レモンレコード(中)
「そのレコードって、ぜったい買います?」彼女はそう言った。
言葉の意味は理解できたつもりだった。でも、何か言わなければと思っても、一語も出てこなかった。店内の照明が急に明るくなったような気がして、ぼくは思わず目線を床に落とした。彼女のぶしつけな質問に言葉を失ったわけじゃなかった。原因は彼女の声そのものだ。その声はこれまでずっとぼくだけの支配下にあったぼくの王国にいきなり入りこんできたのだ。何の手続きもなしに。店内に新たに入って来た数人の客や、黒縁メガネの店員がこちらをうかがうような目つきで眺めているのがわかった。熱い血が急に頭に上っていくような感じで、ひどく息苦しかった。
ようやくぼくが顔を上げると、彼女は少し不安げな面持ちでこちらの顔を覗き込むように見ていた。ぼくは首筋のあたりにかいた汗が少しずつ冷えていくのを感じながら、ようやく口を開いた。
「……どの」と言ったぼくの右手は五枚のレコードを掴んだまま、重みで床に向かってだらしなく伸びていた。
「ノース……」と言って彼女は言葉を切った。長い人差し指でぼくの手もとを指差して。
「ノース、マリン、ドライブ」ぼくは自分に言い聞かせるように、ゆっくりと発語した。
その瞬間、彼女の顔に柔らかい笑みが春の夜の月のようにぽっかり浮かび上がった。
「そ、ノース、マリン、ドライブ。それ、買うんですよね?」そう言って、彼女はぼくの返事を待った。
「…いえ、盤質Bだし、どうしようか迷ってて……。いちおう持ってただけで」とぼくはどうにか言った。
「ホントに?」と彼女は驚いたように言った。
ぼくは声を出せずに頷いた。
数秒の沈黙のあと、彼女はぼくの顔を決心したように見上げると、「それ、わたしに譲ってくれませんか?」と真っ直ぐな瞳で言った。
周りにいた数人の客たちが、再びこちらを横目でちらちらと見た。ぼくと彼女の近くにいた長髪男は、口元に苦笑を浮かべながらこちらを見ていた。ぼくは何か言おうとして、彼女の目を見た。彼女の瞳は海のように深く、底というものがまるでなかった。ぼくは彼女の黒い瞳の奥に強い求心力で引き付けられていくのを感じた。まるで誰かに目の焦点を勝手に操作されているような感覚。彼女の瞳以外のものは霧の中の風景のようにひどくぼんやりとしていた。ひどく恐ろしかった。ぼくは——今にも叫び出しそうだった。
「ねえ、ねえ」高く鼻にかかったその声が自分の耳に届くと、両手にレコードを持ったまま、問いかけるような表情をしている彼女の輪郭が目の前にぼんやり浮かびあがった。
「聞こえてる?」彼女はそう言って、ぼくの顔を心配そうに見つめた。
軽く頭を振ってみた。頭のてっぺんまで上りきっていた血が、首の方にゆっくり降りていくのを感じた。
「聞こえてます」とぼくはどうにか言った。まるで自分の声が自分の声じゃないみたいだ。
さっきまで遠慮と困惑の表情でぼくの顔を見ていた彼女は、唇に右手の甲を当てると、くっくと子供のようにあどけない声をあげて笑い始めた。レコードを物色していた客たちは、再びこちらを迷惑そうに振り返った。
「どうしましたか」とぼくは呟いた。語尾を上げることもできない。
「ごめんなさい、だって……鳩が豆鉄砲……だっけ? あなた、ずっとそんな顔してるから。ふふ……」彼女の笑いはなかなか止まなかった。この人はきっと特殊な声帯を持ってるに違いない。そう思った。この声が、ぼくの意識を失いかけさせ、再び現実に引き戻したのだ。
「ちょっとぼんやりしてたんです」そう言って、彼女が手にしている『ノース・マリン・ドライブ』を見た。彼女にそのレコードを手渡した記憶はなかった。彼女はジャケットを食い入るように見つめた。ぼくは少し身を乗り出して、彼女が手にしているセピア色のジャケットを眺めた。海岸近くの柵から身を乗り出している子供たち。波から逃げる子供たち。
「そのレコードに何か思い入れでも?」彼女に向かってどうにか訊ねてみた。
「うん」彼女はその目線をジャケットから動かさずに言った。「昔毎日のように聴いてたの。でもある日、落っことしたら粉々になっちゃって。レコードって、こんなに細かくなるんだって、びっくりしちゃった」
「ぼくも高校生の頃にずいぶん聴きました」ぼくはCDでこのアルバムに出会ったのだ。
彼女はジャケットから目を上げると、あらためてぼくの顔を見た。
「それって何年前?」
「七年……や、八年前」
「今、いくつなの?」
「二十七歳です」
「わたしと十五も離れてるんだ」と彼女は無表情に言った。自分の耳を疑ってしまった。彼女は十歳にも四十歳にも見えなかった。ぼくよりも少し下か、せいぜい同い歳くらいにしか見えない。さらに、彼女はぼくを呆然とさせるようなことをさらりと言ってのけた。
「息子はもうすぐ十四になるの」
「冗談でしょう」とぼくは言った。
「ホント。わたし、母親に見えない?」と彼女は少しおどけたように言った。
「見えませんね」とぼくは呟いた。
「童顔なのかも……ねえ、それより、これホントに買うつもりじゃなかったの?」彼女はそう言って、手に持っていたレコードを指さした。ぼくは首を振った。彼女に会わなかったら、ぼくはこの『ノース・マリン・ドライブ』と数枚のレコードが入った黄色いレコード袋を抱えて家路に着いていたのだろうが。
それから長い沈黙が流れた。ひどく混乱していて、何を言えばいいのかまるでわからなくなってしまった。彼女は依然ぼくの顔を見つめている。ロープの上に立ったまま、恐怖で一歩も足を踏み出すことができない曲芸師のような気分だった。背中にじっとり汗がにじみ、足ががくがく細かく震えているのがわかる。
それからぼくは致命的なミスを犯した。頭がすっかりまっ白になると、言うつもりもなかったことを口走ってしまうことがある。「失礼します」。ぼくはそう言ったのだ。
彼女は一瞬、目を見開いた。それから少しよそよそしい口調で「ありがとうございます、これ」と言って、『ノースマリンドライブ』を胸のあたりに掲げてみせた。
ぼくはぼんやりうなずいた。
彼女は口元に一瞬笑みを浮かべると「じゃあ」と言ってぼくの横をゆっくりと通り過ぎた。頭の中でザ・ラーズの「ゼア・シー・ゴーズ」が自動再生された。その時のあまりに激しい後悔と自責の念はきっと誰にも想像できないだろう。ぼくはたった一言で神の恩恵を台無しにしてしまったのだから。
重たい十字架を背負ったような気分でレジに行くと、白髪の中年男性が大量のレコードをどっさりカウンターに並べているところだった。たっぷり三十枚以上はありそうだ。
黒縁メガネの店員はレコードに貼ってあったラベルを一枚一枚、億劫そうに剥がしていった。中年男性は振り返ると、にやけた顔でぼくを見た。一部始終見てたぜ、と顔に書いてあった。もし口に出して言ったら、ぼくはその男を殴りつけていたかもしれない。でも男はすぐに前に向き直った。ぼくは三枚のレコードを持って男の後ろに並びながら、彼女をどこかに誘うことはできないだろうか? そう考えていた。今となっては明らかに不自然な行為だったが、それでも考えないわけにはいかない。
もし、ぼくが彼女を喫茶店に連れて行くことができたら、ぼくと彼女はコーヒーを飲みながらチェリー・レッドやラフ・トレードから出た数々の名盤について会話を弾ませるのだろうか? それともテーブルに向き合ったまま、ばつの悪い沈黙が流れ、ぼくがあたりさわりのない話を二つ三つしたあと、コーヒーを飲み終える前にぼくのほうから「そろそろ出ますか」とかなんとか言うことになるのだろうか? や、それ以前に、レコード屋で少し声をかわしただけの、それもあんなに素敵な女性をどこかに連れ出すなんてマネがぼくにできるのか? たとえできたとしても、ぼくが一生分くらいの勇気を振り絞って行うその行為は、彼女からすればレコードオタクっぽい若者の軽率な振る舞い、たとえば「ナンパ」なんて死語に換言されるような馬鹿げた行為にすぎないんじゃないだろうか? でも、ぼくのように内気な人間であろうとそうでなかろうと、狭いレコード屋で会ったばかりの女性を喫茶店に誘うことができる男なんて、そうはいないだろう。目の前の男にだってきっとできやしない。いや、あるいはできるのかもしれない。彼女が自分から話しかけてきたように。けど、それはこの店に一枚しかなかった『ノース・マリン・ドライブ』のレア盤がたまたまぼくの足下にあったから。それだけのことだ……。
黒縁メガネの店員は、レコードに貼ってあったラベルを剥がし終えると、レジに向かってたどたどしく価格を打ち込んでいった。古いレジは打つたびに、かしゃん! かしゃん! と古めかしい音をたてた。店内にはラヴィン・スプーンフルの『ドュー・ユー・ビリーブ・イン・マジック?』が大音量で流れていた。
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