第8章 カリタスの輪のなかで

 クピディタスは進化した。

 神戸の研究室で、高坂愛子と、北美川涼音が去ったあと、私はついにそれを完成させた。

 私が作った新たな関数アルゴリズムは、驚くべき効果を発揮した。

 海外の研究で、太古の地球での生命の発生をAIによるシミュレーションで導こうとした例がある。その結果、AIは我々の知らないまったくを生成した。そしてそれは。それが示すことは、我々が神に近いと信じる自分たち生命のメカニズムや、そして知識が、かならずしも唯一のものではないということ、茫漠たる神のロジックのほんのに過ぎないということなのだ。

 クピディタスは、私に理解できないアルゴリズムを生み出していた。

 それは、私たちの脳とは違う、まったく新しい知能なのかも知れないのだ。

 私の周りでは、ごうごうと、風が唸っていた。

 木々の枝がしなり、葉がこすれ合う音が、山鳴りと呼ぶにふさわしい巨大な響きで私に覆いかぶさっていた。

 西の空は大きな月が支配して、星が見えないほどだ。空は明るいが流れる雲の動きは速く、風が激しい。

 私は暗く、深い森のなかを歩いていた。すでに深夜にかかる時間だ。

 深い熊笹が行く手を阻み、高い雑木が月明りをさえぎって、視界のすべてを墨のように塗り消していた。

 光域の広いハンドライトだったが、どちらを向けても同じ雑木の景色しか見えないので、役に立っているとはいえなかった。GPSとスマホの地図ソフト、そしてネットで手に入れた古い登山地図がなければ、居場所をいずことも知れず、さまよっていたことだろう。

 踏み出した足は闇を踏んでいる。

 笹や、深い雑草を踏む柔らかさと、その下の地面を足の感覚で確かめながら進むしかない。空を踏めば崖や谷に落下するに違いない。

 クピディタスは、私がめざした夢に近づいていた。

 どんなに高度な汎用AIでも、「坂田はどこへ向かったか?」などという、前提も、条件も明らかにされない漠然とした質問には答えられない。全世界ネットワークにつながったクピディタスは、わずか一時間の進化学習で、坂田の行動解析を行うための最適な進化関数を導き出し、そして答えを導き出してしまう。

 AIによる坂田の行動追跡は、警察には許可されていたが、支持されたわけではなかった。

 当初、やってきていた多くの警官たちは、最初に発見した峠ノ越のファイルに仰天したようすで、それを持ち去ったあとには、数名の担当警官が残っているのみだった。

 警察はその後、峠ノ越のファイルから、大阪の大規模遊興施設の破壊計画を読み取って、それに向けた行動を開始しようとしていたのだ。

 そして、峠ノ越が起こした新幹線での事件は、警察をさらに混乱に陥れたようだった。この事件に対処するには、クピディタスを使うしかないと私は考えた。全ネットワークアクセスを解放して、峠ノ越のデータを解析させることは、危険な行為だったが、あの段階では仕方がないだろう。

 クピディタスに坂田という人間を学習させるまえに時間を失ってしまったことは間違いない。坂田という男の深層に、どれほど近づいたのか分からない。だが、重要な指示をいくつか高坂愛子にはもたらした。

 クピディタスは新たに解析された坂田の行動を、峠ノ越のターゲットと思われる行き先を、東京の競技場であると示した。

 それの警察への通報を、高坂愛子はしばらく待てと言ってきた。警察が向かえば、このままでは峠ノ越が爆破を急ぐかもしれないと。坂田に会うのだと。

 私はそれに同意した。

 その後、谷川という警察関係者にも話し、手配を促した。

 その後のことは伝え聞いていない。ネットのニュースで見たが、大きな惨事になっていることは分かった。それはおそらく私の責任だ。

 そのときすでに私は、を発見していた。

 それは、そのほかのファイルに隠されるように置かれていた。まるで、そうなるように仕掛けられたかのように、そのタイミングで私はそこにたどり着き、そしてその中身をクピディタスとともに解析した。

 私はその驚くべき内容を谷川に伝えた。

 そのときまだ、東京での新幹線や、競技場での事件にはかなりの人員が割かれていた。それまでの成果で、クピディタスへの信頼は勝ち得ていたはずだったが、警備部所属で、この事件の担当ではないという谷川からは、事件を捜査している警視庁や、大阪県警の反応はすぐには伝えられてこなかった。

 待っていることはできなかった。私はひとり神戸を発った。急いでここへ向かうためだった。

 私が神戸では、それですべてだった。

 あれから二時間、そして、私はひとり、ここにいる。

 助手の吉田学生は何度も電話してきている。彼は、あちこちでクピディタスの成果と、この場所の峠ノ越のの重大さを強弁してくれているようだったが、新幹線の事件でも、競技場の事件でも、あきらかに警察の動きは後手、後手に回っている。競技場で起こった事件のニュースはネットで数多く報じられているが、まだこの周囲の避難指示などは報じられていない。

 またひとつ風が強くなって、私をここから追いやろうとするかのように、私の着ているヤッケにはらみ、踏み出す足を遅くさせていた。

 夜空は星が見えていたが、雲は速く、強い風は通常のそれではない。室戸沖から紀州半島に接近している大型低気圧のためだった。

 そこは、福井県敦賀半島トンネル出口から北へ数キロの場所だった。木々の先に、時折のぞく月に照らされた敦賀湾の波頭が垣間見えていた。

 坂田が残した峠ノ越のふたつ目のファイル。その解号を、完成したクピディタスが、わずか二〇分ほどで可能にした。

 そこには別な計画が記されていた。

 すでに日が落ちて長く、闇の中、山肌の開けた場所で、私は眼下に巨大な建造物の光を見ていた。

 その建物、西日本原子力電力供給機構若狭原子力発電所は、老朽化に加え、直下の活断層の存在が指摘されていたが、福島原発事故以降の関西圏の電力量ひっ迫を受け、二号炉の再稼働がすでに実施されていた。

 建屋は、駿河湾の海に向かって急峻に切り落ちる山肌をえぐるように造成されたなかに建っていた。

 直前に迫る山肌は、地震や崩落などのリスクを考慮して強固なコンクリート擁壁で覆われている。海側にも高い防潮堤がそびえ、これら地震対策、海側からの津波対策はすでに講じられていたが、かねてから言われているように日本の原発施設では、人的な攻撃、テロによる破壊工作などに対する想定があまりにも貧弱だ。

 五〇メートルを超す擁壁の基部を、TNT換算五〇キロを超える爆薬で爆破された場合、地震の想定被害を大きく超え、四〇〇万トンの土砂がその下の施設群に向けて崩落する。峠ノ越のファイルに記された計画には、それを計算した数値データが数多く残されていた。

 原子炉容器建屋は山肌から離れており、たとえ土砂に埋もれても崩壊はしない強度がある。しかし、原子炉に冷却水や潤滑油、補助蒸気を供給する補器施設や補助発電施設、それらを制御する制御盤のある電気室建屋はその外側にある。これらはそれぞれ一台二台が停止しても自動的にバックアップ、自動運転が可能な多重、多層の安全システムになっている。

 だが、それら区域全体が一気呵成に機能喪失に陥った場合は想定されていないのだ。かつて、福島原発事故では津波でそれが起こった。

 たとえ緊急炉心スクラム停止が間に合ったとしても、炉心冷却設備が稼働維持できなければ、あの福島原発事故と同様に、ほどなく炉心溶融を引き起こす。

 もしも、福島原発よりも旧型のこの施設で、福島を超える制御喪失に陥れば、最悪とされるを引き起こし、巨大爆発とともに、莫大な量の放射性物質を放出する。

 この強風のなか事故が起これば、ここより一〇〇キロ圏にある京都、名古屋、大阪の大都市のすべてで致死レベルの放射性物質被害があっというまに広がる。数千万人の避難など間に合わない。西日本は壊滅、いや事故が継続すれば日本国が壊滅、さらには極東アジア全域が壊滅に近い被害に覆われるだろう。

 峠ノ越のファイルに書かれていた計画は、そういう内容のものなのだ。

 私は、解読したこのファイルの内容を助手の吉田学生に託してきた。

 あれから時間は経っている。遅いとはいえ警察は動いているはずだ。

 警察が着くまえに、私はに行かなければならない。

 そのとき、風がその勢いを増し、激しい音で耳を弄した。大気を震わす地響きのような低い轟音は、風のそれではなかった。

 木々の枝のなかを光の矢が差し貫き、私の近くの笹の群生に丸い光の輪を発生させた。

 音は巨大なヘリのローター音だった。

 見上げる空を、黒々とシルエットで覆い隠すそれは、巨大な蜂か、蜘蛛のように禍々しく見えた。地に轟く音は、内臓までも震わせ、私の心拍を必要以上に高くした。

 強い照明が照らすなか、舞い上がる土埃を炎のように躍らせて、彼女はそこに降り立った。

 高坂愛子だった。

 風にちぎれた草が舞っていて、青臭い匂いが強かった。

 闇の中、ヘリの巨体はまるでドラゴンのように、後方に青い火炎を吐いていた。ずしんと響くエンジン音をひときわ高く轟かせると、その巨躯から想像できない速度で舞い上がった。ぶんと巨大なバットを振るような音が頭上に響き渡ると、その姿はもう視界にはなかった。

 予想に反して、彼女以外に誰もヘリを降りていなかった。

「警察がきたのではないのか?」

「警察はいっぱいきてるわ、南側の農道のゲートまで。ここは国有地で、特別規制区画だとかで勝手には入れない。でも、すぐでしょうよ」

 立ち入りが規制されていることは、ゲートをよじ登った私がよく知っている。だが、そんな場所に、どうやって彼女は入ってきたのか、聞く余裕はなかった。

「そうか、時間がない。行かなきゃならん」

 私は背を向けて藪に入った。

「待って! あなたはなにをしようと・・・?」

 その声に構わず歩を進めた。

 その質問からすると、高坂は委細を承知しているわけではないようだった。

「坂田と、峠ノ越はどうなった?」

「あ、ああ・・・、それは二人とも・・・」

「死んだのか」

 彼女が私のあとを追って藪を分ける音がすぐうしろからしていた。

 坂田は復讐をもくろんでいた。あの男を相手にして、勝てる人間などいないだろう。もろともの死を決意してであればなおさらだ。

「ああ、待って。あなたはどうするつもりで・・・」

 彼女は藪の深さに難渋しているようだった。そのスーツも靴も、このような場所にそぐわないのは言うまでもない。

「あなたは、橘さんあなたは、最初からぜんぶ知っていたのね。坂田が死ぬことも」

 私は立ち止った。

 前方に揺れる光が見えた。

 手に持ったスマートフォンの地図アプリを見た。

 ああ、ここだ。このあたりのはずだ。

 ごうごうと唸る木々の枝擦れ。ハンドライトの光のなか、海原のように波打つ笹の広い群生。

「おかしいとは思ってたわ。坂田はあれほどの頭脳と、周到さを持っているのに、どうしてあれほどまでに迂遠な計画をしたのか。あなたのAIを利用しようとして、あの対局に持ち込んだとしても、それだけじゃ『劫』を使うには、ぜんぜん確実じゃなかったはず。計画通り自分が自由に使えるとも限らなかった、なのに・・・」

 彼女の推察は間違っていなかった。それは、いずれは告白しなければならないことだった。

「そうだ。私は坂田の峠ノ越への復讐を手助けした。坂田による解読を可能にするため、フルノードの『劫』を使えるように計画を立て、対局を実現させたのは私だ」私と坂田は、対局が行われるずっと以前から通じ合っていた。

 振り返った。闇のなかで彼女の表情は見えなかった。弾む呼吸音が聞こえただけだ。

「信じられないかも知れないが、あの対局の戦いそのものに偽りはなかった。坂田が起こした奇跡も真実だ。だが、目的はまったく違うものだ」

「どうして・・・」

「その質問に応えるまえに、まず。私はそのためにここにきた」

 私は前に向き直り、前方の雑木林をハンドライトで照らした。

 それが反射したように、光がこちらの目を射返した。

 その藪をかき分けながら、動き出ようとするものがあった。私たちがいる場所からまだ三〇メートル以上は離れていたが、それは闇から浮かび出るように見えた。

 私のハンドライトに照らされたその姿を見て、高坂はあっと声を上げた。

 峠ノ越錐次郎きんじろうは、兄によく似た獅子鼻の小男だった。

 工場労働者がよく着ているようなベージュの作業着の上下の上に、黒いジャンパーを羽織っていた。

「あれが・・・、あれが峠ノ越の弟?」

「そうだ。知っていたか」

「警察がもうすでに行方を追っていたわ」

 アルゴリズムを得て、世界のネットワークに展開した全知のクピディタスは、残されたファイルから、この場所のことも、峠ノ越がなにを計画していたのかまでも洗い出した。私はそれを吉田学生に残したファイルに記しておいた。それは高坂のみならず、警察にも周知しているはずだ。だが、弟錐次郎の存在は、誰の記憶にもなかったことだろう。彼はもともと、兄との交流がなく、彼のことは兄靭一の事件の際にわずかに報じられたにすぎなかった。だからこそ、私には時間がなかった。

「言っておくが、弟は兄の仲間じゃあない。兄のような殺人者ではないんだ。それを分かってくれ」

 私は弟錐次郎の過去をよく知っていた。

 彼は、私を見て動ずるようすはなかった。私のことを忘れているのか、あるいは誰か自分を知った者がくることを予測していたのか。

 兄がいじめや疎外に苦しんだのと同様に、彼もやはり同じ劣等の残酷に苛まれ続けた男だった。中学を出てそのまま都市に働きに出て、永く兄と袂を分かったままだった。

「彼・・・、錐次郎は、かつて私の研究の被験者だった。以前の病理心理学研究で、彼にカウンセリング治験を行った。そのとき私は、ある研究者の著書を彼に読ませた。それは心理学の本で、かれら兄弟が苦しむ欲求や、劣等感のなにかの回答になるものと思っていた」

 私はゆっくりと、錐次郎のほうへ歩を踏み出した。

「当時としては進歩的な本だった。まだ注目されていなかった認知心理学への蒙を啓くものだった。それを書いたのは、君も知るひとだ。心理学者というより生物学で名を成したひとだった」

「生物学・・・、もしかしてそれって・・・」

「そうだ、君の祖父にあたるひとだ」

 高坂の祖父にあたる北村正平は高名な生物学者で、進化心理学の先駆的な研究者でもあった。だが、その病死の直前、反社会的な事件を起こしてその晩年を汚したことが、学会では知られていた。

 高坂愛子が北村正平の係累であることは、彼女が神脳戦の専任記者となったあとで、学会筋から知った。

「六年前、兄、靭一が大規模な破壊殺人を行ったとき、私はその名前と容姿を見て愕然とした。靭一の持ち物から、錐次郎に渡したその本が見つかったこと、それが犯行の動機につながったであろうと報道されたことを知った・・・」

 疎遠であった兄弟が、いつの時点から関係を保ったのかは分からない。兄の犯行に、弟、錐次郎の関与はないとされ、彼はその後、行方は知れなかった。私は兄の事件のあと、彼のその後を探したが、おそらくここから遠い地へと去ったであろう彼を見つけることはできなかった。

「君が私のまえに現れたことは、なにか、因縁めいたものを感じた。すまない、私は君を最初は遠ざけようと・・・」

「そんなことはどうでもいいわ。あなたは彼を知っていたってことなのね。彼を・・・、あなたは彼をどうするつもりなの? 彼は兄の仲間じゃないと言ったけど、彼はどうしてここにいるの?」

 彼がここでなにかをしようとするならば、止めなければならない。そのつもりなのは明らかだったが、どうすればよいのか答えは持っていなかった。

「私が、私が彼ら兄弟を・・・、彼らを間違った方向へ導いたかもしれないのだ。私が、私がもっと、研究者としてではなく、カウンセラーとして錐次郎に向き合っていたなら、もしかすると、その兄もあのような・・・」

 その猜疑は、六年の時を経ても私を苦しめていた。

 そして、坂田の怨嗟と出会ったのだ。

 坂田の行為は正しくはない。しかし、兄弟を止めるすべはそれしかないと坂田は惑わした。坂田は私を利用しただけかもしれない。坂田の悪魔じみた詭謀は、私を思うままに操ったのかもしれない。

 だが、私は抗わなかった。

 昨夜坂田は、兄靭一の計画を解読するよりまえに、東京に兄が現れると看破していた。私に告げることなく坂田は姿を消した。坂田にとって、靭一以外のこと、弟のことは興味の外だったのだ。

 このもうひとつの計画は、弟のものではない。錐次郎は兄と違い、犯罪的なことや、残虐な行為にはまったく無縁な男だった。計画は兄靭一が自分のために用意したものだ。

 兄靭一は、この計画を用いず、東京の計画を実行した。彼が必要とする、降り立つべき地獄を作り出すものとは違っていたためだ。ではなぜ、靭一はもうひとつのこの計画を立てていたのか。

 ここは兄弟がだ。彼らがその暗黒の幼年期から青年期を過ごした場所は山ひとつ超えた場所にある。

 劣等感に苛まれ、絶望と失意の底に落とされた者の多くが自死に向かう。そして、そのときに、無差別に周囲の者を傷つける者がいる。報復を求める者がいる。それらが揃えて口にするのは「誰でもよかった」という言葉だ。

 これは兄靭一の、自死のためのプランBだったのだ。

 弟錐次郎は、兄ほど病んではいなかっただろう。しかし、大量殺人者の嫌疑をかけられて投獄された男の、その弟は、どのようなその後を送り、周囲からどのような扱いを受けたのだろうか。

 この場所に錐次郎が現れるかどうかは分からなかった。兄と同じ破壊的な嗜虐欲求に駆られているとは思えない。だが、彼の手に、兄の残した自死の手段があったとしたら、それは彼のみならず、彼を蔑んだ多くの者をももろともに消し去ってゆくものだとしたら。

 風が吹きなぶる草原の波の上で、私たちは対峙していた。

 錐次郎は、表情のない、空虚な目をしていた。

 口を開けて、なにかを言ったようだが、風の音で聞こえない。

 歩み出たその姿は、やはり小さく、背を丸めて首を落としたようすは小動物のようだった。

「あなたは彼を助けにきたのね」

 自死に臨んで無差別に他者を殺そうと考える者の多くは、愛する者のいない、愛してくれる者のいない疎外の闇底にいる。

 誰かが彼のそばに立っていなければならない。

 私が考えていたのはそこまでだ。私はしかし、それからさき、どうしてよいのか分からなかった。

 錐次郎のその手が光っているのはスマートフォンの画面だろうと見えた。

 高坂の鋭い声がした。

「彼の手に注意して! あれがたぶん、爆弾の!」

 残してきたファイルで計画の断片は解読されていた。高坂はそれを知っているのだ。

 この辺りは、兄弟が幼いころからよく知った場所であるだろう。この笹の群生のどこかに埋められている爆発物は、六年を経てもはや正確な場所はわからない。靭一の用意した携帯の電波は、それとつながるただ一つの手段なのだ。

 声には彼女の緊張があらわになっていた。

「もうネットでは東京の事件は報道されてるわ。犯人・・・、兄が死んだことも彼はすでに知っている。だから彼はここにきたのよ」

 明白なのは彼には、大量殺人者の弟としての行く末しかないことだ。

「彼は兄と示し合わせて計画してはいないのよ。兄が事件を起こして時間が経ってる。この時間にここにきたのは、その死を知ったあと、それを知ったからここにきた」

 その切迫した口調が示すことは私にも理解できていた。弟錐次郎はもとからの殺人者ではない。もしも今日の兄の事件が彼を追い詰め、ここへ向かわせたのだとすれば・・・。

 私はもう一歩、彼に近づいた。右手を彼のほうへ掲げたものの、なにをするでもなく下げた。

 私は、坂田のように相手の手筋を読み切った準備などできる人間ではない。この場所になんとかたどり着いたものの、錐次郎にかける言葉を失っていた。

「彼を助けなさい! あなたが声をかけて! 声をかけてよ!」高坂が叫んでいた。

 それでも言葉が出なかった。

 強い風が、私の肺のなかをむなしく吹き過ぎた。

「悪魔だって分かり合える、優越の罠から救うことはできるって、あなたはそう言ったじゃない!」

 私の授業を憶えていたのだろう。カントが「悪魔の種族ですら、知性さえ備えていれば、協調は容易にできる」と言ったように、認め合い、助け合う心を持つことで、人類は生き残ってきた。

 二〇〇万年以上にわたって群れで暮らした人類は、優越を争うことだけでは生き残れないこと、助け合うことが生き残るために必須であることを進化から獲得した。弱いものを見捨ててはおけない心理は誰にでもある。そうして人類は、その多くが優越欲求の争いに敗れながらも、人々はその痛みを分かち合い、支え合いながら乗り越えてきたのだ。

 それは、私が錐次郎に手渡したその本にも書かれていたことだ。

 目のまえの錐次郎の目は、そんな支えを求める者なのだ。

「この時間に、ここであなたと会ったことは偶然だとでも思っているの? そんなわけはないじゃない!」

 そうだ、錐次郎がここへくるのとちょうど同時に、私が到着したなどという幸運はおそらくない。錐次郎は、すでにここにきていた。そしてずっと逡巡していたに違いないのだ。

「あなたのもとを訪れてカウンセリングを乞うた彼は、救いを求めていたんでしょう? あなたが与えた本から、兄がたどり着いた間違った答えに、彼が陥らなかったとするならそれは、彼を気遣ってくれた、彼に寄り添ってくれた誰かのためじゃないの? 橘さん、それはあなただったとは限らないわ。でも、いまここでその言葉を彼にかけられるのはあなただけよ!」強い風に、彼女は声を張って叫んでいた。

 風がつぶてのように頬を撲った。

 山の唸りに耳が聾されていた。

 私はただ黙していた。

 声が。

 なにを言うべきなのかを。

「私を救ってくれ」それだけを言った。烈風に抗える声ではなかった。届いたのかすら定かでなかった。

 それ以上なにも語れなかった。

 何年にもわたって私を苦しめた、峠ノ越靭一を地獄へ導いたのではないかという猜疑を晴らせるのは錐次郎だけかもしれない。それが彼に伝わっているとは思えない。しかし、彼の目には戸惑いが現れていた。

 優越をなにひとつ得られず劣等感の底にある者を救う手段は、嗜虐の優越だけではない。自身がほかの誰かを救う者になることもそのひとつなのだ。

 それを意図して言えるほど、いまの私に理性はなかった。それ以上の言葉を発せない。

 そのときだった。

 轟音は、山を揺する大きなものへと変わった。腹に響く地響きは、さきほどと同じものだ。

 空に条光が差した。

 それは左右から、そして前後から。闇を駆逐して森を照らし上げた。

 四方の空に現れた黒い蜂の群れは、爆音を轟かせながら私たちを取り囲む。

 私はなすすべなく、周囲を見渡すのみだ。

 振り返ると、高坂は携帯電話を耳に当てていた。

「警察がきたわ!」

 その声が終わらないうちに、拡声器の大音声が鳴り渡った。

「あなたたちは、侵入禁止区域に踏み込んでいます! この地域は自由な立ち入りを許されていません! その場所から動かないで! 私たちの誘導に従って行動してください!」 

 そのあと私にはよく聞き取れなかったが、この場所は包囲され、逃げ場はないというようなことを言っていた。

 私は右腕を強く引かれて、地面に倒れこんだ。茂みの海に沈みこんだ、その眼前に、高坂の切迫した表情があった。

「先生! どうやら警察は強硬手段を取るつもり! 狙撃もあるって! 谷川刑事が!」

 錐次郎が兄と同じ犯罪者とは限らない。にも関わらず、射殺も選択肢にしたということは、おそらく、この原発への破壊テロの内容と、それがもたらす莫大な被害予測が周知されたのだ。

 強風は激しさを増していた。

 上空に浮いたヘリの銀色の腹から黒い物体が吐き出され、地面に落ちてゆく。それがひとの姿であることが分かったのは、彼らが立ち上がったときだった。

 何人かの姿がヘリのライトで浮かび上がる。

 暗視装置のついたヘルメットを被り、鎧のような防弾装備をまとい、自動小銃を抱え持っているその姿は、避難誘導のためでないことは明らかだった。

 この闇と強風では狙撃は無理だ。警察の選択は強襲だった。

 草原を舞台のように照らし上げて、ライトの光線が錐次郎の姿をあからさまにしていた。

 風が彼の衣服や髪を浮き上がらせ、まるで水中で溺れているように、あえぐ表情で彼は私を見た。

 私は必死に立ち上がった。考えはなく、ただ前に出た。

 走った。足に草木が絡まって、たたらを踏む。

 草地の海に沈んで、手を地に突き、それでももう一度顔を上げた。

 走った。

 その先に見える錐次郎の姿に駆け寄ろうとした。

 だが、錐次郎は後ずさっていた。

 屈強な手が私の肩にかかり、私は見えない壁に当たったようにつんのめり、腰から地に落ちた。

「先生! 逃げて!」高坂の声がした。

 私の両側を、黒い男たちが暴風のように駆けていった。

 草の向こうに見える錐次郎のその目に、恐怖が浮かぶのが見えていた。

 追い詰められた殺人者が最後にとる手段―――。

 叫んだ。

「だめだ! やめろ!」

 錐次郎の手の携帯電話が、赤い明かりを灯して、それを見下ろす彼の顔を浮かび上がらせていた。

 爆炎は見えなかった。灯を消すように闇に落ちた。

 その瞬間、すさまじい衝撃が私を襲った。足元の空間が失われるのが分かった。



 西日本原子力電力供給機構、若狭原子力発電所発電部操業四班、北別府きたべっぷはじめは、着任してまだ四ヶ月しか経っていなかった。

 習熟所属で在席していた大淀火力発電所の操業部署とは、給電系は同じだが、発電機系統は機器の確認順からシーケンスまで、まるで違っていた。シミュレータ訓練は飽きるほど受けさせられたにも関わらず、慣れるのには時間を要した。

「第二弁閉確認―――」

「確認しました」

 主任運転員が、系統部の指示を受け、夜間向け電力量の調整オペレーションをしている。それに呼応し、彼が多重確認作業をしていた、そのときだった。

 それは、彼を含めたその場の操作員全員にとって初めて遭遇する非常操業、そして原子力発電所史上でも未曽有の大規模破壊テロだった。

 発電所敷地の北側、二号発電機タービン建屋のそばの擁壁で起こった巨大な爆発は、タービン建屋北側の一〇〇〇ミリのコンクリート壁を破砕し、建屋三階の主油系統設備と、電気制御室を一瞬で破壊した。山側の送電線鉄塔を経由していた若狭湾系統五〇〇kVの送電線二系統を引きちぎり、そして同時に、建屋北側の雑木に覆われた高さ九〇メートル、幅四〇〇メートルにわたる山塊を、中央部から裂くように崩壊させていた。その莫大な質量の土砂は、ほとんど山の形状を保ったまま、擁壁下のタービン建屋に向けて落下するように滑り落ち、その設備群を呑み込んでいった。

「うわ」若狭原発中央制御室にいた運転員たちは、その爆発の振動に驚愕し、硬直していた。

 非常を示す警報が鳴り響き、眼前の制御盤の表示が一斉に明滅した。

 次の瞬間、明滅していた制御室の機器の光がいっせいに消滅し、天井の非常照明を残してすべてが闇に落ち、警報が沈黙した。

「は」

「なに・・・」

「どうして・・・」誰もが事態を呑み込めず、自失した。

 無音、そして暗黒。

 瞬間に、寒気を感じるような静謐がおとずれていた。

 中央制御室には窓がなく、外部の様子が分からない。地震や、放射線対策を極めた原発建屋は分厚い壁で覆われているからだ。

 次の瞬間に、全員の頭に浮かんだのは福島原発事故だ。

 津波による全交流電源喪失SBO

 原子炉は運転中も、そして停止させても莫大な熱量を持つ。冷却し続けなければ甚大な事故になる。そのため何重にも用意された非常冷却システムがあるが、電力がなければ維持されない。そのために、非常用ディーゼル発電機、非常用電池システム、そして外部からの送電系統など多数の電源確保がなされている。

 福島でも起こったそれは、ステーションブラックアウト、それら電源がすべて一気に失われたことを意味しているのだ。

「二号、スクラムは?」主任操作員の声がする。

「わ、分かりません! 信号が・・・!」表示板の信号表示はすべて消えている。

 北別府は、電源消失まえに画面に表示された複数の赤い点滅表示と、大きくバナーで描かれた警告を目にしている。だが、なにが起こったのかを知る前にすべてが消えたのだ。

「DGは?」

「いま電気室に電話していますが、わかりません!」非常用ディーゼル発電機DGは起動していない。電気がきていない時点で、それは誰もが理解していた。

「山が・・・、裏山が崩れて、タービン建屋が壊されたと言っています!」別な電話を持った運転員の声がした。

「ええ」

「山って・・・」

「いや、もうすごい崩れかたで、建屋がほとんど潰されたみたいです!」

「DGや電池もか!」建屋ごと埋まっているとすると、外部からケーブル給電することもできないかもしれない。

「まじか・・・」

「送電系統確認できないか!」

 北別府は、このとき、送電系統の確認のための電話を握っていた。二号原発に外部から電力を供給する若狭母線の確認だ。

「CB50、CB60閉確認!」

「若狭湾系統の給電がありません!」北別府の声がうわずった。

「所内メタクラ電圧がありません!」別な電話の運転員の声だ。

 どよめきが起こった。

「建屋行ってきます!」

 単なる地震や、一部の機器故障でのスクラムでないことは北別府にも分かっていた。

 運転員たちはあちこちに電話をかけ、あるいは現場に向かい、それぞれの状況を把握しようと試みていた。

 北別府は、訓練された手順に従って、機器の状態を順に確認しようとしていたが、北別府が知る訓練で想定されるような状況を、明らかに大きく超えるものだった。

 だが、まだ絶望する状況ではないはずだ。福島原発事故を受けて、SBOを想定した訓練も行ってきている。

 北別府は立ち上がって、息を吐いた。緊張で吐息が震えているのが分かった。

 大規模地震や津波などでこうした事故にいたらないよう、大規模保水設備や大型電池設備が導入される計画だったが、まだ完成してはいないのだ。まだ打つべき手はあるが、それは限られている。

「一号のDG起動できないのか? 交流電源車は?」一号機は運転停止中で、送電はできないが、非常用発電機は生きているはずだ。

「二号のメタクラの系統自体、建屋が・・・、土砂で・・・」現場連絡の電話を握った運転員が声を裏返らせていた。

 北別府は運転員たちの声を聞きながら、なにもできない無力感に歯を噛んだ。スクラム停止した原子炉では発電ができない。外部からの給電が失われている。

 このままでは非常用炉心冷却系が動かせない。冷却しなければ冷却水が蒸発して炉心が露出し、溶解、水蒸気爆発、そして最悪の場合、炉心圧壊に至るのだ。福島原発では、SBOからわずか一時間ほどで露出が始まったとされている。

 危機は数分を争う。

「イソコン手動弁開けに行こう!」

「それしかない」

「急げ!」

 イソコン、非常用復水器アイソレーション・コンデンサーは、電力なしでも冷却水を自己循環させる最後の砦だ。電源断で自動閉となるCB弁は手動で開けなければならない。

「待ってください。設備電池つなぎました!」

 正面表示板の一部の表示ランプが復活していた。

 設備電池は、原子炉圧力や水位などの表示すらすべて失った福島原発事故を受け、急設された非常用電池で、データの表示を可能にするが、むろん設備を動かすだけの電力はない。

「圧力上昇してる!」

「炉内圧三九〇!」

「スクラム完了してないぞ!」

 騒然となった。

 原子炉停止未完了。

 原子炉は異常が発生すると、まずなにをおいても先に燃料制御棒を炉内に挿入する。制御棒は核燃料棒のあいだを遮蔽して核反応を止める。自動で行われるそれが緊急自動停止スクラムなのだ。北別府たちが見たその数値は、制御棒が挿入できていないことを意味していた。

「制御棒駆動系は⁉」

「停電で停止・・・」

 爆発の瞬間、その巨大な振動と、設備信号異常を検知した二号機原子炉システムは、スクラム信号を発していたが、次の瞬間には電気設備が全停電に陥っていた。制御水駆動が働いて制御棒を押し込む自動システムが、あまりにも早い電源喪失で完了していなかった。

「スクラム弁は⁉」

 たとえ電源がなくなっても制御棒は押し込めるように、アキュームレータガス圧で押し込むための燃料制御棒スクラム弁が自動解放する。

「弁開いています!」

「ええ、じゃあなぜ・・・」

「待て! 制御水側PCV、全閉してないぞ!」

「てことは、圧調弁が全停電で全閉しないで止まったって・・・」

「じゃあ、ガス圧が圧調弁側へ抜けた・・・。それだと制御棒が一部しかスクラム挿入できていないんじゃないのか?」

「制御棒の状態は⁉」

「制御棒八九本のうち、四〇本が入っていません!」

「なに・・・」みな一様に声を吞んだ。

 臨界事故CA―――。

 SBOに続いて、その場にいた誰の頭にもよぎったのはその言葉だ。

 原子炉内の燃料棒は、核分裂反応によって熱を発する。制御棒で停止ができないと、連鎖反応が継続してしまう『臨界』が起こる。臨界事故がおこれば、反応が爆発的に加速する。一九八六年のチョルノーブリ四号機の事故では定格出力の一〇〇倍の反応暴走となり、冷却材が沸騰し、炉心が爆発、四散した。

 臨界事故が起これば、イソコンだけでは冷却は不可能だ。福島原発では、電源喪失はしたが、スクラム停止はできていた。そのため、炉心溶融はしたが、破滅的な結果には至らなかった。もしも福島と同じ電源喪失と、チョルノーブリと同じ臨界事故が同時に起これば、北別府たちにはなすすべがない。

 北別府の手が震えていた。胸の鼓動が、肺を圧するように強まっていた。

 これまでやってきたSBOの訓練の想定を超えていた。制御棒を上から落とすのでなく、下から圧力挿入する旧型のこの原発の設備では、このような事故の懸念がなんども叫ばれてきた。

「再挿入手動操作だ!」

「だめです! 不動です!」おそらくアキュムレータに残圧がない。

「炉内圧力八二〇!」

「ドライウェル温度三八〇!」

 北別府は歯を噛んで震える頬を抑える。理解できていた。炉心では反応が続いていて、膨大な熱を発している。おそらく炉心が露出するまでに一時間どころか、数分も猶予はない。

 炉内の圧が設計値の二倍に届く。福島と同じならすでに放射線が漏出して、格納容器には入れない可能性がある。もしそうなら、格納容器のなかにある制御棒の挿入を手動で行うすべもなくなる。

 炉心圧壊―――。

 その最悪の事態はすぐ目の前にあった。

 制御室はふたたび怒号が飛び交い、多くの足音が交錯していた。

 その瞬間、大きな音をたててドアが開かれた。

 駆け込んできた現場操作員は、荒い息をそのまま、声を上げた。

「DGが復帰しました!」

 おお、という声があがった。

「89開けられるはずだ!」

「やってみます!」

 機器が一斉に点灯し、そして警報が響き始める。

「メタクラ電圧条件成立!」

 過酷事象画面が赤い光を放っていた。

 再起動したディスプレイでは、警報画面を埋めた赤いメッセージが、水が流れ落ちるようにスクロールしている。

「制御棒駆動系再起動確認!」

「ECCS起動シーケンス開始!」

「低温冷却ポンプ起動確認!」

「一次冷却水系統復帰BP稼働条件成立します!」

「やったぞ!」

 北別府はもう一度、ため息を吐いた。

 周りでは、何人かの操作員が、しゃがみこんだり、操作卓に手をついて俯くようすが見受けられていた。

 北別府は立ち上がった。まだ安全がすべて確保されたわけではない。補機系統がすべてダウンしている。タービン建屋はすぐには復帰しないに違いない。

 やらねばならないことは、まだ山のようにある。

 北別府は、もういちど歯を強く噛んで、操作マニュアルに手を伸ばした。

 制御室にふたたび声が響きはじめ、喧噪が戻る。しかし先ほどのような悲愴な声ではなかった。



「目標、破壊確認―――」

 陸上自衛隊中部方面隊所属、明野駐屯地第五戦車ヘリ隊、山崎四郎やまざきしろう3等陸尉は、乗機するAH-1Sコブラ操縦ピットのなじんだ振動のなかで、緊張の息を吐いた。

「FCS継続して警戒遊弋しますか?」射手席ガナーのボイスをヘッドセットで聞いて、山崎は応える。

「いや、解除しよう。接近旋回して目標を目視確認する」

 そう言いながら、サイクリック・レバーを倒し、アクセルを入れる。毎秒二〇メートルを超す強風だが、加速時はほとんど揺るぎもしない。漆黒の夜の闇のなか、星で埋まった天蓋がゆるやかに流れる。

 レーザー測距と前方監視赤外線装置を搭載し、夜間戦闘能力を保持したシーナイトと呼ばれるAH-1Sは、目標とした前方丘陵部下二〇メートルへ、七〇ミリ地対空ミサイル四二発を正確に同時着弾させていた。

 その爆発は、山崎も驚愕をもって見た。

 爆発と前後して着弾した徹甲ミサイル榴弾は、丘陵部の基部に深く貫通して爆発し、山塊を大きく膨らませて爆裂した。

 そのとき山側で起こっていた別な爆発の崩落土砂を、とは、誰が立案したのか知らないが無茶としか思えなかった。

 作戦指示は一時間前、しかも、北朝鮮や中国機、艦船への対応などではなく、都市にも近いこの港湾への緊急出動は異例というほかはない。

 公にできない隠密夜間作戦行動自体、自衛隊の歴史上あるとは思えないのだ。空自がそういった作戦を行ったことがあるという噂は耳にしたことがあるが、都市伝説だと思っていた。

 HUDの青い電飾越しに、若狭原発のLED照明のオレンジ色が映えて見えた。

「―――こちら伊丹指揮。一号機、作戦成功。繰り返す作戦成功」本部からの連絡がきた。対象施設の無事が確認できたのだろう。

「一号機、作戦成功了解。帰投ルート確認」

 スタビライザーが効いたローターの抑えた音だが、秘匿任務を思い、この静謐の夜の海には大音響に感じられてしまう。

 山崎はもういちどレバーを倒し、機体をより深い闇の海上へといざなう。

 その頭上に、流れる星がふたたび流麗な線を描き、山崎のヘルメットバイザーに鮮やかに映っていた。



 ハイヒールが土に刺さって動けなかった。

 脱げた足をそのまままえに踏み下ろすと、硬い笹の根が足裏に刺さって痛みが走り、崩れるように膝を突いた。

「橘さん!」

 叫んだ瞬間に、橘が土砂とともに宙に舞う姿を見た。

 閃光は周囲の山々を照らした。

 音は聞こえなかった。数千トンの山塊を持ち上げた爆風は巨大な衝撃波となって、私を吞み込み、その一帯を一瞬に蹂躙した。

 黒々とした土砂が視界を覆い、押しつぶすように私のうえに落ちてきた。

 気を失わなかったのは奇跡のようだった。

 地響きのような音が何度もしていた。爆音が周囲の山にこだまして繰り返していた。

 かなりの時間、動けなかった。

 風の音が耳に届きはじめ、周囲に人の声がした。

 体にまとった重い土を押しのけて、上体を起こした。

 変わらぬ強い風が、宙に舞い上がった土を浚ってゆく。

 足元から先にあったはずの地面がなかった。山がそこから

 空をなかば覆っていた黒い森の影が失われ、信じられないほど鮮やかな、星の散る空が広がって見えた。

 海へ向かって突き出すようにあったこの巨大な山塊は、その半ばをえぐり取られたように失い、私はその断面の縁に、座りこんでいた。眼下には多くのLED照明の赤い光に彩られた巨大な発電施設と、それを半ば覆った土砂の堆積が、土煙に霞みながら見えていた。

 周囲には警察官たちが同様な様子で身を土に落としている。

 見回したさきに、橘の姿があった。

 立ち上がって、施設を見下ろしていた。怪我をしているようすではなかった。

 施設の灯火が、私たちを緩く照らしていた。

「間に合ったのかしら・・・」

 胸がむずがゆい。携帯が振動しているせいだった。

 電話は谷川という警官からのものだった。耳がおかしくてよく聞き取れなかったが、原発の危機的な状況は回避されたようだった。

 頭上に、風の音ではない打音が響いた。

 見上げる空を黒々とした影が覆い、そして緑色の腹を見せて旋回し、飛び去る。識別照明の少ないそれは、自衛隊のヘリだろう。

 坂田は私に、峠ノ越の計画を託していった。いや、おそらく私にではなく、クピディタスに託したのだ。橘と、そして峠ノ越の弟錐次郎がどういう行動を起こすのかまで、坂田が神のごとくに見通していたなどとは思わない。だからこそ託すことにしたはずだ。

 私は峠ノ越のこの計画を未然に防ぐ手段を得ていた。それを可能にしたのはやはりクピディタスだった。あたかも、坂田と峠ノ越が死したあとも、二人の戦いが続いていたかのように思えた。

 私が座り込んだまま立てないでいると、橘がゆっくりと近づいてきた。乱れた髪に乾いた土がまといつき、羽織ったオレンジ色のヤッケは泥に濡れていた。

「大丈夫よ。警察から連絡があった。峠ノ越が計画したほどの被害は出なかった。原発はなんとか無事」私はそう告げた。

 彼はなにか言いかけて淀んだ。

 峠ノ越の計画は知っていたはずで、それが回避されたことは彼にとっても大きな僥倖であったはずだが、反応は薄かった。

 峠ノ越の弟、錐次郎は兄のあとを追った。橘はそれを止めたかったのだろう。破壊テロへといざなった責任が自分にあると彼は考えている。そして、錐次郎の死をまのあたりに、その罪を自分のなかに見ている。

 なにも言わず、視線を私から遠ざけると、呆然と土砂を見下ろしていた。

 この犯罪にかかわるほとんどの者が死に、彼だけが生き延びていた。

「君は・・・、君がなにかしたのか?」橘はひとりごとのようにそう訊いた。

「いいえ、私じゃない。クピディタスが教えてくれた。あらかじめ、岬の反対側の土砂を削って、原発におよぼす土砂の被害を減らしたのよ」私は倦怠感に身を預けたまま応えた。

 クピディタスが与えた対策にしたがって、あらかじめ岬の裏側の道路に燃料を満載した数台のを停車させるよう、谷川たちが動いていた。

「そんなことが・・・、よく間に合ったな」

「ええ、そうね。運があったのかもね」

 数時間まえ、東京の事件と、そして橘が残していったこの原発でのテロ計画を受けて、警察だけでなく、多くの政府機関が動いた。

 警察庁と自衛隊災害対策部との連携で、私はこの場所へ送り届けられることとなった。

 クピディタスはいくつもの対策案を示した。山を爆破するためにタンクローリーを用意して爆破することもそのひとつで、それだけでなく、自衛隊の航空兵器で山を爆破させること、錐次郎を殺す手段というのもあった。そのほかにもいくつもの提示された案があったのだ。

 警察だけでなく多くの組織でその検討がなされていたが、いずれも短時間にできる手段ではなかった。そのなかで、最初にクピディタスが指示した対策は、私を現地に送り出すことだった。クピディタスが私になにをさせようとしたのかは、いまでも分からない。時間を稼ぐことだったのか、橘を助けることだったのか。

 タンクローリーの爆破を、クピディタスは最適解としていなかった。

 その爆破は、それをやれば土砂が減って防げる、そんな単純な思いつきの話ではもちろんない。峠ノ越は長い時間をかけ、対象の山はどのような形状で、どのような地形、地質であり、どこにどれだけの破壊を起こせばよいか、それに要するエネルギーはどれほどになるのかを、綿密に計算していた。そしてそれを上回るには、それと同等以上の精密な計算がなされなければならないのだ。その緻密な爆破が、あの巨大な崩落が、タンクローリーの爆破などではたしてできたのか。上空を飛び去った重武装の自衛隊機は、私を載せてきたヘリではなかった。

 クピディタスは、自衛隊機で岬の丘陵部下二〇メートルを、七〇ミリ地対空ミサイルで精密爆破する案を最適としていた。それは検討のテーブルには上げられていただろうが、訓練地域でもない場所で、実弾による爆破などそもそもありえない。本来、自衛隊は災害派遣ですら県知事の要請がなければ出動することができないはずだ。災害派遣に戦闘ヘリや空対地ミサイルが必要なはずはなく、そうでないなら、防衛出動となり、国会の承認が必要なはずだ。日本の憲政史上、防衛出動が発令されたことは一度もないのだ。たとえ、私の知らないところで政府機関がその実施に動いていたとしても、少なくとも数時間で実現できる類のものとは思えない。

 違和感は私の胸にまだくすぶっている。

 そしていま、私は橘に言わねばならないことがあった。

「あなたに・・・、クピディタスについて言っとかないといけないことが・・・」

「クピディタスに・・・ついて?」

「坂田が、最後のとき私に数枚のメモをくれたの。それはなにかのデータコードで、なにを示すものなのかは分からなかったけど、このテロに係ることだろうとは予想がついた。あの男がどれぐらい、なにを予測していたのか分からないんだけども、とにかく私はそれをクピディタスに読ませようとしたわ」

「坂田が・・・、彼がまだべつな情報を隠していたとでも・・・」

「いいえ、それは峠ノ越の情報じゃあなかったわ。でも、それはクピディタスにとって重要な情報だった」

「クピディタスに・・・?」

 坂田はこの事件のまえ、二週間、夜遅くまであの怪物と対話していた。そこで坂田が手にしたものは、解号されたファイルだけではなかったようだ。

「とにかく、私はあなたのクピディタスをもういちど使った。坂田はもういなかった。峠ノ越の計画に対抗できるとすれば、クピディタスしかないと思ったわ。坂田のメモを学習させようとした。あなたの助手がよく助けてくれた。助手によると、あれは禁則コードの解除キーだったらしいのよ。そう、パンドラの箱の鍵よ」

「なんだって」

 クピディタスは橘たちの禁則コードによって、ネットへのフリーアクセスを完全には与えられていなかった。

「それを組み入れたクピディタスが、この解決策をよこしたのよ」

「いや、待ってくれ」

 橘の、色がなかった目に熱が宿った。

 クピディタスは橘の手によって進化していたが、それでも、峠ノ越の計画を阻止する手段までは示すことができていなかった。私たちにはもう時間の猶予はなかった。

 坂田の与えたコードは禁則コードだけではなかった。そのコードがなんなのか私たちには理解できていなかった。しかし、それに賭けるしかないと考えた私は、助手に頼んで、クピディタスを再び起動して、坂田のコードを読み込ませた。それらによって解き放たれたクピディタスは、明らかな変容を遂げた。

「クピディタスが出した解決策はいくつもあった」

 それらにはすべて、それを実行するための手段、どこでどう調達すればよいか、どのような手続き、どのような書類、どこの誰に、どのような手段で依頼すればよいか、交渉する手段はなにかまで、克明に示されていたのだ。

 それを見て、私は恐怖を感じずにはいられなかった。

「クピディタスは情報を獲得する目や耳だけでなく、情報を操作する手を獲得しようとしているように見えたわ。出された問題を解くための答えだけでなく、問題そのものを操作してしまう手段までその手が届こうとしてた」

 橘は言葉を失っているようだった。

 誰に自衛隊機を寄こすことができたのか? 

 いきなり決まった錐次郎への射殺、強襲の指示は誰がいつ、どうやって出したのか?

 クピディタスは私たちに答えをいくつも示して見せた。だが、それははたしてクピディタスが描いたすべてなのか。それぞれをことが、クピディタスに可能だとしたら。

 禁則コードの解除以外に、あのメモにあった数値やコードは助手にも内容が分からなかった。坂田がなにをクピディタスに与えたのか、誰にも分からない。

 その見えざる手をクピディタスが手に入れるよう、坂田が託したのだとするなら。

 神が与えた悪魔のロジック。

 ため息を吐いた。

 なにが起こったのか、いまここで考えても、確実なことはなにひとつ分からない。私はそれについて考えることを放棄することにした。

「クピディタスは進化したわ」私は橘の目を正面から見据えて言った。

 明らかな逡巡の色が橘の目に現れた。クピディタスの進化は、もともと彼が夢見ていたことだ。人間の脳に限りなく近い論理理解力を持つものへと。

「禁則コードを外されて、世界のネットワークへのアクセスを完全に獲得したクピディタスは、劫だけでなく並列システムに自動展開したわ。にね」

 劫は日本国内四か所の大学や研究機関のコンピュータにつながっていたが、それらに加えて海外の四〇か所の大学や研究機関のコンピュータに並列プロセスを作っていた。クピディタスはそれらすべてと結びつき、世界規模の超巨大並列システムを作り上げていた。その能力は、私の想像のおよぶものではなかった。

 橘は考えるそぶりで頭を傾け、真剣な表情を取り戻したが、すぐに諦めたような顔に戻った。

「君は、自分がなにをしたか分かっているのか?」


 橘のAIはこれまでの常識を覆す能力をあらわす。それは世界のシステムを変え、あらゆる研究開発を加速させ、世界のさまざまな問題を解決するだろう。

 しかし同時に、坂田が暗号解読に使ったように、私が坂田の行動追跡に使ったように、さまざまなセキュリティを容易に突破してしまうツールに、あらゆるシステムの脆弱性を看破してしまうものに、クレジットカードや銀行取引の暗号を無効化し、核の軍事セキュリティを操作し、あらゆる破壊テロの手段になり得るものなのだ。

 それは恐れられていた。文科省により、橘のAIが劫の使用を制限されていたのはそのためだ。橘自身も使用を長いあいだ躊躇していた。

 本能を持たないAIは、SFのように意思や、感情をもって暴走することはない。そんなことは恐れられていない。それは逆に、欲望を持ったひとの意思でしか動かされないものだということで、ひとの意思がたとえ頻繁に間違うものだとしても、それを正す能力はAIにはないということなのだ。

 私が解き放ったパンドラの箱は、すでに世界中にクピディタスをばらまいた。誰の手に渡るかは分からない。おそらく世界中でさらなる研究がなされ、クピディタスを超える知能を獲得するのに日を待たない。

 それは核の技術と同じような、ひとの手でコントロールのできない破壊的な兵器の誕生かもしれず、あるいは人間を超える新たな知能の誕生かもしれないのだ。

 坂田は、私がクピディタスを使うことは予測していただろう。どこまでが彼の思惑のうちだったのかは分からないが。

 橘は諦観を浮かべた目で私を見ていた。

 風は弱まってはいたが、まだ力強く、彼の後ろの木々をざわめかせていた。

 オレンジ色のヤッケが風にはためいた。

「そうか、すべて・・・、これで全部・・・、そうか」橘はうつむく。

 世界中の研究者が、彼のこれまで苦労して積み重ねてきた研究成果を無償で手にしているはずだ。彼はなにもかも失った。

 橘が坂田の事件に協力したことは、おそらくなんらかの罪に問われるだろう。橘の研究や、大学施設、劫や、関係施設を利用したことにも責任を追及されるはずだ。さらに今後、世界に流布した彼のAIがなにかの事件の原因になれば、橘への責任追及は免れないのだ。

 私はそんな彼に、同情などしてやるつもりはなかった。

「喪失感で、落ち込んでる?」

「え」

「峠ノ越兄弟を手引きしたかもしれない? 大勢死んだのはあなたのせい? 彼らを殺したのもあなたかも? せっかく研究してきたクピディタスはみんなに取られちゃった? 坂田に協力したから罪になるかも? 心理学の学者のくせに、悲観視のバイアスにすっぽり嵌ってることに気づけないのね。あなたが言っていたことじゃない。大事なことに気づけない。でもそれは仕方ない。神のロジックだから」

 はーあと息を吐いた。

「私たちはみんな考えて選択している。たとえそれがひどい思い込みだったとしても。それは私たち自身の背負うべき罪で、私たち自身のロジックなのよ。峠ノ越だって、坂田だってそうよ。峠ノ越を救えたなんて思い上がりは捨てて、間違えた彼らを呪いなさい」

「それは暴論だ」

 そんな言葉などで橘の喪失感が癒されるとは思っていない。だが、少しは学者らしい目になっている。

「あなたもその罪の意識にバイアスされた自分の感情は分かっているはず。ちっともサイエンスじゃないわ」

「ああ、そうだな」少しはにかんだ。

「クピディタスはまだ進化するわ」

 その言葉に橘の動揺が見えた。

 私にはクピディタスを放ったことへの後悔はなかった。

「あれは、私たちがいま世に出さなくても、そのうちどこからか世界に生み出されるものだわ。時計を少し早めただけ。それに罪があるとするなら、それを使う者が背負うべき罪なのよ。あれを作ったのがあなただということはもう世界中が知っているわ。あなたがそのうち、アインシュタインのように崇拝されるとしても、オッペンハイマーみたい嫌われるとしても、どうでもいいじゃあない。あなたは、その先を見なくてほんとうにいいの?」

 橘が真に望んでいたことは贖罪などではなかったはずだ。長い時間をかけて情熱を注いできたものとは。

 橘はそれきり、なにも言わなかった。彼が立ち直れたとは思わなかったが、小さなものを灯すように、求めたいものは見せておいた。あとは彼のなかの優越欲求の大きさ次第だ。

 光が、目を射るような強さで周りの草原を照らし上げた。

 頭上に強い風が踊り狂い、ちぎれた草や土埃が舞い上がった。警察のヘリだった。また胎に響くローター音が響き渡る。

 光の条線を描くライトは幾筋も現れて、闇の世界を駆逐していた。

 風のなかに立った。

 空はまだ晴れて、天空を覆う星々がやたらと近く、宇宙や世界の大きさを、私たちに思い知らせようとしているようだった。

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