もう死にたくはないかつての少女

秋田健次郎

もう死にたくはないかつての少女

 娘が暗い顔で「死にたい」などと呟くものだから、瞬間的に体がこわばってしまった。


 なるべく深刻さを出さないように「どうしたのよ」と聞くと、その答えは案外くだらないものだった。


「グループLINEに間違って個別の連絡を送っちゃったの。すぐに消したけど既読もちょっと付いてたし」


「あらそう」


 なんだそんなこと、と思わず一蹴してしまいたくなるのを懸命に抑える。若い子たちにとってクラス内のあれこれは、すなわち世界そのものだ。私にも覚えがある。


 そういえば、私も学生の頃は頻繁に「死にたい」と思っていた。それも、娘の言う軽度なものではなく、もっと本気のやつだ。


 何か特定の理由がある訳でもない。突発的に死にたい気持ちがグツグツと煮えたぎるマグマのように湧いて出てきて、しばらくすると冷えて固まる。あの頃にできた火成岩は今でも私の心臓の内側にへばり付いていて、時折胸の痛みとしてあらわれる。


 40を超えた私は、もう死にたくなくなった。死にたいという感情をかつての自分が保有していたことなんてすっかり忘れている。


 けれど、ふと「終わりたい」と思うことはあった。洗濯物を取り込んでいるときや、夕飯の仕度をしているとき、「早く終わんないかなぁ」と漠然と考えている自分に気づく。


 この「終わりたい」が何を指しているのかは判然としない。しいて言えば、人生全般ということになるのだろうが、「死にたい」訳ではない。


 「死にたい」と「終わりたい」は違う。そのことだけは明確だ。「終わりたい」は「人生を終える」という表現があるように、なんだか穏やかな感じがする。「死にたい」はすごく刺々しくて人相も悪そうだ。


 でも、「終わりたい」にはかつての「死にたい」の面影がある。よーく見比べると輪郭の形とかが似ている。


 大きな違いはその具体性にあるのだと思う。人生には強い遠心力が付きまとう。日々が過ぎるたび、少しずつ遠心力に負けて手元から色々なものが離れていく。その中には自分自身の命さえ含まれる。


 思春期の頃までは、自分の命が手元にあった。だから、人生を終わらせるという事象に対して「死ぬ」というひどく残酷で生々しい具体化を施すことができた。


 しかし、成長するにつれて命は少しずつ手元から離れていく。社会人になれば、遠心力はさらに強くなっていく。気が付くと、命はずっと遠くにある小さな点になってしまった。


 そんな小さな点と「死ぬ」という生の感情を結び付けることは困難だ。「死にたい」という鋭くとがった衝動を分厚い膜の向こう側にしか知覚できなくなる。


 私は強烈な遠心力に振り回される。空っぽの体だけが中心にぽつんとたたずんでいる。


「ねえ、聞いてる?」


 娘の声で我に返る。


「ああ、ごめん。聞いてなかった」


 いま死にたい少女と、もう死にたくはないかつての少女。


「どうして、聞いてないの!」


 不安げに怒る娘は命を大事そうに抱えている。


 呆けた顔で対面する私は、遠く向こうの方で小さく輝く命を振り仰ぐ。その機微を観察することはもう叶わないけれど、北極星のように確かな道しるべとしてそこにある。

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