毒虫

千桐加蓮

毒虫

 黒い野良猫が、アパートの前の公園を歩いている。

 理玖りくは、自分の部屋からその野良猫に話しかけるように言った。

「お正月が終わって、いよいよ冬が到来って感じだねぇ」

猫はこちらに気づかない。

「好きな本ある?」

 木の椅子に座って、理玖は瞬きをした。

 猫は公園の日向で丸まっている。寒そうだ。 

 今は、朝の九時を過ぎた頃で、晴れてはいるが、雲がかかっている。

「カフカって人、知ってる? 本を書いた人だよ」

 猫は大きなあくびをしているのが、理玖の部屋から見える。自転車が公園の前を通ると、草むらの中に隠れてしまった。

 猫が本を読むのだろうか。二足歩行で猫が本を読んでいる姿を想像してみると、なんだか夢の世界にいるような気分になって、クスッと理玖は笑った。

「気がかりな夢から目覚めたら、僕は何に変身するのだろう」

 どうせ変身するのなら、理玖が二足歩行の猫にでもなろうかと考えている。

 最近普及し始めているスマートフォンで、写真を撮る人に囲まれるのだろうか。

 だとしたら、理玖はまたスキャンダルされて注目を浴びるなと、さっきと同じ笑い方をした。

「いいの? 本当に私の仮アパートなんかで過ごして? 記者が明日にでも彷徨くかもしれないのよ」

 ドアを開けて理玖を見ている女性を見た。

 艶がある黒髪を分けた前髪。綺麗に巻いてある髪の毛。いかにも大人の女性を感じさせる雰囲気がある女の人。

 理玖は、その女性に口だけで笑った。

「事務所の許可は?」

 女性は、ゆっくり訪ねる。

「そんなのどうでもいい、どの道アイドルずっとやる予定じゃなかったし」

「辞めるの?」

 その場で立ったまま、女性はなんとも言えない表情で、真っ直ぐ彼を見る。

「辞められる都合のいい理由が欲しかったんだよ。アイドルとして、恋愛禁止を破ってしまいました。だから辞めますっていう文書も、今日の夜に公開するようにマネージャー通して事務所に言ってもらった」

 すると女性はツカツカと理玖の前までくる。

「ファンがものすごく怒るわ。そんな気持ちでアイドルやってたのって! 大体、残りのメンバー四人はどうなるの! みんなまだ二十歳にもなってないじゃない!」

 その後、怒りの声が部屋に沈黙を与える。 


 もう少しで一週間は経つ。

 週刊誌で、この女性を連れて、理玖が自分の家に入ったのを大きな見出しで取り上げられたのだ。

 だから、他人から見たら何故、女性はそんなことが言えるのだろうと、ご立腹するだろう。

 

 クリーム色の丈の長いセーターを着て、Gパンを履いている女性をまじまじと見て、唇を舐める。

「フランツ・カフカの『変身』っていう話を知っていますか?」

 女性は先程の怒っていた目をぱちくりとさせて丸い目になる。

「商人の勤め人だったグレゴールが主人公です。要はセールスマンですね。ある朝、毒虫になってましてね」

彼は続けて言う。少し悲しそうな目をして。

「グレゴールの家族は、銀行の用務員の父と、母と妹」

 木の椅子に座ったまま、理玖は尋問をしているかのような声で言った。

「最終的に、毒虫になったグレゴールを家族は受け入れたでしょうか?」

女性は、俯き、目を伏せ、眉間に皺を寄せた。

「カフカは、『変身』を発表してまもなく肺結核にかかり、千九百二十四年に悪化して亡くなった」

女性は、そっと相打つ

「『変身』はブラックコメディみたいだと僕は思います。稼ぎ手がいなくなるから、初めは世話をしていたのではないかとも読み取れますよ」

「つまり?」

何が言いたいのか教えてくれと言わんばかりの目で、女性は彼を静かに睨む。

「僕だって、ある日突然アイドルから一般人になったらダメなのかなって。毒虫は嫌われるみたいだから、変身するなら、自由な人になりたい」

 理玖は、外を再び見る。野良猫が今度は二匹に増えている。黒猫と三毛猫である。

「嘘の愛を振る舞いて、ファンは虜になるんだもん、この世界はブラックだね」

 理玖の表情を見た女性は、切ない顔をした。

 今の理玖の顔は、社会のダークなところ全てを写しとって理解したような顔であったのだ。

 理玖は、まだ十八歳になったばかり。普通ならば高校に行くはずであったが、ヒットドラマに出演して、メイン役者だった理玖は、俳優やアイドルの仕事が飛ぶように売れて、高校を中退したのである。

 変身したのだ。大人の業界に一歩踏み入れた時から。

 

 高校を中退して、理玖を産んだ母は、シングルマザーである。中学校から寮生活の学校に入れた頃に理玖は、アイドル事務所からスカウトされた。

 

 その日は冬休みで、理玖は母と久しぶりにショッピングをしていた。母は、少し嫌そうな顔をしていたが、手を繋いでくれていたので、理玖は離さないように握っていた。

 スカウトの人の話を聞くなり、母はなんの躊躇いもなく

「この子ですか? いいですよ」

ぶっきらぼうだったと今では思っている。

 でも、当時の理玖は、嬉しかった。アイドルになれば、母が喜んでくれるかもしれない。

 淡い期待をしていた。

 帰りに、ショッピングセンターの出入り口付近にあったぬいぐるみ屋の一番目につくところに置いてある、黒猫のぬいぐるみが欲しいと駄々をこねた。

 母は、長い爪で理玖の手を引っ掻いた後、黒猫のぬいぐるみをレジまで持って行ってお金を払い、店の前にいた理玖に押し付けた。

「ちゃんとやれよ」

 理玖は、先を歩く母を追いかけた。


「一体、誰が悪いんですか。僕ですか? 僕を産んだ母? それともこの世界を作った神様?」

 部屋は静かだ。午前九時半を過ぎる。

「見惚れてしまうくらい整った作り笑いをいつもしてるけど、今の理玖は狂ってる」

 女性の言い放つトーンは重かった。

 女性は、ストレート金髪の理玖の頭に片手を乗せる。もう片方は背中に回す。

「禁断の果実でも食べてしまったのね」

 理玖の顔は変わらない。

 女性は、静かに目を瞑る。

「それは篤実あつみさんもでしょ?」

 女性は黙る。そっと何かを思い出してるような目をして、床を見る。

「大手ファッション誌の取締役の石下篤実いししもあつみさん」

「……理玖は、私の部下でも子供でもないでしょ? 私、結婚もしてないし」

「でも、僕は未成年だ」

理玖は、女性の背中に手を回す。

「告白、嬉しかったんだけどな」

 女性は、間違いなく彼に言ったのだ。理玖に「ダメな大人だ。あなたより十歳くらい離れているのに。でも、恋人として好きだ」と。夜の東京タワーの前で。

「アイドル、夜には完全に辞めることになる」

篤実は、言ったのだ。「あなたが有名なアイドルだから、隠すつもりだったけど」と。

「僕、ファンサし過ぎたよ。本当の笑顔も、嘘じゃない愛も」

 仕事関係で出会った理玖と篤実。

「本当に、恋人になれる? 理玖のお母さんだって……」

「お母さんは、僕に興味がないからいいんだよ!」

篤実が最後まで話すのを待たずに理玖は言い放った。

「それでも、僕は愛されたいんだ。お母さんじゃダメだったんだ」

篤実から理玖は離れる。

「一体、誰が僕を愛してくれるんだよ!」

 今、理玖が流している泣き顔は嘘ではない。

 くしゃくしゃで、涙は止まらない。

 一生懸命、服の裾で涙を拭いている。

 篤実は、守るようにもう一度抱きしめた。

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毒虫 千桐加蓮 @karan21040829

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