第7章 全知全能の悪魔

 デヴィッド・ヒュームは、理性ロゴス情念パトスの奴隷だと言った。

 私は奴隷だ。

 人類以外の野生動物のなかで、報復を行うものはほぼいない。

 報復をしても失ったものは戻らない。復讐のために争いや、戦いに向かえば、自分の生存すら脅かしかねない。多くの動物にとって、報復にエネルギーを遣うより、新たなエサを獲得したり、次の繁殖に備えたりするほうが生物として正しい選択なのだ。

 それを求める狂おしい欲など発生しない。

 人類が進化で獲得したものは、優越や利益を奪い合い、争い合う本能だけではない。弱い者を救い、互いに助け合って群れを維持することも、太古の地球で生き残るには有効だった。だが、争い競う本能と、助け合う本能は、明らかに相反するものだ。信じれば裏切られ、託せば奪われる、表裏のジレンマが常につきまとう。その答えを米国の大学の進化研究のシミュレーションが明らかにした。

 それは『報復戦略』と呼ばれるものだ。攻撃を受けたり、裏切られたりした場合に、つねに受けた以上の反撃や、報復を行う。裏切りによって利益を得ても、それ以上の不利益があるとあらかじめ知れれば、裏切りを選ぶ者はいなくなってゆく。それが群れのなかでの信頼や、群れ同士の安定をうながし、生き残りに寄与する。そうして人類は、進化の過程で報復の心理を獲得していったのだと。

 たとえロジックを理解しても、湧き上がるそれを押し留めることはできない。

 歓声が、私の周りで渦巻いている。

 アースカラーに彩られた六万席を超える観客席は、そのほとんどがひとで埋まっている。

 太鼓などの応援の音を鳴り響かせる前段の区画からの音よりもなお、プレーのたびに立ち上がり、叫ぶ、この密集した観客の声の重なりが、数万の楽器の重層な奏鳴と同じに、巨大な波となってうねり、押し寄せる。

 私は東京新宿、明治神宮外苑の広大な森のなかに建つ巨大施設、国立国際競技場の二層上部席の通路に立っていた。

 眼を閉じた。

 思い出される。すべてのことが。

 震える唇を噛む。

 私はあまり多くのことを考えられない。私の頭のなかには、沙織と志保のことばかり浮かんでいる。私の記憶では、つい一昨日まで、彼女たちは元気に笑っていた。

 沙織は、食事をした店のインテリアの美しさを褒めていた。

 志保は、ダンス教室に行くために、あたらしいリュックを買ってくれとせがんでいた。

 その記憶は、褪せることなく私のなかにある。

 、沙織と志保を殺した犯人の名前は、峠ノ越。そして奴は、まもなくここに現れる。

 悲しみと、そして怒りが、歓声の巨大な地響きに同調して私の体を震わせる。

 私の心を押しひしぐ。

 歯を強く噛む。

 あまり考えることはできない。

 ここへくるまでのあいだに、待ち合わせをした転売師から、ここの座席チケットを受け取り、同じく代行業者から、準備された機器を受け取った。それらがによって手配されたであろうことは、過ぎた時間のメモを見るまでもない。

 サッカー国際Aマッチ、日本×ブラジル―――。チケットにはそう書かれている。

 六年まえの私は、峠ノ越という男を、綿密に調べ上げている。峠ノ越が起こした六年まえの事件は、予行のようなもので、本来の計画は別にあることは看破していた。

 峠ノ越が、なにをしようとしているか、どのような手段をとるのか、それを過去の私は十分に研究していた。想定される奴の計画を多岐にわたって予測、対処を考えていた。棋戦のまえに、対戦相手の棋譜を研究し、定跡を想定して対策する。それと同じことだ。

 それは、暗号化ファイルを解号するよりまえからだと、メモにある。

 過去の私は、峠ノ越という男の出獄を、もっと先に想定していたようだ。

 だが、それは私にとって、研究外だったわけではあるまい。私なら、それも想定していたはずだ。予想される手に対して、あらゆる『返し』が準備されていただろう。

 私が手にしているものは、そのひとつであることは間違いない。ほかにも、さまざまな可能性を想定して準備をしてあったはずだ。

 なすべきことをなしてゆく。

 峠ノ越が私と同じく優越欲求の虜であることは判っている。刑務所のような場所で、峠ノ越のような人間がどれほどの嗜虐をうけたかは想像に難くない。

 私には刑務所にいる奴を殺す手段も考えられたはずだが、そうはしなかったようだ。だが、殺しはしないまでも、なんらかの報復は行っていただろう。手段など選ばない。死なぬまま苦しみ続けるような虐待を与えるくらいのことはできたはずだ。そして追い詰められた奴は、出獄と同時に行動を起こす。それを私は疑わない。

 オリンピックを皮切りに、コロナで制約されてきた国際大会を数々経て、これほどまで満席になったイベントはかつてないと、会場内放送が宣言していた。

 それでも、推測できないことはある。

 たとえば、時間だ。

 は、峠ノ越の暗号化ファイルのなかにあった制御用コードに、複数の機器が時限設定で動くように設計されたシーケンスを発見した。これから導き出されるその時刻は、二〇時三〇分ちょうどだ。

 時間はあまりなかった。私の準備は完全ではなかったようだが、それでも遺漏はないはずだ。

 見上げると、壮大な円弧を描く屋根庇が覆いかぶさっている。

 歓声が大屋根にこだまする。

 まもなくだ。

 私は携帯電話を取り出した。これもあらかじめ受け取った、新しいものだ。

 ニュースサイトを選択すると、東京駅で爆破事件があったとの報道がひしめいている。

 峠ノ越は、この計画をカモフラージュするために数々の罠をしかけていた。峠ノ越のファイルには数多くのフェイクデータが仕込まれていた。東京駅の事件は、さらに周到に用意された、警察や世間の目をそらすために作り出された罠だ。

 遺漏はない。携帯をしまう。

 私の想定外のことが起こったのはそのときだった。

 私のまえに、見知らぬ娘が立ちふさがったのだ。

 私は私を知る人間に邪魔されることがないよう、あらかじめマスクと、サングラスをかけ、帽子までかぶっていた。

 細いあごの線をした、目の大きな娘で、両頬を覆いつくすそばかすがなければ、美人と呼ばれていい顔立ちだが、化粧気はなく、短めの髪をひっつめに結んでいた。ダークネイビーのスーツとタイトスカートは着なれない様子に見えた。

 その切迫した視線と、駆けてきたと思われる荒い吐息からすれば、有名人としての私に会いにきたのでないのは明らかだった。

「私を憶えてはいないのよね」息を整えず、そう言った。

 メモにはこのような娘のことは書かれていない。私は応えなかった。

「ここに私がいるのは想定外だったはず。そうよね?」

 その言葉からすれば、私の行動の障害になるものと推定された。情報が不足している。

「君は誰で、どうやって、ここにきたのですか?」

「私のことはどうでもいいわ。峠ノ越はどこなの?」

 私は周囲を見渡した。

 ほかに警察官の姿などはない。もしも警察などが私の行動を知りえたとしても、誰かが私のまえに現れるよりさきに、会場の観客の避難を優先するはずだ。

「なぜ、あなたはここにいるのですか」

「もう、時間がない。もう避難は間に合わない。あなたに訊くしかなくて・・・、そうじゃないと・・・」

 どうやってこの場所を割り出したのかは判らない。だが、もはや遅かった。峠ノ越はすでにここにいる。警察がこの場にやってくれば、峠ノ越はときを待たずに破壊行動を起こす。それが分かっているから、この娘は警察を呼ぶまえに私に会いにきたのだ。

「クピディタスを使ったのですね」

 私の行動を予測できたとするなら、それは人間以外のなにかだ。クピディタスのことはメモに詳述されている。障害となりうる要因のひとつとして。

「それでも、この場所が判るはずはないですが?」

「いいえ、橘はクピディタスを完成させた。ここへ私を導いたのは橘」

 なるほど。

「完成? どうやって?」

「知性のほんとうの鍵は獲得することでなく、失うことだと、橘は言ってた。あなたの知能のメカニズムからインスパイアされて橘は関数式を書き換えた」

 私はおそらく微笑んだだろう。朦朧としていて感覚があやふやだったが。

「私のメモを学習したのですね」

「北美川さんが持ってた膨大な量のメモ。そのメモの情報を学習して、クピディタスがあなたが見ていた峠ノ越のデータを、あなたの予測の経路を明らかにした。それは断片的だったけど・・・、大阪でも、東京駅でもなかった」

 私はそれには応えなかった。

 すでに時間が迫っていた。

「でも、東京駅の事件のせいで、クピディタスがこの場所を示すまで時間がかかり過ぎた! もう、警察じゃ止められない! 峠ノ越を止められるのはあなたしかいない! あなたに会うしかない、そう思って、橘に警察への連絡は少しだけ待ってもらったけど。もう通報したはずよ。警察はくる。避難は始まる。時間の問題よ。そのまえに早く!」

 世界につながる全知のネットワークを得たクピディタス。それはある意味、峠ノ越の策に敗れたのだ。

 この娘にも解っている。峠ノ越はここにいる。この会場に。

「もう遅い」

「いいえ、まだなにも起こっていないわ」

「峠ノ越はもう、この施設のどこかにいます。それはどこなのかは私にも分からない。そして、ときを待っている」

 娘は観客席を振り返った。峠ノ越の姿が見えるわけもなかった。

「あなたは、峠ノ越を・・・、あいつを殺しにきたんでしょ。どこにいるかが分からなければ・・・」

「あなたが考えているように、避難誘導が始まれば、奴が取れる行動はふたつだけです」

「え・・・」

「諦めて逃げるか。あるいは、です」

 彼女は私の目を見つめていた。

 私の真意を読もうとしている。私がそれをただ待っているはずがないと考えているのだ。

「どうしますか? このまま待って、奴が逃げるほうに賭けて、祈りますか?」

「あなたはどうするっていうの?」

「この屋根構造を見なさい・・・」私は上を見上げた。

 彼女の顔が上を向く。

「この長大で、巨大重量の屋根庇は、柱や、ワイヤによる支え構造がありません。基部の七〇〇ミリのSRC梁によって支えられているのみだ。全周一〇八に区分された屋根トラスは、リングトラスで互いに結びつき、強度を保っている。峠ノ越は、六年まえ、すでにドローンでこれを破壊する計画を持っていました」

 この工学データはメモに残されていた。六〇メートルもの長大な張り出し構造の屋根庇は、木製トラスの特徴的な美しい形状を幾重にも重ねている。全周一〇〇〇メートルあまりの莫大な重量を基部で支え、その下の六万の観客席をすべて覆っている。

 娘の眼が見開かれる。

 振り返る。ぐるりと視線を回す。この膨大な全周の屋根構造をすべて視界に収めて、私に視線が戻ったときには、射るような眼光に変わっていた。

「これを・・・? まさか全部・・・?」

 峠ノ越の計算では、この施設三階のSRC梁三二か所の基部を破壊すると、屋根トラスの基部が、上部観客席ごと数十メートル座屈崩落する。屋根のリングトラス円弧の基部四か所を同時破壊すると、屋根を支え合うリング効果とアーチ効果が失われ、崩落箇所に引きずられる形で、この屋根トラスが一気呵成に崩落する。

 六万人の頭上に。

「峠ノ越のドローンは四八基。時間からすると、そろそろ上空に到達するでしょう。峠ノ越はそれを待っている」

 その言葉に、娘はもう一度空をあおぎ、そして燃える目で私を見た。

 警備が厳重な場所にあらかじめ大量の爆発物を仕掛けるのは容易ではない。しかし空は、ほとんど遮るものがない警備の空白地帯だ。高性能ドローンは、GPSにより、数十センチ単位で目標地点への精密自律誘導が可能で、通販で誰でも容易に手に入れることができる。二〇キロを超える荷物を載せ、時速一二〇キロ以上で滑空できるそれが爆発物を抱けば、携行式地対空ミサイルと大差ない効果を発揮し、軍事兵器以外でそれを止める術がない。ウクライナの戦争ではそれが実証されている。

 峠ノ越はこの大規模殺戮計画を、六年前にすでに作成していた。

「峠ノ越はどこ! あなたが読めてないはずがない!」

 娘は恐れている。

 無理もない。常人と比較して、峠ノ越は尋常な知能の持ち主ではない。

「いまの居場所は私にも分かりません」それは嘘ではない。

 六年前、過去の私は峠ノ越がドローンを使うと予測はしていたが、爆発物やドローンを、どこに隠したのかは発見することはできなかった。それらを峠ノ越が、どこからどのように動かそうとしているのかも分かっていなかった。そして、それを調べる時間も、観客を避難させる時間ももはやない。

「しかし、峠ノ越の破壊を止める手段はあります」

「それは・・・、それを早く・・・」

「それはこの会場のどこかにいる峠ノ越と、飛来するドローンとの間の通信手段を妨害することです」

「ど、どうやって・・・」

「誘導のシーケンスは自動ですが、起爆のコントロールは自動ではなく、必ず峠ノ越が握っているはずです。彼のドローンの制御は、六年まえのものなので、最新のものでなく、LTE上空通信を使っています」

 私の説明に、娘の視線が泳ぐ。彼女の願っていることは分かっている。

「じゃあ、峠ノ越を止める方法があるのね? でも、どうやってそれを・・・」

「それは

「え・・・」

「私は、基地局をすでに破壊してきました」

 ドローンなどに用いられるラジコン用微弱無線や、小電力データ通信は、長距離のドローン誘導には適していない。LTE上空通信は、ガラケーと呼ばれた携帯電話3G回線と同じ基地局を利用しているのだが、二〇二六年以降の廃止が決まっていて、この地域では中継局はすでに二箇所しかなかった。私はこの会場に着く前に、それらの通信を妨害する工作をしてきていた。

「そして、奴の姿を見つけるには・・・」

 まもなくその時刻になる。もう時間はない。

 私は、どんな犠牲をはらおうとも構わない。

 誰が死のうと、苦しもうとも顧みない。

 妻を圧死させ、娘の頭を瓦礫でつぶしたあの男。

 峠ノ越をどうにかしない限り。

「それを知る手段はもう、ひとつしかありません」

 その瞬間、すさまじい爆発音と、足元をすくう衝撃を伴って、爆風が私たちを激しく揺さぶった。

 一瞬にして照明の灯が失われたその区画に巨大な影が落ち、振り返れば、私たちが立っていた東側二層席Gブロックから上に一〇メートル、三層客席構造の上の屋根トラス基部が火炎を吐きながら巨大な口を開けて陥没してゆくのが見えた。多くの観客が、水に吞まれる蟻のように吸い込まれ、押しつぶされる。

 引きちぎられる金属鉄骨の絶叫にも似た轟音を鳴り響かせながら、六〇メートルの屋根トラスが、それらすべてを押しつぶしながら崩落していった。

 悲鳴と怒号。

 爆風は髪を燃やすような熱気をはらみ、地を這うように膨れ上がる煙が、巨大な生き物のように身をよじりながら成長する。

 崩落は止まず、二度、三度と激しい破壊音を発して屋根が沈む。

 多くの人間が倒れている。誰かを呼ぶ者、悲鳴を上げる者。血の色が多くの場所を染めている。

 耳を弄し続けている轟音は破壊の音ではなかった。この会場全体の人間たちが叫ぶ声だ。我先に出口へ逃げようと折り重なり、へし合う人々の波と、その足音は、建物全体を地震のように揺らしていた。

 阿鼻叫喚のその破壊の場所から数メートル、私たちはまだ、そこに立っていた。

 娘は呆然としている。

 あたまから白く、コンクリート片を浴びている。

 逃げる様子はなく、それでもなお、私を見据えた。

「これは・・・、いったいどうして、あなたは通信を妨害したって・・・」

「この爆発はまだ一か所に過ぎません。まだ四〇機以上残っています」

 炎が私の背を照らしていた。破壊と同時に東側ブロックのLED照明施設が沈黙し、半ばを闇に落とした観客席に燃えさかる火は、落ちかかる巨大な屋根トラスを照らし出し、背を曲げた巨獣のように禍々しいものに見せていた。

 会場は爆発によって大混乱に陥ったままだ。避難を呼びかけるアナウンスが叫び、悲鳴、破壊音が重なり合って、大屋根にこだましていた。逃げ惑う人々がまだ、折り重なって出口に殺到している。この会場は、普通のスタジアムに比べて避難路が多い。二層はそのまま広大な外周公園につながっており、三層から上の出口も緑地の外周部を持っている。

 そして波が引くように、左右の出口にむかう人々のその間を、私はゆっくりと降りていった。

 客席の最下層を過ぎ、すでに人影の消えたアリーナゾーンに降り立った。

 通信が不能になった場合、つぎに峠ノ越が取れる手段はやはり二つ。

 諦めて逃げる。

 またはを行うことだ。

 峠ノ越のドローンの動作には長距離用のLTE通信だけでなく、当然ながら、小電力通信による短距離通信制御が可能だ。しかし短距離通信には障害物の少ない環境が必要で、全てのドローンに同時に、そして確実に通信指令を送れる場所は、この会場の中心、つまり

 私が歩く後ろを、娘は逃げることなくついてきていた。

「どうして、どうして爆発が・・・、あなたが通信を妨害したというのなら、どうしてこんなことに・・・」

 私はゆっくりとその方向を指さした。

 その先、瓦礫が散乱するアリーナトラックのレンガ色の向こう、巨鯨の口のように開く一番ゲートの暗闇のなかに、男の姿が現れていた。

 私は峠ノ越を見たことがあるかもしれないが、当然記憶にはない。だが、それが奴であることは疑いがない。

 膝先まで隠れるオリーブ色のナイロンパーカのようなものを羽織った背の低い男で、目が細くて表情がなく、大きな獅子鼻の南洋系の顔立ちだった。中年にかかる年齢のはずだが、中学生のようなあばた面をしていた。

 その場に立つ姿はゆらゆらとして、うつむけた顔をせわしなく左右に振り、視線を斜め下からこちらに送って寄越すさまが、気持ちの悪さを抱かせる男だった。

 その手に無線装置らしきものがある。2.4GHz小電力データ通信システム向け通信プロポだ。

 私は羽織っているフィールドジャケットの大型ポケットから、それと同じような無線装置を取り出した。奴の持つ六年まえの機械より小型、高性能で、かつブーストをかけている。奴が使う周波数は確認済みだ。

 娘は峠ノ越と、そして私の手の無線装置を見ている。

「その機械は・・・」娘の声には恐怖がにじむ。それは、私に対してなのか、峠ノ越に対してなのかは判らない。

 峠ノ越と私は、同じような機械を手にしたまま、数十メートルの距離を置いて対峙した。

 私はいずれ峠ノ越が行うであろう行動を推測していた。ドローンを使うならば、どのような妨害手段があるかも考え、準備していた。短距離で直接通信を行うなら、同じ周波数の通信機で同じ指令を出すこともできると分かっていた。私の手にある機械は、峠ノ越がドローンへ爆破指令を発した場合、同時にその停止指令を発することができる。そして、爆破指令を出すことも可能なのだ。

 私は峠ノ越のドローンのそのひとつを爆破させていた。

「まさか・・・、あなた・・・?」

 私に向かって娘が叫んだ。

「なによ! あなたは警察に報せることもできた! 阻止することもできた! でも、あいつを逃がしたくなかったっていうの! そうなの! なにをしてるのよ!」

 私と峠ノ越の関係は警察に明らかとなっている。そして、私はすでに過去を捨てている。もしも峠ノ越が逃亡すれば、私にとって奴とまみえる再びの機会はない。

 峠ノ越は、崩落が起こる観客席ではなく、建物のどこかに潜んでいたことは予測された。破壊のあとに現れて、六年前と同じように自らの手による殺戮を行うことを考えていたはずなのだ。いま、期せずして起こったこの爆発は峠ノ越には想定外だったはずで、会場内に大混乱が生じれば、それに乗じて、まず間違いなく操作が可能な地点に姿を現す。

「もういちど言いますよ。四〇機以上のドローンはまだ上空に浮いたままです」

 峠ノ越に逃げる選択肢を選ばせない。そのためには惨劇の場が、地獄が必要だ。奴はその場所に向かう誘惑に勝てない。

 私と峠ノ越は、そのまま動かないでいた。

「君は観客といっしょに逃げたほうがいい」

 私はそう後ろの娘に向かって言ったが、彼女は動かなかった。

「あなたにとって、峠ノ越の破壊を止めることも、彼を捕まえることも、観客を救うことすら眼中にないのね。あなたの抱える化け物じみた欲望は、峠ノ越を跪かせることしか、彼の優越を無残に挫くことしか求めていない! そうなのね!」悲愴な声で叫んでいた。

 爆発の煙と、人々の叫び声の中、私と峠ノ越は見合ったまま言葉を交わすこともなく、動かなかった。それぞれの手にあるのは起爆のスイッチ。

「私ではなく、まず奴の心を読みたまえ」私は娘にそう言った。

 別なゲートの入り口に警官の姿が見えた。娘が呼んだ警察がここにたどりついた頃だ。おそらく、この爆発のニュースの広がりとあわせて、ここを警察が重層に包囲するのにあと数分もかからないだろう。峠ノ越が逃げるには、いまの観客の混乱に紛れて逃げるしかないのだ。

 しかし、逃げようとアリーナから離れれば、奴の通信は途絶え、

 峠ノ越は、自分が起こしたものでない爆発を見て、私の手にあるものがなんなのかは察しているだろう。大勢の人間がいる観客席を躊躇なく爆破した私がどのような人間なのか、推察しようとし、混乱しているだろう。

 峠ノ越は落ち着かない様子で周囲を見渡している。逃げる可能性を考えているだろう。混乱を起こすため、いくつかのドローンの爆破も考えている。だが、アリーナにいる私にはほとんど効果がないことも予想している。そうして時間が経つにつれ、観客の避難は進み、峠ノ越の企図した大量殺戮の被害は失われてゆく。

 峠ノ越は追い詰められているのだ。

 娘は、相変わらず逃げようとしない。私の意図は察しているはずだ。

「峠ノ越の選べる選択はもうひとつある」

「あなたは・・・あなたは彼を追い詰めて・・・」彼女の声は震えていた。

 銃や刃物で複数の人間を殺した犯罪者の多くが、そのあとに選ぶのは。

 すべて「自死」だ。

 頭上のすべての爆弾がプログラムどおり起動すれば、その爆発と建物の崩落はこのアリーナなどすべて吞み込むすさまじい破壊となるだろう。

「あなたはもう、記憶を読み直すことを必要としていない。あなたにとって、この場所からさきに、なにも行き場がない。あなたは・・・」

 私は毎日、妻や娘を失ったその日に戻っている。その地獄はこれからも変わらない。私にとって、など望んでも得られない。

「その理解で正しい。早く逃げたほうがいい」

「峠ノ越がしようとしていることと、あなたがやろうとしていることは同じ」

 そのとおりだった。しかし、私は奴に自死をさせるつもりはなかった。

 私は歩き出した。奴のほうへ向かって。

 峠ノ越は、一瞬、戸惑ったような顔をした。

 私は止まらず、歩を進める。

 轟音が響いて、かろうじて残っていたGブロックの二層観客席が崩れるのが、視界の端に見えた。

 黒い煙が立ち込めていた。

 燃え上がった三層基部の炎は、下層の設備に燃え移っていて、火炎とともに巨大な黒煙を吐いていた。

 陸上競技トラックのレンガ色のタータン、その柔らかさの上に、瓦礫の破片が散らばって、靴底の感触をざらつかせた。

 近寄ってくる私に向け、峠ノ越は警戒感をあらわに、顔をしかめた。

 二〇歩ほどに近づいたとき、峠ノ越は、パーカの下のトートバッグに右手を伸ばした。

 出したその手に

 私に向けて持ち上げる。

 それとほぼ同時に、私の右手も

 立ち止まらなかった。

 銃声は巨大な屋根庇に響き渡った。

 それは、あたかも西部劇の決闘のようだっただろう。

 峠ノ越は、刹那的な殺戮犯とは違う。周到な、そして綿密な準備を行える男だ。こうした計画犯の多いアメリカでも、犯人がまず手にしたいと願うのは銃だ。もっとも暴力的で、そして支配を容易なものにしてくれる道具だからだ。奴がこうしたものを入手している可能性は私の研究の想定内だった。周到という意味では私も同じで、そして準備を行う時間は十分にあったのだ。

 峠ノ越は足を押さえ、声も出せずにうずくまっていた。

 私に記憶はないが、おそらく私にはある程度の訓練がされている。私の手の銃は、峠ノ越が手にしていたショートバレルのリボルバーよりも、明らかに性能が高いものだった。

 峠ノ越が銃を向けるより早く、私の手にした銃は、五発のセミオートで弾を発射し、奴の足首を薙ぎ払っていた。素人でもまず間違いなく、相手の動きを止められる。

 私は銃を右手でホールドしたまま、慎重に奴に近づいた。

 峠ノ越の手には銃も、無線装置もなく、その足元に転がっていた。

 奴は両手で足を押さえ、目を硬く閉じ、歯を強く噛んで唸っていた。激しい苦痛のため、こちらを見る余裕すらない。足の骨を粉砕されれば、だれでもかなりの時間は身動き一つできないのは当然だ。

 その頭に、銃口をポイントする。

 熱風が、私の着ているジャケットをはためかせた。

 峠ノ越の目が薄く開き、脂照りのしている頬の向こうからこちらに向いた。

 私は、奴に向かって見よがしに、左手の無線装置を持ち上げた。

 この男に絶望を。

 振り向かず、後ろにいる娘に向かって言った。

「時間はあとわずかしかない。いまのうちに逃げなさい。早く」

 だがそのとき、娘は逃げることなく、私の前に立ちふさがった。

 死や、暴力におびえる者の目ではなかった。

「冗談じゃないわ! まだ建物にはひとがいる。私たちまわりの人間をなんだと思っているのよ!」

 私は応えなかった。

「あなたなら・・・、あなたなら理解してる! 自分がなにに支配されているかを! 自分の行動を冷静にみられる! なにに翻弄されているかを分かってるんでしょう! それに! あなたのその頭脳はどうしたのよ!」

「きみは私を理解できていない。きみこそ私を冷静に見るべきだ」

「あなたを・・・」

「それにためにはいくばくかの時間がどうしても必要だ。記憶の痛みがやわらぐための時間が、わずかでも忘れるための時間がだ」

 娘の頬が強張るのが判った。気づいたのだろう。

「そんな・・・」

 私にはそれは昨日のことだ。得る記憶もないが、薄らぐ記憶もありはしない。

「六年間、朝を迎えるたびリセットされる新しい私がいる。この苦痛に苛まれる私が。そのなかのが報復を考えた。それは翌日の、翌々日の私に引き継がれた。きみには分かるまい。私にとって、彼女たちはすべてだ。それを目の前で奪われたばかりの私に、まわりに目を向けろと説くきみと、報復の武器を手渡そうとする過去の私と、どちらを選べるのか」

 娘は私の言葉を理解している。だが、逡巡するようすはなかった。

「いいえ、あなたは分かっている。それもあなたが用意した都合のいい自分への言い訳。過去のあなたが手渡しているのはただ、報復と、支配が欲しいだけの悪意に過ぎないわ。だけどそれに抗わないつもりなのよ」

 それも真実だろう。否定する言葉は出なかった。

「坂田さん、この男にも、ほかの誰もあなたには勝てない。でも、クピディタスなら勝てるかもしれないわ。その方法を教えてくれた」

 娘が眼前に差し出すその手には、が握られていた。手の震えか、熱風かでメモは揺れていた。

 不明手だ。

 私はその意味を理解できなかった。

 私は銃を峠ノ越にポイントしたまま、通信機を足元に捨て、左手でポケットからメモの束を取り出した。それを何枚か繰ってみた。そのメモには、あらかじめ記録された幾枚かのページが失われていた。

 私の記憶障害は悪化していた。私の記憶はすでに二時間ほどしか保持されていなかった。だが、最後のときまで残された時間は数分もない。たとえメモをすべて奪われたとしても、あと私がすべきことは自死だけなのだ。

 娘もそれは分かっているだろう。ではなぜ、娘は私にそれを示すのか。

 娘は言った。

「ほんとうは、私はあなたに

 それは娘を見た当初に想定はしていた。六万人のなかの私の席に、娘は迷わずやってきていた。そしてその手のメモを見た瞬間に確信に変わった。過ぎ去ったどこかの時間にそれを奪われていたはずなのだ。だが、それが計画に支障となるなら、過去の私はそれをメモに記して自分に警告したはずなのだ。しないはずがない。

 私は再度、思考せざるをえなかった。

 私は手元のメモを何枚か繰ってみた。娘の情報はない。なにもない。

「私はそのとき、」娘はそう言った。

 どうしてそれが、記録されていないのか。

 娘が私にそれを告げることになんの意味があるのか。明確な答えがなかった。

「あなたと戦うために、手にできるカードは三時間以前の過去だけだと、クピディタスは教えてくれた」

 娘は一枚のメモを差し出した。

 娘のはだけたスーツの裾を、熱を抱いた風が吹き上げ、煙がその姿を霞ませていた。

 私はそれを手に取った。

 そこにはただ、今日の日付が記されているのみだった。

 六月一〇日―――。

 私に驚きはなかった。記憶が呼び覚まされ、わずかな動揺があっただけだった。ただ、それは今日が、であるというだけのことだった。

「あなたは知らない。三時間前に、あなたはある場所に立ち寄っている。過去のあなたはいまのあなたにそれを知らせていない。計画には必要のないことだから」

 その場所とは・・・。

 あの爆発があった商業施設などだろうか、いやそうではないだろう。

「あなたはケーキショップに行った、どうしてだか知らないけど。クピディタスが予見して、だから私はあなたに連絡が取れた」

 ああ。

 それは、妻や娘たちとの記憶にある場所。私が、そして娘の愛したもの。

 私の誕生日にケーキが用意されていた。だがそれは、娘が小遣いから買い求めようとしたために、飾られたもの、大きなものを用意できなかった。小さなカットされたシフォンケーキ。

 そして、それは用意されていたが、店に取りに行くことは叶わなかったのだ。

 それに執着があったわけではない。六年まえのケーキの用意がいまあるわけもない。だが、訪れたい誘惑があっただろう。おそらくはさまざまな思い出のなかで、ほかの者が知ることのない、安全と判断される場所として選んだのだ。

 だが、それだけでは説明が不足している。

「そこで私となにがあったのですか?」

「あなたはもう憶えていないのでしょうが、峠ノ越は別な事件を起こしていて、あなたは私たちを助けてくれた。あなたには必要のないことだったでしょうけど。そして、

 なぜ、なんのために私はこの娘と会ったのか。

「私はひとりできたわけじゃない。あなたに会ったのは、私だけじゃない」

 娘は私を見ていない。私は振り返った。

 後ろのアリーナに、黒い髪の女が立っていた。

 涼音だった。

 少し歳をとったように思った。私の記憶にある彼女は、六年前の彼女なのだ。いつもの黒っぽいスーツを着ていた。

 あれから彼女がどう生きてきたのか、私は知らない。メモには残されていない。

 照明がほとんど失われて、黒煙の舞うアリーナは暗かったが、泣いているのは分かった。

 私の記憶にある彼女の姿には変わりがない。その日も泣いていたのだ。

 そして、涼音の手には、があった。

「私たちは、三時間前もあなたにを手渡しました。それを見て、あなたは泣いていた。しゃがみこんで泣いていたわ。そして、私はこの復讐の中止と、その計画を話すように願ったんですけど・・・、過去のあなたはそれに応じませんでした・・・。峠ノ越に会わないままではできないと」

「手紙とは・・・」

 それは間違いなく、妻や娘に関わるものだろう。

 いま、それは復讐の計画とはまったくの無縁なことだ。だが、それを見たときから、いや、そのまえにケーキショップの話をされたあたりから、私の胸のなかで熱いものが大きくなって、呼吸をしづらくしていた。

「あたたは、彼女にその記憶のメモを託したわ。それは、判断をあなたに、三時間後のあなたに問うてくれ、そういう意味だと、私たちは理解しました」

 それは小さい手紙だった。

 黄色の薄い洋型封筒で、エッジに飾り模様が描かれていた。

 彼女は言った。

「これは・・・、あの日、あなたが受け取るはずだった手紙です・・・。志保ちゃんからの・・・」

 私の心臓は鼓動を強く打った。

 脳を血流が圧迫するのが分かった。

 私の誕生日は六月一二日だった。その日は、早めの誕生祝いにしようと言って、妻と娘は私を街に引き出したのだ。つい、のことだ。

 涼音が両目を両手で押さえ、人工芝の地面に落下するように膝をついた。うつむいたまま、震える声で言った。

「いまのあなたは知りません。これは遺品。事件の後、数日経って爆発の場所で発見されたものです。これはあなたの家に保管してあって、そして過去のあなたは毎朝これを目にしてきている」

 声が慟哭に変わる。

「そしてそのたびに、あなたは跪いて泣き叫ぶのよ‼」

 大きな声を発して、涼音は泣いた。

 私はただ、悄然と立っていた。

 黒煙が、巨大な虫の腹のような下部を見せて覆いかぶさり、照明を隠して闇を濃くした。

 彼女になにかを言いたかったが、その言葉が私にはなかった。

 娘が、涼音に変わって私に迫った。

「あなたはこの手紙を知らない。これを。ここにいるあなたは、奥さんと娘さんを失ったばかりの、六年まえのその日の父親なんでしょ!」

 その手紙の内容は、おそらくなんら重要なものではない。

 いま私の胸のなかを占めているもののほとんどは、怨嗟などよりも、残酷な喪失の苦痛なのだ。私は、その手紙に、そこにある温もりに触れることなく自死へと向かえない。そう娘は言っているのだ。

「競技場の外にはもう警察がやってきてるはず。そのままあなたがその銃を手放しても、峠ノ越は捕まえられる。これだけの証拠があれば、今度こそ断罪できるわ」 

 私の論理を従え得るものは私の本能だけだ。クピディタスは、おそらくそれは私を超えるもので、それがこの娘に与えた一手がこれなのだ。

 私は何度もそうしたように唇を噛んだ。

 だが、それだけでは十分な手ではない。

 その一手によって緩んだ私の心を、峠ノ越は見逃さなかった。

 私が娘を押しやって、銃口を奴に向け直すよりまえに、その膨らんだパーカの内側から出した奴の手には、もうひとつがあった。

「それではだめだ」私は娘にそう言った。私を封じただけでは足りない。

 娘は驚いた顔をしていた。

「涼音、この娘と逃げなさい」

「で、でも!・・・」

「あれを見なさい」私は空を差した。

 その視界の先、アリーナゾーンの中央の上空に、黒い、蜂の群れのようなものが蝟集しているのが見えていた。

「あれは・・・?」

「あれはこの男のプランBでしょう。この娘は私への対処だけを考えすぎて、奴の手筋を見落としました」

 それは別なドローンの群れだった。競技場の屋根を完全に崩落させるには、最初に用意したドローンがすべて計画通り爆破する必要がある。だが、それがかなわなかった場合に備え、二次策のドローンを用意していた。仮に私が奴ならその程度のことはする。それも想定されたものだった。

「競技場の周囲には、内部から逃げた観客がまだ取り巻いているでしょう。もしもそこへ多数の爆弾ドローンが落下すればどうなるか、考えなさい」

 私の言葉に、娘は戦慄おののいている。峠ノ越が求めているのは、できるだけ残酷な、そして派手な終末絵図なのだ。

「峠ノ越にドローンを自由にさせてはいけない。ここへ落とされれば、あなたたちも死ぬ」

 あれは座標誘導でなく、おそらく単純落下起動式の爆薬だ。誘導が効かぬ場合の二次策として用意するなら必ずそうする。

 痛みに耐えながら、峠ノ越はその上半身を起こそうとしていた。

 その目に喜悦の輝きが見えた。

 いま峠ノ越は、その手にある無線機のスイッチを指で押さえたままにしている。私が奴を殺せば、いま頭上にあるドローンは、自然落下して起爆する。ここで起こった爆発は、屋根に浮かんでいるドローン群をも巻き込む巨大なものになるだろう。

 奴の目は言っている。

 俺を殺せないだろう。そうすれば、自分もろとも娘たちも死ぬ。

 だが、その表情は凍った。

 私は、奴と同じくを取り出していた。

 峠ノ越の顔が驚愕にゆがむ。

「あなたは、それも読んでいて・・・」

 読んではいたが、無力化はできない。奴のドローンを落ちないように抑止はできるが、競技場の外へと誘導すれば、通信圏外に達した時点で落下し、爆発するだろう。

「ずっと空中に止めておくことはできない。涼音、逃げなさい。その娘を救いなさい」そう言って、涼音を見た。

 わずかなためらいののち、涼音はなにも言わず私に駆け寄ると、志保たちの手紙を私の胸ポケットに押し入れた。

 そして踵を返すと、彼女は娘を前から抱きすくめた。

 黒髪が風になびく。

 そのまま、振り向かずに第二ゲートのほうへ向かってゆく。娘は抵抗していたようだったが、涼音の体格にはあの娘では抗えまい。

 私は峠ノ越を見下ろしていた。銃口は奴に向けたままだった。

 奴は動けないまま、私を見返した。その目に激情はなく、虚ろな穴のように小さかった。

 ちょっと笑うように顔を歪ませた。

 次の瞬間、峠ノ越は、着ていたナイロンパーカを大きくはだけて、その下の姿をあらわにした。

 そこには体に巻き付けた、大量の固形爆薬の束があった。

 だが、同時に奴の顔が歪む。

 同じように、はだけて見せた私のジャケットの内側にも、同じような爆薬の束があったのだ。

 私は奴を傲然と見下ろした。

 絶望を。

 私は無造作に奴の腕を撃った。銃声が轟く。

 声を出せずに身を曲げて苦しむ奴の姿を、私は見たかったはずだが、その欲は失せていた。

 視線を外し、銃を足元に捨てた。

 胸ポケットの手紙を取り出した。それを開く手は震えていた。

 それは、志保の字だった。

 胸のなかが灼ける痛さだった。

 それは、妻と娘から父親への感謝の手紙。内容は、どこの家庭でもありそうななんの変哲のない、誕生日に宛てたありがとうの手紙。

 涙が視界を覆い隠すまえに、私は手のなかのスイッチを押した。

 逃げた涼音たちが間に合うタイミングを見計らっていた。

 無音のままだった。

 強い光が、屋根の木製トラスの美しい姿を照らし上げるのを見た。



 坂田のその姿を、私は見ていなかった。

 私は北美川に引きずられていた。

 煙が視界を奪ったままだった。呼吸するたび、樹脂の燃えるきつい匂いが鼻を突いた。

 そのすさまじい衝撃と轟音に襲われたのは、出口ゲートを抜けた瞬間だった。

 爆風が私たちをなぎ倒した。

 周囲にはすでにほかの人間はひとりもいない。

 壁面擁壁に巨大な亀裂が入るのを見た。後ろを見る余裕はなかった。このアリーナ部分は地下へ掘り下げた構造だ。上に登らなければ建物からは出られない。

 私は衝撃から立ち直ると、暗闇に近い周囲を見渡し、通路先の階段を目指した。

「立って! 急いで!」北美川が叫んでいた。

 足元が激しく揺れていた。コンクリートが軋む音が地響きとなっていた。

 一階のコンコースまでたどり着くと、割れたエントランスのガラスゲートの先に、外周の緑と照明が見えた。

 コンクリートの割れる音が、落雷のように立て続けに鳴り響いた。頭上では照明や空調を吊るす天井の金属構造がぶつかり合い、圧壊する金属音の絶叫を放つ。

 外へ駆けだしたその瞬間、観客席上部三層までを飲み込む巨大な火炎とともに、数千トンにおよぶ屋根庇構造が落下していった。建物の土台にあたる基部構造が割れる音が、まさに雷鳴となって轟き渡り、その上部の鉄骨と、木製構造物と、コンクリート外壁が内側に向かって崩落してゆく姿を、私は呆然と眺めるのみだった。

 最初の爆発で多くの観客が避難を開始していたため、多くは難を逃れたはずだが、最初の爆発でもすでに数百人規模の死傷者が出たことは間違いないだろう。

 破壊の音はまだ続いていたが、多くの者が声を吞み。そこは静かだった。誰もが立ったまま同じように競技場のほうを見ていた。

 警察車両の音が、重なり合って数多く聞こえる。

 思考は定まらなかった。

 風が吹いて煙の臭いを連れ去った。

 かなりの時間が経ち、頭上の立木の枝が風で鳴るのを聞いてはじめて、自分が地面に座り込んでいるのに気付いた。

 私の横に、北美川が立っていた。白いコンクリート埃で染められたパンツスーツの裾を、風がなぶっていた。

 その立ち姿は毅然としていたが、涙は止まっていなかった。

「ごめん・・・」彼女はそう謝った。

「なんで謝るの・・・」

「あなたがあそこにもし、いなかったら、私はここにはいられなかったわ・・・。坂田を・・・」そこまで言って声を詰まらせた。

 北美川は、坂田をおいて去りたくはなかっただろう。

「坂田には、もうこの先の人生は苦痛でしかない。あなたに止められるわけがない。それは私にも分かるわ」

「いいえ・・・、坂田は毎朝、あの手紙を見て狂ったように泣くの。毎日よ。私はそれを見るのがどうしても耐えられずに、何年かまえからあの手紙を見せないようにしてた。彼の記録を書き換えた・・・。でも、坂田はきっと見たかったはずなのよ・・・。その一日、何度も見るのよ。泣くけど・・・、でもその記憶は幸せでもあったのかも」

「しかたないじゃない」

 彼女の嗚咽が強くなっていた。

「いいえ、私が・・・、私がこれ以上、耐えられなくて・・・」

「それを言うなら、私のせいでしょう。あなたは私を引っぱって、あそこから逃がしてくれたんじゃない」

 北美川は、それきり泣くばかりだった。

 いずれにしても、終わったのだ、そう思った。

「・・・吉岡研で・・・、井部川のフィールドワーク、憶えてる?」

 北美川は、かつての大学の研究室の名前を言った。

「ええ、PFOSの汚染だったやつ?」あのころ、いくつもの地域の環境汚染の調査をわたしたちでやっていた。井部川は京都府北部の山間部だったが汚染の値が出た。だが、汚染の重要区域がK国の領事館の持ち物で、調査が行き詰った時期があった。

「私たちが諦めていたときに、あなただけが諦めなかった。大使館と、外務省に直談判に乗り込んで、結局、調査の権利をもぎとってきたわ」涙を拭かず、微笑みを浮かべて言った。

「言ったでしょ、私の養父がもと外交官だったって、コネがあったのよ」

「あとで聞いたわ。コネなんてほとんど利いてなかったって。あれで領事館員と産廃業者の癒着をあかるみにできたのよ。私、あなたなら、私にできない何かを変えてくれるような気がしたんだと思う。あなたの名前を、専属取材の候補に見たときから」

「あなたが、私を選んだの?」

「いやだったけど。あなたは私をいつも論破するんだもの」もっと笑った。

「ごめん、でも私、なにも変えられなかったわ。なにひとつ変わらなかった。結局、坂田のしたいようにしかならなかったわ」

「いいえ・・・、いいえ、私にはなにも分からず、私のいない遠いところで、なにもかもが終わってしまわなくてよかったわ。坂田が死ぬまえに会えて、あの手紙を渡せただけでもよかった」

 彼女は深いため息をついた。涙は止まっていたようで、重荷を下ろしたような安堵感を横顔に漂わせた。彼女は潤んだまなじりを結して、こちらを見た。涙の跡が土埃で汚れ、髪はひどく乱れていたが、それでも驚くほど美しかった。

「じつは、あなたに渡さなきゃならないものがあるわ。坂田からよ」

「坂田から? 私に?」

 それはの坂田なのか。さきほどの坂田も、三時間まえに会った坂田も、私を憶えてはいなかった。坂田にとって私の存在は、その計画に対しても、彼のなににとっても意味のあるものでなかったはずだ。

「昨夜の、坂田からの電話よ」私の心を読んだように応えた。

 それは峠ノ越のファイルを解読し、対決に向かうまえの最後のときだ。すべてを捨て、すべてを忘れ去る覚悟をしたそのとき。

「昨夜の坂田が私に? なんで?」メモを頼りにその日を生きる坂田のメモには、もっとも重要なことしか書かれない。私のことがなぜそこに。

「すべて終わったあとに、これを伝えろと言っていたの」

 北美川が差し出した手には、一枚のメモがあった。

 それは坂田が使っているものと同じ、閉じていないシステム手帳の一ページだった。

「電話で聞いて、書き記したけど、なんのことかは私には・・・」北美川は眉根を寄せた。

 そこに書かれていたのはいくつかの数字だった。

 その意味はこれだけでは判然としない。だが、そこに書かれた手書きの数字にはつい最近に見た覚えがあった。

 私はポケットを探り、そこに突っ込んでいた坂田のメモの束を取り出した。メモにはページ番号と思しき数字が書かれている。

「もしかして、このメモの数字はあなたが?」

「ええ、坂田が使うまえに私が用意するのよ」

 私は、奇妙な焦りを感じながらメモを繰った。彼女の言うとおりなら、伝えられたこの数字は昨夜のうちに用意されたもので、いま私の手にあるページと関係があるはずはない。

 このメモの束は、坂田から託されてより何度も見た。文章や数字や、記号が、精緻な筆跡でびっしりと記されたもので、意味の分からないページが多かったが、読める部分はほとんどが、この計画に係る過去のことだった。あの日付だけが書かれたページはそれだけが奇異で、託された意味を持つものは私にとってはそれしかなかった。

 私はその番号に示されたページを見た。そこには、数値と、記号しか記されていないものばかりだ。私には意味は分からない。だが、改めて見るそれには既視感があった。

 だ。

 戦慄に背中を震わせた。

 それは、私の胸に引っかかっていた。

 知能の神、坂田は、クピディタスに残された峠ノ越のファイルを消し去っておくこともできた。フェイクデータを残すよりもそうしたほうが、誰にも邪魔されることなく、計画を遂行できたはずだ。

 そうしなかったのには理由があったはずなのだ。峠ノ越のファイルを私たちに見せるべき理由が。そのファイルはクピディタスにもまだ全部を解読できていない。もしも、そこにまだ隠されたなにかがあるのだとすれば、坂田はそれを私たちに託したことになる。

 このメモは、まだ神戸の橘のもとには送っていない。

 私は立ち上がった。動くと、体から砂ぼこりが舞った。

「私、行かなきゃ!」北美川を振り返って、別れを告げるように手を挙げた。詳しい説明をしている余裕はなかった。

 足に痛みが走った。背中も痛かった。どこか怪我をしているかもしれない。体は汚れ、擦り傷だらけだ。

 だが、行かなければならない。また、なにかが私を急かし始めた。

「ちくしょう!」神を呪いながら、私は走りだした。

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