第一話 ぬらりひょんの住む家 2

 女は名を小松詩乃と言って、東京の郊外で牛乳屋を営んでいた。案内されたのは武家屋敷に手を加えた牧場で、馬屋は牛舎に改造され、かつて武士が修練したであろう庭地には牛を囲っているのだった。詩乃殿は装いや口調から由緒ある人物とお見受けしたが、どうやら士族の出自のようだった。


 奥の屋敷に通される際、店先を経由したのだが、このような歌が書いてあった。

『このたびは 姫も搾りし牛の乳 姫が搾りて 安く売ります』

 これは上手い文句だと感心したものだ。詩乃殿は別嬪であったし、姫を拝むついでとあれば、牛乳の一杯ぐらいは安いものだろう。元士族にしては、商売というものを知っておいでのようだ。


 さて。僕は客間へと通され、改めて詩乃殿よりお礼の言葉を賜った。それから他愛のない身の上話をした後、空腹ということで暖かいご飯をご馳走となった。白米に牛肉、みそ汁に総菜という、豪勢な食事がいかに体に染みた事か。旨味の暴力に、顎を外れるかと思った。

 食事を終えて一息をつくと、互いのこれからが話題となった。


犬飼馬鞭助殿いぬかいまめすけと仰いましたね。出征先で軍隊をおやめになり、最近朝鮮から戻られたと」

「はい。悲惨な戦いで、いろいろ思い直すことがございました。それで職を求めて東京に参ったのですが、こちらも景気は良くなさそうですね」

「ええ。税は下がらぬまま、賃金だけが安くなっていきます。その安い職ですら、地方から出稼ぎにきた人々が取り合い、減るばかりですので」

「小松殿の店は安泰そうで」

「いえ。私どもも牛乳営業の法律が変わりまして、その対応でいろいろと苦慮しております。私どもは郊外に居を構えているため助かりましたが、東京市中の同業は廃業を余儀なくされました」


 詩乃殿はそう呟くと、虚しいため息をついた。

「と、おっしゃられると」

「衛生の観念から、市内に牧場を置けなくなったのです。今のところは廃業した店の分も注文を頂き、店は繁盛しております。しかしこのまま昔ながらの業態を続けていれば、いずれ出来るであろう工場に食い扶持を奪われるでしょう。資本化はどこでも進んでいるのですよ」


 詩乃殿はここで首を傾け、不安を打ち払うようににっこりと微笑んだ。

「今は私がその工場を創るために、資金を稼いでいるところですね」

 何て立派な人だ。世相に注視し、過去にしがみつかず、未来を恐れもせず、進むべき道を見つけて歩んでいるのだ。僕は東京に来て、この人を助けられただけでも十分な価値があったと思った。


「あなたはこれからどうなさるおつもりでしょうか」

「僕は——金を使い果たす前に——東京を——」

 比べて僕は何なのだろう。僕より年下の、それも婦女子が、しっかりと前に進んでいるというのにだ。何もできないまま、東京から逃げようとしているのである。情けないったらありやしない。しかし本当に恥ずかしいのは、挑戦せずに時代に流されることではないだろうか。詩乃殿は僕にそう思わせてくれたのだった。


「小松殿。図々しいですが、恥を忍んでお頼み申す」

 僕は居住まいを正して、畳に三つ指をついた。

「犬飼殿。急にどうしたのですか」

 詩乃殿が軽い悲鳴を上げるが、僕は恥も外聞も投げ捨て、畳に額を擦り付けた。

「私、犬飼馬鞭助。職を探して東京に参りましたが、働き口が見つからず今日を迎えました。しかしこのたび駅の広告にて、警察官の求人を見つけたのです。この絶好の機会に預かりたいのですが、宿は引き払いもはや身の置き場がございません」


 一度面を上げて、詩乃殿を真正面から見つめる。

「そこでお願いがございます。納戸でも馬屋でも構いません。警察の試験を受ける間、どうか僕をこの家に置いていただけないでしょうか」

 再び僕は深く頭を下げ、畳に額を擦り付けた。

「犬飼殿。顔を上げてください」

 僕が面を上げると、詩乃殿のきりりと引き締まった相貌があった。

「期間はどのくらいでしょうか」

「試験は今週。結果が出るのは一月後です」


 詩乃殿は顎を引いて、ちょっとの間考え込んだ。やがて瞳を閉じて、何度か浅い首肯を繰り返した。

「承知しました。いいでしょう。ただ条件が三つあります」

「何なりと」


「一つ。私どもが生業に育てている牛は、精神敏感で大きな物音で体調を崩し、乳の出が悪くなります。滞在中は大声で騒いだりなさらぬよう、強くお願い申し上げます」

「分かりました」

「一つ。私ども小松牛乳店では、今以上の働き手を求めておりません。不況ゆえに、これ以上人を養うことができないのです。約束の期日が過ぎれば、引き払っていただきます」

「そちらも分かりました。不安無きよう申し上げておきますが、仕官できなかった場合は北へ流れる心積もりです」

「最後に。これが重要です。この小松牛乳店の屋号を、背負っているのは私です。しかし全ての裁量を握っておられるのは、廻狂四郎様にあらせられます。そのお方が『良し』と首を縦に振らなければ、全てご破算です。お引き取り下さい」


 廻狂四郎。駅の件から気にはなっていたが、あえて触れなかった人物の名が出た。駅の男曰く、ゴクツブシのクズで詩乃殿にたかり、遊び惚けている阿呆である。しかし詩乃殿曰く、今の生活を与え、戦争にも出征した立派な人間だそうだ。

 世間と身内で、ここまで評価に隔たりが出るのは珍しいことである。偏屈な人間である可能性が高い。


 しかしながら冷静になって考えると、男は鬱憤が溜まっていたようだし、詩乃殿の身持ちはしっかりしている。きっと世間が詩乃殿の苦労も知らず、資産家だと妬み、口悪く罵っていただけなのだろうと僕は考えた。


「して、その廻狂四郎なる御仁はいずこに?」

「今はおやすみだと思います。こちらで御寛ぎながら、しばしお待ちください。私は仕事がありますので、これにて失礼します」

 詩乃殿は僕に一礼すると、静々と客間を後にしたのだった。

 一人残された僕は、縁側から牛が放たれた敷地をぼんやりと眺めた。人夫がかいがいしく牛の世話をし、鶏が駆け回るのどかな光景が目に入る。人は浮世の惨状など知らないがごとく安心して汗を流し、家畜も良く肥え生き生きとしている。貧民街での有様を目にしてきた僕にとって、この牧場は別世界の様であった。かような経営を成せるなら、廻狂四郎なるはさぞかし大人物なのであろう。果たして僕なんぞが、御眼鏡にかなうであろうか。心の臓を握りつぶされるような心持で、お呼びがかかるのをじっと待つ。


 半刻ほど過ぎただろうか。詩乃殿が戻られた。

「狂四郎様がお会いになるそうです」

 僕は詩乃殿の案内に従い、その後ろに続いていった。しかし妙なことに、屋敷には立ち入らず、店先へと連れ出された。そのまま牛の囲い沿いに、牧場の方へと連れていかれる。

 成程。きっと廻狂四郎殿は、従業員と共に働いておられるのであろう。詩乃殿が勤勉なのは、彼を見習ってのことであろうな。

 労働にいそしむ人夫に、それらしき御仁がいないか視線を巡らせた。人夫が「お嬢」「お嬢。お疲れ様です」と、笑顔で挨拶する中を進んでいくが、誰の前でも足を止めない。やがて詩乃殿は、敷地の隅にある古ぼけた小屋で足を止めた。


「小松殿……こちらは長屋では……?」

 いわゆる労働者の為の、集合住宅である。一つの軒身に大体六室ぐらいが連なっており、一室が約六畳一間で寝食をする程度の生活空間しかない。恐らく小松牛乳店で働く家族が居にしているのであろうが、詩乃殿が崇める御仁が住んでいるとは思えなかった。


「その通りです。私がどれだけ申しても、本人が屋敷におあがりになられないので」

 詩乃殿は愚痴のように独り言ちると、凛と鈴の鳴るような声で呼びかけた。

「もし。狂四郎様。お連れしました」

 長屋からのそのそと、人の蠢く気配がする。やがて戸板を開け放って、そいつが姿を現した。僕の想像とは異なる散々な出で立ちに、しばらく開いた口が塞がらなかった。


 廻狂四郎なる人物は、洋装に身に纏った二十過ぎの若者だった。縮れたザンバラを暗幕のように顔に垂らし、歪んだ笑みを浮かべる口には煙草を咥えていた。目が悪いのか、かっと見開いた右目に対して、左目は凝らすように細めている。身の丈は僕と同じぐらいあるようだが、酷い猫背のせいで一回り小さく見えるのだった。

 このみずぼらしい、いかにも怪しい男が、廻狂四郎らしい。


「詩乃。その御仁か」

 煙草の吸い過ぎだろうか。酷くしゃがくれた声が耳朶を打った。

「はい。犬飼馬鞭助殿です。東京に職を求めていらしまして、警察官の求人に応募する間、この家に間借りしたいとのことです」

「ほー……成程ね……」

 狂四郎は無精髭を撫でながら、僕の全身を不躾に視線で舐めまわした。まさかこのような怪人から、奇異の眼差しを向けられるとは思わなかった。かなり居心地が悪いものである。じっと堪えていると、狂四郎殿は煙草の紫煙を吐いた。


「いいんじゃアないか」

 たった一言。狂四郎は呟くと、戸板を閉めて引きこもってしまった。

 詩乃殿は何も言わず、狂四郎の隣の部屋を手で示した。

「よしとのことです。狂四郎様の隣へどうぞ」

「あ……ありがとうございます」


 それから。僕は詩乃殿が屋敷に引き返すのを見送ると、長屋の畳に腰を下ろして呆然としていた。詩乃殿のご厚意に預かれた喜びより、仕官に挑戦できる楽しみより、仕切りのある部屋に住める嬉しさより、廻狂四郎のいやらしい笑みが気になって仕方がなかった。


「なんだあいつは……」

 得体の知れない人間が、たった一枚の壁を隔てた隣にいる。どうして詩乃殿は、あんな奴を様付けで呼んでいるのだろうか。実のところ巷の醜聞は、真実なのではないか。気がかりでしょうがない。

みっともないと分かりつつも、そっと壁に耳を押し当てて、隣の様子を探ってみた。ぐーぐーと、だらしないいびきが聞こえるのみだった。

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