第一話 ぬらりひょんの住む家 4
狂四郎の部屋は、僕の部屋とそう変わらなかった。入ってすぐが土間、奥に六畳の座間だけの、極めて簡素な装いだった。遊び惚けている人間にしては質素すぎると、僕はなんだか肩透かしを食らった心持ちになった。出不精の癖に床に埃はなく、蜘蛛の巣もはっていない。奇麗なものだ。詩乃殿に掃除をさせているのかと思うと、はらわたが煮えくり返りそうになった。
狂四郎はというと座間の囲炉裏であぐらをかいて、背中を丸めつつ体をあぶっているのだった。奴が咥えたゴールデンバットの煙が、こちらまで流れて鼻先をかすめていった。
僕は土間に上がり、後ろ手に引き戸を閉めた。
「犬飼君か。訪ねてくるなんて、珍しいじゃアないか」
「廻殿。今日は申し上げたいことがあって参上した」
「かたっ苦しいなァ……狂四郎でいい」
狂四郎は肩を揺すって、忍び笑いを漏らした。その所作の薄気味悪さといったら。ランプの明かりが生み出す陰影も手伝って、本物の妖怪を相手にしている気分であった。
「そこまで仲良くなった覚えはない」
「冷たいね……まぁいい。わしから訪ねようと思っていたところだ」
「何ィ……君が僕に何の用だ」
「聞きたいことがいくつかな。君の話はその後でいいかね。まぁ、座れ座れ」
狂四郎はそう言うと、座間の客座を手のひらで叩いた。
「ここで結構だ」
客として訪ねたわけではない。談判しにきたのだ。懐柔されるつもりはないと、当然突っぱねる。
「とって食ったりせんよ。話がしたいだけだ」
「ここで事足りるであろう。君の話からでいいから、さっさと本題に入って欲しい」
「穏やかじゃないねェ。ま。これ以上能書きを垂れたら、頭をカチ割られそうだ」
狂四郎は吸い殻を灰皿に放ると、新しいバットに火をつけた。彼は深く吸って紫煙を吹き散らすと、ぼんやりと囲炉裏の火を眺めたのだった。
「君はどうして軍をやめたんだ。軍隊にいれば、当面安泰だったろう」
僕は驚きで、心臓が跳ねたのを感じた。狂四郎と世間話に興じたことはない。何故ぬらりひょんは、僕が軍人だったことを知っているのだろうか。心が浮つきそうになったが、すぐに落ち着きを取り戻した。僕が軍にいたことと、その所属を知っている人物は、狂四郎の身近にいるではないか。
「小松殿から聞いたのだろう」
詐欺師め。そういうことだったのか。狂四郎は初対面を装って事物を言い当てることで、さも予言者のように自分を見せているのだ。詩乃殿は齢十七で家を背負う身。重圧で生まれた心の隙間に、付け込まれたに違いあるまい。これが僕がなんとしてでも、詩乃殿の目を覚まさせてさし上げなければなるまい。
僕は鼻を明かしたつもりだったか、狂四郎は何でもないように続けた。
「そうだ。君を泊めていいか聞かれた際にな。君は確か……第九師団だったな。わしは第七師団だ。同じ第三軍。旅順で同じ光景を拝んだはずだ。あれのせいか」
「君には関係ない」
「そうか。わしは未だに夢で見る」
狂四郎はバットを吸い切らないまま、悪夢を振り切るように囲炉裏でもみ消した。
その程度か。僕は鼻でせせら笑ったが、狂四郎が次に放った言葉に、心胆寒からしめられたのだった。
「実家は道場をやっとるんだろ。武術を生業に生かすことにこだわっているようだが、なんで帰らんのだ。師範はいくらおっても困らんだろ。親父殿も喜ぶだろうに」
剣で身を立てること、実家が道場であることは、誰にも話していない。
「何故……知っている……」
自ずと、声がかすれた。
狂四郎はまたもや何でもないように、呑気に話を進めたのだった。
「あのナ。見てわかることをいちいち質問しても、話ははずまんだろ。ンでだ。何故実家に帰らんのだ。親父殿と喧嘩でもしたのか」
僕はそれまで堂々と狂四郎を睥睨していたが、嫌な記憶を思い起こして視線を伏せた。途端に追い打ちがかかる。
「そうか……親父殿は亡くなられたか。となると……多分……兄者の方か。勝手に廃業でもしてしまったか」
僕は全てをピタリと言い当てられ、口から心臓が飛び出そうになった。こいつはただ事ではない。本物の『ぬらりひょん』だ。
「貴様。さては妖怪の類か」
「そんなもの実在するわけないだろ。君も信じているわけでもあるまいて。おい。声を低くしろ。牛が驚く」
狂四郎は三本目のバットを取り出して、マッチで先端をあぶった。
「君が喋らんから、わしは憶測でモノを言っただけさ。はずすときもある」
狂四郎が煙草をふかし、僕は黙り込んだまま。長屋には重く、冷たい沈黙が流れ始めた。
やがて口を開いたのは、僕の方であった。
「実家が道場だとどうしてわかった」
狂四郎はくつくつと、喉を鳴らして笑った。
「大したことではない。農民にしては、身だしなみが良いし学もある。なんたって巡査になろうってぐらいだからな。しかし士族と違って偉ぶるわけでもない。となれば書生か道場のどちらかだ。書生はチャンバラなんかせんから、道場だとアタリをつけた。決め手になったのは、左手のふと指の根元だな」
僕が左手を持ち上げると、ふと指と人差し指の根元に古い切り傷が残っていた。
「鞘から真剣を抜くとき、未熟だとそこを切る」
「僕が剣にこだわっていることは」
「つまらん質問だな。自分がよく知っとるだろ」
「茶化すな。答えろ」
「朝夕と鍛錬に出かければ、誰だって気づくさ。求職も巡査一本で、他には目もくれないからなおさらだな。君は根が真面目だから、用心棒なんかは嫌いみたいだしな。ま。だから何で兵隊をやめたのか、気になったのだがね」
「やかましい。軍は肌に合わなかった。それだけだ。父上と兄上の件は」
「当てずっぽうさね。親父殿の名を出したら、君は口惜しそうに目を伏せた。喧嘩中の相手を思い出したら、唇を食むなり拳を握るなり態度に出るものさ。後悔なんざしない。それもあんな酷い類のな。ンで亡くなられたとアタリをつけただけ。そしたら残った道場がどうなるかだが、武術で食える時代じゃあないし、君が東京にまで流れてきた。家督は君になく、道場は無くなっちまったんじゃアないかと思っただけさ」
蓋を開けてみれば、ほぼ言いがかりに等しい推測だ。しかし全て当たっていて、僕は狼狽えてしまったのだ。奴の術中に嵌ったと言っても過言ではなく、恥辱で耳まで赤くなる想いだった。
「はずしたらどうするつもりだったんだ」
「そしたら君、得意げになって正解を話してくれるだろ。話がはずむじゃあないか」
「呆れた奴め。そうやって人を喰っては、誑かしているのか」
「おいおい。こんなもの手品にもならん。見ればわかること。コツさえ分かれば、誰だって出来るのさ。見ればわかることなんだ」
狂四郎はにやりと口の端を吊り上げたが、急に真面目な顔になって煙草で僕を差した。
「まぁ、あまり兄さんを責めてやるな。わしらが戦うために、血をこってりと絞られたんだ。仕方がなかったんだ」
「だが父上の愛刀を売らずとも済んだはずだ。仮に売るとしても、僕が帰るまで待つべきだろ。僕には剣を継ぐ、権利があったはずだ」
僕は無意識のうちに、怒鳴り声を上げてしまった。みっともない真似をしたと身を硬くするも、時はすでに遅し。狂四郎は半目になって、得心がいったようにほくそ笑んでいた。
「それが帰らぬ理由か」
「君には関係ない」
「あるんだなァこれが。聞けば仕官にあぶれて、東京を出るそうじゃあないか。今時風来坊なんて流行らんぞ。詩乃の誘いに応じて、ここに勤めればいいだろ。あいつは君を気に入っておったぞ」
思い出した。僕はこいつに談判しに来たのだ。危うく雰囲気にのまれて、本懐を遂げられぬところであった。僕は仰々しく咳を払って、場の区切りとした。
「君の話は済んだか。ならば僕の話をさせてもらうぞ。君のことだ」
「お。嬉しいねぇ。わしに興味を持ってもらえたか」
「ああそうだとも。君の素行は問題がある。小松家に巣食い、働かず遊び惚け、その悪評たるや耳を塞ぎたいほどだ。どれだけ小松殿に迷惑をかけているか、知らんわけではあるまい。小松殿はこれより工場を建て、さらなる発展を遂げようとしておられるのだぞ。その邪魔だてをするな」
狂四郎は根元まで灰になった煙草を、灰皿に放り投げた。
「ほー。ではどうしろと」
「小松殿にたかるな。まじめに働け。態度を改めよ。さもなければ僕にも考えがあるぞ。これだけ悪評が立っているんだ。脛に傷の一つや二つはあるだろう。警察に訴えてやるぞ」
「ははーん。わしを追い出した後、家に残るのは体裁が悪いから、詩乃の誘いを断ったのか。自らの食い扶持より、詩乃を取ったと」
僕はまた心境を言い当てられ、もう平静を保っていられなかった。威厳も何もかもかなぐり捨てて、みっともなく口早にまくしたてた。
「うるさい。それよりどうするんだ。態度を改めるのか。それとも小松殿にたかり続けるのか。さぁ。言ってみろ」
狂四郎は今まで見せた中で、一番薄気味悪い笑みを満面に浮かべたのだった。
「君。実にいい……実にいいヨ……」
狂四郎が不意に、囲炉裏にかけられた鍋に手を伸ばした。置物のごとく微動だにしなかった妖怪が、急に動いたのだ。僕は身体をびくりとさせて身構えたが、彼の手は蓋を取るだけに留まった。
狂四郎は囲炉裏脇の徳利を鍋に浸すと、そのまま温めだした。温まるのを待つ間に四本目のバットに火をつけ、先端から灰にしていく。どうやら僕が落ち着きを取り戻すまで、時間をかけて待っているようだ。
狂四郎は酒が燗すると、紫煙をゆったりと吐きつつぽつりと言った。
「わしは妖怪狩りを、生業にしておる」
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