第一話 ぬらりひょんの住む家

 僕は初めて、残飯屋で買い物をした。

 一升で三銭。出所は料亭や兵営の残りである。茶碗に盛られたカピカピの焦げ飯に視線を落として、覚束ない足取りで木賃宿への帰路につく。兵隊をやっていた頃は山のように食えた白米を、こんなおこげを、それも金を出して食らうことになろうとは。来るとこまで来たかと、己の不甲斐なさにジンと目頭が熱くなった。


 忘れるものか。明治三十九年の秋だ。

 日露戦争が終わって早一年が経とうというのに、民衆の生活は困窮するばかりだった。民衆は戦争に働き手を取られ、畑仕事を介助する牛馬も缶詰や軍馬にするため召し上げられてしまったのだ。国民の献身もあって戦争に勝つことはできたが、かつての清のようにロシアからは賠償金を取れなかった。残ったのは戦費を賄うために、これでもかと上がった税金だけだ。


 追い打ちとばかりに戦後経済は金権が専横し、富豪が新たな事業を興すのを他所に、貧民はますます困窮していった。都内で鉄道網が整備されれば、その利便さに負けて人力車夫が職をなくす。工場が操業を始めれば、その生産力に負けて職人組合が崩壊するといった具合だ。彼らは富豪連中が定めた劣悪な労働契約に甘んじ、日雇いの仕事を求めなくてはならなかったのだ。


 僕がねぐらとする木賃宿も、その日暮らしで糊口をしのぐ連中が溢れていた。戸板はおろか間切りすらない吹きさらしの畳の上では、疲れ切った男が横臥していびきをかき、翁が背中を丸めて内職にいそしみ、年端もいかぬ子どもが空腹を誤魔化すため指をしゃぶっているのだった。


 周辺の貧民窟も、人が減るどころか増える一方である。地方から職を求めて、貧民が流れ込んでくるのだから当然だ。

 木賃宿の畳であぐらをかき、茶碗の残飯をぼんやり眺めた。買い足した総菜であるタクアンが、食事に彩ではなく哀愁を加味している。猶予はもうなかった。


「東京に来れば何とかなると思ったが……みな考えることは同じか」

 人が増えれば職はますます減り、労働条件もより悪くなっていくであろう。その日暮らしも難しくなってくる。兵隊時代の貯蓄も僅かとなったため、貧民窟で身動きが取れなくなるのも時間の問題だ。


「剣を生かす職につくには東京だと思ったが……ここに居場所はないようだ。動けるうちに他所へ移るか」

 僕のような流れ者を師範に向かえる家がなければ、雇い入れてくれる道場もなかったのだ。

 そういえば南樺太は、新たに日本の土地となったはずだ。治安も悪く、まだ剣が求められているかもしれない。一発かけて目指してみようか。東北を旅しながら、北を目指すことにしよう。

 僕は絶望で呆けそうになる顔を凛と引き締め、茶碗の残飯に食らいついた。



 運命とは時に、洒落にならない悪戯をするものだ。

 僕が東京を発つ決意を固め、駅で時刻表を眺めていた時だった。隣の掲示板に、警察官が半紙を張り付けていった。

 戦後は治安も悪くなった。また手配書の類か。何気なしに覗いてみて、その場で飛び上がらんばかりに驚いた。なんと巡査職の求人だったのだ。

 初任給は五円であるがなんのその。官職ゆえに安泰だし、師範以外で剣を生かせる。何より人と暮らしを守る仕事というのが嬉しい。応募条件の年齢も、僕は二十四だから問題なし。読み書きも算術も、求められる水準を超える自負があった。


 しかしながら——今の僕は木賃宿を引き払って、住居を持たぬ身分だ。僕のいた空間は、恐らく新たな客が入ってしまったと思われる。採用試験がある一週間後まで、果ては結果の出る一月後まで、東京に滞在するのは難しいことだった。よしんば新たな宿を借りても、貧民街に身を置く自分なぞは、選考ではじかれる公算が高い。お上は出自の怪しい貧民よりも、身元のしっかりした平民を採用するだろう。


「運がなかったか……」

 僕は唇を軽く食むと、断腸の思いで張り紙の前から退いた。

「言わせておけば、流石に我慢がなりません。今の言葉。取り消しなさい」

 突如構内で上がったのは、甲高い女の怒号だった。

 何事かと視線を走らせると、男と女が今にも取っ組み合いを始めんばかりに睨みあっていた。


 男は僕と同じ、日雇いの身らしい。汚れた和装に無精ひげといういでたちで、酒も入っているのか赤らんだ顔を、怒りで殊更茹で上がらせていた。対する女は身分のある人物らしい。小奇麗な和服を着こなして、すらりとした高身で男を見下ろしているのだった。こちらも怒髪天で鬼の顔をし、年老いた付き人が小袖を引くのに逆らって、男と相対しているのだった。


 火事と喧嘩は江戸の華とはよく言ったものだ。現場はすでに人だかりができ、喧騒は見世物になりつつあった。

 思えば東京に上がって、人のために為したることは皆無。このままお暇するのは寂しいこと。最後に一つぐらい、何かを成したいものだ。

 僕は軽くため息をつくと、人だかりをかき分けて渦中の二人の元へ歩いていった。喧騒で聞きとりづらかった、二人の言い争いが徐々に明瞭になっていった。


「何度でも言ってやるよ。あいつはゴクツブシのクズさ。そんでお前はいいように使われてる、端女以下のアマだってよ」

「私のことを悪く言うのは良い。だが狂四郎様への罵詈は許さぬ。お前はあの方の何を知っているというのだ」

 どうやら男が、女の主人か何かを公衆の面前で罵っていたのが喧嘩の原因らしい。このご時世だ。平民や貧民が、資産家に辛く当たるのは致し方のないことである。しかし傷つけ合ったところで、誰かが救われるわけでもあるまい。


「ちょっと失礼」

 僕が二人の間に割って入ると、女は目を丸くして驚き、男は毛を逆立てて一層に怒った。

「何でぇテメェ、こいつの味方をするってのか」

 毛むくじゃらの手が、凄まじい膂力で胸倉を掴み上げた。剣で身を立てようとした手前、これしきの事で狼狽えはしない。僕は堂々と男と視線を合わせて、口調穏やかに語りかけた。

「いや。どちらの味方でもない。公共の場で恥も外聞もなく罵り合うとは、よっぽどのことだろう。聴衆もいることだ。聞かせてくれ」

 民衆から「そうだ。そうだ」とヤジが飛ぶ。


 男は歯がゆそうに口元を歪めたが、僕を突き飛ばすと、唾を飛ばしながら女を指で差した。

「どうもこうもねぇ。俺たち平民の生活は悪くなっているのに、こいつら資産家だけはのうのうと変わらぬ暮らしを続けてやがる。こいつらは俺たちが血で払っている代償を、金で建て替えて笑っているのさ。その金はどこからきた。俺たちから搾り取っているのさ。だからこうして、民衆の前で分からせてやっているのよ」


「別に資産家ではありません。勤勉なだけです」

「お嬢」と付き人が袖を引いて諫めるが、女は鼻息も荒く続けた。

「こやつが私の生活に文句をつけるなら、ことさら狂四郎様の悪口を看過できぬではありませんか。今、私共が生活できているのは、あのお方のおかげでしょうに」

「何でぇ。何が狂四郎様だ。俺が我慢ならねぇのは、お前が平民から吸い上げた金で、あのクズが遊び狂っているってことだよ」


「狂四郎様は私に金をせびったことなぞ一度もありません。全て自らの懐で賄っておいでです」

「世間様にはそう言うように躾けられてんのか。じゃなきゃあ相手をしてもらえないもんな。お前のようなでかい女より、遊女と戯れる方が楽しいだろうさ」

 女がさっと無表情になり、付き人も袖を引くのをやめて怒りを露わにした。

「この……下種が……そこに直れっ」

「おお。なんだ女の分際でよ。やるっていうのか。やってやろうじゃないか」


 男が拳を構えると、女も負けじと懐の筥迫を付き人に預けた。男が大人げないのに呆れたが、女の気の強いのには驚いた。このままでは殴り合いになるかもしれない。

 二人のやり取りを聞いただけでは、女の懐事情と、狂四郎なる人物の評判についてわからない。だが男の目的は理解できた。ただ公衆の面前で、女に恥をかかせたいだけだ。

 本当にくだらない。今にも喧嘩をおっぱじめそうな二人の間に、身体を襖にして立ちはだかった。


「待て待て。話を聞けば、君は講談ではなく、ただこのご婦人をなじりたいだけに聞こえる。そしてご婦人は身内の素行に、少々問題があるようではないか」

 双方の非を指摘して、互いに身を引かせようとの弁だったが、女は気にくわなかったらしい。僕を睨みつけると、冷たい口調で言った。

「狂四郎様は戦争にも出征された、立派な御仁であるぞ。知らぬくせに何を言うか」

 すかさず男が言い返す。

「嘘つけ。あんなヘタレの能無しが、戦争に行った訳がねぇ。俺の弟が死ぬようなところで、あんな阿呆が生き残れるわけがねぇんだ。嘘でお前を食い物にして、お前も嘘で俺たちから金巻き上げてんだ」

 女が抗弁しようと息を吸ったところで、僕は手のひらで制した。


 男と向き合い、顔を寄せる。

「弟さんは兵隊だったのか」

「ああ。お国のために戦ったんだぞ。命尽き果てるまで戦ったんだぞ。だのに国は賠償金も取れねぇで、世間は不況でこの有様だ。弟は何のために死んだのかわかんねぇ。何のための戦争だったかもわかんねぇ。俺たちが何もかも失って苦しんでいるのを他所に、金持ちだけが変わらぬ生活を続けてやがる。こんなのってあるか」


 ああ。この男、やりどころのない怒りのはけ口に、裕福で男を遊ばせる女を選んでしまったのか。話し合いで解決は望めない。これはもう、聞いて受け止めるのが一番だ。

「弟さんはどこだ?」

「第一師団だ。旅順で死んだよ。それがどうした」

「僕は第九師団だ。同じ第三軍。どこかであったかもしれんな。僕は運良く帰ってこられた」

 男の怒気が鳴りを潜めて、女から僕に興味を移した。

「何でぇ……お前さん軍人かい?」

「元……な。今はやめてこのザマさ」

「お前さんも頑張ったのに……辛いなァ……」

「ああ……辛い。だが弟さんのおかげで、こうして生きている。君もだ。この有様で人に言えた身でないが、婦女子を罵っても弟さんは喜ばんぞ。お互いにもっと出来ることがあるはずだ」


 男はじっと、僕の瞳を覗き込んできた。やがて忸怩たる思いが沸き上がってきたのか、不意に視線を背けて俯いてしまった。彼は蚊の鳴くような声で「そうだな」と呟くと、身を翻したのだった。

「今日はこの男に免じて勘弁してやらァ」

 男は「散れ、散れ」と喚きながら、人垣をかき分けて立ち去ろうとした。だが思い出したように振り返ると、女を指差したのだった。


「だがな女。お前のためを思って言ってやるぜ。あの狂四郎って男はいけねぇ。早いとこ目を覚ました方が良いぜ。あんた騙されてるんだ」

「貴様……」

 女は追い縋ろうとする素振りを見せるが、ここで止めねば元の木阿弥だ。

僕が身体で行く手を阻むと、付き人もその袖に縋った。

「お嬢。この御仁が治めてくださった場、無下にしてはいけません」

「しかし——そうですね……頭に血が昇っていたようです……」


 女は僕に向き直ると、膝に手をついて行儀よく会釈をした。

「お助けいただき、感謝いたします」

「いえ。お役に立てたなら何よりです。では僕もこれにて失礼します」

 僕は軽く会釈を返すと、時刻表の前へ戻ることにした。

 女が静々と、後を追ってくる。


「もし。お待ちください。私どもは列車にて、帰路につくところです。道すがらであれば、お礼にお茶でもご馳走したいのですが」

「いえ。僕は東京を発つところでして」

 女は僕の肩越しに、時刻表へ視線を走らせた。

「どの列車に乗られるのですか?」

「それは……あー……その……」


 北に向かうとは決めたが、どの列車に乗るかなど決めていない。答えあぐねていると、付き人が僕の鞄にそっと手を添えた。

「時間はおありのようですな。このまま帰しては面目が立ちません。どれ、荷物はこの爺めが持ちましょう」

「いえ。僕は——」

 気づくと女がいない。首を巡らせてその姿を探すと、小走りでこちらに向かってくるところだった。

「三人分の切符を買って参りました。それでは行きましょうか」

 こうして僕は、女のもてなしを受けることとなった。

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