終章

 風が、広い芝生の上をゆるやかに薙いでいた。

 空は晴れて、中天にまだ弱い太陽が、やさしい暖かさを振りまいていた。

 傾斜した緑の芝の広がりのなかに、整然とならぶ石碑の列が、首を垂れてひざまずく巡礼者の列のようだった。

 神戸市の六甲山中腹に広がる広大な鵯越ひよどりごえ墓園は、多くの神戸市民が眠る大規模墓地だ。そのなかで、この芝生地区は、欧米の墓地に倣うかのような芝地に置かれた墓碑群なのだ。

 私は、墓碑のひとつに花を手向けた。一〇年以上まえにここを訪れて以来だ。

 事件は終焉した。

 峠ノ越が起こした犯罪は、日本のみならず、世界に衝撃を与えるものだった。個人で起こした破壊テロとしては世界でも類を見ない規模のものだった。

 国際競技場では多くの死傷者が出ていたが、死者はさほど多くはなかった。

 坂田が犠牲者を最小に抑えるため、戦略的に先に爆発を起こしたとは私は思わない。坂田であれば、犠牲者を出すことなく、ことを終わらせることもできたはずなのだ。

 橘はまだその罪に関して起訴されていないが、検察は起訴するつもりで彼を拘束中だ。だが、世界ではその名が高まる一方だった。世界中に伝播したクピディタスのマスターアルゴリズムを見た多くの研究者が、その完成度に瞠目したからだ。

 すでに、そのアルゴリズムを利用した実用開発がいくつも始まっている。

 あの原発での事件は、原発のテロ対策の甘さが招いたものとして国会などでも取り上げられ、多くのことが報じられたが、クピディタスによってどのように解決されたのか、それは原発そのもののセキュリティに係ることとされ、詳細なことはなにも公表されていない。

「高坂さーん、迎えにきましたよぉ」声は白井だ。振り向くと、道路に停めたトヨタ・ヤリスから降り立つ彼の姿が見えた。

 彼が傾斜した芝生を登って、私のもとにくるには時間を要した。

 ぜいぜいとのどを鳴らしていた。

「なんで・・・、なんで、こんなとこまで呼ぶんスかぁ?」

「いいじゃない。街からそんなに遠くないし」

「だったら、タクシーで帰りましょうよ」

「ここから北区にあるっていうハーブ園に行きたいのよ。タクシーじゃ高いわ」

「ええ」

「それぐらいしなさいよ、私は明日アメリカ帰るんだから。記事よかったんでしょ」

 私は、本社に送った記事には事件の詳しいことはあえて記さなかった。その代わり、クピディタスに関しての記事は橘の協力を得て、綿密なものとした。それはタイムリーに世界のひとびとの興味を惹いていたようだ。

 それに反して、白井は事件記事を親会社の週刊誌に売り込んでいたらしい。

「それぐらいって、僕はまだあなたのことを許したわけじゃないんスからね」頬を膨らませて言う。

「何度も言わないでよ」

「あれがフェイクじゃなかったら死んでたんですよ! 脱線してたら死んでた! 爆薬がもっとあったら・・・」

「ああ分かったから、ごめんって」

 膨れているが、JRや関係者からはひどく感謝されて、礼状なんかももらって嬉しがっていたのは知っている。

「これって・・・」白井はため息を吐きながら、私の足元を見た。

「ええ、私の祖父と祖母の墓よ。父親の墓は市内にある納骨堂だけど」

「例の、本を書いたっていう・・・」

「そうよ。私は知らないけどね。一度会ったことがあるだけ」

「そうなんスね。苗字違いますね」

「まあ、いろいろあってね」

 かつてイギリスで母と暮らし、母をおいて去り、そして死んだという父には生前に逢ったことはない。父親はもとは学者で、そして祖父にあたる男も学者で、ともにこの世にない。父はサイエンスライターだったとも聞いている。私は母が死んだときに日本にきて、祖父が死ぬまえにはいちど逢ったが、それだけで生前のつながりはまったくない。

 私が父と同じような職に就いているのは因縁めいているが、なんの関連もない。だが、学生のころ、祖父の著書はいくつか読んだ。父の経歴も調べた。そうした知識や経験が、私の知能を形づくり、遺伝子によらなくとも、同じような世界へいざなったのかもしれないとは思う。

「あ、そうだ」白井はそう言うと、肩にかけた鞄から携帯電話を取り出す。スクロールさせて画面を私に見せた。タブレットみたいにやたらでかい携帯だった。

 そこには橘の姿があった。

「イギリスの学会にネット経由で出るらしいスよ。ローランド研究室の招聘ってすごいっスよね」

 かなり痩せていた。雑誌の取材を受けているスナップで、その苦悩を示すように眉間に皺があった。

「勾留中じゃなかったの」

「保釈らしいですね」

「そう、それでも学会に出ようってからには、真剣に続ける気にはなったのね」

 橘の名前は予想に反して高まっていた。クピディタスについて公式の論文など発表していなくとも、私がクピディタスの詳細を一斉に発信したことで、多くの研究者が、それが橘の成果であることを認知していた。そして、それが日本を大規模テロから救ったものであることも。

 クピディタスの知的能力はおそらくヒトを超えるものになる。

 超越点シンギュラリティ

 それは橘が目指したものだ。

 私は以前に聴いた橘のAIに関する講義を思い出していた。

 AIが普及することによって、世の中が変わるとよく言われている。人間のできる仕事をすべて奪うのでは、という懸念や、人間の知能を超えたAIが人間を支配する未来図もよく聞く。しかしほんとうに大きな影響は、もっと身近にやってくるだろう。

 私たちの文明発展を支えてきたのは人間による絶え間ない研究開発だ。しかし、青色ダイオードや、IPS細胞といった革新イノベーションは、多くの基礎研究のなかから、大海のごとき膨大な基礎研究の失敗のなかの、一滴の成功によってもたらされるものだ。それは研究者の知識と、経験と、延々と続けられる実験、試行、そして失敗のうず高い山の、ひとつまみのきらめく砂粒だったのだ。

 ところが、知識と経験と試行による最適解の探索とは、たとえば将棋のAIが実現していったもので、いまのAIの最も得意とするものだと気づくだろう。世界中の論文や過去の事例や試行を知識網羅し、二四時間休むことのない研究者AIが、数千、数万単位で生み出されたらどうなるだろうか。すでに製薬業界ではそれに近いことが行なわれつつある。

 革新の大量生産イノベーション・インダストリアライゼーション新発明の工場インベンション・ファクトリー

 そういう時代がくるのだと橘は言っていた。

「そういえば北美川さんは、あれからどうしているんスかね? 知り合いだったんでしょう?」

「ああ、坂田の財産管理してるわ。事件の遺族補償の代理人とかね」

 あれから彼女とは親しく会っている。仕事を手伝おうとも言ったが、死にそうな目に遭わせて、これ以上迷惑はかけるつもりがないと断られた。仕事仲間になれば、なったで、私たちはたぶん、昔のような衝突をまた繰り返すんだろう、いまの関係がいいとも言われた。

「ああ、それはそれで、つらい仕事っスね・・・」

 坂田も、峠ノ越も苦しんで、なにかと戦って死んでいった。多くの人々がその犠牲となった。私たちは本能の支配から逃れられない。それは私たちのような凡人だけではない、坂田のような優れた頭脳の持ち主であっても、橘のような心理学や、行動科学の知識人であっても例外ではない。私たちは本能によって恨み、妬み、争い合い、競い合い、殺し合い、そして愛情を求める苦しみから逃れられない。

 私は、クピディタスのロジックが、人類にとってキーになるときがくるような気がしていた。

 あの夜、クピディタスは、本能や、疑念や、私たち自身のルールで拘束され、答えを出せない私たちに代わって、本来とるべき行動を迷いなくとっていたのかも知れない。

 橘は言っていた。長いあいだ人類は、本能の欲求を自分でコントロールできないことが問題だと考えていた。これを抑制することが正しい行いだとして正義や、倫理を説くことに莫大な労力を割いてきた。

 問題は、本能による欲を持つこと自体ではなく、それがコントロールできないことでもなく、本能の欲求にさらされていることにことにある。

 損得ではない、相手の不正義や不誠実に怒っているのだ、優越欲求などではない、正しくないから怒るのだ。そう答える者の言葉は嘘ではない。それをから。

 人類は、優越欲求や、食欲、性欲などの『本能』の脳とは別に、『論理』という優れた脳を獲得した。近年の心理学で二重課程理論や、二重精神理論とも言われるものだ。かつて、自我とイドと呼ばれたり、大脳新皮質、旧皮質とされたり、右脳、左脳と分けられたりもした。

 太古の時代、『本能』よりも、この『論理』の高い知能に従って行動することで、人類は生き延びられてきた。しかし、飢えがひどいときのように、『本能』が強く求めるときはそれを優先しなければ生き残れないときもある。そして、『本能』の優越欲求が生み出す競争心や、敵愾心は、人類をより向上させてきた。

『本能』の欲求に抗えず、理屈に合わないままそれを満たそうとするとき、『論理』のその強いストレスを避けるため、「いいわけを」探し、「もっともらしい理由」を見つけ、それを心から信じさせる『防衛規制』が働く。

 ダイエットの最中に、目の前のケーキへの欲が勝つときには、今日はよく運動したからよいのだ、長い間耐えたからたまにはよい、そう考える。自分のなかでのを無理やりにでも見つけ出す、二重合理性などと呼ばれるセオリー。

 私は墓石を見る。墓園の管理者が芝生を刈る以外に、世話されることもない墓には花もなく、砂ぼこりが固まって載っている。

 私は日本の習いにしたがって、汲んできた水をかけた。

 このひとも、心理学の先駆者だったらしい。なにかを伝えようとしていた。

「行きましょうか」

「ああ、えっと、北区に行くんでしたか?」

 白井が先んじて歩いて車のほうへ向かう。

 踏み出した足底を、枯れかけた芝生が柔らかく包む。

 白井の携帯のニュースサイトには、橘のニュースだけではない記事がいくつも並んでいた。ロシア・ウクライナの戦争、パレスチの宗教対立、日韓の歴史問題。

 領土問題、歴史問題、人権問題、差別、平等、マナー、権利、さまざまな場面で、正義や正当性を恐ろしいほどの怒りを込めて叫ぶ人々は、自身が正義のために怒っているのだと信じて微塵も疑っていない。怒る者たちは、戦いも辞さぬという者たちは、それを自分の本能の欲求の言い訳だとまったく気づいてないことがほとんどだ。

 トランプが叫ぶアメリカファーストは、自分たちが強者でありたいと願う多くの米国民に熱狂的に支持された。プーチンは、ウクライナの悲惨な殺戮行為を、自国の利益のためであるから正しいのだと微塵の疑いなく信じているだろう。その行為を国民に強いることも国益のためだから正当なのだと確信しているだろう。それを支持する者たちも同様だ。

 領土や民族間の対立では、日本のみならず、欧米でも高い知能と学識を持った学者や思想家、高学歴のメディアリテラシーの高い者たちが、自国の主張がいかに正当であるかを、いきり立って主張するのを何度も目撃する。そこにバイアスがかかっているのがはっきりと見て取れるのにも関わらず、多くの者がそれを支持する。

 どちらかの論理が誤っているからではなく、どちらかが不正義だからではなく、自分たちがその心理バイアスに気づけないことが対立を生み、排斥し合い、否定し合い、争いを生み、その行動に正当性を与え、テロリズムを正義と呼ばせ、神のためと信じさせ、そうして戦争を引き起こす。

 バイアスがあると知ったからといって、決してなくなりはしない。

 私たちが論理的に考えていないということをほんとうの意味で認知できるときがくるのは、もっと先のことだろう。こないのかもしれない。

 風が少し強く吹いて、私の髪を吹き流した。

 それでも変わってはいくだろう。

 ひとがひとの行いの過ちに気づけないならば、ひとでない誰が、その知能のある誰がそれを正せるだろうか。バイアスのない正義なるものを言葉にできるだろうか。

                                     了




(作者注)

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悪魔のロジック神のセオリー 桂木希 @katuragi_nozomu

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