第一話 ぬらりひょんの住む家 5

「つまりハカセか」

 狂四郎は声を出して、心底おかしそうに笑った。徳利をおちょこに傾け湯気だつ酒を注ぐと、グイと一気に飲み干した。

「逆だ逆。その不埒なハカセが飯のタネさ。君。そんなところに立っていないで、上がれ上がれ。立って話すには、この先長いぞ」


 狂四郎は酒臭い息を吐くと、囲炉裏の客座を手のひらで叩いた。

 僕は狂四郎の真意を探ろうとして、奴の瞳を真正面からひたと見据えた。酒が入った眼はとろんとしているものの、芯が通っていることから我は忘れていないようだ。油断を誘うために、酔ったふりをしているのかもしれない。一見歓迎されている趣であるが、物の怪に言葉巧みに誘われている心持だ。

 そう。僕はこのまま関われば、とって喰われる予感がしたのだ。

 選択肢は怖気づいて逃げ出すか、踏みとどまって対決を続けるかだ。


 僕は詩乃殿に、恩を返しに来たのだ。ここで尻尾を撒いて逃げるわけにはいかない。意を決して草鞋を脱ぐと、どっかりと客座に腰を下ろした。すぐにおちょこを押し付けられ、とるや否やなみなみと酒を注がれた。

 僕が唇を食んで躊躇っていると、狂四郎は自らのおちょこにもう一杯注いだ。


「さっきわしが飲んで見せただろ。何も入れちゃおらんよ」

 彼はそう言って、おちょこを一気に空けた。

 同じ徳利に入っていた酒ではあるが、狂四郎なら僕だけに一服盛ることができるのではないか。どこか確信めいた猜疑心が、動きを鈍くした。されど飲まねば男が廃るというもの。これ以上男を下げてはなるものかと、おちょこを一気に空けた。


「おっ。君はいけるクチか。こいつは嬉しい誤算だ。カタブツだからダメだと思っていたぞ」

 狂四郎がすぐに二杯目を注いできた。

「何がだ」

「わしはてんでダメなんだ。酒で舌を緩ませて、人からモノを聞き出そうとすることがよくあるのよ。だが先にわしの方が潰れちまうのさ」

 狂四郎は豪快な哄笑を上げるが、僕が頬を引きつらせていると、不服そうに唇を捻じ曲げた。


「今の、笑うところだぞ」

「馬鹿。ちっとも面白くない」

「そうか。これでも寄席で勉強しているんだがネェ……」

 つまらぬ冗談で、弄ばれては敵わない。僕は強引に話を戻すことにした。


「それで妖怪狩りとは」

 ああ、そうそうと、狂四郎は手のひらを拳で打った。

「君。明治維新、文明開化、産業革命。政治が変わり、生活が便利になり、技術は進歩した。しかしだ。世に魑魅魍魎の話は尽きることがない。考えて見たまえ。教育が行き届き、日常に余裕が出て、科学が世を照らすようになったのにだぞ。何故だと思うね」

「お前のような輩が、流言飛語をばら撒くからだろ」

「そう。そして君のような無知蒙昧な輩のせいでもある」


「何を」

 と、狂四郎に身を乗り出すが、奴は僕のおちょこを酒で満たして黙らせた。

「先ほどまで見てわかる程度のことで、人を妖怪呼ばわりしたくせによく言うよ。人はな——無知や、心の闇、五感の錯覚など、理解できぬものを目の当たりにすると、適当な理由で片付け逃げてしまうのさ。さもありなん。無知よりも妄想の方が信じやすく、闇よりも光の方がはっきりと見え、錯覚を現実だと思い込んだ方が楽だからだ」

「つまり……何が言いたいんだ」

「人は真実から目をそらして、都合のいい現実を生み出す。結果食い違う実情に、辻褄を合わせるための存在が必要となるのだ。人はその辻褄合わせを、妖怪と呼んでいるのさ。わしはそれを狩って、飯を食っている」


「ハハァ。つまり君はさっき見せたような口車を使い、妖怪を生み出すことで人を誑かし、自ら火消しをすることで日銭を得ている訳か。とんでもない奴だな」

「おいおい……そんな面倒なことするもんか。妖怪を見つけだしては、ほとんど真理を明かしているぞ。騙すのはたまに……ナ。心の闇が関わると、そのほうが救われる場合もある。後は……解けずじまいで逃げて帰ることが少々だな」


 またもや僕のおちょこに、狂四郎が酒を足した。邪魔くさいとばかりに一口で干すと、鼻先がくっつかんばかりに詰め寄った。

「小松殿はどうなんだ。あのような真面目でしっかりした人物に、どう取り入ったかは知らん。だが恥ずかしくないのか。懸命に働く、自分より年下の、それもおなごに憑りつくなど。君の言う妖怪狩りに、どれほどの儲けがあるのかわからん。だが稼ぎがあるなら小松殿に迷惑をかけず、男らしく独り立ちしたらどうかね」


 狂四郎はここで初めて、口ごもる素振りを見せた。酒に弱いのは本当らしく、一杯口にしただけなのに、ランプが照らす横顔はほんのりと赤みを帯びていた。

「それは君の言う通りだ。だがチトばかり、複雑な事情があってだ。詩乃はナぁ——」


「もし。狂四郎様。おいででしょうか?」

 長屋の外から聞こえた詩乃殿の声に、狂四郎は話すのをピタリとやめた。両の頬を手で張って、だらしなかった相貌をきりりと引き締めると、腰を上げて戸口へと向かったのだった。

「ちょっと失礼する」

 狂四郎が戸板を開けると、行燈を手に詩乃殿が控えていた。


「まぁ。長屋でお飲みになるなんて珍しい」

 詩乃殿は狂四郎の赤ら顔を見ると、目を丸めて口をすぼめた。さらに座敷に僕が座っているのを認めると、口に手を当てて驚愕したのだった。

「犬飼殿……人と飲んでおられたのですか……一体何が……」

「詩乃。用向きがあって参ったのだろう。今犬飼殿と盛り上がっていてナ。早く頼む」


「失礼しました。人力が迎えに来ております」

「おお。そうだ。仕事があったナ。失念していたわ」

 狂四郎は慌ただしく座間に戻ると、机や棚を漁っては様々な小物を身につけていった。最後に壁にかけられた中折帽を目深にかぶると、僕に向かって一礼した。

「すまんな犬飼殿。これより仕事だ。これで失礼する」

 唐突な出来事に、僕は慌てふためくしかなかった。酔いが回りだした身体を懸命に膝立ちにし、土間へと出た狂四郎に手を伸ばした。


「待て。まだ話は終わっていないぞ」

 せっかく詩乃殿の話になり、狂四郎も何か言わんとしたのだ。この機会をフイにしてなるものかと、狂四郎の袖を握りしめた。どうせ仕事というのは嘘で、ていよくこの場から逃げようとしているに違いない。


 詩乃殿は狂四郎を盲信しておいでのようだ。このまま談判を続ければ、狂四郎の味方をして僕を追い出すであろう。しかしそれはもとより覚悟の上だ。ここで身を挺し、現実を突きつければ、きっと目を覚ます一助になるであろう。

 狂四郎もきっと困っているであろうと、その顔を見上げて言葉を失った。

奴め。竿に手ごたえを感じた漁師のごとく、にやりとほくそ笑んでいるのだ。そして掴まれた袖を振り払うどころか、むしろ僕の手を握り締めたのだった。


「そうだ。君も一緒にこい。どうせ仕官にあぶれて暇なんだろう」

 狂四郎の提案に、僕は頭の中が真っ白になった。事態を把握するのに、結構な時間がかかったと思う。まず仕事の話が本当だったことを受け止め、狂四郎の生業を思い起こす。そしてこれから何が起こるか想像を試みたところで、理解は限界を迎えた。


「なっ。ななな。何を馬鹿な。僕に何をさせるつもりだ」

 僕の狼狽えぶりといったら。詩乃殿が狂四郎の小袖を引いて諫め、彼なんぞは頬を膨らませて笑いをこらえるほどだった。

「狂四郎様。犬飼殿は東京を発たれるそうです。汽車もそろそろ最後の便が出るころですし、そのような暇はないかと。何より狂四郎様のお仕事は、危険を伴うではありませぬか」


「構わん構わん。どうせ行くあてのない風来坊だ。わしの遊興に付き合うぐらいの余裕はある。それに犬飼殿は立派な武士ぞ。妖怪なぞに後れは取らん。詩乃。人力にすぐ参ると伝えてくれ」

「狂四郎様がそう仰せなら。すぐに」

 詩乃殿は一礼すると、行燈片手に屋敷の方へと駆けていった。

 残された僕は、ほくそ笑む狂四郎と睨みあった。


「君な。勝手に決めるな」

「しかしだ君。このままあてどない旅に出ては、必ずや今生の心残りとなるぞ。わしという妖怪を残して、詩乃の行く末も見届けず仕舞いに終わるのだからな。それよりかは同道して、わしの人となりを見た方が建設的であるぞ」

 僕はここでようやく冷静さを取り戻して、今までのやり取りを振り返った。囲炉裏で待ち構えていた狂四郎に始まり、手際よく出された振る舞いの酒、そして詩乃殿のこぼした珍しいとのぼやき。終いには控えていた仕事だ。全ての点がつながっていき、僕を恐ろしい推論へと導いていった。


「妙に都合がいい展開だ……さては君。最初っから僕を撒きこむ腹積もりだったな」

「勘がいいナ。その通りだ」

「何が目的だ」

「さァな。残念だが——もう逃がさんからな。わしに付き合ってもらうぞ」

『逃がさん』という言葉に、僕は過敏に反応した。逃げるつもりなど毛頭ない。


「いいだろう。僕は逃げずに付き合ってやる。だが戻ったら話の続きだ。君も逃げるなよ」

「君ならそう言うと思ったよ。決まりだ」

 狂四郎は僕の手を握る腕に力を込めて、立ち上がる支えとなった。

僕と狂四郎は肩を並べて長屋を出ると、人力の待つ表へと歩いていった。

「行ってらっしゃいませ」

 詩乃殿が切り火を行い、夜の門出を見送ってくれた。

 僕と狂四郎を乗せた人力は、深い闇の中を最寄りの駅まで走っていった。

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狂四郎1906 溥吾 悠 @hoshino_sora

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