レモンレコード

ラブムー

レモンレコード(上)

 三軒目のレコード屋を出た時、陽はとっぷりと暮れていた。日曜日の吉祥寺は、いつでも小さなお祭りが終わったばかりのような脱力感が薄い油膜のように街を覆っている。

 アーケードの中心に店を構えた老舗肉屋の前で、主婦や老人たちがコロッケを買うために呆れるほど長い行列を作り、隣のソフトバンクでは、クマの着ぐるみが【ご新規様大歓迎!】と描かれた看板を持って所在なさげに佇んでいる。

 

 そんな見慣れた光景を横目に、ぼくは次の店、『レモンレコード』に向かった。他の店であまり見かけないような中古盤がごくまれに見つかることを除けば、たいして特徴のない、匿名的な中古レコード店と言って良いだろう。日曜日に中央線に揺られて吉祥寺までやって来た大のレコード好きが、三軒回って一枚もめぼしい盤を見つけられなかった時、最後に念のために立ち寄る……そういう店だ。


 アーケードを抜け、右に折れてからしばらくまっすぐ歩くと、細い路地の奥に建っているうらぶれた灰色のビルの前に辿り着いた。踏むたびにぎしぎしと音をたてる狭い階段をひと足ずつ、確かめるようにゆっくりと上っていく。ここは電灯がついていないから、日中でも足を踏み外しそうになるほど薄暗い。


 足を踏み入れると、埃っぽい空気がすぐに鼻をくすぐった。店内にはすでに客が二人いた。奥でジャケットから引っぱり出した盤を神経質そうに検分している白髪の中年男性。左側の『ジャズ』の棚には脂っぽい髪をゴムでひっつめた、いかにもコレクター然とした若い男がほぼ三秒に一枚の速度で、一枚も見落とすことなく値段と盤質を調べあげている。どちらの男も店の空気とすっかり同化していた。入口のすぐ右にあるレジには、黒縁メガネに紺のニットキャップをかぶったお馴染みの店員が、不機嫌そうに中古盤の査定をしていた。ポカリスエットの缶の上で吸いかけの煙草が気だるそうに煙をあげている。

『レモンレコード』にあるレコードは、六十年代から九十年代にかけてのジャズやロックがその大半を占めていた。ハウスやヒップホップのレコードが一枚もないせいか、若い客はあまり見かけたことがない。正直、これほど客の少ない店がどうして長年営業を続けられるのか、昔から不思議でしょうがなかった。


 ぼくはいつも通り、店の中央にある棚の前に立った。棚から突き出た黄色いラベルには黒マジックで『Alternative』と書かれている。『オルタナティブ』というジャンルは店によって定義が異なるが、この店ではおおざっぱに『九十年代の洋楽』を指すようだ。

 棚からたいした期待もせずに適当に引っぱり出してみると、ここではまだ見たことのないレコード(マジー・スターの『シー・ハングス・ブライトリー』)がいきなり出てきたのは嬉しい誤算だった。最近、棚卸しを終えたばかりなのかもしれない。

 

 ぼくは機械的にレコードを引っぱり出し続けるお決まりの作業に没頭した。三十分かけて百枚程度のレコードを確認すると、少し離れた『インディーレーベル』の棚の方に何気なく目をやった。そこには先客がいた。棚の前で、すらりとした若い女性がレコードを両手に持って、珍しそうに眺めている。

 目を細めて、気づかれないようにその姿を一瞥した。薄い水色のVネックのセーター、膝丈の濃いデニムのスカート、オフホワイトのスプリングコートという服装。首に巻いたエンジ地に白い水玉のスカーフが巻かれ、白く端正な横顔をいっそう引き立てている。少し茶色がかった長いストレートヘアは肩より下までまっすぐ伸び、その顔はよく出来た西洋人形を彷彿とさせた。

 そんな彼女の横顔からなかなか目を離すことができなかった。そこには美しいだけではなく、こちらを惹き付けるある種のオーラがあった。とくに印象的だったのはその目だった。その目は眠たげでありながら、はっきりと覚醒していた。

 彼女はさっきまで眺めていたレコードを素早く棚に戻すと、すぐ手前にあるレコードを右手で優雅に引き上げた。動きには無駄がなかった。「ジャズ」の棚でレコードを一定速度で引っぱり出し続けていた男が手を止め、彼女のほうを物珍しそうに見た。銀座や表参道ならともかく、吉祥寺のさびれた中古レコード屋では彼女の外見と所作は洗練されすぎていた。ぼくもしばらく気づかれないように彼女の顔を凝視していた。

 

 目線をゆっくりと目の前の棚に戻していく。喉の奥に熱い気体がくすぶっているような感じだ。久しぶりに煙草が喫いたくなった。たった数秒間で彼女にすっかり惹きつけられてしまったらしい。ぼくの手は棚にあるレコードを機械的に引っぱり出し続けていた。

『ノース・マリン・ドライブ』のレコードを引っぱり出した時ですら、ぼくは気もそぞろだった。それは昔から探していたレコードだった。もし彼女がいなければ、レジに持っていって、さっさと店を出ていただろう。でも正直、その時のぼくは自分が何をしているのか、何をしたいのかもよくわかっていなかったように思う。

『ノース・マリン・ドライブ』を足下に置いて、おそるおそる再び彼女を見た。彼女は棚に並んだレコードの背に優雅に指を走らせていた。その細く長い指先を見つめた。小窓から入ってきた夕暮れの光を反射して、オレンジ色のマニキュアを塗った彼女の小さな爪が輝いていた。

 

 数枚のレコードをまとめて脇にかかえ込むと、彼女の後ろにある『オールドロック』の棚の前までゆっくり歩いていった。彼女の背後を通り過ぎる時、芍薬のような甘い花の香りがした。

 棚の前に立つと、持っていた数枚のレコードをまとめて床下に置き、膨大な量のあるフランク・ザッパのアルバムをできるだけゆっくり引っぱり出しては一枚ずつ眺めていった。ザッパのレコードが特に欲しいわけではなかったが、とにかく何らかの行為に集中する必要がある。

 二十分くらいかけて、年代順に並んだアルバムを一枚残らず引っぱり出してしまっても彼女が動きそうな気配がなかったから、その次にグレイトフル・デッドのアルバムにとりかかることにした。 


 彼女から強い視線を感じたのは『ワーキングマンズ・デッド』の裏ジャケを眺めていた時だった。最初は自意識過剰だろうと思って無視していた。でもしばらく経っても彼女の視線を感じたから、慎重にそちらの方を向いてみた。

 彼女はその小さな頭を少しだけ突き出してこちらを見ていた。真正面から見た彼女の美しさは想像を遥かに超えていた。陳腐な言い方が許されるなら、その顔は「ほとんど天使」だった。

 意をけっしてもう一度彼女の目を見た。彼女の目線はぼくが足下に置いたレコードへと伸びていた。そこにはさっき見つけたばかりの『ノース・マリン・ドライブ』のレコードが手前に置かれている。彼女はずいぶん真剣な表情でそのレコードを見つめていた。考えてみれば、あんなに長いこと『インディーレーベル』の棚を熱心に見ていた彼女がそのレコードに強く反応してもとくに不思議はない。八十年代初期にチェリーレッドからリリースされた『ノース・マリン・ドライブ』は、本来なら彼女が見ていた棚にあるべきレコードなのだ。

 しかしそれはただの『ノース・マリン・ドライブ』ではない。リリース時に千五百枚だけ限定プレスされたレア盤で、曲順もジャケットの色味も通常版とは異なる。雑誌で見たことはあるが、実物を見るのは初めてだった。誰かが『オルタナティブ』の棚に隠しておいたのか、あるいは無知な店員が適当に突っ込んだのか……。

 

 そんなことを考えているうちに、彼女は再びぼくに背を向け、何事もなかったかのように細い指先でレコードを引っぱり出していた。彼女がこっちを見ていたのはほんの数秒だったのかもしれない。でも、それはぼくにとっては相当に長い時間だった。時間の感覚がおかしくなっているようだ……。

『ワーキングマンズ・デッド』のレコードを棚に戻すと、手を止め、大きく深呼吸した。あんなに素敵な女性を見たことはこれまでに一度もなかった。それはたしかだ。でも、彼女は少しばかり変わっているか、あるいは中古レコード屋にあまり来たことがないかのどちらかだろう。そうでなければ、人が足下に置いたレコードをあんなにまじまじと見たりはしない……ここでは、客は他の客の足下にあるレコードなど最初から存在しないかのように振舞うものだ。それがノドから手が出るほど欲しいレコードだったとしてもだ。でも、そんなルールはあの人の前では何の意味もなさないだろう。

 

 彼女はぼくのほうを向いたままギュスターブ・モローが描く女神よろしく佇んでいた。いつからそうしていたのかはわからない。今度は錯覚じゃなかった。彼女はたしかにぼくの顔を見ていた。険しい顔つきで。

 それからこちらに向かってすたすた歩いてくると、目の前でぴたっと立ち止まった。そして言った。「ねえ」。その口はほとんど開いていない。予想していたより高くて少し鼻にかかった声にぼくはほとんど後ろに引っ繰り返りそうになっていた。

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