第一話 ぬらりひょんの住む家 3

 この小松詩乃という娘は、大変な働き者だった。齢十七にして小松牛乳店を経営し、十を超える従業員と、その家族を食わせていた。

 牧場では六頭の乳牛を囲い、絞った乳を配達したり、乳製品に加工することで稼ぎを得ていた。なんでも祖父が御家人の家柄で、秩禄奉還で得た金を元手に商売をはじめたそうだ。

 俸禄を失った武士が起業する話はよく聞くが、成功した例は非常に珍しい。剣を握っていた手でソロバンをはじくのは難しく、生まれ持った気位が邪魔して客を上手に扱えないからだ。


 詩乃殿は違った。朝は日も出ぬうちに床を出て、従業員と共に牛舎に入る。汚れを厭わず糞を掃き出し、牛にかしずいてその乳を搾り、涎を垂らす畜生に餌をやっていた。

 昼になれば店先に出て、製造した乳性品を売っていた。客が「看板に偽りなしか」と問い質せば、「これは私が搾りました」と笑顔で応対するのだ。たまに不逞な輩が「お前さんの乳が入っているのはどれだ」と下品な冗談を吐くが、怒りもせずに「そちらは将来、私の子供のみが頂けるものです」とさらりとかわしていた。とても駅で喧嘩をしていた娘と、同一人物と想えない振る舞いだった。どうやら狂四郎殿のことになると、意固地になってしまうようである。


 詩乃殿の働きぶりに感心している間に、試験の日が訪れた。この日は朝の搾乳に、詩乃殿の姿が見えなかった。さしものの働き者も、休みを取らねば潰れてしまうだろう。詩乃殿は働き過ぎだ。僕は内心ほっとしながら、警察庁へと試験を受けに行った。

 首尾は上々である。法律は勉強の成果が出て、つまるところなし。作文も算術も間違えたるところなし。武術に至っては、相手の警部をのしてやった。これで合格しないなら、誰が巡査に相応しいというのか。鼻歌を奏でながら警察庁を出て、意気揚々と帰路についた。


 小松牛乳店のある郊外に出るには、東京駅から汽車に乗らねばならないのだが、道中には寄席があった。もっぱら夜に演るものだが、今日は珍しく昼間から開いていた。

 僕は居候の身だ。遊興に金を割くほど、馬鹿ではないと自負していた。普段は逃げるように目を背けていたが、試験が上手くいったとあって浮かれていたのだ。ぶらぶらと足を寄席の方へと向けた。

 ふと、寄席に行く民衆が口々に「今日はべこ姫が出る」「今日はべこ姫が出る」と騒いでいることに気づいた。べこに姫ときたら、真っ先に思い浮かぶのは詩乃殿のご尊顔であった。


 どうしても気になって、吸い寄せられるように看板へと近づいた。張り出されている演目には、確かに「べこ姫」と書かれてある。撃剣の一種らしく、薙刀を演るらしい。

 今朝は姿を見かけなかったが、まさか見世物に出る訳があるまい。演目を見ながら考えていると、木戸を仕切っている女に声をかけられた。

「お前さん、小松のとこの居候だろ。見ていくかい」

 僕の脳内には様々な疑問が溢れて、一瞬固まってしまった。どうして小松家の居候だと分かったのか。本当に詩乃殿が撃剣を演っているのか。牛乳屋をやっているのに、何故見世物にまで出るのか。全ての疑問が片付かないまま、僕は首を振って返事にした。


「仰る通り、自分は小松家の居候です。それゆえ家賃も払わぬのに、遊興に金は使えません。邪魔してすいません」

「お嬢の身内から金をとるもんか。立見席ならロハでいい。入りな入りな。丁度始まるところさね」

 女は木戸に渡された縄を緩めると、僕の腕を掴んで強引に劇場へと押し込んだのだった。


 これも詩乃殿の人徳のなせる業か。感心しながら仄暗い廊下を手探りで進み、暗幕をのけて場内に入った。高座では出囃子が鳴り、ちょうど演目が始まるところだった。

 上座から駆け足で、着物に襷をかけた乙女が躍り出る。他ならぬ小松詩乃殿である。彼女は薙刀を振り回した後、石突で床を一撃して見栄を切った。

「べこ姫。ここに参上」

 今朝搾乳に出なかったのは、役者になるため臭いがつかないようにしていたのか。べこ姫は見事な薙刀を演ってみせ、しまいには「悪鬼羅刹は討ち伏せたり。これにて私もお役御免。薙刀を乳に持ち替えて生きましょう」と口上を述べた。


 寄席が終わって小松牛乳店に戻れば、そこは大層な人だかりが。「あのべこ姫が搾ったというのは本当かね」「どれ牛乳を一つ」と、牛乳や乳製品が飛ぶように売れているのだった。

 実に商売の上手い娘だ。このような手合いで、小松牛乳店は大変な繁盛だった。詩乃殿が計画する工場建設は、もはや夢幻ではなく、いずれ来たる現実だと言えた。


 しかしだ。

 詩乃殿が入れ込んでいる、廻狂四郎という男。

 こいつはとんでもないやつだった。


 狂四郎殿の生活態度は、一言で表せば怠惰極まりなかった。

 小松牛乳店の皆の衆は、日が出る前に床を出て、かいがいしく牛の世話をしている。狂四郎は日が昇っても長屋を出ることがなく、詩乃殿の仕事を何一つ手伝おうとしなかった。ほとんど引き籠っているので、何をしているかさっぱりだ。食事はというと、詩乃殿自らが朝、昼、晩と、お膳に食事を乗せて運んでいくのだ。


 たまに外に出たかと思えば、ほとんどが遊楽の為であった。貸本屋で山のような書籍を借りてきたり、寄席を楽しんできたり、悪い時なぞ酔い潰れて玄関でいびきをかいていることもあった。あくせく働く詩乃殿を尻目に、よくもここまで遊び耽られるものだと、逆に感心したものだ。


 更に悪い事に、小松牛乳店に間借りしていると、狂四郎の悪い噂が嫌でも耳に入ってくる。やれ電信柱の下で一日中空を眺めていたとか、それ犬の交尾をしげしげと観察していただの、あげればきりがない。世間での評判が悪いのもしょうがないことだ。詩乃殿はどうして、こんな輩を囲っているのか。


 そしてこやつ、確実に仕事を持っていない。内職をしている素振りもない。にも拘らずだ。遊興にかける金は尽きないのである。詩乃殿は否定しておられたが、裏で金を渡しているのではないかと、思わずにはいられなかった。


 狂四郎は週に一度、ふっと姿を消した。出稼ぎではないことは容易に想像がつく。何故ならいつもの洋装に帽子を目深にかぶり、ほぼ手ぶらで出かけるからだ。物見遊山で間違いないだろう。留守にしたのは大体三日ほどで、帰ってきたかと思えば詩乃殿に肉鍋を作らせてかっ食らっているのだ。これをゴクツブシのクズといわず、なんと呼べばいいというのだ。


 駅の酔っぱらいが、狂四郎を罵るのも頷けるというものだ。事実、市井の皆なぞは、『ぬらりひょん』などと彼を呼んでいるのだった。言わずと知れた、多忙なる家に上がり込み、勝手に茶などを啜る妖怪である。

 僕は詩乃殿の手前もあって、狂四郎に会うたびに、虫酸の走る想いで会釈をしたものだ。相手方も礼儀は弁えているらしく、帽子を取って会釈を返してくれる。しかし中身の伴わない礼節など、詐欺師の囁きに等しいものだ。僕はすっかり狂四郎が嫌いになっていた。


 さて。約束の一か月が経った。僕は小松牛乳店の店先に立ち、配達人が来るのを緊張しながら待った。やがて夕刻過ぎに届いたのは、不採用の通知だったのである。



「申し訳ありません。小松殿の厚意を無駄にしてしまいました」

 小松家の客間にて、僕は深々と頭を下げて詫びたのだった。

「犬飼殿、頭を上げてください。何も謝ることではありません。今回は運が悪かったのです」

 詩乃殿は優しい言葉をかけてくれたが、僕が結果を出せなかったことに変わりはない。不甲斐ない自分ごときが、これ以上詩乃殿に迷惑をかけるわけにはいかなかった。


「お約束通り、明日には長屋を引き払います。小松殿。この度は私に住居を与えてくださったばかりか、食事まで出していただきまして。本当にありがとうございました」

 詩乃殿は唇に手を当ててしばし考え込むと、ひたと真摯な眼差しで僕を見つめた。

「犬飼殿。ここに滞在の間、仕事を良く手伝ってくださいましたね。今ではかなり勝手も分かっておいでだと思います。どうでしょうか。一つ私どもの店にお勤めになりませんか。巡査の募集は、これからも出るはずです。東京に留まり機会を窺えば、いずれや巡査になれるのではないでしょうか」


 願ってもない申し出だ。だが僕は縦に振れそうになる首を、肩に力を込めて止めたのだった。

「北に行くと、もう決めたのです。名残惜しいですが、これにて失礼いたします」

今の僕にあったのは、詩乃殿の御恩に報いたい気持ちであった。

 廻狂四郎。あの男はいけない。詩乃殿に寄生し、その生き血を啜る妖怪である。どのような経緯があって、今に至るかは知らないが、どう考えてもあの男は詩乃殿に相応しくない。


 僕が詩乃殿の恩に報いるには、この獅子身中の虫を退治する他ないと確信していた。狂四郎を追い出し、入れ替わりに僕が居残っては、世間は彼女をなんと謗るだろうか。男を入れ替えただの、遊び癖があるだの、根も葉もない噂話に興じるに違いあるまい。

 詩乃殿はこれより工場を建て、栄えある一歩を踏み出す身である。狂四郎や僕のような、汚点なぞ許されないのだ。


「身支度を済ませたら、もう一度挨拶に参ります」

 僕は一礼すると、客間を後にした。

 荷物を鞄にまとめて、室内を入居前より奇麗に掃除する。それから畳の上で正座をして、心穏やかに瞑想にふけった。

 六つの時に初めて剣を取り、以降毎朝毎夕鍛錬を欠かしたことはない。なんの為か。人を守るためである。


 意を決して目を見開くと、僕は部屋を出て隣の狂四郎の戸板を叩いた。

「廻殿。おいでか」

 返事はない。だが隣に住んでいるのだ。居るのはわかっている。

「廻殿。廻殿」

 しつこく戸板を叩くと、「どうぞ」と中から返事がした。それならばと、不安を振り払うように、引き戸を思いっきり開いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る