レモンレコード(下)

……とにかく、もう一度彼女のところに戻って、電話番号かメールアドレスでも何でもいいから尋ねなければ。そう思い直した。でもひょっとしたら、そのほうがどこかに誘うよりも、さらに不信感を与えてしまうかもしれない。あっさり断られるかもしれない。ぼくの方から、電話番号を書いた紙を彼女に渡すのはどうだろう? ペンもメモ用紙も持っていないけど、それは目の前のレジで借りれば済む。けど、もし返事がなかったらそれでおしまいだ。かかってこない電話やメールを死ぬまで待ち続けるのはまっぴらだ。それにしても、今ここで彼女と別れたら彼女にはもう二度と会えないにちがいない……それを考えただけでも恐ろしい。もしそうなったら、ぼくは何もかも投げ打って、死ぬまでどこかの無人島で生活することだって厭わない。いや、あるいは死んだほうがマシかもしれない。彼女のあの瞳を二度と見ることができないくらいなら。あの鼻にかかった高い声を二度と聴くことができないくらいなら。ここで彼女を見失ったら、ぼくはこれからの一生を失意と後悔のうちにのみ過ごすことになる。それだけは確かだ。


「…一万と三千六百五十円になります」黒縁メガネの店員がそう言うと、男は使い込んだ皮の財布から金を出そうとした。ぼくは背後を振り返った。水色のセーターを着た彼女の細い背中が小さく見えた。彼女はさっきまでぼくが持っていた『ノース・マリン・ドライブ』を脇にかかえたまま、『オールドロック』の棚の前で片手でレコードを引っぱり出していた。足下に立てておかないのは、あのレコードがよほど大事だからだろう。

 今や目に映っているものの中で「現実」と呼べるものは、彼女の背中だけだった。それ以外のすべては、過ぎ去ってしまうものばかりだった。ぼくが買おうとしているサンデイズとフレイミング・リップスとマジー・スターのレコードも、店じゅうのレコードを物色しているあの長髪の男も、店内で流れている「ドゥ・ユー・ビリーブ・イン・マジック?」も、すべては過ぎ去る。今はどんなに本物らしく見えているところで、結局過ぎ去る。過ぎ去らない「現実」は一度しか姿を現さない。彼女の背中がそれだった。それだけが唯一無二の「世界」だった。


「……どうぞ」不機嫌そうな低い声が聞こえた。振り返ると、目の前にいた中年男性はすでに姿を消していて、黒縁メガネの店員が「お待ちのお客さま、どうぞ」と言いながら、いぶかしげな表情でぼくを見ていた。

「おつぎぃ、おまちのおきゃくさま、こちらへどうぞ」店員が苛立ちを隠しきれずに両手を伸ばそうとした瞬間、ぼくはくるりと踵を返して、彼女の背中に向かって思いきり駆け出していた。駆け出しでもしなければ、とてもじゃないけどに行くことはできそうもなかった。レコードが詰まった段ボールが所狭しと床に並んでいる狭い通路を彼女の背中に向かって駆けているあいだ、頭上から彼女の漆黒色の瞳がぼくをからかうような目で見下ろしているような気がしてならなかった。

 

 レコードを手に持ってじっくりと眺めていた彼女の横顔は、依然どこか涼しげだった。でも、わずかな距離を走っただけで息を切らせていたぼくを見ても、彼女は少なくとも訝しげな顔はしなかったように思う。

「どうも」ぼくが発した声は、異様に重々しく響いた。

「あれ」彼女の瞳には微かな驚きが見てとれた。「レコード買ってきたの? あれ、まだ買ってないの?」彼女はぼくの手元にある三枚のレコードを見てから言った。彼女はぼくがレジに行ったあと、またここに戻って来るのを予期していたのかもしれないし、あるいはぼくのことなど忘れていたのかもしれない。いずれにせよ、彼女のその高く鼻にかかった声は重たい楔からぼくを完全に解き放った。


「言い忘れてたことがあって」ぼくがそう言うと、彼女は大きく目を見開き、ゆっくりと微笑んだ。その微笑みは一秒を三十秒くらいに引き延ばした。この感覚、現実との繋がりはこれまで経験したものの何にも似ていなかった。これは千載一遇の「恋」なのだ。人は経験したことしか知ることができない。今日、ぼくは吉祥寺の狭いレコード屋で生まれて初めての恋に落ちた。ただ、それだけの奇跡だ。


「これって」と言って、彼女はぼくに向かって真っ赤なジャケットを掲げてみせた。

 リッキー・リー・ジョーンズが九十七年にリリースした『ゴースティヘッド』というレコードだった。「聴いたことある?」

「ええ」とぼくはどうにか言った。「ファンの評価はあまり高くないけど自分はかなり好きです。リッキーリーのアルバムにしては、アブストラクトでトリップホップっぽい音というか。プロデューサーのリック・ボストンの音造りが強く反映してるのでしょうが」そう言った途端に気恥ずかしくなった。軽音部の冴えない大学生みたいだ。学生の頃、毎日のように友人とレコードの話ばかりしていたせいか、レコードの話になるとついついこんな口調になってしまう。

「これ、好きよ」そう言うと、彼女は幽霊の顔が描かれたジャケットを愛おしそうに眺めた。ぼくはそんな彼女の姿をしっかりと意識を保つようにして見つめていた。彼女は晴れた日の海岸に似ていた。キャメルのデザートブーツは砂浜。デニムのスカートは深い海。水色のセーターは雲一つない空……ぼくはレコードを眺めている彼女に気付かれないように、ゆっくり息を吸って、静かに吐き切った。そしてひと呼吸置いてから、彼女に向かって訊ねた。

「コーヒーでもどうですか?」その声はぼくの耳にはまだ少し震えて聞こえた。

 数秒の間があった。大袈裟な物言いはしたくないけど、その数秒間は、ほとんど悠久のような時間に感じた。

 彼女はレコードから顔を上げると、その顔に微かな笑みをたたえたまま、薄い唇をゆっくりと開いた。「ラムココアがいい」


 ぼくと彼女は黄色いレコード袋を片手に、足早にビルの階段を下りていった。腕時計を見ると五時をまわったばかりだった。これは前もって送られていた現実にちがいないと思った。誰によって? もちろん、神によって。ぼくはすっかりのぼせあがっているのかもしれない。でも、だけが現実だ。

 表に出ると、ビルとビルのあいだに見える西の空に、朱色の夕暮れが広がっているのが見えた。これほど本物らしい春の夕暮れをずいぶん久しぶりに見た気がした。この時間はきっと長くは続かない。雑踏の喧噪に飲み込まれてしまう前に、まっさきに彼女に聞いておくべきことがあった。

「名前はなんて?」

「カヨ。ニンベンに土二つに代々木公園のヨ」彼女はさらりと言った。「あなたは?」

 かよ、カヨ、佳代。ぼくはその名前を口の中で何度か転がしてみた。そして自分の名を彼女に伝え、言った。「じゃあ佳代さん。ラムココアのある地下の喫茶店に行きましょう」

 佳代さんはたおやかに微笑んだ。


                                   (了)

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レモンレコード ラブムー @lmflowers

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