第3話 吸血鬼、躍動
「私が半人前吸血鬼から一人前になりたい場合って何をしたらいいんですか?」
モルサナ政府特務機関の所有物である大型武装車に揺られながら、ロクサーナは巨大な銃剣を携えた人外に問いかけた。
急遽開始されることになった赤騎士討伐のための出撃中のことであった。
運転席の後ろに設けられた空間には最低限の医療設備と武器が備わっており、車内の薄明かりを反射して、壁面に設置された武器が鈍い光を放っている。物々しいその光から目をそらして返答を待つ間、彼女は震える自身の手をもう片方の手でしきりに撫で、けれど斧だけは手放さないようにしていた。
「お前の牙を使って直接俺の血を飲むことだな」
気軽な調子で差し出された答えを前に、質問者は首をひねる。
「吸血鬼を吸血鬼たらしめるのは、吸血行為に他ならん。だが吸血行為にも2種類ある。ひとつは単純に相手の血を自分の中に蓄える純粋な食事としての吸血。このあいだの狼を相手に血を吸ったのはこれだ」
言われて、ロクサーナは狼たちの血が霧のようになってウラディミルの影の中に吸い込まれていったのを思い出す。
「もう一つは、自分の牙を使って直接相手から血を吸う行為だ。これは食事であるのと同時に、同族を増やす儀式でもある」
お前にそうしたようにな、と先輩吸血鬼の長い指が新米吸血鬼の首のあたりを示した。そこに穿たれた二連の深い穴はウラディミルの手によってロクサーナが彼の眷属になったことを示している。
「そして、直接の吸血行為が初めてである場合はその者が一人前の吸血鬼になるための行為でもある。ただし条件があって、その場合は自分を眷属にした者の血でなくては意味がない。お前の場合は俺だ。お前が俺にその牙を突き立てて血をすすること、それでお前は一人前になる」
「……全くその気が起こらないんですが」
眷属の正直な反応にウラディミルは声を上げて笑い、インバネスの内側からタバコを取り出した。
「半人前であるうちはそういうものだ。だがその時が来たら、身体はどうしようもなく望む方向へ動いていく」
「ええと……」
彼の言わんとすることを理解しかねて返答に窮したロクサーナは、自分の手を撫でながらその言葉の意味をかみ砕こうとする。
「その時になれば分かる。まあ、来ないかもしれないが」
のんびりと言った吸血鬼伯がライターに火をつけようとすると、横から特務機関分析班のフレデリックがにゅっと手を伸ばしてそれを回収した。
「車内禁煙でーす」
戦闘の現場の撮影のために誰かひとり職員を同行させたい、という魔女コレットの提案に対して真っ先に名乗りを上げた蛮勇は、ここでも健在であった。人外の手から奪ったライターをそのまま自分のポケットに突っ込んでしまう。
「ん、そうか、それはすまん」
一方で、ウラディミルもどこかのほほんとした調子である。自身の十分の一程度しか生きていない人の子の忠告や助力に顔をしかめるどころか、時に喜んでそれを受け入れるのが、この吸血鬼伯ウラディミル・ストルグの美点のひとつであった。
フレデリックはそういえば、と言って薄暗い車内で特務機関の新人に笑顔を見せた。
「煙草というと、うちの長官も長いこと喫煙者だったんスけどね、この屍食鬼騒ぎで煙草もえらい値上がりしたじゃないですか。それでついに禁煙に成功したらしいですよ」
先輩職員の思いがけない言葉に、ロクサーナは「まあ」と声を上げてささやかな笑みを浮かべた。
「うちの長官はすごいんですよ、これまでになんと4回も禁煙に成功してるんですからね!」
あの生真面目そうなミハイルを思い出し、ロクサーナはさっきまでの体の震えも忘れてくすくすと笑った。
その様子にフレデリックは一瞬だけホッとした顔になり、けれどすぐに表情を引き締めた。特務機関の執務室や作業室にいる面々から、耳元のインカムに無線通信が入ったからだ。
「みなさん、聞こえていますね?」
向こうからしゃべっているのはコレットだ。
「緊急ですが、これから伯爵とロクサーナさんには赤騎士がいると思しき場所に出撃してもらいます。赤騎士は出来れば回収してください。また、赤騎士は何がしかの方法で人間の脳に異変を起こすものと思われます。目的地に突入するのは伯爵とロクサーナさんのみ。ロクサーナさんも、心身に異常が感じられた場合はすぐにその場から離れてください」
「あの、脳に異変って言うのは?」
「頭痛や吐き気、めまい、それから人格の変化など……。人外である伯爵にどの程度効果があるかはわかりませんが……まあ、ここが踏ん張りどころなので
魔女は昔なじみに対して非情であった。だが当の吸血鬼も気を悪くした風はなく、愉快そうに笑っている。
車が止まった。どうやら下車ポイントに到着したらしい。ロクサーナは黒いミリタリーブーツの紐を結びなおし、斧の防護カバーを外す。ウラディミルは車内に積んである火器以外の武器を手当たり次第に自分の影の中に収納した。その様に、フレデリックと車の運転手ピーターが呆れたように言った。
「……なんなんです、そのアンタの影は」
血を吸い込んだり、腕にまとわせて巨大化したり、今のように物入れ扱いをしたり、ウラディミルの影はファンタジーかSF世界の代物である。だが、それを使いこなす当の本人もよく分かっていないらしい。
「なんだろうな、この影も俺の身体の一部らしいが、トライアンドエラーで使いこなしてきたからなぁ」
あっさりとそう言うと、皮膚が白くなるほど力を込めて斧を握っているロクサーナに声をかけた。
「まあそう緊張するな。とりあえず俺のそばを離れるなよ、何があるか分からんからな」
そう言うと、吸血鬼が先行して武装車を降りた。
装甲車の外は、緩やかな丘陵からなる牧草地帯だった。
モルサナ市の巨大な防護壁を出て車で1時間ほどのこのあたりの地域から、警察に対して2本の通報があった。
一件はこうだ。屍食鬼たちが屠殺場を占拠した。
もう一件はこうだ。屍食鬼たちが豚や牛たちを盗んでいった。
通報を受けた警察は混乱したが、あの丸っこい長官の命令で近くのパトカーらが向かうのと同時に、特務機関の実働部隊にも出撃要請が出された。部隊、と言っても、現状ではウラディミル・ストルグとロクサーナ・ストルグ、たった二人の部隊ではあったが。
だが特務機関分析班が色々調べてみると、事態はもっと深刻であった。
そもそも、通報のあった屠殺場と周辺の牧草地は既に、屍食鬼被害を受けて放棄されていた。屠殺場も機械類は使える状態であるものの、状況が状況であるために電気柵の外で放置されている。
そして、一方では、屍食鬼によって日没後の外出が制限されていることへの鬱憤を晴らすように、隠語を用いてのレイヴの開催がSNS上で告知されていた。会場はその屠殺場である。
レイヴとは野外で行われる音楽フェスである。エレクトロミュージック、ダンスミュージックを軸にしたこの音楽は、麻薬が絡むことも多く、世間の宗教やカルトへの傾倒とは別に、こういった分かりやすい放蕩も散発的にあちこちで起きていた。バレればモルサナ政府当局からのお咎めは逃れられない。けれど、命あっての物種である。そういう思いで通報をした者たちが、突然近くにいた者同士で支離滅裂な喧嘩……口論を始めた。そしてそのあとすぐに、この屠殺場の近くの電気柵内で暮らす人々が、ひどい頭痛や吐き気、めまいを訴え、救急車を呼んだ。
とにかく、尋常ではないことが起きている。
呼び出しを受けたロクサーナとウラディミルは武器を携え、屍食鬼にも耐えられる武装車に乗って現場へ向かい、その中で事情を聴き、今ここにいる。
「赤騎士は人間にいさかい、戦争を起こす権能を持つと言います。レイヴ参加者が通報中に口論をし始めたのがその影響、というわけですね」
ロクサーナは自分を抱えて夜空を飛翔する吸血鬼に状況を改めて確認する。新米吸血鬼が飛行訓練をする暇は今はない。その近くを、フレデリックの操作するカメラ機能付きのドローンが飛んでいる。現場の様子を撮影・録音するためのものだ。
「SNSとやらで見かけた主催者らしき者の普段の投稿が妙にそちらの思想に傾いていたからな」
ウラディミルが答えると、耳のインカム越しに分析班のメンバーであるアレクサンドラが言った。
「それに、レイヴ参加者がSNSに投稿した写真に、武器製造会社のロゴみたいなものが映りこんでましたからー。今を時めく、欧州中に工場を持つ武器製造会社クルセイダーのロゴですよぅ。ちょうど3年前に社長が代替わりして、それと同時に社名もロゴもガラッと変わって、屍食鬼が出た今じゃすっかり第8次十字軍気取りでさぁ」
「できれば主催者と思しき者、それが無理ならクルセイダーに関連のあるものを証拠として回収してくれ。そこから情報を引っ張り出して、四騎士の製造者にコンタクトを取る」
イヴァンの強張った声に、ロクサーナは「はい」と答える。ヨハンナがすかさず口をはさむ。
「赤騎士の回収もわすれないで! ていうか今知ったんだけど、クルセイダーの次席研究員ってあのエヴァンジェリン・ポペースクらしいわ」
「エヴァンジェリン……?」
「あの15年前の
その情報をどうとらえればよいのかロクサーナが迷っているうちに、ウラディミルの足が件の屠殺場の扉の前に降り立った。
「行くぞ、俺から離れるなよ」
不老不死の男は、扉を開けたとたんに銃弾が飛んでくる可能性には構わず扉を開く。ロクサーナがインカム越しに現場に入ることを告げ、大きな黒い背にぴったり引っ付いた。
ガシャン、と音がして、建付けの悪い扉がアスファルトに倒れた。
「んん……? よく見えねぇ」
現場にいるロクサーナたちはあずかり知らぬことだったが、車に残ってドローン越しの映像を確認していたフレデリックは建物内の暗さにぼやいていた。ライトを搭載したドローンが撮影用ドローンに先行して中に入る。真っ暗な屠殺場内はしんと静まり返っていた。
「あれ? 暗いはずなのによく見えますね?」
カツカツと靴音も高く迷わず歩き、奥へ向かうウラディミルのそばで新人吸血鬼が首をひねった。
「それはそうだ、吸血鬼は夜目が効く」
言いながら、吸血鬼はさらに奥の扉を開いた。
むせかえるほどの血の香りが漂った。
「ッ……伯爵、これは」
ライトを積んだドローンが、あけ放たれた部屋の中を照らし出した。
壮観、というのがロクサーナの正直な感想だった。インカム越しに、ドローン経由で部屋の中を見た人々の引きつった声が聞こえた。
天井のレールから首のない家畜たちが吊り下げられ、空間内を満たしている。食肉加工の過程でいうところの、放血という血抜き作業が終わった状態である。だがその数のおびただしさは、血肉の森、否、肉林という言葉をほうふつとさせる。
「……これ、屍食鬼に盗まれたっていう家畜じゃないですかね。ざっと見た感じ、いなくなった豚の数と牛の数と一致してると思います」
フレデリックが震えた声で言った。
一方の吸血鬼は、行先を知っているかのような足取りで、時折肉のカーテンを時折手でどかしている。ランウェイを歩くスーパーモデルのような佇まいの不老不死は笑いを滲ませて同行者の様子をうかがった。
「酔いそうなほどの血臭だ。平気か、ロクサーナ」
「平気、ですけど……何か、音が」
ロクサーナの言葉で、ウラディミルが一瞬足を止めて黙り込む。
何か激しい音と悲鳴のようなものが聞こえている。
ク、と吸血鬼伯が喉を震わせた。
「そうだ、良く聞こえたな。こちらだろう」
豚の身体をグイと押しのけ、もう一枚扉を開いた。階段が地下深くまで続いており、そこから大音量の音楽とより濃くなった血の香りが昇って来る。そのまま迷わず降りるかと思われたひとでなしの足が一度だけロクサーナの方に向けられた。
「無理についてこなくても良い、血を吸ったことも無い半人前のお前には辛かろう」
だが、こんなところでも彼女の気丈さは失われてはいなかった。
「足を止めないで下さい、救助待ちの人がいるはずなんです。私も行きますから」
それでも僅かに声は震えた。吸血鬼伯のとがった耳はそれすら聞き届け、彼女の頭をひと撫でするとそのまま振り向かずにいやに長い階段を降りた。
目に飛び込んできたのは、赤。
赤。
赤という赤。
おびただしい赤。
赤。
非常識に広い地下空間を表すならその一言に尽きるだろう。
ドローン越しにその光景を見た特務機関メンバーが一瞬の無言の後に、意味を理解して息をのんだ。
妙に高い天井に取り付けられたスプリンクラーが赤い水、否、血を吹いていた。その血を浴びながら、人間のような形をした奇妙な生き物が喜びのにじんだ甲高い声をあげて、EDMの重低音に合わせて身体を揺らして、酸鼻を極める光景を賛美している。屍食鬼である。確かに、屠殺場は屍食鬼に占拠されている。
「ロクサーナ、こいつらは俺がひきつける。人間の救助はお前に頼む」
言うや否や、吸血鬼は自分の陰からメガホンと銃剣を取り出し、前者をロクサーナに渡した。すかさず彼女の耳元で、ミハイルの声がした。
「モルサナ政府の救助が来たと告げてくれ!」
戸惑いながらもロクサーナはメガホンを構え、怒鳴った。
「こちらモルサナ政府、モルサナ政府です! 救援に来ました!」
EDMにも押されぬその大音声に、屍食鬼たちが揃って彼女の方を見た。だが、彼らは結果として背後にいる強者から目をそらすことになった。
「ふふふ……これは上で首を切られていた家畜共の血だな。まったく、流血の宴に吸血鬼を招かぬとは不敬が過ぎる」
音楽的な声が聞こえたかと思うと屍食鬼たちの胴が勢いよく上下に分かれ、そこから噴き出した血がスプリンクラーから落ちる血の雨に混ざって赤い滝となった。
血を吸い上げこれまでで一番楽しそうな声を背に、ロクサーナはメガホンを片手に救援を呼びかけ、地下空間の全容を把握しようと走る。だが、屍食鬼たちがそれを許すはずもない。ウラディミルという死の嵐の外にいる者が彼女を取り押さえようとする。もっと速く走ろうとして、ロクサーナは強く床を踏みしめる。
次の瞬間、彼女の身体は高く跳んだ。吸血鬼としての身体能力の高さを予期せぬ形で味わい、思考が停止した。
「……え?」
視界が開けたことに驚く暇もない。重力に逆らいきれず、ロクサーナのそのまま床に向かっていく。
(やばいやばいやばい、落ちたら最低でも怪我! 最悪死ぬ!)
半人前だから不老不死ではない、というウラディミルと魔女コレットの声が脳裏に響く。インカムの向こうから聞こえる彼女の身を案じる言葉も聞き取れずにいたが、それらを押しのけて至極単純な命令形が彼女の耳に飛び込んできた。
「飛べ!」
嵐のようなウラディミルの声だった。
変化は一瞬だった。揺れに揺れていたはずのロクサーナの青い瞳は瞬時に凪いで、その背から黒い影を固めた様な黒い翼が生えた。ウラディミルによく似た、コウモリのような翼である。
床に接触する直前で彼女の身体は軌道を変え、撃墜を免れた。しかしさすがに土壇場のこと、勢いを殺しきれず、ロクサーナの身体はそのままDJブースと思しき場所のすぐ近くにあった扉にぶつかり、そのままドアをぶち抜いて奥の部屋に転がり込んだ。
「あいたたた……」
ドアの上をごろんごろんと派手に3回ほど転がった彼女が頭を押さえながらゆっくりと顔を上げると、部屋の物陰に人の姿があった。そのほとんどは、紺に赤いラインの入った制服を纏っているが、中には一般人らしき姿の者もいる。涙や汗や血でメイクもどろどろになった顔で、怯えたように彼女を遠巻きに見つめている。身体のあちこちに傷を作り、ぼさぼさになった髪で、ロッカーや倒した机に隠れて、しかし拳銃や警棒を手にしている。よく見れば、倒れた扉の周りに家具が散乱している。どうやら先に突入した警察官たちが、一部のレイブ参加者と協力してバリケードを作って、ここに立てこもっていたらしい。
いまいち恰好のつかない登場をした政府役人は、ゆっくりと立ち上がり、大きく息を吸うとあたりを震わせるほどの声で言った。
「救援に来ました、モルサナ政府の救援部隊です!」
怯え、
「救援?」
「……救援? 本当に?」
「助かった……」
すすり泣くような声が異口同音に呟く。どうやら彼らの奥の壁にもまだ部屋があるらしく、そちらからも安堵の声がこぼれている。
ロクサーナのインカムに連絡があった。運転手を務めていたピーターの声である。
「警察と軍が民間人の救助のために動いてるが、現場に到着するまでもう少しかかる。それまで、出来るだけ屍食鬼を抑えてくれ!」
「わかりました! 皆さんのことは必ず私が守ります、それまでどうかご辛抱を!」
ロクサーナはにこりと笑って見せてはつらつとした声で言うと、くるりと要救助者に背を向けた。
前方から押し迫る吸血鬼伯に、屍食鬼たちがじりじりと後退している。悠々とした歩みの吸血鬼伯にかなわないことはこの数分で知れただろう。けれど、怪物には怪物の道理があるらしい。何やら無人のDJブースを背で庇うようにしている。一方でウラディミルがそんな事情を考慮してやる理由もなかった。腰を落としてロクサーナの身長ほどあろうかという巨大な銃剣を振るうと、屍食鬼たちは血煙を上げて吹き飛び、倒れた。
だが、幸運というものは怪物の上にも分け与えられているようだった。暴力の嵐を逃れた一匹がロクサーナにとびかかり、一矢報いようとする。だが、その幸運も長くは続かなかった。
「ロクサーナ、しゃがめ!」
ウラディミルの指示に従うと、彼が投げた斧が飛んできて化物の腹に突き刺さり、彼女の頭を飛び越えた。おっかなびっくり立ち上がったロクサーナはそれでも屍食鬼を脚で押さえつけて斧を抜く。彼女がストルグ邸のガレージの物入れから取り出した斧は昼間のうちに博物館バックヤードでいくらかの加工が施され、完全な戦闘用に生まれ変わって、家主の手のうちに帰ってきたわけである。
どこまでもマイペースな吸血鬼伯に苦笑したロクサーナは斧を身体の正面に構えた。不思議と、降り注ぐ血の雨に恐怖も嫌悪も無かった。最初は不快で仕方なかった匂いも気にならなくなっている。ただ単に慣れてしまっただけかもしれないが。
真正面から迫ってきた屍食鬼に対して、得物を振り上げる。真っすぐに振り下ろされた刃のきらめきが眼前の敵を切り裂いた。そのまま、ウラディミルの動きをまねるようにして腰を落として横に振るうと、大ぶりの刃が屍食鬼たちの脚を断ち切った。小柄な彼女だからこその動きである。
「ははははは、よくやった、ロクサーナ! うむ、俺も準備運動は終わったな」
どうやらそれが最後の屍食鬼だったらしい。向こうの方で血を取り込んで満足そうにしているウラディミルの声がしたかと思うと、その身体がコウモリと群れになってパッと霧散し、ロクサーナの傍で元の形に戻った。が、なぜか彼は片目だった。
「あの、左目無いですけど?」
「左目には仕事を頼んでいる。気にするな」
不死者は軽い調子で言った。だが、ロクサーナに唖然とする暇はない。無線に連絡が入った。
「今警察と軍が俺たちに合流した。屠殺場の地下までの裏口ルートがあったから、底を使って警察が全員を避難させる、もうこっちは気にするな!」
言い終わるか否かのうちに、向こうの部屋からわぁっと歓声のような声が聞こえた。警察が到着したらしい。
互いに顔を見合わせ頷いたロクサーナとウラディミルが視線を向けたのは、一段高くなったところに置かれた赤いDJブース。それが赤いのは血ではない、元からそういう塗装を施されているのだ。
騎士を庇うように機械の馬が強くアスファルトを蹴って飛ぶようにロクサーナたちに突っ込んだ。2人はとっさに身構え、手にした武器で赤い騎馬を打ち据えようとしたが、奇怪な音が響いた。その瞬間ロクサーナは武器を取り落としてうずくまり、顔をしかめたウラディミルもろとも機械仕掛けの馬によって空間の端まで蹴り飛ばされた。
「伯爵、ロクサーナさんッ!」
「……ははは、純正の人外はダメでも頑張るんだろう?」
無線越しに聞こえる魔女の悲鳴じみた声に、壁に激突した吸血鬼が揶揄うように返事した。その横で、ロクサーナは咳きこんで床の上で悶えている。鳩尾への殴打で全身が痺れ、ぐわんぐわんと頭の中で響く奇妙な音が反響して痛みを起こし、視界が縮んだり伸びたりを繰り返し、眩暈と吐き気が遅い、天地が逆になり脳みそを撹拌されるような感覚。身体の内側も外側も不快で仕方ない。
「ぅ、ぐぅッ……ッあ、頭、おかし、くなる……」
足元にうずくまった眷属のか細い言葉を補強するように、職場に詰めている特務機関メンバーが叫んだ。
「見てください、あの赤騎士の胸部! あの胸部に埋まってる機械から人をおかしくさせる特殊な音が出てます! 胸下の赤いランプの明滅がたぶん予備動作です!」
「音声解析用のソフト起動してて良かった。この波形、人間には聞こえない周波数の音だ。……犬笛とか猫笛みたいに人間には聞こえないけど、人間に作用する音」
「それがこの会場内の人たちをおかしくしたものの正体か! 赤騎士はDJブースに変形して、人々に戦争を引き起こす音を聞かせた」
「……対策は?」
体勢を立て直したウラディミルが銃剣を構えて研究者たちに問うと、彼らは苦々しい声で言った。
「胸の機械をつぶすのが一番早いです。こちらもフレデリック経由で対策を用意しますが」
「というかロクサーナさんは大丈夫ですか?」
吸血鬼伯が答える間を与えず、赤い馬が突っ込んだ。一歩前に出た彼が銃剣でその横っ面をしたたかに殴ったのと、赤騎士の胸下のランプが赤く光って人には聞こえぬ奇妙な音が響いたのは同時だった。ウラディミルは身体をよろめかせながら霞む視界で赤騎士の胸部を狙って銃剣を構えて発砲する。だが赤騎士はいつの間にか握っていた赤い槍を巧みに動かし、銃弾のすべてを弾き落とした。
人外が不敵な笑みを浮かべ、己の足元に視線を向ける。さっきの音で、体を起こしたロクサーナは青い顔で床の上にへたり込んでしまったらしい。
「……早いところ片づけるか」
ウラディミルは冷え冷えとした声で呟くと、もう一度銃剣を構えた。その動きを合図ととらえ、赤い馬がメタリックな身体で彼を蹴散らそうと突撃する。
勝負は一瞬だった。
ウマの鼻先が触れたとたんに吸血鬼の身体が霧散し、次の瞬間、彼は馬の頭上で身体を再編させてそのまま手にした銃剣を振り下ろした。機械の赤いに馬体に銃剣の巨大な切っ先が勢いよく突き刺さり、血の代わりに粉々になった部品が飛び散った。
ウラディミルは再び身体を分散させ、次は赤騎士の頭上に現れる。彼の腕は影をまとって巨大化しており、そのまま首をもぎ取る動きで直下に攻撃を仕掛ける。
だが、赤騎士の胸から肩にかけてが変形し、超音波発生装置を直上に向けた。不快な音の集中砲火に、さしもの吸血鬼伯も攻撃の手が緩んだ。それを見越していたかのように、赤い甲冑の腕が赤い槍を突き上げ、ウラディミルの胸を刺した。槍は背中まで貫通し、吸血鬼の身体に大きな穴を穿った。
赤騎士は大儀そうに槍を振るい、得物に絡んだ肉塊をロクサーナの隣に振るい飛ばした。
「……伯爵?」
ようやく超音波による強烈なめまいや吐き気、頭痛から解放されたロクサーナは自分の隣に倒れこむ吸血鬼伯を見てあぜんと声を上げた。
首を切られても平然としていたはずの不死者はいま、胸にぽっかりと穴をあけ、ピクリとも動かない。元より色白の頬は血の気が無く、意地の悪い笑みを浮かべてばかりいたくちびるも青ざめて見える。
ロクサーナの顔から表情が削げ落ちた。無線の向こうにいるはずの特務機関メンバーも言葉を失っている。
世界が音を失ったかのような沈黙。
永遠に続くかと思われた、気の狂うような一瞬の静寂を破ったのは獣のような声だった。
「赤騎士ィィィィィィィッ!」
ロクサーナの怒声である。その顔からは表情がそぎ落とされ、青い瞳はいなずまの光を宿して打ち据えるべき敵だけを捕らえて、手には取り落とした斧を握り締めて、一直線に駆けていく。再び騎士が胸部装甲の下のランプを明滅させたが、そんなものは牽制にもならなかった。ミリタリーブーツが力強く床を蹴ると、背に生えた黒い翼がはためいて加速を手伝い、一気に赤騎士との距離を詰める。
そのまま下から斧を振り上げた。ガキン、と硬質な音を立てて、吸血鬼の血で汚れた赤い長槍がそれをせき止める。赤騎士が再びあの不快な音を発した。今度は耐え切れず半人前の吸血鬼の身体が押し負けて後退したが、その衝撃で胃液ををぶちまけてからもう一度斧を構えて赤騎士に斬りかかった。再びそれを赤槍がせき止めたが、この土壇場でロクサーナの思考と身体は異様なまでの冴えを見せた。あるいは、人間離れしていた、というのかもしれない。
斧を動かし、刃の僅かに湾曲した部分に槍を引っかけたのだ。
「伯爵、死んでいませんよね?!」
悲鳴じみた声で言いながら、ロクサーナは斧をグイと引き寄せた。
その時の彼女の膂力の凄まじさと言えば、赤騎士がついに武器を手放したほどである。拘束を逃れた武器はそのままウラディミルの方に吹っ飛んでいく。だがそれに構わず、ロクサーナは甲冑の継ぎ目をめがけてしたたかに斧を打ち付けた。脚部と胴部の接合部に打撃を食らい、赤い巨体がゆらめく。
「当然だ……ッ!」
後方から低く獰猛な声がした。倒れていたはずの男の手によって赤い槍が閃光を伴って投げ込まれ、追い打ちをかけるように甲冑の接合部のわずかな隙間に正確に突き刺さった。
「俺は不老不死の怪物、不死者、吸血鬼ウラディミル・ストルグだ! 俺を殺せると思うなよ!」
ズシン、と赤い騎士がアスファルトの上に五体を投げ出し、ひれ伏した。バチバチと音を立てて、兜の目の部分に灯っていたランプが光を失った。
「……終わったか」
長い沈黙の後に、深く息を吐いてウラディミル・ストルグが呟いた。色白の肌どころか、闇よりもなお暗い髪のてっぺんから足先までが血染めになっていたが、ロクサーナは構わず彼の傍に駆け寄った。
「伯爵、大丈夫ですか! 心臓、心臓を貫かれて」
落ち着かない口調で言ったロクサーナだったが、途中で足を止めると汚れた服を脱いで真っ赤になった顔を伏せた。胃液まみれの格好で吸血鬼伯の傍に立つことはためらわれた。
だが当の吸血鬼は構わずロクサーナの正面に立って、彼女の手を取ると自分の胸に触れさせた。
「ははは、とりあえず槍で心臓を貫かれる程度では死なんらしい。ただ、全身に衝撃が走るから復帰に時間がかかるな」
「あ、あの、伯爵、私今ほんとにひどい状態で」
「構わん。……で、どうだ? 塞がっているだろう?」
「はい、はい……あ、でも、伯爵、左目が」
ロクサーナは必死に首を縦に振った。血まみれで体の感覚もまだおかしい気がするが、それでも古傷だらけのウラディミルの胸を必死に撫でて、そこに穴が開いていないことを何度もてのひらで確認する。低いはずの彼の体温が今は熱く感じられて、ロクサーナの青い瞳がじわりと潤んだ。
「泣くな泣くな、お前は昔から泣き虫だな。言っただろう、左目には仕事をさせている、問題ない」
仕方なさそうに言った年長者はひとつだけの目で優しく微笑むと腰を折り、コートの内側から出したハンカチで彼女の目元をぬぐってやる。真っ白いそれが血で汚れるのも構わないらしかった。
「お疲れ様です、既に民間人と最初に突入した警察官の保護は完了してます!」
向こうの方から明るい声がした。フレデリックと運転手のピーターだった。どうやら武装者は軍のものに一時的に預け、直接彼らの様子を見に来たらしい。血液の生臭さに顔を青くしながらも、チームメイトへの気遣いをかかさない。
ウラディミルは巨大な赤騎士を軽々と担ぎ上げ、ロクサーナも散らばっているスタンドスピーカーを抱え、元来た道を戻っていく。外に出て清涼な夜風に吹かれると、そこでロクサーナは自分たちにまとわりついた血の匂いに一度顔を青くした。武装車に赤騎士だったものを搭載すると、ロクサーナもぐったりしながら同僚たちと車に乗り込み、モルサナ市中央区の特務機関へと帰路についた。
***
郊外に設けられた工場に模した特務機関の研究ラボで、調査対象になった赤騎士が爆発したのはその翌日のことだった。幸いにも機関員の一人が軽いやけどを負った程度で済んだが、情報をそこから引き出せないのは大きな打撃だった。
さらに、昨晩保護されたレイヴ参加者の中にいた主催者が勾留所で舌を噛み切ったことで、特務機関は決定的な情報を取り逃すことになった。
「しかし、屍食鬼共と四騎士が協力関係にあるのは事実だ。あいつら、赤騎士を守ろうとしていたからな」
夕日の差し込む長官室で、ロクサーナと共に報告書を提出しに来ていたウラディミルはニヤニヤ笑いを浮かべて言った。
「それに、ほら、俺のコウモリが証拠品を持って帰ってきたぞ」
会議室の窓をタシタシと叩く音がして、皆が目を丸くした。大きなコウモリがいたのだから当然だ。しかも、その足がボロボロのスマートフォンを掴んでいたから、驚きはさらに大きくなった。それと同時に、日のあるうちに屠殺場の調査をしていた特務機関員たちが帰ってきた。
「何かないかと思ったが、参加者の私物らしい」
ゴトン、と音を立てて置かれたスマートフォンには武器会社クルセイダーのロゴのスマホカバーが装着されている。コウモリのほうはそのままウラディミルの空っぽの左目に潜り込んだ。ぽっかりと穴の開いていたそこに、赤い瞳が現れた。
「伯爵の目が調査を手伝ってくれましたよ」
班員たちは嬉しそうに言ってウラディミルと左目に礼を言い、情報をまとめるため自分たちのオフィスに向かう。ロクサーナもウラディミルと共に長官室を辞去し、自分たちにあてがわれた執務室に向かった。昨晩は白騎士が出なかったのも気になるが、次の行動が定まるまでひとまず彼らは待機を命じられている。
「……私、昨晩で何かわかった気がします。吸血鬼として、何か」
それまで黙っていたロクサーナが拳を握った。
「お前を苦しめた者、あるいはそれに類する者も、お前は助けるのか」
ウラディミルが呟くように問うた。その声は冷静だったが穏やかだった。
「俺はお前が何で苦しみ、何で泣いていたのかよく知っている。お前はこれから、あの礼拝の後、お前にわざと菓子を渡さなかったような者も助けるのか?」
ロクサーナは振り返って、己の父祖を見つめて答えた。
「でも、だからって殺されるのを見逃すわけにはいかないじゃないですか。嫌なことをしてきた人をずっと嫌って行動を一貫させられるほど、私は潔癖でも高潔でもないんです。それに、伯爵が仰ったんじゃないですか」
首をかしげたウラディミルに、眷属はにこりと笑いかける。
「この人間の世は私たちの遊び場だって。でも私は吸血鬼としての楽しみというものよく知らないから……早いところ屍食鬼を片付けて、私に、教えてくださいね、あなたの知る歓びと、楽しみを」
薄く開いたロクサーナのくちびるの合間から、するどい牙が覗く。
ウラディミルはくつくつと笑う。
「人間としてもまだろくに生きていないお前には、俺の楽しみは刺激が強かろう」
「伯爵が指導してくださるなら慣れますよ、きっと」
吸血鬼が笑みを深めた。血のように赤い彼の瞳に無言の快諾を見出して、ロクサーナは機嫌よく笑う。
そして、ポケットに手を入れてそこに入っていた物を取り出した。あのサファイアを飾った金の環である。
「……伯爵、これ、もう少し持っていて良いですか?」
真っすぐに自分を見つめる幼子を前に、ストルグ家の父祖は満足そうに笑って彼女の頭を撫でると、その横をすり抜けるようにして歩きだす。
「ああ、好きにしろ」
はい、と元気よく返事したロクサーナは、黒衣の吸血鬼の後ろを追いかけた。
我継ぐは怪物の血 鹿島さくら @kashi390
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