リコリス

沙雨ななゆ

リコリス

「小さな夢のはなしです。」


第一夜

 西の野原の泉へ行こうよ。

 何となしにそう言われた言葉について、ぼくはあまり考えもせずにうんと彼女に返事をする。

 そうすると彼女はふわふわ笑ってくれて、うん、ありがとう、そう言うと思っていたよとかぷかぷ頷いた。

「だからぼくは彼女の手を引きました。彼女の手を引いて、窓からすんと飛び降りて、夜に跨って駆けだしたのです。ぼくのうしろでは彼女がなおも笑っていて、すごい、とうれしそうに手を叩いていました。ぼくはこんなしあわせが、これをしあわせと呼んで良いのならば、こんな夜が永遠に続いていくように望みました、願いました、祈りました。そういうぼくのこころが、ひゅうと吹いていた風にのって誰かのところまで届くといいなと思いました。……そのとき彼女がどうして、何を言っていたのか、ぼくにはわかりませんでした。ただ彼女をうしなえば、気が狂ってしまうことだけはわかっていました。」


第二夜

 起きて、と言われたから、瞼を開けて視界に光を取り入れた。もう夜になっていたようだから、正確にはそれは光ではなかったのだけれど。

 目をこする。右側がなんとなくあたたかい。ふふと声が聞こえてそのほうへ向けば、お寝坊さん、と彼女がとなりで笑っていた。ぼくはいつのまにか寝ていたらしい。

 ぼくはどれくらい寝ていたのかのと彼女に聞いた。彼女は笑うばかりで、ちゃんとした答えは返してくれそうにない。ぼくはやや頬を膨らませて彼女を睨む。うふふ、と彼女は自分の手を口もとへ持っていって、そのまま肩をふるわせるので、ぼくはますます頬を膨らませた。えいえい、と彼女がぼくのそれをつつく。

 そうしたぼくたちを月が照らした。あっ、と彼女は目をそらすのがわかる。

(……、)

 ぼくはそれを、本当は既視感として知っているような気がして彼女を見る。彼女はそのことに気づいたのか、ぼくのほうを向いて、けれども数拍のちには俯いてしまう。「ねえ」彼女がぼくを呼ぶ。「ここから逃げてしまいましょう」

 逃げるってどこへと聞こうとしたけれど、彼女はすでにぼくの手を引いていた。そうしてそのまま雲へ飛び乗って、ぼくの手を離さない。だからぼくは彼女の好きにさせてやろうと思って、うんと彼女に頷いてみせる。彼女の手はふるえている。こわくないよ、だいじょうぶだよと笑う。彼女はぼくのほうを向かない。それでも、たぶん、それで良くて。

 彼女の名前を転がした。何にもまして残酷なのだろうなと思われた。風に向かってぼくは歌をうたう。一つ歌い終わるころ、彼女がじょうずねと笑ったので、ぼくはわずかに音を外した。


第三夜

 逃げだしたのか、もっと単純に出かけただけだったのか、長い旅路の途中なのか、ここが終着駅なのか。ない頭でいくつか可能性をひねり出してみるけれど、たぶんどれも違うことだけはぼくにもわかった。

 きれいだねと彼女が笑う。ちゃぷんと波が泣いているような海にいる。風もだいぶ凪いできて、きっとここはどこよりもあたたかい。それが世界だとしたらどうだろうと考えてみる。何を見ているの、と彼女の声で我に還る。

「うみ」彼女の声は相変わらず小さい。「嫌いなひと、いるのかな」ちゃぷんと波が岩場に触れた。「……わかんない。でも、夜を嫌いなひとはいるのだろうから」

 えへえと彼女は笑っていた。いつも笑っていることが多かった。ぼくはまじまじと彼女を見る。いつもは横顔を見ることが多かったものだから、正面から見るのはすこし緊張する。たぶん彼女もそうなのだろう。ふっとぼくから顔を背けて、長くて下に向きがちな睫毛をすんとおろして、視線はやはり逸らされてしまっていて。

(あ、)

 そんなことをされると。

 高まる心拍数だけが波よりも大きくなってしまいそうで。

 手に触れる。触れたのは初めてではなかったけれど、彼女の手だ、と思って触れるのはきっとこれが初めてのはずだ。手のひらがあつい。けれども指だけはどこか冷たい。触れる。そして捉える。驚いたように肩がふるえている。はっきりと、分かった。

 もし、もしも今、世界がぼくたちだけのものであったら、このうみも、彼女のぬくもりも、本物のままで終われるのだろうか。

 肩がぶつかる。ぼくよりもずっと細いのに、彼女はもっと大きなものを抱えて歩いていってしまうように思えた。

「……ちゃん」名前を呼ぶ。なあにと彼女が答える。ぼくはそれ以上は言わなかった。だからきっと、彼女もそれ以上は聞かなかった。

 花が咲いている、と彼女が言う。その指が示す向こう側に、小さい何かが揺れている。「あそこに行きたいな」彼女が笑っていたのか、泣いていたのか、それはまた波の下へ潜ってしまった。

 じゃあ行こうよと努めて明るく笑う。いつ? 彼女がやんわりぼくを見る。「いつか」「そう」「でも、いつか、行こう。また、行こうよ」

 そういうぼくの言葉に彼女がうんと頷いてくれるまで、ぼくは彼女の手を握っていたかった。


第四夜

 ぼくが目覚めるのはいつも夜らしい。そして目覚めたぼくにおはようというのもいつも彼女であるらしかった。けれどもぼくは、目覚めた瞬間のそのことはわすれていて、いつも夢を見ていたような、彼女と初めて会ったような、そもそもぼくがここへいることもなかったような、そんな気がしてしばらくまたたく。

 きっと彼女はそんなぼくにはずっと前から気づいていて、というか知っていて、ぼくが彼女を彼女として認識するまで待っていてくれるものだから、彼女はやさしい。

「きょうはどこへ行きたい?」

 日課になっている(らしい、ぼくはやはりおぼえていないのだけれど)問を受ける。ちょっと首を横に傾けてみた。この前のぼくは彼女とどんな約束をしたんだっけ。彼女の瞳を覗いてみる。なんだかちょっとだけさみしそうな気がした。そういえばそんな顔をよくするひとだった。

 じゃあ水族館へ行こうと彼女が言う。ぼくはすいぞくかん、という単語を舌の上で転がした。二つ置いていいよと返事をすれば、彼女はわらって窓の向こうへいざなう。「そろそろ汽車がやってくるわ」それに乗れば一本で行けるらしい。

 果たしてぼくたちは汽車へ乗った。汽車はほんとうに雲の向こうからやってきて、ぼくたちが座っている窓辺へ停車した。「アジサイ水族館行きです」プシュー、と煙を出して汽車が言う。こども、ふたりです! 彼女の元気そうな声が響く。

 汽車の中へ入ると、古い映画のようなにおいがツンと鼻を突いた。手すりのようなものがついていて、乗車口からずっと赤いカーペットも敷いてある。乗車口は階段になっていて、親切だね、と彼女は関心しているようだった。客席は個室で区切られているようだ。たしかコンパートメント席というものだった。「物知りなのねえ」彼女はまた関心している。そのくせ関心のもとであるはずのぼくよりも、汽車から見える景色のほうを見ている。

 ぼくは入り口から七番目の席の扉をガラガラ開けて、彼女の手を引いてそこへ座る。彼女はちょっとぼくを見たあと、席の扉の前まで行って、もう一度入り口のほうを見たように思う。それからひゅっと息を吸って、そしてぼくのほうへ戻ってきた。「……どうしたの」ぼくは心配になって彼女を見上げる。彼女はたぶん数拍おいて、なんでもないわと笑った。

 いったい汽車の中はおどろくほど静かで冷え冷えとしていた。夜だからだろうか。けれどもここ最近の夜は暑すぎるから、この寒さを夜のせいにすることはできない。彼女は両手でを両腕にあてて寒がっている。「風かな?」けれども風を感じるわけでもなかったので、それもあり得なさそうだ。まだ寒い、と彼女へ首を傾ける。だいじょうぶだよと手を振られる。

 窓の外へ目を向けた。雲がどんどん流れていって、星たちがきらきらと輝いている。ぼくたちが今までいたはずの、狭くて苦い空はどこにもなくて、ぼくたちの下にある空は、広くてひどくうつくしい。あ、流れ星、といつの間にか隣にきていた彼女が言う。どこどこと探したけれど、ごめん見失っちゃったとさみしそうにつぶやかれたので、ぼくはそれ以上を言うのをやめる。またいつか見つかるよと手を合わせる。彼女は何も言わなかった。


第五夜

 どこへも行けてどこへも行けないわたしたち、という話を彼女がしたとき、ぼくはやはりその意味するほんとうのところはわからなかったし、それは一見矛盾するようにも思われたのだけれど、彼女のなかでは決してそうではないのだろうから、それならばぼくは、どこへも行けてどこへも行けなくても、いいのだろう。そんな気がした。それを彼女に話したら、彼女はあいまいに笑っただけだったけれど、ぼくは彼女とならなんにでもなれるようでうれしかった。

 汽車はごとんごとんと動いている。昨日からずうっと汽車に乗っているのに、目的地にはまだ着かない。いつ着くのかな、なんて聞くのはきっと無粋なのだろうから、ぼくは窓の外を眺めていることにした。ぼくが窓の外を眺めていると、彼女もこっちにきてくれるものだから、そういうしあわせを享受していきることもたぶん悪いことではないと思う。

 窓の外は星の光でやさしく明るい。あれはなあにと彼女が聞いた。ぼくはしらなかったけれど、「白鳥、じゃ、ないかな」「はくちょう?」「たぶん。……そんな気がする」「何それ」彼女はおかしそうに肩を揺らす。ぼくは得意になって胸を反らす。

 ぼくは窓の外を見るのにだんだん飽きてきて、元の席へ戻った。お腹がきゅるきゅる鳴る。「お腹すいたの?」「……うん」なんだかすこし恥ずかしくて、両手で顔を覆う。笑われてしまうと思った。けれどもいつまでも彼女の笑い声は降ってこないので、そろそろと顔を上げて覆った指の間から彼女を見る。

(なんて)

 顔を。

 泣きたいような、笑いたいような、さみしいような、くるしいような、うれしいような、どれなのか、どれもなのか、わからない。わからないことだらけだ。ぼくのことも、彼女のことも。彼女はそんな顔をしている。ぼくはどんな顔をしたら良いのだろう。答えはいつもつかめないままで、彼女はきっとそんなぼくを知っていて、だから彼女はふたたび窓の外へ目を向けたのかもしれなかった。

 そんな彼女の指の隙間から赤い何かがこぼれおちる。え、と声が漏れて、それをぼくは拾おうとして、彼女と手が重なる。

 汽車が、プシューと音を立てて停止した。

「ただいま、……駅でございます」

 聞いたことのない駅名だった。彼女にそっと視線を投げる。彼女は、もう落ち着いていた。それから彼女はうんと頷くと、窓からさっきの赤いものを放り投げる。

 汽車はまた動き出した。なんだったの、とも聞けないような気がして、ぼくは黙りこむ。なんでもないのと彼女が言う。ただ、あれは必要なかったのだと。誰とも分け合う必要がないから、あなたには必要のないものだから、荷物になってしまうから捨ててしまったの、と。

「……」

 ぼくたちは同じく窓の外を見るのをやめた。そうしているうちにだんだんと眠くなってきて、ぼくは一つあくびをする。彼女はわらっていた。寝てもいいよと言う。「……でも」寝たら、どこにもたどり着けないような気がした。気がした?

(どこへも、って、……どこ、なんだろう)

 この短時間のうちに、またぼくは忘れてしまったのだろうか。

 彼女の目を見る。うつくしい色をしている。「ねてもいいよ」今度ははっきりと声が聞こえる。ねてもいいよ、だいじょうぶだよ。わたしはここにいるから、ねてもいいんだよ。

 そう言われているうちにほんとうに眠くなってきて、ぼくは目を閉じることにした。

 ──ぼくが目を閉じていると、しばらくして彼女が立ち上がるような気配がした。パチリと瞼を開ける。手足がなんとなく重い。彼女はぼくに気づかないようで、コンパートメントから外へ出た。回廊は静かだ。彼女はすたすたと奥の方へ進んでいく。ぼくも彼女を追う。

 彼女は次の車両とぼくたちの車両の間に寄りかかった。「……知らなかったの」声が震えている。「次で最後なのよ」

 その顔があまりにもつらそうに見えたから、苦しくなって、膝を折った。


第六夜

 目が覚めるより前に目を覚ました。頭がぼんやりして、しばらくはここという場所を認識できないのがぼくだったから、できるだけ早く起きていようと思ったのだ。

 きょろきょろをあたりを見回して彼女を探す。ぼくよりも小さな足、ぼくよりも小さな手、ぼくよりも小さな背、一つもぼくより大きいものがなくて、けれども、たぶんその背には見合わないほと大きさのものを抱えているだろう彼女。

 ふとそのとき、ぼくは彼女についてほとんど何も知らないのだな、と了解されて、そんなぼくに窓からの風がつらく当たった。

 ベッドから起き上がってスリッパを履く。今日の夜はどこか肌寒いらしい。かけてあった上着を羽織って部屋のドアを開けようとした。……しかしドアに手をかける前に、窓のむこうがわから声がしてやめる。

「ねえ」

 彼女がどんな格好をしているかは知らなかった。そこに彼女がいるのかも、見たわけではない。それなのに彼女だ、と思うのは、ほんとうに何故だったんだろう。ぼくは窓のほうにからだを傾けた。彼女が笑っている。

「どこへ、……行く、の」

 ふとそんな言葉が口を突いて出た。彼女は笑っているだけで何も言わない。ぼくは続きの言葉に窮してしまって、彼女の目を見ることしかできない。……長い、下向きの睫毛が影を作っている。そういえば彼女はどんな目をしていたっけ。その色は闇夜に紛れてわからない。黒目がちであることだけがなんとなく了解されるばかりだ。

 そんなぼくを見て、いや見ていたのか、何を思ったのか、彼女がすうと息を吸う音が聞こえた。「あのね」彼女の黒目がほわんと光る。「願えばほんものになるの」ほんとうになるの、と放たれた言葉は独り言だったのだろうか。「……じゃあ」行きたいところを当ててあげる、と言おうとしたのに、瞬間目の前が真っ黒になる。

(意味、)

 最初に視界を取り戻したとき、思ったのはそんなことだった。彼女は知らない顔をしている、いやぼくから明確に顔を背けている。たぶん、彼女がおもうようなことを、ぼくは思っていないのだ。けれどもきょうの彼女はあまりにもぼくに早すぎて、ぼくは自分のくちびるを指で押さえた。

「見て」数拍おいて彼女がぼくの手を引く。ぼくはぼうっとしていたから、手を引かれたことに気づいたのもずいぶんあとだった。彼女はぺたんと地に足をつけてぼくをいざなう。夜の、……ここはどこなのだろう。「うみよ」涼やかな彼女の声を耳奥にとどめた。

 ぼくらは海の砂浜に腰かけているのだった。

(もしかして、)

 彼女に対するさまざまが、おはなしのようにぼんやり思い起こされる。どうして今なのか、これに何の意味があるのか、やはりぼくにはわからないことだらけだ。彼女を見る。うつくしい彼女を見る。どうしたの、とそんなことを無意識のうちに聞いたら、なんでもないとわらわれる。けれどもその声はどこか影を帯びていて、なんでもないなんて嘘なんだな、とぼくでも察することができる。もうすぐ海が藍におぼれてしまう。そうすると彼女が見えなくなってしまうのは、今までのことからも明白だ。

 帰ろうと手を引く。このままでいいよとまたわらわれた。海の音は穏やかになっていくばかりなのに、彼女の手はどんどん冷たくなっていく。それがひどく寂しくて、ぼくは呼べないはずの二人称をこぼす。

 ふと、視界が揺れた。彼女がぼくによりかかっているのであった。ぼくは何もできなかった。ただ空を見ていた。

 そうして。

 ふと彼女の方を向いたとき、彼女がふっとまたたいたとき、その目じりからぼんやりとうめいな雫がこぼれたとき。ぼくはそれを見ているだけで、そのまま一つ、二つ、三つ、……そうして両手の指をすべて使い終わってしまったとき。何を数えたらいいか、どんな言葉をかけたらいいか、どういう笑い方をすればいいか、そんな当たり前のことをも忘れてしまうくらいに、ぼくは世界に対して残酷なほどちっぽけだった。泣かせたくはなかった。笑っていてほしかった。けれどもその笑ったかおは、なんだかいつもさみし気で、そういうところに壁を感じたことは事実にしかならない。

(……)

 どうしようもないや、と伸ばしたはずの手をひっこめる。

 考える。思い描く。想像する、夢想する、妄想してそして夢を見た。海辺の鉄が錆びないような、夕陽が空を覆いつくさないような、永遠に明日を迎えることがないようなそんな夢。それはもちろん当たり前のようにあり得なくて、そんなことはきっとぼくたちにはわかっていて、それでもわからないふりをして、だからここまで来れたのだろう。ここまで来てしまったのだろう。


第七夜

 寝たくない、と告げてもへんと眉をゆがませてしまうし、ほかに何を言ってもたぶん悲しいかおは変わらなくて、どうしようもないので、波を数えることにした。「……」彼女もぼくも何も言わなかったし、手はもう離れていたし、ここは世界の終着点だったし、たぶんそういうことなのだ。ずいぶん長い間そうしていたのだと思う。「知ってる?」ふと彼女が口を開く。何を、と聞こうとしたけれど、その言葉は彼女に飲み込まれてしまう。

 波が泣いている。

 ぼくと彼女をおもう。ぼくたちは仲良しだった。とても仲が良かったから、いつでもいっしょにいたし、ぼくが最初に目覚めたときも彼女はずうっとそばにいた。それからずうっといっしょにいたし、泉の果てや虹のかけらを探しに行ったり、たくさんの冒険をした。ほとんど雲に乗ってでかけたから、汽車に乗ったのは一度だけだった。汽車は彼女には楽しいものではないらしく、すぐに降りてしまった気もするけれど。

 それも、どれもが、ぼくにとっては大切な思い出であったはずなのに。

 わすれてるんだねと彼女がわらっていた。彼女がわらうところを初めて見たような気がして、ぼくの視界はぐらりと傾く。ねえ、ねえ、ねえ。彼女はぼくの前に仁王立ちになり、ぼくを見下ろしている。なにもおぼえていないのでしょう。その言葉はきっと、今まででいちばん真実だ。

「むかしばなしをしてあげる」

 そして彼女は、ぼくの手をとる。

 立ち上がった彼女はやけにふらふらしていた。それに引きずられてぼくもいっしょにふらふらする。はっきりしない足取りで、ぼやけたままの意識の中で、彼女はあくまでぼくにやさしいらしい。彼女が歩き出す。前には道が続いていた。波はまだ泣いたままだ。海が近づいてくる。……あ、と息をのんだ。

(知っ、てる)

 ぼくはここの意味を。

 途端喉が渇いたような気がして、ぼくは彼女にしがみついた。彼女はえへへえとわらっている。彼女の手がぼくの背中にまわされている。彼女からはたくさんの花のにおいがする。いいにおいだ。けれどもぼくが嗅いだことのないにおいだった。

 ドン、と彼女がぼくを突き放す。ぼくはよろけてその場にへたりこんだ。彼女を見上げる。手がひどく赤い。……赤いものをたくさん持っているからだ。

 彼女の目を見た。ぼくがうつっている。そんな顔しないでよおとわらわれる。彼女が持っている赤の中に、ふとひとつの白を見つけた。それらは、たぶん、花なのだ。彼女に手向けられた、いや手向けていた花。しかしぼくは赤しか知らないはずだ。

「ダイアモンドリリーというの」

 これはわたしがわたしへ手向けた花なのよ。

「赤いのしかくれなかったから」

 贖罪のつもり?

 息が苦しくなってきて胸に手を当てた。口の中がひどく渇いている。ぼくなんかここにいるべきではないのにと思う。彼女とぼくが似ていると思ったのも、うつくしい彼女を見ていたのも、彼女といっしょに逃げてしまおうと思ったのも、すべてすべてまちがいだったのに。彼女にゆるされているだけだったのに。ぼくの罪が消えるはずがない。それはゆるされない。「……君を」こんな目にあわせるようなやつが、ぼくでごめんねと、あまり意味のない言葉がくちびるの端からこぼれ落ちた。

 肩にあたたかい感覚をおぼえて、ぼくはするすると顔を上げた。彼女がへろへろわらっている。「どうしてここに白があるのだとおもう?」波は何も答えてはくれない。「しってるはずよ」思い出して、と語るのは目だった。

 頭をかかえた。そんなことを言われても、ぼくにはなにもわからないのに。「離れてよ」ふるえていたのはぼくの声だった。「君のこと、もう。傷つけたくないんだよお」「うん」「君を、……」「わかってる、よ」

 いつの間にか近づいていた距離はもとのように離れていた。口の中がへにょへにょする。(もしかしなくても)彼女からは血のにおいがした。すっと頭が冷たくなる。見計らったように波が泣いた。わすれてね、ごめんね、さようなら。

(……え?)

 俯いてそんなことを言うかおを、見ていないわけではなかった。わからなかったわけではなかったし、知らないわけでもなかったのに、あまりにもうつくしいそんな言葉にふと聴覚を奪われてしまったように、いつまでもそれだけが耳奥で反響している。手を伸ばしてみる。途端視界がぼやけて、本当にそうしたのだかわからなくなる。名前を呼ぶ。けれどもぼくの口から出たのは、空気がつぶされたような音だったと思う。

 瞼のうえの汗を拭う。そのままそれを強制的に上下に動かして、なんとか視界の確立を図る。そうして幾度もまたたいて、ぼくが捉えたのはやはり埋もれていくような赤だった。あれは彼岸花。茹だるような暑い夏に不似合いな花。ぼくが今までわすれていた花。本当に彼岸花であるかも確かではないような気がする。熟れて落ちていきそうな色をしている。彼女はきっとそれにつぶされることを良しとした。それでも。

「……まっ、」

 ようやく吐き出された音について、よく考える時間は残っていなかった。ぼくはここにいる、と思う。ここにいる理由がわかったのだと思う。風がびゅうびゅう吹いていて、すべてが見えなくなりそうだった。拳を握りしめる。まだ、手遅れになる前に。

(君に)

 どうか。

 瞬間彼女によって、一輪の白い彼岸花が手折られた。


「わたしの夢はこれでおしまいであります。」

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リコリス 沙雨ななゆ @pluie227

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