ。

彼女がどんな幼少時代を過ごしてきたのかは、想像にかたくないだろう。

それでも彼女は優しい女の子だったから、生みの親や周りの人間から叩かれようが蹴られようが殴られようが殺されかけようが、決して怒ったり悲しんだり、誰かを恨んだりはしなかった。




──蹂躙される彼女を庇って、姉が殺されるまでは。




噂を聞き付けた王と私が街に到着した頃には、それはもう悲惨な有様だったよ。

至る所に死体、死体、死体。

凄惨な死に方をした死体だらけ。

建物や家は破壊し尽くされ、生き残った街の人間は誰一人としていない。

姉の亡骸に寄り添って泣きじゃくる、幼い彼女の姿以外はね。



……ここまで聞いたのなら、察しのいい君ならもう気づいているだろうけど。

周りの人間が馬鹿なことをしなければ、彼女は魔女の力を使うこともなく、普通の女の子として生きて死んでいくはずだったんだよ。

魔女は激しい絶望に包まれ魂が堕ちた瞬間に誕生まれる。

人々は"魔女"なんて呼んで恐れているけど、いつの時代も、その"魔女"を生み出したのは愚かな人間たちなのさ。


魔女に堕ちてしまったのなら、もう元の普通の人間には戻れない。




誰かに殺されるか、その短い生を終えるまで生きるか。

彼女たちに残された道は、もうそれだけしかないんだよ。




❁⃘




「王は彼女を捕らえる時に一つだけ条件を与えた。それが『彼女が一度でも他者を傷つけた場合は即処刑とする事』。裏を返せば、誰かを傷つけたりしない限りは彼女を殺さないって事さ。この意味が分からない君じゃないだろう?」


自室の扉越しに、白い男はいつも通りの飄々とした掴みどころのない声色で言う。


「王が北の砦の視察へ出発してから今日で9日目。明日の朝には王宮に帰還するだろう」




あとはどうするか──自分で決めなさい。




白い男はそう言い残して、扉の前から姿を消したのが気配でわかった。

室内が静寂に包まれる。

カーテンすら閉めていない窓からは月明かりが差し、殺風景な自室を淡く照らしていた。



──あれから丸1日が経った。



少女は厳重に拘束され地下牢へと移送された。

両手足に枷を嵌められ、頭に鉄の兜を被され一切の視覚聴覚を遮断されても、少女は一つも抵抗せずただひたすらにされるがままだった。

どんな表情かおをしているのかすら、わからなかった。


それからずっと、白い男に聞かされた少女の生い立ちを反芻している。




──初めて見た時は、まず最初にその赤い瞳に目を奪われた。

次いで、捕らえられてからもう何年も切っていないだろうその金色の長い髪が、綺麗だなと思った。

「どうかよろしくお願いします」と小さく呟く姿からは、人々が恐れる魔女だとはとても想像できなくて。

どこからどう見ても、普通の少女にしか見えなかった。



ずっと街並みを眺めてても飽きない、と顔を綻ばせていた。


寒さには慣れてる、と嬉しそうに微笑んでいた。


雨は好きじゃない、と沈んだ表情を浮かべていた。


祭りを見てるだけで楽しい、と穏やかに笑っていた。



──ここから出たらたくさん人を殺してしまう、と寂しそうに笑っていた。



少女は、一体どんな想いで、あの何もない暗くて冷たい牢の中から、外の世界を眺めていたのだろうか。




『私、リオのお話好きだよ。だから私の分まで、たくさん色んな景色を見てきてね』




いつか聞いた、微笑んだ少女の言葉が脳裏を過ぎる。

そして──壁に掛けていた剣を握る。





迷いなど、なかった。





✽ ✽ ✽





物心ついた時から親はいなかった。

数十年前に大陸戦争は終結したが、辺境の地では今でも民族同士の小競り合いが絶えない。

そんな中を、ただ1人で生きてきた。

短剣1本さえあれば十分。

動物を狩り、物を盗み、人を騙し、時には自分の身を守るために相手の命を奪い。

そして──王に拾われた。



『貴様は何のためにその短剣を振るう? 生きる為か。殺す為か』



初めて会った時に問われた言葉が、今でも忘れない。

騎士になって、この手に握るものは刃こぼれした短剣から、一振りの剣へと変わった。

何のために剣を握っているのか、騎士になって数年経った今でもわからない。




わからないけれど──。







「嫌なもの見せちゃったよね。ごめんなさい」



暗く冷たい地下牢の中、鉄格子の向こう側にいる少女は明るい声でそんな事を言う。

こちらに背を向けているため、どんな表情をしているのかはわからない。


「謝っても意味なんてないのはわかってるんだけど……どうしても、謝りたくて」


けれどその声は上擦っていて。


「……初めてだったの。私を怖がらないで、普通に接してくれた人が。私のこの眼を見ても、何とも思わないでいてくれた人が。でも、監視をするだけの人だから、馴れ馴れしく話しかけちゃ駄目ってわかってたのに……あんまりにも、普通に話しかけてくれるから」


時折声が震えていて。


「私を怖がらないで、変に憐れんだりしないで、普通に声をかけてくれたのが……すごく、嬉しくて。お菓子をくれたり、果物をくれたり、温かいご飯を届けてきてくれたのが、すごく……嬉しくて」


声に、涙が混じっていて。


「初めて……誰かと普通にお話ができたのが……本当に、嬉しくて……。だから……ごめん、なさい……」


我慢している事なんて、最初からわかっていた。

あの時もそうだ。

『欲しいものは何もない』だなんて言って。

穏やかに笑うくせに、見え透いた嘘をついて、我慢をする赤い瞳の少女のことが──どうしても、許せなくて。




「──言いたい事はそれで全部か」




ガチャリ、と。

気絶させた見張りの兵士から奪った鍵を使い、牢を開ける。

軋む音を立てながら鉄格子を開き、少女の元へ歩く。

鉄格子が開く音に驚いた少女がこちらを振り向いて──その赤い瞳から散る涙が、煌めいていて。


「ああ、綺麗だな」なんて頭の片隅で思いながら、剣を握り。




その細い足首を縛る鎖に、渾身の力で剣を突き立てた。




ガキンッ!と激しい音を鳴らしながら鎖が破壊される。

その様子を唖然として見てた少女を無視し、その白くて細い体を持ち上げて肩へと担いだ。

想像していた通り、少女の体はとても軽くて、けれどちゃんと温かさがある事が肩越しに伝わって安堵する。


「えっ……なに……!?」


突然の出来事に少女は驚愕の声を上げるが、構っている暇はない。

ここへ向かう途中にいた見回りの兵士は粗方気絶させてきたが、気づかれるのも時間の問題だ。

王宮──はたまた城下町の地下には都外の森へと繋がる長く迷路のような地下通路が密かに張り巡らされており、この通路を使って朝日が昇る前には王都から脱出しなければならない。

現在は深夜。

時間がなかった。


左肩に少女を担ぎ、急いで地下牢の階段を登り、地下通路への扉が隠されている大書庫へと走っていく。


「まっ、まって……! どうして……!?」

「いいから黙ってろ! 舌噛むぞッ!」


少女が肩の上でもがくが、相手をしている暇など一切ないため一喝して落とさないように腕に力を込める。

回廊を抜け、階段を登り、再び回廊を周り、長い通路を走り抜ける。幸い見回りの兵士達は事前に気絶させて縛っておいたため、特に何の障害もなく王宮内を掛けていく。深夜のため王宮内の警備が昼間より手薄になっているおかげでもあった。


ようやく大書庫へ到着し、息を切らしながら扉を開けて中へと入る。

一番奥に陳列される大きな本棚へと向かおうとして、



「──いたぞッ!!」



背後から怒号と、複数の足音が響いた。少女が肩の上で「あ……っ」と声をこぼしたのが聞こえて、思わず舌打ちをする。


「……離して!」

「くそ……ッ、おい、暴れるな!」

「お願い離してっ! こんな事しなくていいよ! もういい! もういいからぁ……ッ!!」


激しく肩の上で暴れられ体幹を崩す。視線を背後に移せば、すぐそこまで数人の兵士の姿が迫っているのが視界に映った。

もう時間がない。

「ごめん」と小さく一言だけ零し、暴れる少女の鳩尾に優しく、それでも一撃で気絶させる強さで拳を入れる。

どすん、と鈍い音を立てて急所を殴られた少女は一瞬で気を失い、ぐったりと体を弛緩させた。

ゆっくりと肩から下ろし、背後にあった本棚へ優しく凭れさせる。


そして。


本棚から本を一冊抜き、振り向き様にこちらへ向かってくる兵士に向かって──思い切り本を投げつけた。


「ぐわッ!?」


突然本を投げ付けられ驚いた兵士が一瞬だけ怯む。

けれど、その一瞬さえあれば良かった。

本を投げつけたと同時に兵士へ向かって走り出し、怯んだ体の懐へ入り込む。腰に差した剣を思い切り引き抜き、兵士の鳩尾へ剣の柄を思い切り突き刺した。

「がはっ」と呻き声を上げた兵士が前かがみで崩れ落ちてくのを避け、別の兵士を狙う。残り2人だ。

左手側にいた兵士は突然の猛攻に反応しきれなかったようで、一瞬遅れて腰にさげた剣を引き抜くのが見えた。

鞘から引き抜いた自身の剣を再び納刀し、今度は鞘ごと腰から抜いて、剣を握った兵士の手元へと振りきる。


「がッ!!」


手元を弾かれたことによって剣が吹き飛び、弧を描いて床に突き刺さった。


「このォ!!」

「──ッ!」


背後からもう1人の兵士が剣を振り下ろそうとしてくるのが視界の端に映った。

すぐさま重心を落として振り下ろされる剣とは反対側へ体を捻り、床に体を近づけた隙にすぐ近くにあった木製の小さな脚立を掴む。そして体幹を起こす勢いのまま掴んだ脚立を思い切り兵士の顔面へと叩き込んだ。

バキィッ!と鈍い音を立てながら、兵士の顔面にぶち当たった木製の脚立が粉々に割れる。

顔面を強打されたことによって意識を失った兵士を尻目に、振り向きざまに手に持っていた剣を横に振り、背後にいた最後の兵士の顔面を鞘で思い切り殴る。

横っ面を殴られた兵士はそのまま吹き飛び、床へ倒れて動かなくなった。


深夜の静寂さが書庫の空間に戻った。


床に倒れて動かない3人の兵士を一瞥して、奥の本棚へと向かう。

中央の本棚の中段にある本を3冊抜き取り、その奥にある壁を力いっぱい押す。すると、ゴゴ……と低い音を立てながら本棚が後ろへ押され──扉のように開いた。


見ればそこには暗い空間が広がっており、下へとさがる階段がどこまでも続いていた。

未だ本棚に凭れかかって静かに眠る少女の体を抱き上げ、階段へと足を踏み入れる。




もう二度と、王宮このばしょに戻ってくるつもりはなかった。





✽ ✽ ✽






どれくらい時間が経っただろうか。


暗く湿る地下通路を縦横無尽に駆け回り、出口へと向かう。

かつて世話になった上司の騎士より地下通路の存在を教えられた事があったため、経路図は頭の中に入っていた。出口も1箇所だけではないため、例え追っ手が来ていたとしてもすぐには追い付けない。


体力にはそれなりに自信はある方だが、人1人を抱えて走り回るにはさすがに限界がきていた。

息が切れ立ち止まりそうになるが、両腕に抱えた重さを思い出し、それでも歩き続ける。




しばらく歩くと、通路の先に薄らと淡い光が見えた。

どうやらようやく出口に付いたらしい。

すると両腕に抱えた少女が身動ぎをし、ゆっくりと瞼を持ち上げた。その赤い瞳が静かに現れ、こちらを見つめた瞬間──体力に限界がきた。


「……くそ」


その場に膝をつき、それでも少女だけは腕から落とさないようしっかり抱き留める。

ゆっくりと少女を腕から降ろせば、困惑した表情を浮かべてこちらを見つめていた。


「……どうして」


少女が言葉を紡ぐ。

けれどその言葉に応える気力と体力はもう残っていなかった。

代わりに、淡く光が漏れる通路の先を指差し、「早く行け」と安易に伝える。少しだけ息を整えたかった。

少女はどうすればいいのか分からないのか逡巡したが、通路の先を見て、まるでその先の景色に目を奪われたかのように静かに歩き出す。

長い金色の髪が揺れるその後ろ姿を見て、ようやく一息つけた。

息を整えながら、背後の暗闇に耳を澄ます。

足音が響いてこない事から、どうやらまだ追っ手は来ていないようだった。


少しだけ休憩をしたことで、乱れた呼吸が落ち着く。

腰を上げ、少女の後を追って再び歩き出す。

光の先は、もうすぐそこにあった。










「こんな景色、別に珍しくも何ともない。生きていれば嫌でも目に入ってくる、当たり前の世界だ」



目の前に広がる景色を見つめたまま立ち尽くす少女の背に、言葉を投げる。

眼下には見慣れた景色が広がっていた。


早朝の霧に包まれる森林。

その先には広々とした草原がどこまでも続いており、色とりどりの花畑が咲き乱れている。

遥か遠方にはまだ白い雪がかかった連峰がそびえ立っており、その山の頂上に登り始めた太陽が差し掛かっていた。

空はどこまでも青く澄み渡っており、1匹の鳥が遥か彼方を飛んでいる。


当たり前の景色だ。

珍しくも何ともない。

けれど、ずっと捕えられていた少女にとっては、きっと──。



「自分の分まで俺に色んな景色を見てきてほしい、って前に言ったな。──見ればいいだろ、自分の目で」



少女がゆっくりとこちらを振り返る。

その美しい赤い瞳には、こぼれ落ちそうなほど涙が溜まっていて。

なんだか泣かせてばかりだなとふと思って、つい。



「俺で良かったら、どこまでも付き合ってやるからさ」




だから、そんなに泣くな。




──つい。

そう言って、笑ってしまった。




少女は頬にこぼれる涙を拭いもせずに、何度も瞼を瞬かせて涙が散る。

光を反射して煌めくその涙が、今まで見てきた何よりも尊く見えて。




「──そんなに優しくされたら、困っちゃうよ」




とめどなく涙を零し、困ったように呟きながら、それでも精一杯の笑顔を浮かべる少女の姿を見て。










──初めて、愛しいとおもった。









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魔女を愛した騎士 藍沢 しま @shima_aizawa

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