少年は目覚めを知らない

丹路槇

少年は目覚めを知らない

 視界が闇から皆になる。ぱっと開いた瞼が光の膜を瞬きで払い、やがて寝室の天井を映した。短冊状の木板を敷き詰めた濃茶の面の、昔から何気なくそうするように無意識に細い溝をあみだくじに見立ててゆっくりとなぞった。天井の隅まで横切った目線を落とすと、なぜ急に目が覚めたのかを知るためにうつ伏せに寝返りを打つ。

 枕の近くにあるコンセントで充電中の端末を手に取って点灯している画面を見た。着信で低くバイブレーションが唸っていて、表示された名前にぐっと目を瞑り一度身構える。ロック画面に出ているデジタル時計には四時二十分とあった。受話器のマークをタップして端末を耳に当てる。

「……マド」

 懐かしい呼び名に不吉な予感がした。

「はい」と小さく返事をすると、電話口の向こうから、いつにない穏やかな声が追いかける。

「母さんを起こして、ゆっくりでいい、支度して病院に来て。父さん、もう死んでる」

 告げられたものは覚悟していたよりもあっさりしていて拍子抜けした。歯切れの悪い返事をして、通話を終える。背負った肌掛けを起き上がる動作と共に尻まで滑らせてベッドに落とした。襟足に当てた手で生え際を擦りながら、のろのろと部屋を出る。

 七月七日の朝、父は病室から自宅へ帰ることなく逝った。三週間前の交通事故で失った腎機能と深刻な脳挫傷により、余命も予後も一切の説明がないまま、なんとなくいなくなった、というのが適当かもしれなかった。

 

 重心を振り子のように揺らし、不恰好な間隔で足を運び階段を降りる。リビングのドアを開けるとキッチンに立つ母と目が合った。コンロの上の換気扇が静かに唸っている。彼女は僕におはよう、と丁寧に挨拶をしてから、自分は病院からの電話で起きたのだと先回りに話した。おざなりに相槌を打ってから、こちらも口を開く。

「電話、晃から」

「そっか」

 僕が兄の名を告げると、母はしっかりした顔で小さく頷き、それからふっと笑った。車のキーを持った彼女が先にキッチンを出てリビングのドアへ向かい、簡単にまとめられた荷物を片手に提げて立つ。

「お父さん、もう冷たいんだね。当たり前だけど」

 どんな意味でそれを言われているのか、その時は何も理解できていなかった。人が死んで形が変わっていくことに恐怖や拒絶の感情は湧かない。父の境遇は純粋に日常からかけ離れた未知と呼ぶべきもののようで、その不可解に立ち向かうだけの力を今の僕は持っていないようだった。

 

 助手席に乗って母の運転で四十分、父が入院している総合病院の病棟へ向かった。救急の入り口を通り、面会受付をしてからベッド搬送用の大きなエレベーターで5階へ上がる。父は一昨日の夕方に緩和病棟へ移動していて、ICUにいた時に繋がれていた管は当然に全て取り除かれていた。病衣の下の体は黒ずんで肉が落ち、縮んだように錯覚する。喉には縦に開けられた黒い穴が見えた。搬送されて間もなく、意識がなかったころの父を集中治療室のガラス越しに見た、痰を吸い取る管が抜かれた痕だろう。母がゆっくりと死床へ近寄り、父の額に手を当ててそっと語りかけた。

 三週間前の事故の日、母はひとり帰宅して家族の帰りを待っていた。部活動の後に一度帰宅した僕に軽食を与え、三十分も経たずに自転車で塾へ向かうのを見送っている。再び帰宅するのは二一時半過ぎ、兄はもっと遅く二二時以降に帰宅すると風呂へ直行して顔を合わせない。父は普段その頃までにはリビングで食事を済ませていて、少しのビールを飲んでテレビを見ているか、窓辺のソファで本を読んでいた。

 その夜、父の姿がないことに、特に誰も何も言わなかった。不測の残業でもして遅くなっているだろうとか、母はそのことを承知しているのだろうとか、上手く整合した思い込みが連鎖して、翌日、依然とした父の不在を知ってようやく僕は母に声をかけた。

 その後の記憶はコマ撮りのようになっていて、場面も各所で飛び石だ。一度学校に送り出されてから、放課後を待たずに呼び出される。見知らぬ名前の病院に戸惑っていると、迎えに来た母の車に乗せられ病院の救急医療センターへ向かった。細く薄暗い廊下に並ぶ待合にじっと座り、その後はICUのフロアに移動して、数時間後に窓ガラスからかなり離れたところにベッドを置かれ管だらけの誰だか分からない父を見て、それからようやく、家族で順々に仮眠を取った。学校を休む意味があるのか分からなくなるほど、長い長い待機の時間だった。端末の電池が切れて、乾電池をコードに繋いで充電したスマートフォンで所在無くアプリを開き、時折傍へ腰かける兄の横顔を盗み見る。

 四歳年上の兄、晃は今年高校三年で、大学受験という蓑を借り孤立に埋没するように、家族と大きく距離をとって過ごしていた。背が高く猫毛で鼻筋がはっきりした顔立ちは母そっくりで、癖毛に青白い瓜顔の僕とは全く似ていない。成長してからは初対面の人や遠縁に兄弟と認識してもらえないことが普通だった。僕が外で彼の名前を呼ぶと、兄は塵屑を見るように僕を睨みつけ、「黙れ」と凄んでくる。

 父の危篤でも遠巻きに見ていると思っていたのに、意識が戻ったという報せで一番に面会に入ったのは兄だった。話ができるかも分からない状態で、医療ガウンを着て病室へ入った彼は四十分もガラスの内側に滞在している。

 戻ってきた時、彼は表情を消したまま、抑揚のない声で淡々と告げた。

「あんまり聞き取れなかったけど、良くなるまでこいつに見せたくないって。面会、こないでくれって言ってた。母さんどうする」

 こいつ、の時に指をさされたのは僕だった。伸ばされた兄の中指を見て、話すのを終えて結ばれた彼の薄い唇へ視線を上げ、そして双眸に吸い寄せられる。色素の薄い栗色の目の上に、短くて細い睫毛が緩く弧を描いていた。母の返事を待っていた彼は、それなのに僕の方を真っ直ぐに見据えている。

 母は頷き、父の意を汲んだような素振りを見せて荷物を持ち立ち上がった。

「マドちゃんが会えないなら、私もよしておく。父さん、意外に格好つけなのね。病院で見ていてくださるから、いったん帰ろうか」

 母と一緒に病院を出た時、駐車場までの道のりで、僕がもう少し幼い時だったら手を繋いで歩いただろうか、と思った。小学校へ上がる前までは母の左側を歩くのが僕の定位置だった。右手を彼女と繋ぎ、反対の手は兄の手をとっていた。兄ももう僕とは手を繋がない。恋人ができればその相手と繋いでいるだろう。家には滅多に連れてこないけれど、駅前のコンビニ付近を通った時に、何回か見かけたことがある。全部違う女の人だった。

 名札に看護補助員と書かれた人に促され、父の亡骸と一度別れて待合へ戻る。長椅子に座っていた兄が立ち上がり、僕らが来るまでの間に師長やソーシャルワーカーへ聞いておいたこと、と言ったメモを説明しながら母へ渡した。自嘲ぎみに子どもは信用されていないから同じことを後でもう一度説明させると思う、と添えて笑った。兄の笑顔は綺麗で見るたびに怖くなる。昔は笑うのが苦手で、弟に愛想を振りまくのを任せて影に隠れているような人だった。僕が理由なくいつまでも怯えているだけで、今は笑顔を苦にしなくなったのだろうか。

 その様子を不躾に眺めていると、母がぽんと僕の肩を叩き、「マドちゃん、お腹減ったでしょ」と言った。胃の中が空で活動が儘ならない、という言い訳をしても良ければ、今はほとんど何も思考も感情も動いていなかった。

「母さんは」

「だめだな。すぐに戻しちゃいそう。書類見たり、お父さんの身支度あったりするだろうし、ここにいる。マドちゃんがお兄ちゃんにご飯食べさせてあげてきて」

 差し出された千円札三枚を受け取ってパーカーのポケットに入れる。母は未だに僕をちゃんづけで呼び、なぜか兄の世話をする弟だと思い込んでいるのだった。本当の名前は円周率の円という一文字でマドカと読む。女みたいな名前をつけたのは両親ではなく兄らしい。名づけの親は何年も前から僕の名前を呼ばなくなっていた。

 いくら連日面会に通っていたとはいえ、きっと今朝、彼の思いもよらない事態に直面し、酷く動転したのだろう。でなければ今更になって僕をマドと呼ぶような失態はしない。

 母を残して待合を離れ、ナースステーション脇にあるエレベーター前へ向かう。外来フロアの階数ボタンを押した兄が銀色の帯紐みたいな手すりに寄りかかった。

 今なら僕は殴られる覚悟で気の向くままにこう尋ねることができたかもしれない。

「晃くん、なんで僕のこと、また名前で呼んだの」、と。

 

 ご飯を食べさせてあげて、と母が言うのはまさに名目で、実際は兄が数歩先を行き、僕への断りもなしに黙ってマクドナルドへ入店するのをついていくだけだった。朝六時過ぎのメニューは馴染みのセットが何もない時間で、注文を考えるのが面倒な僕は、兄が店員に言ったせりふをそっくり復唱した。言ってしまってから飲み物をアイスコーヒーにしてしまったことを心底後悔したが、今更割って入って直してもらうような気も起こせなかった。彼の真似をしたのが嫌味と取られたのか、兄からは侮蔑の目が薄く向けられる。

 ハッシュドポテトとエッグマフィンにコーヒーが長方形のトレーの上に二等辺三角形の頂点のように整然と並んでいた。兄は僕の分までふたつのトレーを掴んですたすたと足早に店内を横切る。普段は座らないような窓際のカウンター席に並んだ丸椅子の前にがたんとトレーをぞんざいに落とし、「五分で食って」とすげなく言った。

「母さんが心配?」

 紙包装をかさかさと開けて、マフィンを一口齧る。

「うるさい」

 兄はストローをぷすりと挿すとアイスコーヒーをブラックのまま一気に飲んだ。子どもの頃、家族で店内飲食をしている時に、毎度父がそうしていたのを不意に思い出す。親切心で蓋を取りミルクやシロップをいっぱいに注ぐと、お礼を言った父の笑顔は変だった。嬉しくない顔だったんだな、と今になってひとつの答え合わせをようやく迎える。

「父さん、家に帰ってくるね。母さんは、夏は体が持たないから、お通夜すぐだって」

「五分で、黙って、食って」

 兄の手が数口で食べ終えたマフィンの紙包装をぐしゃぐしゃに握りつぶした。ハッシュドポテトは抜け殻がトレーにぽろっと置かれていて中身はもうない。カップの内側でアイスコーヒーの氷がじゃらじゃらと鳴る音が聞こえた。

 彼の苛立ちに真面に対峙するような強い決心はない。今までは沈黙による降伏宣言をして、兄が僕に興味が無くなるのをただ待つという逃げ道しか知らなかった。他に正解を探そうとしたこともない。

 この三週間、そうはいっても部外者の顔をして呑気に過ごしてきた僕とは違い、兄は大事な時期に毎日欠かすことのない病院通いの生活をしていた。高校や予備校の位置から外れたここへ電車で往復し、日中も母から預かった荷物を毎日持ち歩く。その理不尽に苛立つことはなかったのだろうか。昔の面倒見良く弟を可愛がっていた幼い兄の姿は確かに記憶にあったが、十八歳の晃が同じ心持ちで父に接していたかどうかは、やはり分からなかった。

 怒りをぶつけるところが無いのであればそれは不憫だと思った。同時に押し殺せない不穏は呼応して僕の中に実体のない蟠りを持たせる。

 マフィンの咀嚼を終えてアイスコーヒーを口に含む。苦くてまずくて最低だ。大人の男性の髭の味がする。口に手を当て小さくえづいてから、包み紙をめくって指で挟み直した。

「晃くん、今日休むって、学校にいつ連絡する?」

 それを言い終えられた感触はない。どっと強い衝撃が胸部にかかり、その急な圧迫と強烈な鈍痛に背をかがめたのは床の上だった。吹っ飛ばされて椅子から落とされた僕は、手からマフィンが失せたことも気づかず、その場で小さく呻いた。息ができないのが数秒で、どんどんと追い打ちのよう胸を叩かれるような感覚の後、裂くような違和感が起こり、再び呼気が行き来するようになる。

 僕に拳を打ちつけた兄は黙って丸椅子に座ったままで、こちらへやや振り向いた体勢で僕を見下ろしていた。確かめるように息をしながら、打たれた痛みより兄に嫌われていることに気持ちがよほど堪えて必死に唇を噛んだ。

「本当に黙れよ」

 切り捨てられるような台詞に、何も答えず黙って席に戻った。ハッシュドポテトの触感も味も認知しないまま喉を通ってどこかへ行ってしまったようだった。アイスコーヒーはそれきり口をつけずに飲み残しの漏斗へ流して捨てる。ざらざらと氷が流れる音とともに苦くて嫌な臭いが立ち上り、胸のむかつきが若い日の父の苦笑の残影に重なって、なんだか申し訳なくなった。

 

 九時過ぎ、手続きを終え荷物を分担して持ちながら病院を出る。救急搬送口についていた搬送車は、黒く塗られたハイエースだった。兄は母の車で帰ると言ったので僕が乗ることにした。車載用の可動ストレッチャーで父が先に乗車している。後部座席のスライドドアを開けると、バスの通路席みたく折り畳みの座席があった。肘置きを上げてシートベルトを閉める。

 発進したワゴン車が出入り口のバーまでぐるりと駐車場の内側を回る動作に合わせて、母の車が停まるあたりに視線を送った。兄が先に来ていて助手席側のボンネットに寄りかかり手元の端末を見ている。友人にしばらく学校を休むことを連絡しているのだろうか。

 ふと顔を上げた彼と目が合った。逸らすのも怖くてそのまま視線を返すと、彼は眉尻を僅かに下げて、目を大きく見開いていた。笑っているのかもしれなかった。今朝、電話越しに聞かされた「マド」と呼ぶ穏やかな声が耳の奥で蘇る。

 友人が抱くような親への反抗心もこれといって持ちえず、家族に甘やかされて育ってきた自覚はある。それでも昔ほど僕ら兄弟が互いに扶助する時期はとっくに終わったことも分かっていた。兄は弟の世話をすることに居場所を見出す必要は無くなり、僕もひとりで留守番ができるようになり、そしてすぐに帰宅も遅くなった。休日の日に家族で出かけることはなくなった。兄は年末年始の帰省や遠出にもついてこない。

 こんな時だけ、なんだよ。父さんと何話してたの、晃くん。

 搬送車は時折ガタンと大きく揺れて臓腑を揺すった。近くにいる父の存在は急に怖くなって触れられない。病室で母の真似をして遺体に触れた時、もっと生温かくてぬるぬるとしているとなぜか思い込んでいたものが、ひやりと冷たくて、硬くさらさらとしていて、数週間前まで当たり前に家の中を歩き、やや間延びした声で話しかけられていたのと同じ人なのか整合が分解していく感覚が起こった。それでいて死に顔はソファでうたた寝する父とほとんど変わらないように思えて、不可解だ、と無性に苛立ちが湧いてくる。

 見慣れた市街の国道を通り、家の近くで母の運転とは違う交差点で右左折するのに少し不安になり、後ろからカーナビをのぞいた。自宅の目の前は線路沿いにある一方通行道路で、来客が何度か迷ってたどり着くのに時間がかかる場所だったので、助手席の男性に道順を伝えてもいいか、と声をかける。

「すみません、間違っていますか」

「いいえ、方向はこのままで大丈夫です。ふたつ先の信号を左折すると行きやすいので、その後……」

 会話を始めると移動で揺れた内臓がこたえたのか、すうと血の気が引き嘔吐感がぶわっと迫り上がった。朝から水分をろくに摂っていないからだ、と何度も唾を呑みながら思った。帰宅したら冷蔵庫に直行してペットボトルの水を飲み干すことしか考えられなくなり、不思議と父の遺体を運ぶという非日常も思考から埋没して何も感じなくなっていく。

 

 家の前にハイエースが停まった。ポケットから鍵を出そうとすると先に母が中からドアを開ける。ふたりは先回りで帰宅していて、父を安置するためか、リビングのソファを窓際にまとめて寄せ置かれるなどの準備までされていた。

 洋間に布団が敷けるくらいの畳が並べられる。被せられた布団は真っ白で消毒の臭いがした。不織布のシートに隠されたがさがさと音を出す物体は保冷剤で、これから通夜の日の朝まで毎日交換に来ると説明される。

 父はふたりの男性にストレッチャーから軽々と持ち上げられ、あつらえられた布団にすんなりと横たわった。両手を組まされ、真上を向いた顔にも布を被され、誰だか分からないような格好でリビングの一角で眠る。不意に、長年愛用していたソファの特等席にこの体は二度と腰掛けることができないのかと理解して気の毒に思えた。

「おかえり」

 声をかけると、代わりに母が泣いた。兄は既に制服に着替えていて、しばらく父の前にいる母を見守ってから、じきに父の実家の千福から人が来るから、と声をかけた。

 父の実家は隣県の、新幹線の停車駅になっている比較的交通の便の良いところだったが、足の悪い高齢の祖父のために伯父が車を出して訪ねてきた。兄は車の音を聞くと先に靴をつっかけて外へ出る。滅多に顔を出さなくなっても彼は昔から父方の祖父を慕っていて、今も僕らには見せなくなった和やかな表情で話すのはこの祖父にだけだった。

 伯父は玄関へ現れると深々と頭を下げ、「この度はご愁傷様」と静かに言った。それから今日は祖父と父の顔を見たら一度帰ること、式の日取りが決まれば近くのホテルで滞在すること、伯母と三人の従兄弟は告別式に顔を出すこと、千福の大叔母はこの頃認知症の進行が深刻だったので訃報を告げていないことを三和土へ突っ立ったまま足早に告げる。

「ごめんよ、泣いたら話せなくなるからさぁ」

 そう言ってこちらを見上げた父と同じつぶらな目はもう赤くなっていた。

「円くん、大きくなったね。前にこっち来た時より、ずっと背が伸びた」

「僕より、晃にびっくりしたでしょ。いつぶり?」

「ああ、表でじいさんとこ来たろ、誰だか分かんなくてさ。うちの姉ちゃんの結婚式以来かなぁ。何、仲悪いの」

 靴を脱いで板間に上がる伯父から差し出された菓子を受け取りながら、あっさりと言い当てられたそれを、どう答えていいのか分からず思わず顔を伏せた。むしろこの年で仲が良い兄弟だと言われることも正答ではない気もするけれど、少なくとも僕はこの不穏な状況に加担した覚えはなかった。兄が一方的に怒っているのだ。原因が何か自覚できない僕のどこかに腹を立てている。でも本当に嫌われているわけでもないとも根拠なく信じてもいた。

 例えば僕の中学の学ランは兄のお下がりをそのまま着ている。母曰く裾上げも彼の時と同じ丈、それを解くのも同じ時期だと聞いたのが素直に嬉しかった。

 兄が卒業する頃はまだ小学生だった僕は、卒業式の日に学ランからボタンがふたつ消えていたことに絶望して泣いた記憶がある。母は笑って、学校指定の洋品店で買ってつけておくから大丈夫だと宥めたが、それがどこの誰とも知れない同級生の女の子にあげたと聞き及べば、火がついたように泣き喚いたのだった。ほどなくしてそれが卒業式と制服にまつわる古典的な伝統行事のようなものであることを知り、僕はけろっとしていたが、兄はしばらく「受験して別の中学行けよ」と苦々しく口にしていた。晃は進学した高校でブレザーを着ている。今はネクタイにシャツ姿だ。

 仲が悪いのかよく分からないと素直に答えた僕に伯父が何か声をかけようとしていると、母がリビングから出てきた。祖父も兄に連れられて足を引き摺る音を立てながらゆっくりとポーチへ上がってきている。父の家族を出迎えた母の顔はすっかり能面のようになっていた。泣いている場合ではないと思い込んだら感情がすぐに途切れるのが母だった。父との小さな諍いの最中や、反抗期の兄が発する見栄えは正論のような空論を受けた時、彼女はいつも自分のことを考えるのを忘れてしまう。その方が楽なのかもしれないと思えばこちらも口出しをためらった。伯父を出迎える彼女の姿はいつもの休日の様子と全く変わらない。

 兄はテレビの近くに置き直されたソファに祖父と腰掛け、入れ歯が合わなくなって滑舌が不鮮明になった言葉を聞き漏らさないようにと肩を寄せ耳をそば立てている。母と伯父も大人同士の会話が始まって居心地が悪くなり、キッチンへ逃げ込んだ。緑茶のペットボトルを出して氷を入れたグラスによっつ注ぐ。母が「マドちゃん、おじいちゃんはあったかいお茶ね」と声をかけるのに頷きながら食器棚から急須を出した。千福の祖父の家に行った時に母が日に何度もやるお茶の給仕をまねて、注いだ湯をどれくらい急須で蒸らしておくべきなのか分からず適当に湯呑みに注ぐ。お湯が薄黄緑に着色したのを見て安心して、お盆に並べて全ての茶器を置くとすり足でリビングへ向かった。

 

 ローテーブルにお盆をつけてから腰を屈める。祖父の前に湯気の立った緑茶をそっと置き直し、それから伯父と母にグラスを渡す。兄は僕の給仕を待たずに自分の分をひとつ取り、こちらには構わず会話を続けた。

「じいちゃん、昼食ってく?」

「いや、遠慮する。勝手が分からんもんでね、千福来てたら、寿司でも取ってやるのをさ」

「いいよ、寿司食ってけば。疲れたでしょう、車混んだ?」

「混まない。晃は今度、受験だら」

 動きが歪な祖父の手がとんと兄の膝に置かれる。僕が近くに寄るだけで邪険にしてくる彼が、やはり祖父には何をされても嫌ではないようだった。素直に頷いて、模試の結果が出れば志望校を概ね決められるのだと、この家のリビングではおそらく初めて口に出したであろうことを平気で話した。

「ひとりで東京行くの」

「決めてないよ。千福の方が通うのが近いところだったら、世話になる」

「やめときな、年寄りの世話することになる。俊のとこ、部屋借りればいいら」

 祖父が顎でしゃくった先に伯父が座っていた。母と話し込んでいてこちらの方は聞いていなかったらしく、あまり分かっていないような風で「ああ、そうだね」と相槌を打った。

 来客は父に背を向けたまま座っている。甚大な困難は先送りにするように、まるで時の流れを忘れる気持ちで談話に没頭していた。当然のように息をしなくなった父は全く動かない。呼吸で上下することもない平たい胸を眺めながら、ある時不意にむくりと起き上がり、悪い夢でも見ていたとでも言って訝しげに頭を掻く姿を想像してみる。同じ家に毎日暮らしていて、しかもここ数年は兄よりも圧倒的に言葉を交わしてきたはずの家長が、果たしてその後、間近にいる僕へ何と声をかけるのか、全く想像がつかなかった。きっとそれは叱られたことがないからだと思う。幼い頃から兄をよく叱っていた父が、時に怒鳴ったり「出て行け」と厳しく追い詰めていたのに、晃と同じように過ごしていたとしても、僕にはただの一度も不出来や怠慢を咎めることはなかった。

 頻回にかけられていた優しい言葉を思い出そうとすると、なぜか思い浮かぶ場面は風呂の時ばかりだった。向かい合って湯船に浸かり、水遊びや潜水をするでもなく、何かを話しているだけのぼんやりとした映像だ。濡れた髪を大きな手で撫でられている記憶、その先を深追いしようとしても、意識の片隅で再生された情報はそこで途切れて続きは見られない。

 

 空のお盆を持ち立ち上がった僕は、同じところを延々周回する逡巡を続けながらよろよろと父のもとへ歩み寄った。急拵えの畳の縁に膝を置く。顔に被せられている白い布の先に尖った顎が見えた。祖父や伯父にも同じ形の顎がある。兄は母にそっくりでなだらかな顎の形をしていた。僕は子どもの頃の写真と今もちっとも変わらず、どちらにどれくらい似ているのかが自分では認識できない。

 人間でも彫像でもないその奇妙な様相は、今までもそしてこれからもきっと家族であることには違いがないのに、僕には未知の、耐え損ねた怖気を出せば逃げたくなってしまう、それでいて不可避な新しい関係のものとなっていた。

 おもむろに自分の鼻に手を当てて行き来する呼吸の小さな風を肌で感じた。生きている、という実感はあまり定かにはならない。父の心臓が本当に止まってしまったのか、無性に確かめたくなった。転がっている手首に指先を伸ばす。脈を取るように揃えた指を当ててみた。無くて当然の反応がやはり感じられなくて、もう少し、と胸の上に手を伸ばす。掌を当てても布越しではもっと判別は難しくなった。今度は屈んで心臓の近くに耳をつけてみようとする。

 ぐいっと襟を引き上げられた力に従って、喉が蛙みたいに低くぐえっと鳴った。立ち上がって大股でこちらへやってきた兄にワイシャツを掴まれ軽く床に飛ばされる。今日二回目、と顔をしかめ悪態をつく余力はない。両手を後ろについて尻餅をついている僕がぼうっと仰ぎ見ると、部屋のシーリングライトを影に立つ晃は、もう少年の顔をしていないその相貌に深い怒気を込めて容赦なく僕を見下していた。

 反射で謝ろうと開いた口は意思を失って動かせなくなる。朝に立ち寄ったマクドナルドで力任せに吹っ飛ばされた方がずっとましだ。

 馬鹿みたいに呆然と佇んでいる僕の上に覆い被さるようにしゃがんだ兄が肩に手を置いた。今度は胸ぐらを掴まれて釣り上げられるのかと案じても身構えることもできない。無抵抗に晃の手に引き寄せられる体は、もしかして父が抜け殻になったこととさほど大きな差異はないのかもしれないと思考はひとり宙に揺蕩って散歩を始めてしまった。

 父の家族や母がこの状況にひとつも口を挟まないのは何故なのだろう。兄弟喧嘩というよりも晃の癇癪に付き合っているだけな気がしていたけれど、ややあってそうではないんだとようやく思い至った。

「部屋戻って、少し休んでこい」

 腕の付け根を掴まれて強引に立ち上がらされる。頭が床から離れる動作に合わせてぐらぐらと重心が定まらなくなり、強烈な目眩で咄嗟に両手を瞼に押し付けた。血の巡りに合わせて頭を殴られたような痛みが襲う。すぐに嘔吐感がみぞおちあたりから迫り上がって、たまらず体を折って屈もうとするのを兄に軽々と担がれた。腰を持ち上げられ、操り人形みたくずるずると歩かされながら、ぐちゃぐちゃになった意識の隅で、晃の声を拾う。

「昼、こいつ寝かしてからでいい?」

 その後は何も聞こえなかったけれど、母はたぶんいいよ、としか言わなかっただろう。

 廊下を歩いた記憶も、シャツのボタンを外され下は肌着姿でベッドへ転がされたのも、次に起き上がる時まで、まるで覚えていなかった。

 部屋の明かりが消され、立ち去ろうとする兄に手を伸ばした感触の記憶だけはあった。伸ばしたつもりで実際は手はぴくりとも動かなかったかもしれない。きっと同じように彼の胸にも耳を当てて、鼓動を聞きたかっただけだったように思う。何かを吐露することができたのか、また彼を怒らせてしまっただけなのか、分からなかった。

 暗闇の部屋で、ブレザーのスラックスが擦れる音がした。晃がベッドのそばにしゃがみ、僕の手をそっと布団にしまってくれているような夢を見る。

「マド、まだ忘れてて、頼むから」

 輪郭のない声は何かに縋っているようだ。晃くん、晃くん、と彼を何度も呼んだけれどもう理不尽に打たれたり跳ね除けられたりはしない。きっと聞こえていないんだ、と考えた時に、冷たい体をした父よりも兄の方が随分先に遠くへ行ってしまっている気がした。

 

 父は三日間、最後の我が家で静かに眠り、通夜と葬儀を終えて出棺した。葬儀場で二度、火葬場の食事処で一度、初七日で檀家のお寺で一度、兄に会った。同じ家にいるのにそこでしか姿を見られないのは間違っていると訳もなく苛立った。

 一番近くにいる母は何も言わなかった。その後、誰に何を言われても涙を見せなかった彼女は、父のことを送り出すまで全てを遮断してしまっているように、綺麗な人形みたいに立ち居振る舞っている。

 冷房のきいた静かな寺の本殿を出て、階段状に並ぶ墓へ一列になって歩いた。ぶわっと一気に熱射が襲い、日光の重圧と地表からゆらぎ上る照り返しが息苦しい。

 やっと辿り着いた墓前で供えた缶ビールと干し帆立のスナックパックを、手を合わせてすぐ母は取り上げるようにまた鞄にしまいこんだ。

「カラスが来たら嫌だから。行こう、マドちゃん」

 薄く笑った横顔は瞬きのたびに不確かに色を変えた。兄と同じ形の睫毛の向こうにある栗色の目に嘘が映る。

 母のさす日傘から階段を少し上がったところに兄がいた。じわじわと唸る残暑にうっすらと汗を滲ませ、汗で束になった前髪を額の脇に流した姿は僕の思う晃ではなかった。

 日陰のない墓地に家族三人立っていて、誰も同じところへ思考は寄らないのだと思うと、それがなんだか不思議でならなかった。それでもこうして突然父を喪ったことに、僕はただのひとひらも、ごまかしのないまっさらな言葉を添えられないでいる。

 

 ◇

 

 年少になって近所のこども園に通い始めてすぐ、母のお腹に赤ちゃんができたと告げられた。誕生日が過ぎてクリスマスも正月も終わって、待ちくたびれてもうきょうだいは要らないと思った時に、弟は生まれた。初めての面会の日は雪が降っていて、駐車場から父に抱えられた時に長靴を片方無くしたのを憶えている。

 母はピンク色の着物みたいな入院服の上に見慣れたカーディガンを羽織り、生まれたての赤ちゃんをそばの小さなベッドで寝かせていた。容器は全部透明で、クッションと布団が敷かれた上に、ぶかぶかの服を着た赤ちゃんがくしゃくしゃの顔で寝ている。グーのまま固まった手はおもちゃみたいに小さくて、黒くてしわしわで、髪は全然生えていない。頬の横で手を握ったまま動かない小さな新入りを、俺は息を殺してしばらくじっと眺めた。

 まだ人間じゃないみたいなそれは、時折顔をぐにゃぐにゃ曲げたり鼻をもぞもぞさせたりして、それからまた動かなくなり、思い出したかのように口をもぐもぐ動かした。赤ちゃんなのに泣いていないのが不思議で、すぐに病気で死ぬのではと心配になった。不恰好な動きで急にぴん、と小さな足が伸ばされる。小枝と同じ見た目の足には白いベルトが巻きついていて、ベビーという文字だけ読めた。母に尋ねると、まだ名前を決めていない子にはそう書かれるのだと教えられる。

「誰がお名前決めるの?」

「家族で相談して決めるのよ。とっておきの素敵な名前にしてあげるの」

「じゃあ、お父さんが一番いいのを考える?」

「晃くんでもいいよ、お名前何がいいかな?」

 そう言われて当時の俺は途端にむず痒くなり、弟のところを離れて母のベッドのスプリングで遊んだり、カーテンに巻きついてミノムシごっこをしたりした。父はコンビニで飲み物を買ってくると言ってちっとも戻ってこない。母は少し眠たそうに何度か薄く目を閉じてはぱっと顔を上げるのを繰り返している。

 ほぼ家具のない殺風景な病室で遊ぶのにも飽きて、俺は再び小さな寝顔の前に戻った。少し観察していると、両腕がばね仕掛けのように奇妙な動作で伸び縮みし、顔を擦ろうと必死に拳を鼻に当てている。

 面白くなってカクカクと動く小さな手を指でつついた。反射で腕がぶるぶる震える。それが終わるとまた両手は頬の脇に置かれ、やはり両目は閉じられたままだった。

 小さな弟の寝顔を見ながら、俺は当時の子ども園で数日おきに読み聞かされる絵本を思い出していた。オレンジの表紙に寝ている子どもの絵が描いてある。話の骨組みは全く記憶になかったが、めのまどあけろ、という言葉だけがずっと耳に残る絵本で、担任の先生が読む時、不思議と前の方を選んで座ってしまうような話だった。

「まど、あいて」

 生まれたばかりの赤ちゃんに話しかけてみる。まだほとんどの時間を寝て過ごしているから、眠っていれば何も見えないし、抱っこされなければ誰も知らない。ひとりぼっちの生き物を拾ってきた感覚で、強く握られたままの小さな手をまたとんとんと指で押した。

「まーど、あいて」

 何度か繰り返した呼びかけに、ついに弟は目を開けた。ぱっちり開いた大きな黒目は、濡れてつるつるで、間近にいた俺をまるで見ているように動いた。

「まど、あいたね!」

 大きな声を出せば母もまどろみから目覚めた。窓が開いたと言いたかったところを、寝起きになんと聞き違えたのか、俺に倣って彼女も弟をマドちゃんと呼び、名前はもじって円になった。父は不思議そうに母子を見比べていたが、何かを妥協したらしく、不意に名を得た新しい家族に笑いかけた。

「マドちゃんだって、女の子みたいだね。もう目がこんなに大きくて綺麗で、きっと美人さんだな」

 女の子みたい、という言葉はその後たびたび円に明け透けに伝えられる。呪咀になったかは知らないが、弟は人懐こいが気弱で優柔不断な性格になった。

 

 四つ年下の弟とは幼少期にほとんど喧嘩をしたことがない。何でも俺の真似をして、どこへ行くにもついきて、いい留守番の相手であり、世界で一番近くてあたたかい存在だった。不器用で足を引っ張ることもある小さな相棒を何かにつけ連れて出たがるのは俺の方で、母にも「マドちゃんをよろしくね」と言われるのが誇らしかった。

 俺が中学に入ると今まで絶対に盤石だったはずの均衡はそっと崩れ始める。はじめのすれ違いは新学期を過ぎてしばらくした時、学校から帰った俺が冷蔵庫の前で麦茶を飲んでいた時だった。環境が変わったせいなのか、とにかく毎日喉が渇いた。その時の四月は真夏のように暑くて、一年は仮入部といえど運動部は毎日走らされ、泥だらけのジャージで夕方の遅い時間に帰宅していた。家族に合わせて夕食を摂った後に、ひとり自室で宿題をやる。

 弟も俺の新生活に不慣れでやや不満を持っていることは普段の穏やかな振る舞いからでもよく分かっていた。それを垣間見るたびに、こっちだって好きでこうなった訳ではない、と反駁したくなるのを堪えていた。

 リビングでテレビを見ていた円がひょいと頭を突き出して、カウンター越しに俺を呼んだ。

「晃くん」

 一度は無視した。今は嫌だ。今日はボール拾いで散々走らされて、眠くて怠くて仕方がないのに三教科の宿題をしなくてはならない。来週から塾に通い始めるからこれがマシな方なんて信じられなかった。放っておいてほしくて振り返らずにいる。

「あ、き、ら、くん!」

 冷蔵庫のドアポケットを開けて麦茶をコップに注ぎ足した。きっと今は尻を浮かせて顔を真っ赤にし、全然張れない声を絞り出してこちらへ呼びかけているのだろう。その顔が浮かべは少し前まで笑って降参できていたはずなのに、その時の俺は、なぜか思考が弟の方へ動かなかった。

 コップの麦茶を喉を鳴らしてまた瞬時に飲み干した。いっそのことポットから直接飲んだ方が早いのでは、というくらい、何杯飲んでも欲求は抑えられなかった。

 背越しに弟が泣いているのが分かる。涙はこぼしてはいないが、俺に無視されるのに耐えかねて、今度はいじけた声で「晃くんって、呼んだ」と自己の正当を主張していた。

 観念してリビングへ向かう。円が座る椅子のそばのテーブルに腰をつけ、屈んで顔を覗き込み、声をかけた。

「何、泣いてんの」

「泣かない」

 小さく首を横に振ると癖毛頭が揺れた。うねった前髪の隙間から卵みたいな丸い額が見えて、その先には尖った睫毛があり、こぼれそうな大きな双眸をやっぱり濡らしていた。瞬きすると涙が落ちると思って辛抱しているのか、瞼がぴくぴくと揺れている。

「誰に泣かされたの」

 やや照れくさくなりながらそう言ってやった。これは昔からやる冗談で、仲直りのきっかけ、弟が「晃くん」と言って泣きながら笑えばおしまい、というものだ。些末なことでいじけさせただけ、簡単に機嫌は取れると思っていた。

 ところが円は俄かに涙をどこかへ引っ込めて、俺の提案をあっさりと却下した。居直った目に怒りはないが静穏のまま俺を突き放している。

「もう、泣かない。僕、晃くんより先に大人になるから」

「は、無理だろ」

 語尾をかき消すように笑い飛ばす。こちらが取り合わずに見下ろしていれば、いつもだとすぐに顔色を窺ってすり寄ってくるはずの小さな弟は、その時は唇の色が変わるまできつく噛みしめたまま、沈黙の抵抗を見せた。

 瞬時に大きく裂開した溝だが、ひとたびは閉塞を試みる。

 その夜、トイレに起きてから部屋へ戻れなくなった円が俺の部屋のドアを叩き、一緒に寝てほしいと泣いた。からかいながらベッドの上で背中合わせに寝る弟の体温を感じれば、その日の不和は一瞬で忘れた。

 

 中学二年の秋だった。上級生が夏の大会で引退してから間近に控えた新人戦のことで頭がいっぱいで、日々そのことと友達の他愛のない話、塾の帰りにコンビニへ立ち寄ることくらいを楽しみにするような、平凡な思春期の日々が訪れていた。弟は四年生になり、習い事へ通うのに頻繁に自転車で外へ出かけていて、週末も友達と連れ立って市内の広場や駅前で遊ぶようになっていた。

 俺たちの行動からその頃からほとんどばらばらだった。学校も生活リズムも違うのだから当然のことだった。それでも相棒が自然解散とはならなかったのは、たまの夜更かしで一緒にテレビゲームで競い合ったり、サスペンス映画の地上波放送で当たらない推理をしあったり、興味本位で体の変化や顕在化する性徴の話をし合うことがまだあったからだろう。

 疑いの余地なく、自然に兄と弟の距離は新しい均衡を築こうとしていると思っていた。円は変わらず俺をくん付けで呼んでいて、兄と呼ばれるよりもよほどしっくりと馴染んでいた。

 なぜ息をしているのか、なぜ大人になるのか、どうして親と教師だけが偉いのか、そんなことばかり日々考えていたのに、俺の意識はなぜ自分の弟が円なのか、ということを思案する余地は無かった。元々周囲の、殊に大人が暗に見せる感情の機微や情況の微々たる変化には敏感な方だと思っていた。その思い込みがそもそも怠慢だったのだ。

 部活帰りに冷蔵庫へ直行する俺に、夕食の支度をする母が早速咎めるように声をかける。

「ちょっとお兄ちゃん、今おやつ食べないでね。ご飯すぐだから」

 平たい円柱の紙箱から扇形の銀紙に包まれたチーズをばらばらと手に取ってひとつずつ食べようとする俺に、母は眉をひそめ呆れて大仰にため息をついた。

「こら、マドちゃんの分、残して」

「チーズ嫌いじゃん、マド」

「そういう問題じゃないよ」

 ごみ箱に捨てようとしたチーズの紙箱を取り上げられ、掌から銀紙を剥く前の2ピースをそこへ戻せと指図される。小さなスイカにかじりつくようにあっという間に平らげてしまった3ピースの銀紙をくしゃくしゃと丸めながら、無造作に残りのチーズを戻した。スーパーのチーズはマヨネーズみたいな味がして嫌い、と垂れたままの眉をひそめてこぼす円の顔を思い出す。

 普段は全く意識することがなかったが、弟は可愛いやつだった。生まれた時からもう可愛かったと思う。このチーズをわざと残しておいて、嫌々口に運び目を閉じて咀嚼する円をからかう餌になるのならまあいいか、と勝手に合点して、母がしまい直したチーズの箱を再び開けた冷蔵庫の上段へ戻した。

「マド、どこ」

 野菜を洗う水音に負けないようにやや声を張り、特に用もなく弟の所在を聞く。母は葉物の水気を払って落としながら、そっけなく「お父さんとお風呂」とだけ答えた。

「は? なんで」

 首にかけたタオルで額の生え際をこすりながらペットボトルの栓を開け、スポーツドリンクをごくごくとが体へ流し込む。がしゃん、とアルミ製のザルが落ちた音が聞こえた。ちらと横目で見ると、ザルはコマのように円心に回って、ざらざらと嫌な音でシンクの内側を掻いている。それを身じろぎもせず凝視していた母を見て、ごくりと喉のつかえごと無理に飲料を飲み下した。

 自分と同じ直毛が頬にかかった彼女の表情はほとんど見えなかった。シンクを両手で握り、それで辛うじて立っていると言わんばかりに腕をぶるぶると震わせている。それは怒りなのか、何かを暴かれたことによる猛烈な焦りなのか、俺は自らの幼さによる短慮によって瞬時に見えない地雷に触れたのだと察した。

 本人が反抗しないのをいいことに下の子だけずっとちゃんづけ呼ばわりしていて、兄の俺をほとんど主とせず円にばかり話しかける母の、ただの溺愛ではない秘められた計謀を覗き見してしまったのだと知る。シンクには蛇口の水がざあざあと落ち続けている。

 母は不意に濡れたままの手を後ろへ伸ばすと、行儀悪く開けっぱなしにしていたドアポケットをバンと思い切り閉めた。父より背の高い冷蔵庫が加えられた力の反動でぐらぐらと揺れる。

「なんでって、何よ、知らないわよ、そんなの。……早く、着替えてきて」

 ぴしゃりと言い捨てられ、俺はキッチンを追い出された。このまま階段をのぼり自室へ戻る気も起こらず、さしあたりジャージを脱いで身軽な姿で荷物を置きに行こうと思い、洗面所へ入る。彼女の言った通り、扉の向こうにある人の気配でちょうど今、父と弟が湯船に浸かっている頃なのだと分かった。

 

 ふたりの家族が対話する声が聞こえる。輪郭が削がれふわふわと反響するばかりの音は、じきに慣れて単語として耳が拾えるようになった。洗面台で手を濯ぐ流水音にも慣れて次第にそれは遮断されていく。理科の授業で、そうした都合の良い音響処理ができるのが人間の脳の多元的能力だと雑談で聞いた記憶と重なった。

 円は機嫌良く今日の出来事を父に話して聞かせていた。給食でおかわりをしたおかず、学活で後ろの席の男の子に再三ちょっかいを出されて嫌だったこと、帰り道に電柱のそばで見つけた形のいい石、それを家のそばにある月極駐車場の敷地の隅に隠してきたこと。

 少し前までは自分に語られるような日誌みたいな報せを、同じ家族なのに別の者に獲られたことにわだかまりを持った。悔しいとか狡いとかそういう感情までよぎったことに気後れする。ハンドソープが全部押し流された後の両手を蛇口の下で延々とこすりながら、流しの前へ立って食い入るように窓の向こうの会話を盗み聞いた。

「お父さん、明日も仕事終わるの早い?」

 呑気な弟の声が風呂場に反響してぼやっと広がる。

「うん、早いよぉ。マドちゃん、お父さんとお風呂は楽しい?」

 それに応えた父の声は、ひどく薄汚れた猫なで声だった。矢庭にどっどっと激しく鼓動が体を打つ衝撃が喉まで迫り上がってくる。砂を被るようにざっと打ち寄せた疑念で思考はあっさりと混沌に埋没していく。弟が赤ちゃんの頃でもそこまでの振る舞いを見せなかっただろうに、もうじき高学年になる息子に媚を売るような父の言動に唾を呑む喉が痛んだ。

「うん、楽しいよ……」

 不自然に上ずった語調の後に、やや慎重な返事が聞こえる。円はこの入浴時間を日常の一部と思っているのだろうか。この家に生まれて初めて、父がどんな顔をしているのか想像することができなくなっていた。思い描こうとすると出所の分からない怖気で戦慄した。

 それから親子の会話は顔が火照っただとか指の腹に皺ができたといったありきたりな往復へ落ち着いていく。時折浅く波打つ湯船の水音だけを残して、ふたりの声も聞こえなくなった。流しの蛇口を戻して水を止め、ジャージの裾で適当に手を拭ってから頭から化繊の生地を引き抜いて脱ぎ、洗濯かごへ放り込んでいく。

 先刻の立ち聞きで感じたのは穿った場面の解釈だったかもしれない。母と噛み合わない会話をしたせいからか、父の台詞に警戒しすぎていた。静かに時間が流れる浴室の様子に未だしばらく聞き耳を立てながら、それでも一瞬、気が緩まっていた。

 ぴしゃんと高く水の跳ねる音がして、それからぱたぱたと雫が水面を打つ様子がうかがえた。父がひそひそと声を落として円に告げている。

「マドちゃんのここ、かわいいねぇ」

 言葉で暗に伏せられたそれは、何を指して可愛がろうとしていたのか。普段は角の立つ声で自分を叱り飛ばす父が、熟して醜く変容した雄の姿で弟に吹き込んでいるという状況に絞められて、うまく呼吸の往復を繰り返せなくなった。

「可愛くないよ、おしっこ出るところだもん」

 小さな波音に、円がそのまま股下の陰茎へ屈んで答えているようなくぐもった声が重なる。

「でもほら、柔らかくて、色が薄くて……マドちゃん、素敵だ」

 ぞっと怖気が足下から電流のように駆けた。怖くなって反射で自分の局部を握る。唐突な刺激に血脈がばくばくと鼓膜を弾き、痛いくらい束縛された自己が不本意に勃った。敏感な粘膜に痛覚が集中していく。そうして容赦なく甚振っていなければ、吐き気や髪をむしりとりたいほどの焦燥で感情がばらばらに瓦解してしまいそうだった。

 脱いだジャージを乱暴に籠へ突っ込み、インナー姿でばたばたと洗面所を出る。階段を一段飛ばしで駆け上がる足がうまく伸縮しない。もつれながら部屋に突っ込み、背中でドアを閉め、しゃがみ込んでもう一度下着を濡らしているそこを戒めるように強く握った。

 おかしい。この家はおかしい。異常だ、狂ってる。

 父はいつから別人にすげ変わったのだろうか。いつもひとりで晩酌してのんびりしているだけの人で、この頃は生意気な口をきく息子に厳格に喝を入れる側面はあったが、ほかは知らない。もしかすればあの人は弟を息子だと思っていないのかもしれない。ただの愛玩物に見えているのか、それを弄んで愉しむ諧謔の趣向を持ち、今になって開花させたのか、手近にいる小さな少年を相手に。

 思い起こすだけでぐわっと逆流してきたものが喉を焼き、不衛生な吐瀉物の味が口の中に広がった。

 恐ろしくて、情けなくて、てんでばらばらに暴れて部屋の中をめちゃくちゃにしたい苛立ちが絶えず襲っている。使わなくなった鉛筆削りをベッドの脚へ思い切り投げつけた。がしゃんと衝突した後にどんと床へ落ち、少し中身の残った屑入れが飛び出し削りカスがその場に落ちた。大して部屋が汚れないのが遣る瀬なかった。

 許せなかったのは、一番初めに俺は「自分じゃなくて良かった」と思ったことだった。逃げたのだ、あの場から。キッチンで俺に怒気が滲んだ視線を向けた母だって、何もできない。何かをしようと思っていない。

 きっと彼女は端からあらかたのことは知っていたのだ。自分の子どもだろ、なんとかしろよ、と密かに毒づいてから、俺も自分の弟に何の手も打ってこなかったことを思い知らされる。

 散らかった部屋を片付け、着替えてリビングに戻っても、ふたりは風呂から上がってこなかった。小一時間遅れて食事に現れた円は、耳まで火照りの取れない顔で俺の影に隠れるように椅子を寄せて飯を食った。

 

 それから父が弟と風呂に入ったのを見た日は三回、三度目は少し期間があいてから思い出したかのように呼び出し連れ込んでいた。最後の日、返事をした円の声は微かに強張っていた憶えがある。

 それからぱたりと父の悪戯は無くなった。同じ頃に円を中学受験させるかという話も上がっていたけれど、結局は本人が気乗りしていなかったのと母が父との交渉を諦めたということらしく、予定通り俺の制服を下げられ弟は地元の公立校に通う中学生になった。

 家族はあの日を忘れているように振る舞っていても、鮮やかな記憶はいつまでも拭えない。母は円を猫可愛がりしていっそう自分の掌中におさめるような格好を取るようになった。まるで自分の玩具だから他の何人にも譲らないと威嚇するような形で。弟は徐々に過保護へと侵食する母の傲慢に不満を持たなかった。中学生特有の尖った思春期のような挙動も顕在せず、未だに冷凍庫にストックしてあるバニラモナカのアイスに手をつける時は、必ず半分に割って母と分け合う仲だ。

 それに反して俺は弟への当たりを強くしていた。父は俺が円を邪険にすると厳しく叱ったので、関心と感情がこちらへ逸れるように仕向けることにしたのだ。それが奏功したかは定かではない。弟は相変わらず人の顔色を窺うばかりの静穏な人格だったし、父の発する物事の是非には無関与で、なるべく対話を持たないようにしているようだった。

 ある時、キッチンの陰に座り込んでいた華奢な体を蹴りそうになったのを寸前に避けた折、咄嗟に邪魔だと強い語気で退けたことがある。

 円はびくっと肩を震わせ、交差した腕で頭を隠そうとしてから「……あ、終わった?」とおずおずと声を出した。

 その少し前もちょうど俺は父に試験の成績か何かで叱咤されているところだった。もう理由なんか記憶していない。忘れてしまってもどうでもいいくらい、父に叱られるたびに反目で睨み返すという日々を常としていた。

 床に座り込む弟を跨いだ先から振り返ると、彼は指が簡単に入り込みそうな隙間だらけの癖毛を掻き、目を伏せて笑う。

「僕、みんなのこと好きだけど、怒ってる父さんは少し嫌いなんだ。だって何も悪いことしてないのに」

 ぽつぽつと溢れる言葉の意味よりも、それを告げる口元を無意識のまま目で追っていた。柔らかい発音と緩やかに湿る唇の薄い艶が重なる。

 あの夜、父に陰茎を視姦された弟は、今ここにいるのと同じ、媚びたのではない有るままの美しさを自然に湧き立たせていたのだろうか。

 弟は綺麗な少年だった。清しいとか愛嬌があるというよりも、人ではないものに見えるような、相手を耽美させるような危うさがある。その実は触れれば抜き身で血が滴るような狂気を孕んでいた。

「ね、晃くん」

 そうやって、しゃがみ込んだ下からそっと囁く声に、俺は昂揚していた。

 振り払った手にかかった洗い籠がひっくり返ってシンクの向こうから床に落ちた。乾かしたまま置かれた皿が数枚乾いた音を立ててぱりんと割れて飛散する。破片に怯えて縮こまった弟の胸ぐらを掴んで通路へ投げて吹き飛ばした。

 もう名前を呼ばせないと決めた。もうこいつをマドと認識しない、ただオトウトという記号として扱うことを誓った。さもなくば俺はこの家で父と同じ生き物になってしまう。

 強迫は底なしに俺を孤独へ引き下ろしていった。兄に手酷く払われた弟は「いたい」と小さく呟いただけで、泣きも怒りもしない。

 

 転機は唐突に訪れた。母からの報せで学校を早退すると父が救急搬送された病院へ駆けつけた。今はガラス越しに元の姿を留めないほどに変容したその姿を見ている。

 家族の連絡先確認が遅滞したせいなのか、母と共にICUへ着いた時には、おそらく数時間かかったであろう手術は既に終わっていた。顔や頭にまんべんなく繋がれた管や計測計、近くにいる他の患者と同じ脈打つ機械音だけが断続的に鳴るだけの臥した肉体を、不躾にもじろじろとつぶさまで何度も確かめる。

 身内の事故や危篤という外的な情報を端折っても、その様相からこの男は生物としての生存の危機だということをすぐに理解した。いずれ死ぬのが自然で、快復するという方が誤算のように思わせる有様だ。

 近くで母が医師と立ち話をしていて、術後の経過や運動機能の喪失、消化器、排泄などの説明を聞いている。早口で専門用語を平易に言い換えられたままの現況はほぼ分からなかったが、俺の予想はだいたい的を射ていると、その医師の目を見て思った。

 弟は一度病院を出た母が車で迎えに行き、夕方にやっと病棟へ現れた。もっと狼狽して落ち着きなく来るかと思ったが、不思議そうに目を見開いているだけだ。

 数日経って、容態の寛解が判断され、母は治療方針の説明へ、兄弟は患者との面会を許された。

 ICUだけでしか目にしない、白衣の肩に紺色の線が入った看護師に、面会はひとりずつで、と告げられる。どちらからにするかと聞くまでもなく、鞄とポケットの中身をソファに乱雑に放って支度を始めた。その脇にいた少年は腕を伸ばして荷物が落ちないように庇いながら「ごめん」と口を開いた。声ははっきりしているが、語尾が微かに震える。

「僕、明日がいい、明日にする……ごめん」

 心許なく発せられる言葉に口端がわずかに歪むのが分かり、とっさに手で隠した。

 ガラス張りの部屋に弟を入れてやるつもりなど俺にははじめからなかった。できればこれで全てを終わらせたい。あの男は病室に閉じ籠められたまま死ぬのだ。

 手指を消毒してから所定の手順で使い捨ての医療ガウンを着た。マスクは横紐を頭の後ろで縛り、頭髪もキャップに包む。

 部屋へ入るとだだっぴろいひと続きのフロアの中に、低い白カーテンの間仕切りがされてベッドがみっつ並べられていた。外から見ていた時の間取りから推測して一番右手にいるのが父だが、浮腫んだ足にチューブだらけの体に何者かの個の判別はほとんど失われている。ベッドの格子にかかったカルテ番号と父のフルネームが丸文字で手書きされたプレートを見て、やっと自分の身内と対面する心持ちになってきた。ほとんど音のしない白い床を数歩進んで父のそばへ立つ。

 母の話を聞く限り、今後は積極治療か、ある程度で緩和医療へ転換するかの分岐が頻回に現れるということらしい。これまでも散々書類のやりとりとソーシャルワーカーとの面談が重ねられていて、母は父ではなく書面の見舞いに来ているようだった。

 どれくらいの時間そこで呆然としていたのか、気づけば父の目がうっすらと開いていた。搬送後は一度も意識が戻っていないと聞いていたので、もしかすればこれが初めての混濁からの脱出なのかもしれない。

 はっはっと浅い息が吐き出され、酸素マスクの小さなドームが白く曇る。直後に寝返りを打つような仕草を試みたのか、首が微かにゆらゆら揺れた。天井を呆然と見上げていた双眸の焦点がだんだんと絞られ、それから横に滑ってこちらへ向かう。俺の影を見た父はさっそく何かを訴えたいらしく、マスクの下で口を不恰好に動かした。反射で頭を屈めて耳を近づける。父は何度か発音をし損じて、それから唐突に、マスクの樹脂を拡声器にして大声を出した。

「ま、ど」

 音に触れた耳が焼けるように熱い。不意の一発で完全に打ち負かされた酷い焦燥に喉元まで内臓が迫り上がる思いがした。

 感情の撹拌が暴発してわなわなと手が跳ねる。目が覚めての第一声がそれか、というのと、俺を弟と間違えた可能性と、生きて意識が覚めたことを体感してしまったのと、あらゆるものの滞留が巻き上げられた結果、何年も蓋をし続けていた器が呆気なく粉砕していった。

 目が落ち窪みひゅうひゅうと虫の息の父を見下ろしながら、喉に開けられた呼吸補助の管をおもむろに手に取り、病室のドアに抜かれた丸窓に背を向けて立ち、ゆっくりと拳を作って握った。圧力で管が白く変容していく。呪いの言葉は思考の奥で延々繰り返された。

 壊れろ、壊れろ、起きるな、消えろ、消えろ、死んでくれ。

 もう何十分もそうしていた心地だったのに、壁にかかった時計の針は、数分も進んでいなかった。

 生きてここを出たとしても二度と弟に触れさせてやるものかと心に決めていた。お前から全てを奪ってやる。円は俺のものだ。

 その穢れた執着の行き場はどこにもないのも分かっていた。もしも彼が俺と同じように、などと思うことはできなかった。優しく微笑まれるだけで悲しみは募る。もう俺に笑顔を向けなくていい、恨まれていい、兄への感情を楔に父と交わした全ての言葉を諸共に忘れてくれと願った。永遠に。

 呪いはてきめんに効いた。父は数週を経てぷっつりと事切れて、亡骸を眺める弟は手繰り寄せる記憶を持たず霧の中を歩いていく。

 家族はばらばらのままだった。家庭を今の歪に作り変えてしまったのは、父ではなく自分なのかと気付いたのは、全てが終わった後だった。

 

 親を殺したかもしれない。手に残る感触を確かめるたび、死んだ父がむくりと起き上がって俺に復讐する幻想を見る。

 あの朝、父の遺体と弟を乗せた搬送車を見送ってから、母の運転で自宅へ戻った。面会の付き添いは毎日約束の一時間、母に持たされた着替えを使用済みのものと入れ替え、無菌から出た緩和病棟の意識のない寝顔を見下ろす。その生活を苦痛と思っていなかった。高校は部活を引退して予備校通いを始めていたが、正直、夏期講習まで本腰の気が全く湧かず、親に投じられた費用を水に流しても咎められない用務は時間潰しに好都合だった。

 半月あまり繰り返し行われた特例の日課に、母は帰りの運転中、丁寧に礼を述べる。涙はなかった。泣いたら運転できないからか、と横目に見遣ってすぐに視線を外した。

「別に、礼とか」

「ごめんね、私が奥さんを放棄してたから」

「今じゃないよ、それ」

 迫り出した窓の縁に折った腕を置き、ぼんやりと車窓を眺める。市街の風景は小さい時によく触れていたレゴブロックみたいにのっぺりとした単調の連続に見えた。

「晃」

 母の声は低くざらついている。返事の代わりに顔を上げ視線を向けた。それが運転席の視界に入ったかは分からないが、彼女はお構いなく端的に断言する。

「あの子を会わせなかったでしょう」

 冷たく突き放された言葉に訴追は含まれなかった。俺が「そうだよ」と答えると、母はふふっと小さく嗤った。

 それでも俺と母は共犯者ではない。当事者になれない彼女はあの男に殺意を抱くことは終になかっただろう。そう思っていた。

 帰宅してから制服に着替えた俺と弟は父方の親類を迎えて亡人を見送る支度を粛々と始めた。情の深い祖父は自分よりも先に逝った息子の姿を見ずに過ごした。伯父は時折声を震わせながら母と話している。弟はずっと宙を漂うようにぼんやりしていた。

 茶の給仕をしてから、話し相手がいないせいか、少し眠そうな顔をしながらリビングの様子を長く傍観している。大きな瞳が瞬きのたびに憂いを含んで濡れて、癖毛はふわふわと何かを誘引するように揺れた。

 祖父と話をしながら、近くでやおら床から立った薄い背中を目で追う。そのまま父のところへ行き、足を折って座り込んだ少年を見て、俺は何を思ったのか。

 飛び出すように足を蹴り立ち上がった。襟首を掴んで父の抜け殻から弟を引き剥がす。抜け損なったあの男の魂が悦んで蘇ってしまう、そんな在りもしない妄想で背が戦慄いた。

 ややあって「うぐっ」と呻いた弟は、縋るようにこちらを見て夏服の白い袖を握る。

 すっかり弛緩した体を抱えて階段を引きずり上げ、自分の部屋の隣室へ押し込んだ。間取りは左右対称で、弟が昔好きだったピーナッツのカーテンがかかっている。枕元のぬいぐるみも見覚えのあるものがまだ大事に取っておかれていた。

 ベッドに横たえさせ、苦悶に手を掻くのを振り払って服を脱がす。意思とは別に勝手に動いているような白い手が、ぱらぱらと俺の耳の上を横切って髪を弾いた。

「晃くん……晃くん……」

 一番大事な家族のはずなのに、そんな風に見られなくなってしまってから、ずいぶん年月を経たことの焦燥と疲弊がどっと襲って、図らず目元が緩んで流されそうになった。辛そうに浅い息を吐いている弟と向き合って、ベッドの高さに合わせて膝を折り、行方の定まらなくなった手を取って布団の中へ押し返す。

 弟はきっと父とのことを憶えていない。自衛のために故意に消された記憶だとしたら、そのまま永久に葬っておきたかった。

「マド」

 眠っている弟の横顔にそっと話しかける。死んだことに戸惑いながら未だあちこちふらふらと彷徨っていそうな父に聞き耳を立てられていそうな気がして、すぐに口を噤んだ。

 弟なんて、思っていない。壊したくないから突き放して逃げ続けた。ただずっと、ずっと焦がれている。いつまでも小さなマド、俺の円。

 

 初七日が終わった帰り、弟は墓地での日射にくたびれたのか、帰りの車内でぐっすり眠っていた。田園のあぜ道みたいな細い道路を長く抜けてから高速脇の国道に左折で入る。市街の方へ向かって走ると、有名大学の地方キャンパスの看板が視界に入った。子どもの頃から家の車で通い慣れたルートで、特にその大学や、そもそも大学に進学するのかとか、この頃になってもまだ実感は生ぬるいものだったが、母は不意にそのことに言及した。

「大学、家を出るつもりなの」

 父が亡くなった日に祖父と交わした他愛のない話はやはり隈なく聞かれていたようだった。率直に「まだ決めてない」とだけ答える。

「嘘、模試で書いてきた志望校、知ってるんだから」

「なんで勝手に人の部屋に入るの」

「勝手じゃない、掃除の時にちゃんと『お邪魔します』って言ってます」

「なにそれ」

 ギアの傍にある足下のドリンクホルダーから墓地の自販機で買った炭酸水を取り上げ、残りを一気に飲み干した。温くて気泡が抜けた後の不味い透明水がどろっと粘度を持って侵入するような感覚に薄く顔をしかめる。

「こいつと二人暮らしになれば楽でしょ。さっさと出てくから、あと半年辛抱して」

「ちがう、逆」

 幹線道路と交差する十字路で車線は渋滞し、右折ウィンカーを出す縦列の最後部につけて減速しつつ、車は何度かハザードを焚いた。アクセルを放すとぐんと失速する慣性は未だに少し緊張する。近づく前の車のナンバープレートの数字を特に意味もなく脳内で反芻していると、母も同じことを考えていたのか、ぼんやりとその数字を読み上げた。完全に停車してからギアはゆっくりとニュートラルに入れられる。

「晃が円とふたりでいてくれた方が、楽に決まってる。一年辛抱するから、あの子が高校に上がる時、晃のところへ連れ出して」

 耳を疑って向き直ったが、母はいつもと同じ顔をしていた。弟に媚びたみたいに口をきく時には見せない、冷めていて穏やかで彼女本来の表情だ。年相応に疲れた目が前へ見据えられている。

 無理だ、できない、今度は俺が父になる。

 答えに窮して黙りこくっていると、彼女はそれを否定ではないと解釈したようだった。隣で大きく息を吐かれる。後部座席で弟は昏々と眠り続けていた。

 夏の陽は長い。エアコンで冷えた車内まで突き抜けてぎらぎらと焼き続ける西日がただ恨めしく思う。

 

 駐車のバック音で一度覚醒した円はその後も気だるそうにだらだらと動き、急かされて風呂に入り夕食を少し摂ると、さっさと自室へ上がっていった。しばらくしてから母が夜食の給仕に尋ねたが、ドアの中から返答はない。熟睡しているようだ。弟が何かを取り返すように気が済むまで眠りこけるのは珍しいことではない。そもそも中学生は基本的に常に睡魔を纏った生き物だ、と数年前を顧みて思う。

 リビングのソファの配置をやっと元へ戻し、テレビ台をずらして替わりに壁際へ置かれた仏壇に父の骨を上げた。つけた線香の炎を消して挿しながら、未だ此処にいる、という輪郭の無い実感だけが下腹に巣食っている。この男が居たから俺がおかしくなったのか、そもそも遺伝で生まれた時からもう俺はおかしいのか、もしくは父の方が常人で、あの風呂の中の揶揄はただの俺の幻聴だったのか。向き合うほどに混濁していくのから早く逃れたくて、埋まってくれ、朽ちてくれ、無くなってくれと呪う日を重ねることになるのは変わりなかった。

 夕食を済ませ、飲み物とチーズを持って母に声をかけてから二階の自室へ引っ込む。彼女はソファでひとりバニラモナカアイスを齧っていて、気のない返事で「おやすみ」と言ったきりだった。テレビは映っているが視線の先はずっと自分の端末の液晶画面に注がれている。ドアを閉める前に立ち止まると怪訝そうな顔をして「なに」とだけ言われた。返事をしないでさっさと階段を上る。

 遅れた分の予備校の宿題を消化していたが、苦手な古文と漢詩が嫌になって問題集を開いたままの机にしばらく突っ伏して寝ていた。慣れたもので教科書より書き込みが想定される問題集の方が黒鉛に馴染む紙質だからか寝心地が良く、顔を横向きにして伏せるとあっという間に意識が無くなっている。一度目覚めたが寝足りないと思って顔の向きを変えてまた目を閉じ、次に起き上がった時はもう日付を跨いだ後だった。

 提出期限までまだ数日の猶予があったから徹夜の必要はなかったが、なんとなくすぐにベッドに入り直して朝まで寝る気分になれず、手持ち無沙汰にキッチンへ行くことにする。部屋のドアを開けてすぐに階下の気配を感じたのに、寝惚けていたせいなのか、母と鉢合わせをするという心配など全く念頭になく、それでいて足音を殺してゆっくりと階段を降りた。

 キッチンから明かりが漏れていた。母の話し声が聞こえる。

 語調の柔らかい印象に、はじめは彼女の友人か保護者同士で親しくなった人と話をしているのだと思った。ただよそゆきではなく親しみの深い感じが妙に気になったので、そんなつもりはなかったが自然とそのまま暗い廊下で立ち聞きを始めていた。時折冷蔵庫がぶんと鈍く唸り、製氷機の自動生成が場違いに大きな音を立てる。

 母の話し相手は千福の伯父だった。祖父の体調や伯母と従兄弟の近況を丁寧に聞き出しているのが伺える。それに笑ったり心配そうな声を上げたりする彼女の様子が、この先に大きな本題に入る予兆にしか思えない。

 数分経っただろうか、やはり母は「俊さん」と切り出し、唐突に亀裂を広げて決壊させるように、その告白を始めた。

 父が入院した時、実は彼女は手術の初めから立会いをしていた。俺たちが知らなかっただけで、初動のうちに大方の手続きは済ませていたらしく、つまり俺が呼ばれるよりもずっと前の時間には既に、家族の意思決定は全て済んでいたという事らしい。その後の方針決定は医師の再三の説得だったという訳だ。

 母の声は落ち着いていてとても静かだ。子どもの頃に熱を出した日の朝、学校に連絡を入れる時の淡々とした感じと寸分違わず同じ口調で言葉が継がれる。

「はじめに貰った書面、目も通さず粗方不同意にしました。化学療法、放射線、気管挿管も、全部。症状寛解のための医療行為は基本的に受けないと言っていたのにね。主治医の先生には宗教上の理由があるのかとか聞かれたけど、そんなのないでしょう。生憎ですが、とか濁して突き返した。でも麻酔の同意書だけはサインしました。意識が不鮮明になった方が楽になるって説明に、惹かれたの。晃はその後の彼と話をしているから、どうだったかは知らないけど……。終末以外の道はないと思っていた。でも二週間以上も耐えて、このまま快方に向かってしまったら、どうしようかと」

 伯父が何かを言っているのか、母は一度押し黙った。キッチンのシンクに向き合って、抱えるように端末を両手で握っている。

 それから母はひっと小さく喉を鳴らしてから、突っ張ったように口端を持ち上げた。泣いているのか笑っているのか、分からなかった。

「看病も介護も、無理だった。ごめんなさい、俊さん、ごめんなさい。お義父さんにも悪いことをしました。気が済まなければ、弟を殺されたって、私を警察に突き出してください」

 言葉の言い回しで、伯父がこの件をあらかじめ承知していたということを理解すると、煩いくらい心臓の音が鼓膜一杯に打ち始めた。心拍はどんどん加速する。熱帯夜だからではない、心地の悪い脂汗が滲んで、不意に崖の縁に立たされたような危急に、不衛生に下腹が震えた。

 父の息の根を止めたのは俺ではなかったという儚い恍惚の裏返しに、母にそれすらも見透かされていたのだという遣る瀬無さが募る。

 自分があの男と同じ生き物だということすら、隈なく悟られているのかもしれない。俺を排除して、円もここから追い出して、一度はその手から逃がされるのだろう。けれど彼女は隙なく行方をぴたりと尾けていて、いつか知らない所で知らない間に殺される。

 だめだ、逃げ場がない。

 そっと廊下の壁際を離れ、どんなに消しても母に聞こえてしまうのであろう足音を立てて二階へ逃げ帰った。今しがたの会話でさえ、俺に聞かせるためにあった一幕のように思えばぞっとした。

 普段は触れない手すりを握って二階の短い廊下を進む。だらだらと湧き上がる唾液を何度も呑み下し、ぬるぬるとした温さにたまらず二、三度大きくえづいた。追い返した吐瀉は俺の深淵に根を下ろしたものを道連れにするにはやや心許ない気がする。きっと嘔吐なんて簡単な術では排出させないようになっているのだ。腹を暴くか、やはり死ぬかしかない。

 俺の部屋の手前に円の部屋のドアがあった。トイレは一番奥だから、小さな弟は近い方のドアを開けて俺の部屋へよく逃げ込みに来た。今、階下から逃げてきた俺は何処へ行けばいい。

 同じ造りで線対称の間取りのドアを、とん、と一度、小さくノックする。ノブを下げてドアを押し開けた。当然に部屋の灯りは落ちている。

 後ろ手で慎重にドアを閉め、目が慣れる前にすり足でベッドの方へ近づくと、あの日に弟を寝かせた記憶のところで膝を落とし、手を伸ばした。

「マド」

 声にならない吐息で呼びかける。指先が触れて、髪と額を見つけ、手探りで顔を探し当てた。ふたつの瞼がある。物音を立てて人に触れられても、円は無防備に眠り続けていた。

「マド、起きろ」

 ようやく絞り出した声は掠れて毛羽立っている。これなら音を殺したままの方が良かった。耳元に唇を寄せ、「まーど」ともう一度声をかける。今度は反応があって、眉をしかめた少年はぐいっと体を折り畳み直した。暗闇に慣れた目で弟の瞼が細かく震える様子が見える。

 マド、起きて、開いて、開けろ。こっちを見てくれ。

 しつこいくらいに念じていると、円ははっと目を開き、一度乱暴にごしごしと瞼を擦った。それから何度か瞬きして、俺の方をぼうっと見上げる。焦点が合わないからきっと影でしかこちらを認知していないふたつの目が、すぐにじんわり溶けて子どもみたいな泣き顔になった。

「晃くん」

 震える手は遠慮がちに引っ込められて、俺の様子を伺い、それからまたおずおずとこちらへ伸びてきた。恐怖でべっとりと濡れた背に貼られた寝衣のシャツが引き攣ったのを捩りながら、屈んで呼ばれた手を掴んで引く。

 円は横向きに寝転がりながら顔をくしゃくしゃに歪ませ、届いた手の先でそっと髭の生えない頬を撫でた。ぽろぽろと言葉が落ちる。

「怒らせて、ごめんね」

「怒ってない」

「怒って、ないの?」

「一度も」

 弟を長く蝕んでいたものが乾いた浮腫のように外れたような相貌を見せ、それから夢中で腕を伸ばし飛び込むように抱きついてきた。首にぶつけられた二の腕の感覚を、素直に懐かしいと思って目を伏せた。

 昔はこの瞬間はもっとたくさんあって、小さくて短くて柔らかい肉がふわふわくっついていて、頼りなく俺に縋ってばかりの腕だった。触れた体はまだ子どもみたいな体温で、匂いも焼きたてのクッキーみたいなあの時のまま、尺ばかり伸びて今度は薄さが目立つ。おんなみたいだな、と思った。抱き返して細長く伸びた上体を持ち上げる。

 少し火照った円の顔は、安堵して俺の肩へゆっくりと接着した。何度か軽く呼吸して、瞬きが聞こえそうなくらいで目を少し動かす。

「あのね」と言われてからのしばらくの沈黙は至福の静穏だった。衣越しにとっとっと脈打つ鼓動を感じる。視界にはいない円が、穏やかに微笑んでいるような気がした。

「……あのね、これがまだ夢だったら、本当のこと言っていい? ずっと、晃くんが一番好き。はじめからずっと」

 あまりにもあっさりと告げられるそれに、ああこれは純粋無垢な家族愛なのだなと理解した。円は俺を好きではない。兄を愛してその姿に添っていた。貸した腕を抱えれば安心するのか、穏和な声はいっそう解けて嬉しそうに何度も俺を呼んだ。

 肉親に触れただけで甘美を拾う神経が疎ましくて奥歯を噛みしばった。抵抗は虚しく、耳元へ寄せた口でそっとそれに応える。

「マド、ここあけて」

「ここ? 一緒に寝るの?」

「そう」

 少年は安堵して、俺にトイレが恐ろしくなったのかと囁いて小さく笑った。捲られた肌掛けに片足ずつ挿し込み、肘をついて向かい合わせに横向きになってから身を沈めた。ベッドが大きく軋んで揺れる。夜半に未だ冴えている母には、今の添い寝もとっくに悟られているかもしれなかった。円は窮屈な寝床にくすぐったそうに笑う。

「面白い、顎は触ると髭が痛い」

「何年経ったと思ってんの、図体でかくしやがって」

 前に背合わせで寝た時のことを忘れたふりをして、伸ばした腕の付け根の下に円の頭を置いた。居心地を確かめるように癖毛が緩やかに揺すられる。

「晃くん」

 布団の中で細い腕がごそごそと動いて、俺のシャツをまさぐり、腹のあたりに布地を寄せ集めてぐっと握った。臍の下あたりに拳が当たる。微かに覚えた昂りは、すぐに冷水に洗われるようにあっという間に鎮まった。円は俺の胸に耳を押し当てて、心臓の音を聞いている。同じことをあの男の遺骸に試みていた数日前のことを想起して、弟はまだ父に生きていて欲しかったのだろうと思った。

 飲み下したはずの唾液がじわじわと這い上がってくる。熱くて泡立った吐瀉物みたいなそれをまたごくりと喉へ押し込んで引っ込めた。腹が熱い。引き攣ってきりきりと痛んだ。

 円の耳が服から離れ、ごろりと寝返りを打って仰向けになる。頭ひとつ下にいる弟の表情はこちらからは見えない。そうして上を向いた時、天井の木板の溝を視線でなぞる遊びを考えたのは円だった。今もそうして昔と同じように、あみだくじを引くような遠回りのルートをとっているのだろう。

「家を出る時、僕も連れてって」

「連れてかない」

 ぼやけたうわ言みたいな声に、こちらもぼんやりと返す。

「子どもだから?」

 頼りない腕が持ち上げられ、天井の隅をひょいと指差した。円のひとり遊びは果てまで行き着いて終わったようだった。その手はふわりと彼の頭の上を通り、横髪を掻いて払うと耳の縁を指先でくすぐる。

 ぱっと手を掴まえる。伸ばしたまま頭の上に押しつけ、馬乗りに跨って覆い被さった。

「あんたが綺麗だから」

 影が落ちた円の顔がこちらを見上げている。父が死んだ日の朝みたいに、何が起こっているのか何ひとつ分かっていない顔だった。ふたつの目がしきりに瞬きし続けている。そうやって、見るもの全部を不思議そうに受け入れて、そうではなく疑ったり困ったり諦めて離れたりすれば簡単だろうに、弟は窮屈な生き方を今ものんびりと送っているようだった。

「俺から逃げて、マド」

 懇願の声は聞き取れないくらい枯れて落ちる。俺に組み敷かれたままの少年は眉尻を下げて頬を染めると、あはは、と朗らかに笑った。まだ自由に動かせるもう片方の腕を持ち上げ、掌で俺の頬を拭く。

「できない、無理だよ。僕、晃くんがいないと、意味ない、から……」

 大きく見開かれたふたつの目の膜があっという間に膨らんで、堪えた涙が溜まり小さなダムみたいになった。家族が死んでも動かなかった円の深淵が揺れている。幼い日々の、この小さな弟を泣かすことができるのは俺だけだという根拠のない愉悦が思い出されて、もうその小さな世界でも生きていけないことも知って、黙ってふたりの身体を肌掛けの下へしまった。

 

 円が起きる前に逃げようと思った。最後に腕に抱く体温を記憶に焼きつけたくて、骨ばって大きくなった体をぶつけるようにすり寄せた。

 腕の中の円はずっと目を開けている。何かに抗うでもなく、こちらを見つめているのでもなく、ずっと彼方にある、彼しか見出せない何かと対峙していた。

 抉じ開けてしまった世界は、もう閉じられない。

 

 〈了〉

 

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少年は目覚めを知らない 丹路槇 @niro_maki

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