冬瓜

百舌すえひろ

冬瓜

「お姉さん、何をお求めですか?」

赤ら顔の八百屋の親父が私の顔を覗き込んだ。

今晩何にするかまだ決めてなかった私は、慌てて手前の段ボールに入った緑の塊を指さした。

八百屋の親父が「冬瓜か。いくつ?」と聞くので「ひとつ」と言うと、「はい、一千万円」と言われ仰天した。

「うそうそ、九百八十円だよ」と高笑いする親父の勢いに飲まれ買ってしまった。

――ひとつ千円もするのか。気安く買えるものじゃなかったんだな。


いつもの大型スーパーに行けば肉も野菜も一括で買えるというのに、私はわざと駅の反対出口へ出て、商店街に足を踏み入れていた。

「冬瓜はね、この表面の緑色の皮を剥いてね。三、四センチ大の角切りにして、一度下茹でしてから使うといいよ」

八百屋の親父は袋に入れながら言った。

「カリウムが含まれててね。体内の余分なナトリウムを出して、血圧を正常に保ってくれるから、むくみの解消に役立つし、ビタミンCが肌の健康状態を保ってくれるんだ。お姉さん、もっと美人になっちゃうよ!」

口の上手い親父だった。セールストークにのせられる自分が悔しいが、調理の仕方まで教えてくれるのは正直ありがたい。対面で会話して気持ちよく買わせてくれるなんて、量販店にはない。


声をかけられてとっさに冬瓜を指してしまったが、冬瓜の料理には思い入れがある。


高校時代、友人宅に招かれた時に出された冬瓜汁は醤油ベースで、我が家の味付けと変わらず美味しかった。

しかし隣に座っていたその家の娘である友人は「わたし冬瓜きらい」と言って、母親と祖母の目の前で盛大に顔をしかめた。

「味がないくせに汁の中でかさばって、食感がぬるつくから微妙」と言うと、一緒に来ていた別の友人が「わかる、私は豆腐もきらい」と応えた。

「味がない上に歯ごたえなくて崩れやすいから、きらい」と、その家の娘と意気投合していた。

強烈な臭いがするらっきょうや、生玉ねぎのスライスが嫌いだった私にとっては『なんの主張もないから、居ても居なくてもわからない存在は嫌い』とは考えたことがなかった。

それにわざわざ作ってくれた母親と祖母の前で言うとは、あんまりではないかと憤慨すらした。

しかしその家の母親と祖母は「またそんなしょうもないこと言って。良さがわからないのは子供だからよ」と目を細めて笑っただけだった。

彼女は「だって年寄りじゃないもーん」と口を尖らすと「あんた食べて」と手付かずの椀を私の手元に置いた。

私は黙って椀の具を口に入れると、咀嚼して喉の奥に流し込んだ。


成人してお酒を嗜む機会を経てわかったことがある。

若い頃に敏感に感じていた刺激は、老いによって鈍感になる。

あの頃の私が嫌いだったらっきょうや、生玉ねぎスライスの鼻を刺激する強烈な臭いが、今ではそんなに感じなくなった。


「嫌い」は「平気」になるし、場合によっては「嫌いじゃない(むしろ好き)」になる。

味が無いものは自分の好きな調味料をかけて食べればいいだけだと思っている。


食材の嫌いが減る一方で、苦手な人は増えた気がする。


「食わず嫌い」はもともとない方だったが、「試してみてやっぱりダメ」という経験が積み重なると、固定観念(または先入観)が出来上がり、少し会話して感覚が合わない人間を見つけると、早々に距離を取り、トラブルを回避しようとする癖がついた。

これが『大人の処世術』というやつなのだろうか。


冬瓜汁を一緒に食べた友人たちとは、卒業してから一度も会っていない。

お互いの現状について直接連絡を取り合ってまで話がしたいと思えるほど、私たちは心地よい会話ができる仲にはならなかった。それだけのことだ。


「話してみなければわからない」「好みが違ってもどこかで分かり合えるのではないか」と信じてクラスメートに付いて回るあの頃の自分が失われたことを、冬瓜を食む度に実感させられる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

冬瓜 百舌すえひろ @gaku_seji

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ