第2話 吸血鬼、苦悶

 翌朝、目を覚ましたロクサーナは全く知らない部屋にいた。勢いよく身を起こすとカーテンを引いた窓際に黒髪と赤い瞳の美男が座っていて、ロクサーナは唖然とする。


 青年、否、吸血鬼伯ウラディミル・ストルグが手元の電子タブレットから顔を上げ、カーテンを開いて低く良く通る声で言った。

「Good Mourning, そしてGood Mornig、ロクサーナ」


 差し込む朝日が寝起きの目にはあまりに鋭く、ロクサーナは思わず目を閉じたが不明瞭な声で「おはようございます」とあいさつした。


「よし、起きたのならならまずは身支度だ。そこにある風呂は自由に使え、とのことだ。着替えはあそこに入っているらしい。俺は外にいる」

 ウラディミルは部屋の隅に置かれたクローゼットを指さし、座っていたイスに引っ掛けていたコートをてきぱきと回収したが、ロクサーナがそこに無言で待ったをかけた。


「どうした」

 振り返ったその動きで、吸血鬼の首に結ばれたスカーフがふわりと揺れる。赤い瞳で見下ろされ、ロクサーナは言葉に詰まった。様々な種類の疑問と戸惑いが絡まり合い、どれから口にすべきなのか分からなかった。


 くちびるをまごつかせる彼女をじっと見つめたウラディミルは、窓際の椅子を引いてベッドの傍に置くと再びそれに腰かけた。

「気になることは後でいくらでも答えてやる、ひとまず今一番気になることは?」


 ロクサーナはうつむいて黙り込む。そしてしばらくの後にゆっくりと顔を上げた。

「あの、私、死んだんじゃ」

 その言葉に、ハ!と吸血鬼は声を上げて笑った。

「ロクサーナ、自分の腹を見てみろ」


 おとなしくそれに従った彼女はいつの間にか着せられていた寝間着をめくりあげて息を飲んだ。腹からその上にかけて斜めに伸びる赤っぽい傷跡は昨晩の衝撃が事実だったことを示している。彼女の身体は確かにあの純白の甲冑の剣で裂かれたのだ。


「俺も同じだ」

 言いながら、吸血鬼は身に着けていたベストを脱ぎ、スカーフをほどき、白いシャツのボタンを外して裸の半身を晒した。


 ロクサーナは息をのむ。凄まじい身体だった。

 朝日に晒された吸血鬼の色白の身体はがっしりと引き締まっており、皮膚のそこかしこには大小さまざまの傷跡が刻まれている。中には焼き印や火傷跡まであり、いかにも痛々しい。


「不老不死の吸血鬼と言えど、人間時代に治りきらなかった傷はこうして生まれ変わった体にも跡として残り続ける。そういうものらしい」

 何食わぬ顔で言いながら、かつて異端審問にかけられた男はシャツを着なおす。ボタンを留めるその手の甲にも、よく見れば何かを打ち込まれたような傷跡があった。


「……私、吸血鬼になったんですか?」

 ようやく出てきた問いかけは幼気な子供のような口ぶりだった。


「俺と一緒が良い、と言ったからな。まああともう少し吸血が遅れていたら俺の眷属になる前に死んでいたが。とはいえ、まだ半人前だ。不老不死でもないし吸血も必須ではない」

 吸血鬼はニィと牙を剥いて笑い、ロクサーナの頭を撫でた。


「身支度を終えたら声をかけろ。……ああそうだ、アレルギーや苦手な食べ物は?」

 突然の、何の脈絡もない問いかけにロクサーナはオウム返しにする。

「アレルギーや苦手な食べ物?」

「卵とか小麦とか乳製品とかナッツとか、あるだろう?」

「ええと、アレルギーは特には。苦手なものは強いて挙げるなら……アーティチョークですかねぇ」

 首をひねりながらも素直に答える年少者に、不死者は喉を鳴らして笑い部屋を出た。 


 シャワーを浴び、備え付けのドライヤーで髪を乾かしつつ、クローゼットを漁って適当に引っ張り出した服を着る。窓の外から見えるのは、モルサナ共和国の首都モルサナ市、その中でも国の中枢となる官庁等が集まる中央区の景色だった。中央区には行政機関のほか、図書館や植物園、博物館が揃い、周囲の東西南北各区には各種商業施設などが集まり、まさに一国家の首都にふさわしい機能を備えている。しかし今は空いた場所に少しずつアパートメントが立ち、市全体を囲むように壁が聳え立っている。


 3年前、突如屍食鬼が発生して以来、各地で多数の死傷者が出た。屍食鬼は夜間にのみ活動することができる生物だったが、その膂力や機動力は人の身をはるかにしのいでおり、何よりも人肉を好んで食した。


 人間を襲撃するのに合わせて、家屋や田畑などが荒らされることになった。モルサナ政府は田畑や牧草地の周囲に壁を作り、屍食鬼から一次産業を物理的に保護するのと同時に、都市部にも壁を設けて夜間はこれを固く閉ざすことで人々を保護することにした。周辺部、とくに人のまばらな地域の人々には支度金の支給や、地元企業と協力してトラックを無償で貸し出すことで近隣の都市部への移住を強く推奨した。一定の成果を上げることになったこの国内大規模移住計画は俗に「エクソダス」と呼ばれ、周辺の国家も真似するほどであったが、予算のひっ迫がはなはだしい。しかし周囲の反対を押し切ってこれを敢行した現モルサナ大統領は「国家予算よりも人名と人倫を優先した」として国内外で一定の評価を受けることになった。この緊急事態である、4年の大統領任期が特例で伸びる可能性は大いにある。


(そう考えると頭の痛いことね、大統領閣下)

 ロクサーナは首元にリボンを結びながら、昨晩見た国家元首の姿を思い出してため息をつく。

 己にのしかかる周囲の期待がどれほど次の一手を打つ己の手をどれほど鈍らせるか、彼女には痛いほどよく分かった。


(規模は違うかもしれないけれど……重く苦しいわね、このストルグの名も)

 ロクサーナは苦笑してクローゼットにかかっていたジャケットを引っ張り出して羽織る。そして洗面台の鏡に映った己の顔をまじまじと見て、指でくちびるを持ち上げた。

(……本当にある、牙が!)


 吸血鬼になった、というのは世迷言でも冗談でもないらしい。ロクサーナは諦めに近い納得をかみしめつつ、姿見で恰好を確認してからそっとドアを開けた。

「あの、お待たせしてすみません」

 伯爵、と廊下に声をかけると、窓べりに寄りかかってタブレットを凝視していた男が顔を上げて笑った。


「何だ、思ったより早かったな。もっとゆっくり用意しても良かったのだぞ」

「化粧をしませんでしたから」

 どうやら着の身着のままでここにきているようだから、ベッドサイドの机に置かれていたスマートフォンと家の鍵以外にいま彼女が持っているものと言えばもう自分の身体くらいのものだった。


「日のあるうちに屋敷に回収しに行っても良いが、新しく買いそろえる手もあるな。服も化粧品も、今は種類も色も増えて、品質も良くなっているらしい」

 ロクサーナを先導しながらそう言った不老不死の男は、タブレットをいじって画面を見せた。ずらりと並んだハイブランドの化粧品は、一般的なモルサナ企業の初任給の半分ほどの値段になっている。屍食鬼被害が増える一方の世の中で、郊外の工場は閉鎖・放置され、貿易は滞り、こういった嗜好品の類は青天井に値上がりしているのが現実である。


 それにしても、疑問が二つ減ったかと思うと三つも増えた。がだひとまず「今どこに向かっているのか」という疑問は早々に解消されることになった。


 廊下を歩き、階段を降り、中庭らしきところに出た。夏の花が咲き誇る庭いっぱいに朝日が満ちて、ロクサーナは目をつぶる。そこに、向こうから二人の女性の声がした。赤毛と金髪の二人組だ。

「おはようございます、朝食を持ってきました」

「お久しぶりだわ、伯爵」


 大きな鉢植えの影のベンチに座っている二人のうち、赤毛のほうは昨晩車を運転していた特務機関長官の秘書だ。長い赤毛をひとつにまとめた背の高い美女で、年齢は30代半ば頃だろうか。切れ長の釣り目が気の強そうな印象を作っているが、にこりと笑うとそのイメージはあっという間に霧散する。

「ロクサーナさんはアレルギーも無いということなので、うちの食堂の朝メニューで一番人気のホットサンドを持ってきました。それから……代用ですけど、コーヒーを」


 そこでようやくあの脈絡のないウラディミルの問いの意図を理解して、ロクサーナは礼を言いながら椅子に腰かけた。吸血鬼伯爵本人もコーヒーの入ったカップを受け取りながらロクサーナの隣に座って赤毛の秘書に礼をした。


「支給されたタブレット端末、とても使いやすい。本も読めるしいいことづくめだ、感謝する」

「それは何よりです。ロクサーナさんの服もピッタリみたいで安心しました。うちの備品を適当に持ってきただけでしたから」

 タブレット端末や服といったロクサーナの二つ目の疑問も解消された。そして察するに、彼女が眠っている間に様々な調整や準備が行われたらしい。


「それにつけても久しいな、殿。昨晩は助かった」

 吸血鬼の声をかけられて、先にベンチに座っていた二人組のうち金髪のほうが爽やかに笑って首を横に振った。そうするとの短く切りそろえられた髪が揺れながら朝日を弾き、光輪を纏ったかのように見えた。


「大したことしてないわ。私が診たときにはそちらのお嬢さんはもうすでに吸血鬼になっていたじゃない」

 丸いメガネをかけた金髪の女はそういうと、ロクサーナに微笑みかけた。凄まじい美人というわけではなかったが、優しそうで感じの良い、上品な女だった。

「ええと、あなたは? 魔女殿?」


 伯爵の言葉をなぞると、丸いメガネの奥で金色のまつげが二、三度上下してから何食わぬ顔で「そうよ」と返事があった。

「私はコレット。モルサナ特務機関の分析班班長と、モルサナ国立植物園の管理を任されている魔女です。そこのウラディミル卿が吸血鬼になりたての頃からの付き合いだわ」


 そう言われて、ロクサーナは目を見張る。祖母の著書を思い出せば、ウラディミル・ストルグは17世紀の生まれである。ならばこの目の前の、あどけない少女のようにも、落ち着いた大人の女にも見える彼女は実に300年は生きている計算になる。

 情報を処理しきれないうちに新しい情報が投げ込まれ、ロクサーナの手元にあるホットサンドは一口目をかじっただけで放置されている。


「ロクサーナ、食事が冷めるぞ」

 さすがに哀れに思ったのか、ウラディミルが優雅にコーヒーをすすりながら気をそらしてやる。黒衣の人外が穀物製の代用コーヒーに文句のひとつも言わないことを意外に思いつつ、彼女はもたもたと食事を再開させた。

「あの、おいしいです。ありがとうございます……秘書さん」


「良かった! 私はサーシャといいます、サーシャ・イオネス。既にロクサーナさんの特務機関職員としての諸々の書類手続きはこちらで終えていますのでご安心を。秋からロクサーナさんが所属する予定だったモルサナ博物館にも話は通してあります」

「仕事早くないですか?」

「事務手続きなど早く終わらせるに限りますし、事情が事情ですから」

「はあ……」


 ロクサーナは半ば感心しきったような顔でサーシャを見つめた。奇妙に要領の悪いところがある彼女は書類作成があまり得意でない。大学院に入るときも、祖母の遺産相続の手続きも、就職準備の際も、随分手間取ったものだ。ふと横を見れば、もう何百年も生きているという伯爵もまたすっかり感心した顔をしていた。帳簿の管理は信頼できる部下に丸投げしていたというから、多分ロクサーナと似たり寄ったりだ。


「しかし、特務機関というとどうにも潜入や破壊工作スパイのイメージが強いな」

「確かにそうかもしれません。うちの国ではそういうのは軍部の管轄ですね。我々モルサナ政府特務機関はコレットさんやストルグ伯爵のような人ならざるものにまつわる一切合切をジャンルに関係なく担当する部署なんです。例えば伯爵の戸籍を作るように法務省に要請するであるとか、逆に昨日のように伯爵に協力を要請するであるとか」

 人外の言葉を受けてサーシャが行った特務機関の説明に、ロクサーナは神妙な顔で頷いた。


「ロクサーナお嬢さん、聞きたいことがまだ沢山あるんじゃないかしら?」

 魔女を自称するコレットに指摘され、ロクサーナは横に座る長身の人外を見上げた。ようやく3つ目の質問を解消することができる。

「あの、吸血鬼って太陽の光が苦手って聞いてるんですけど……」

 これは今朝起きた時からずっと気になっていたことだった。


 さんさんと朝日に照らされて優雅に座っている人外は声を上げて笑った。心底愉快そうな声である。そしてようやく笑いが収まると、真面目腐った顔になって新米吸血鬼に視線を合わせた。

「荒療治で耐性を付けた」

「えッ」

「ナチスを相手にしたときに、俺は昼となく夜となく戦っていてな。日光で皮膚が傷ついてはその端から倒れた兵士共の血をすすって修復をしていた。これを何万と繰り返すうちに日光に耐性ができた。……多分だがな」


「私がいま日の光が平気なのは?」

「お前がまだ半人前の吸血鬼であること、それから、日光に耐性を持つ俺の眷属であること。理由としてはこのあたりだろうな」


「銀や十字架、とかは?」

「坊主共は嫌いだが嫌いなだけで、アナフィラキシーは起こさん。それに、こう見えて俺は生前この上なく敬虔な信徒で、の月のごとく、まさに純潔そのものだった」


 異端審問の果てに夭折した美男が大輪の白百合のように笑う。ロクサーナは先だって見たウラディミルの白く凄まじい裸体、特に妙に印象深く残った腰のあたりにあった焼き印の跡まで思い出し、わずかに頬を染めた。

「……あ、あの、杭で心臓を打つと死ぬ、とか」

「それは人間も同じだろう」

 愉快そうな声にはっとなって、そうでした、と半人前吸血鬼は首を縦に振った。


「だが、心臓を銃弾で撃たれたことはあっても実際に杭を打たれたことは無いから分らんなぁ」

 今度試してみるか、などと気軽な調子で言い出すウラディミルに、三人の女たちが揃って待ったをかける。冗談だ、と吸血鬼が言うと、しばしの沈黙の後に4人はそろってどっと笑った。


「うふふ、お止しになってくださいね。……そうだ、あの、伯爵、お身体の調子はいかがですか?」

 目尻をぬぐったロクサーナが最後の一口になった手元のホットサンドと、コーヒーを飲んでばかりの男を見比べる。あまりに控えめな問いかけの意図するところを察して、先輩吸血鬼は答えてやった。


「結局のところ、吸血鬼の主食は血であり、吸血行為そのものが吸血鬼を吸血鬼たらしめているともいえる。固形物も食べられはするがあまり得意ではない。だからそのホットサンドはお前が全部食べて良い」


 ロクサーナが頷いて最後の一口を口に放り込んだ。そのやり取りを見ながら、自らも長命者を名乗るコレットが微笑んでいる。

「どうかしましたか?」

 サーシャがそれに気付くと、魔女は金髪を揺らして首を横に振った。

「何でもないの。ただ、伯爵が昔は一人でフラフラしてたのを思い出しちゃっただけ」

「なに、昔のことだ」


 不死者がそう言い切ってコーヒーを飲み干し立ち上がる。ロクサーナも彼らのやり取りを不思議そうに見守りながら立ち上がり、モルサナ特務機関長官の秘書に導かれてその場を後にした。


***


「それはそうとロクサーナ。この半年での本の売り上げランキング、第1位はなんだと思う?」

 サーシャを先頭にしながらモルサナ特務機関の長官室に行くまでの道すがら、吸血鬼は面白がるように問いかけた。生真面目な女は首をひねる。

「サバイバル入門とか、シェルターをDIYする、みたいな類ですかね。あとは……ゾンビ殺害マニュアルとか? このご時世でフィクション作品の人気は下火ですからねぇ」


 常識的かつ理性的な現状分析から導かれた模範解答を聞いて、ウラディミルは好意的に笑って電子タブレットを見せた。たった一晩でインターネットというものを完全に使いこなしているらしい。


「この世に住まう者が皆お前のようであれば大統領もあそこまで苦労せんだろうな。見ろ、電子書籍の売り上げ一位はヨハネの黙示録だそうだ」

 ハ!と短く声を上げて、今度は軽い軽蔑を込めて笑った。ロクサーナは首をひねる。


「ヨハネの黙示録単体ですか? 新約聖書ではなく? あれって、新約聖書の末尾についているもので、主体じゃないでしょう?」

「それが、単品で売れているらしいぞ」

 おかしなことだ、と吸血鬼は声を上げて笑った。


「笑い事ではないですよ。またいつ、あの15年前の路面電車トラム同時多発テロ事件や、大がかりな集団自殺が起きるともわかりません」

 そう言ったのは、特務機関の長官であるミハイル・ケルテスだった。彼はロクサーナたちを執務室に招き入れると備え付けのテレビに電源を入れた。今では天気予報とニュースがほとんどを占めるようになったテレビは、SNSと違って純度の高い情報が得られる貴重なメディアとして、ラジオに並んでその地位を取り戻している。


 画面の中ではキャスターが緊急速報の報道にいそしんでいる。

「クラブで薬物乱用の後に神が降臨したと叫んでショック死、ですか……」

 魔女コレットがため息をついた。その横の長官秘書サーシャも沈痛な面持ちで、ロクサーナもまた黙り込んでいる。しかし、その緊急速報を終えると、ニュースキャスターは予定通り、昨晩の屍食鬼グールの出現状況の報告、各都市のシェルター閉鎖時間の通達、避難先の告知などを淡々と行っていく。


「神とやらが助けてくださるなら俺は喉がつぶれるまで祈りをささげるがな」

 気まずい無言を破って優雅な声を上げたのは吸血鬼だった。古いなじみの傍に立ち、その肩を優しく叩いて言い聞かせる。

「だが生憎、それは俺らのしょうには合わんだろう、魔女殿。……胸中は察するがな、異端審問にかけられついには名実ともに神とやらの恩寵を外れた俺たちは自らの身体を動かす以外になさそうだ」


 コレットは顔を上げて伯爵をじっと見つめると歯を見せて笑い、ぐっと両手を握りむん!と気合を入れて見せた。

「そうよね、びっくりするくらいここ一番で頼りにならないのが神様ってやつなんだものね! ありがとう伯爵、あなたが来てくれて本当に心強いわ。一緒に屍食鬼グールを殺して回りましょうね!」


「ハハハ、その意気だ魔女殿。君は元々気に食わないことに黙っていられるタチではないのだからな。最近の俺たちにしては珍しく国家権力の後ろ盾があるのだし、思いっきりやると良いさ」

 可愛らしい口ぶりで物騒なことを口にする魔女に対して、吸血鬼は慣れたような態度で返事しつつ、今まで見たことのない笑い方をしていた。


 ロクサーナが話を変えるようにミハイルに声をかけた。

「あの、長官閣下、お仕事があるからここに私たちを呼んだんですよね?」

「さあ皆さんソファに座って、仕事の話をしましょうか。サーシャくん、資料を」

「はい。ロクサーナさん、こちらが特務機関から配布される仕事用のタブレットです」


 ロクサーナがタブレットを受け取って指定された資料を開く。そこには昨晩戦った白い甲冑の残留物である銃弾の薬莢やっきょうと引きちぎったかぶとの電撃コードから読み取れる情報が書かれている。


「泣きっ面に蜂、屍食鬼に白甲冑だ。ということで、昨晩出現した白甲冑について、改めて、昨日それと直接相まみえた2人に話を聞きたい」

 特務機関長官が重々しい声で言うと、勢い良く扉が開いて首に職員証を下げた者たちが10人ほど入ってきた。


「どうもーはじめましてー、モルサナ政府特務機関分析班でーす」

「コレット班長、おはようございます」

「ウラディミル卿、ロクサーナ嬢、初めまして。私はジョンソンです、お二人にお話聞きに来ました」

「おわー、こちらの美丈夫がウラディミル・ストルグ吸血鬼伯ですか? お会いできて光栄です、僕、フレデリックです! 白甲冑の薬莢と電撃コードの回収、ありがとうございました」

「いやーしかし参った。この白甲冑、どこかの武器会社か何かが技術者に開発場所と資金提供をして作ったとしか思えないね」

「ヨハンナ、眉間に皺寄ってる」

「あんたも人のこと言えないよ、イヴァン」

「あのーアレク先輩、こちらのハイスクーラーのお嬢さんが?」

「マリア、サーシャさんの話忘れちゃったの? ロクサーナさんはハイスクーラーじゃなくて修士号持ちだよ」

「あわわ、ロクサーナさん、これはとんだ失礼を! わたし、マリアです。同じ特務機関職員として、どうぞよろしくお願いします」


 年齢もバラバラでわぁわぁと賑やかな彼らが魔女コレットの部下であり、この特務機関の職員らしい。ロクサーナにとっては部署は違えど同じ職場の仲間で、先輩たち、ということになる。昨晩、ウラディミルの戦場土産を分析し、3時間ほどの仮眠を挟んでここにいるという。


 物怖じしない彼らの態度を気に入ったらしく、吸血鬼は「何から話そうか」と歌うように言う。ズイと身を乗り出したのはフレデリックという男だった。歳は30代半ば頃、一同のムードメーカーという感じの彼はソファに座ったロクサーナの傍にしゃがみこんで手元のタブレットを見せた。


「まずロクサーナさん、こちらの資料を見てください。昨晩の戦闘の流れはこれで合っていますか? 何か、白甲冑を間近で見て気になったことなどはありますか? 今はとにかく情報が欲しくて」

 にこりと笑ったフレデリックが見せた液晶には、白甲冑が接触してから離脱するまでの流れがまとめてある。ロクサーナが首を縦に振った。


「戦闘の流れはこれで間違いありません。気になったことというと、昨晩の白甲冑がグールの出現と関係あるのか、結局昨晩私たちの前に現れた理由は何だったのか、という二つですね。結局あの甲冑は伯爵にも私に致命傷を与えただけでとどめを刺さず、かといって大統領たちを追いかけるでもなく撤退しましたから」


 ロクサーナが自分の腹のあたりを撫でながら言うと、分析班は「そこだよねぇ」と声をそろえた。イヴァンが眉間に皺を刻んだまま、生真面目な表情で一同を見回す。

「目的はともかく、あの白甲冑と屍食鬼の関係性が知りたいよな。だって、屍食鬼が最初に出現したのが3年前。各国政府が国連を通して屍食鬼の存在を世間に公表したのが2年前。で、白甲冑が出現したのは昨日が最初だ。こんだけ時間が空いてると、白甲冑と屍食鬼に関連性がある、とは言いにくい」


「どっちも魑魅魍魎の類だからひとくくりにしたくなるけど、よく考えたら今の段階でその二つをつなげるための情報はないよね」

 眠そうな目を瞬かせてアレク(本名はアレクサンドラというらしい)が言うと、周囲にいた他の班員たちが別の可能性を示唆した。

「単に白甲冑がこの間ようやく完成したって可能性もあるけど。試運転がてら動かしてたら偶然に伯爵とエンカウント、とか?」

「なきにもあらずですねぇ」


「ただ……」

 話を聞いていたロクサーナが小さな声で切り出す。その場にいた者たちの視線を受け、彼女は幾分か迷いながらも言った。

「昨晩、モルサナ政府が対屍食鬼の切り札ジョーカーを切ったことは確かです。それも、人の血をすするような、政府に扱いきれるかもわからない、劇薬みたいなとびっきりの」


 ミハイルの執務机の傍で、切り札ジョーカーが牙を剥き、ハ!と声を上げて笑った。


 分析班の最年長のジョンソンが黒い手にタブレットを持ってソファからのっそりと立ち上がった。共産党政権が崩壊した後のモルサナは前体制を深く反省するのと同時に、寛容を旨として積極的に他国からの移住を受け入れていた。彼は職を求めてそのまま定住し、モルサナ国民になった典型例である。


「いずれにせよ、あの機械人形は昨日今日の構想で出来上がったものではありません。そして、あの甲冑の目撃情報がSNSにもまだ無いことを考えれば、あれはこの先起きる何か大きな殲滅作戦のために作られたあちらの切り札のはずです」


「ジョンソン、なぜ殲滅作戦だと思うのですか?」

 上司である魔女コレットの問いに、大男はほんの少しの沈黙の後にやや戸惑いながらも答えた。

「武器を持っているからです。蛇腹剣じゃばらけんとガトリング銃、スタンガン、確認できた分だけでも3種類。……何を殺すつもりかは知りませんが」

「俺に武器を向け大統領専用車を逃がしたあたりは人類の味方かもしれんが、ロクサーナを殺したからな、そう単純な話でもなさそうだ」


 ジョンソンの言葉を継いで吸血鬼がニタニタ笑うと、執務机に座った特務機関長官は首を横に振った。

「白甲冑が伯爵と遭遇したのが偶然という可能性も大いにあるが、そうでない場合、我々特務機関の動き、ないしは大統領閣下と大臣たちの秘密会談の内容が漏れていたことになる」

「ハッキングされた可能性と、スパイがいる可能性があります。信じたくないことですが」

 

 サーシャの言葉に職員たちは顔を曇らせた。彼らを励ますように分析班班長コレットが立ち上がり、明るい声を上げた。

「いずれにしても、あの白甲冑のご主人サマと早いところ接触したいわね。白甲冑の殲滅対象が屍食鬼であれば協力を仰ぐし、人間を殺すつもりであれば可及的速やかにあれを無力化しつつ敵の作戦を中止させる」


 班の中で一番若いマリアが「あのう」と気まずそうに手を上げた。

「結局、白甲冑が捨て台詞残して撤退した意図も、屍食鬼との関係性次第ってことですけど、伯爵が不死者だと気づいて諦めた線もありますよね」

「その可能性もある。少なくとも、次にあれと戦う時には対戦車弾なんて利かなくなっているはず」

 そう言ったのは機械工学が専門だというヨハンナだった。彼女は自身のタブレット端末を見せながら、ウラディミルとロクサーナの正面に座った。


「人型の戦闘用ロボットって、そもそも作るのにものすごい技術が必要なんです。装甲と機動力、攻撃力の3つをそろえるのなら人型よりもっと別の良い形がある。それにジェット噴射って安定性に欠けるからそれで空を飛ぶなんてのははっきり言ってとんだ無茶。でもその不合理を押し切るだけの技術がある」

「ならば、ロケット弾対策をするだけの技術もある、ということか」


 ウラディミルが眉を上げ、面白がる時の声で言う。人間の技術の進歩具合の確認が楽しいらしい。あの機械人形は人工知能が使用されていた可能性があったのではないか、とアレクサンドラが言うと、AIとは何だと食いついている。


 その様子を見守っていたロクサーナは、タブレットに表示された大統領が撮影していたらしい純白の甲冑の姿を見つめ、ふと思いついたように言った。

「あの、つまり、その不合理を押し切りたい、あの戦闘用機械をどうしても人型にしたい気持ちがあったってことですよね。普通なら、制作期間の短縮や安定性のために合理を取るはずです。でもそうしなかったのは、よっぽど人型戦闘機にロマンを感じていたか、どうしても人型でなくてはいけないか、そのどちらかだと思うんです」


 そうですよね、とロクサーナがウラディミルの方を見ると、吸血鬼はにんまりと笑った。

「人の形をしたものを作るのは、往々にして神の所業そのものだ。……ロクサーナ、何を考えている?」

 お見通しだと言わんばかりの吸血鬼の赤い瞳に、青い瞳の乙女がひるんだ。

「……確証のない憶測です。ただ、あの兜の上の王冠飾りが気になっていて」


「何か、思い当たることがあるのなら遠慮なく言ってください」

 フレデリックに促され、ロクサーナは視線をさ迷わせながら語った。

「なぜ、騎士の甲冑を模したものの頭部に着ける飾りが王冠を模しているんでしょう。なぜ、あれの装甲の色は白なのでしょう。夜の闇の中であれだけ目立つというのに?」


 彼女の言葉に一部の班員が雷に打たれたようになって、手元のタブレットを弄り始める。


「あの白甲冑の言葉を真に受けるなら、あれが幾分なりともキリスト教思想の影響下で作られているのは確かです。そして、あれは神のために粛清を行う者だと自らを表明した。それが甲冑……騎士の姿をし、頭の上に王冠のような飾りを頂いていたのなら、あるいは」


 ロクサーナが目をそらし、手をまごつかせながらも、その場にいる者たちの視線を受けて言い切った。

「あるいはそれを、我々は、勝利の上になお勝利を重ねる者、と呼ぶべきかと」


 彼女の言葉を受け、分析班はタブレットから顔を上げて素早く情報を共有し、今後のための予想を立てていく。

「ヨハネの黙示録の4騎士か!」

「出現した白甲冑は以後、白騎士と呼称。予測される残り3騎はそれぞれ赤騎士、黒騎士、青騎士と呼称!」

「ヨハネの黙示録出してください!」

「今後は騎馬と弓付きで出てくるかもしれんな。こりゃあ厄介だぞ」

「というか、死をもたらすって言う青騎士と勝利の上に勝利を重ねるとかいう白騎士ってどう違うんだ?」

「おい、ヨハネの黙示録って言ったら千年王国の降臨だろ? どの程度本気か分かんないうちは何とも言えないがこりゃあ結構な厄ネタだぞ」


 にわかに騒がしくなった班員たちは立ち上がり、挨拶もそこそこに長官室を出ていく。一気に静かになった部屋で、思わず笑ったのはロクサーナだった。

「ふふ、ごめんなさい、こんな緊急時なのに笑ってしまって。でもなんだか皆さんとっても楽しそうだから」


「うちの部署、ここ1年くらいは遅々として進展が無くて苦しんでいたからね。白騎士という起爆剤で良くも悪くも事態が進展して嬉しいんだわ」

 部下たちを見送った魔女コレットが苦笑し、立ち上がると吸血鬼の傍に立って彼の肩に腕を回した。

「本当に来てくれてありがとう、伯爵。世界が滅亡したのにこの身体だけ滅びずに残ってるなんて馬鹿な事態だけは避けたかったの。私、自分のお葬式をしてもらうのが夢だもの」


「分かっているさ。魔女殿が無事に死ねた時には約束通り、俺が喪主を務めよう。同じ人外人でなしのよしみだ」

 親しげに笑い、吸血鬼もまた魔女の背に腕を伸ばしてやる。


「懐かしいわね、覚えてる? ウェストエッグのパーティーであなたに再会した時、私、本当に嬉しかったのよ。まさかニューヨークで同じ人外人でなしに会えるなんて思ってなかった……」

「もちろんだ。俺は密造酒を生業にしたウェストウッド住まいのギャング、魔女殿はイーストエッグの別邸に追いやられた名家の放蕩娘。思えばあの時の設定はミザントロープ人嫌いの魔女殿らしくなかったな」

「せっかくの新天地だったもの、気分を一新したかったのよ」


 魔女が肩をすくめたのを合図に、「あの!」と割って入ったのはロクサーナの声だった。彼女の声を合図に不死者の男は魔女の背をそっと叩いて腕をはがした。

「あの、あの、ええと、それで、他に私たちがしなくてはいけないことや聞かなくてはいけない話はありますか?」


 そうだね、と特務機関長官は新人と長命者に目を向けた。

「先ほどの新しい情報を加えたうえで次の目標を定める。伯爵とロクサーナさんはいつでも出撃できるように準備をお願いします。ま、ひとまず特務機関の施設内を見て回ってください。武器が必要ならご用意します」

 

***


「あの……特務機関に所属してくれって大統領閣下に言われたとき、私、てっきり事務とかそういう役割で所属するつもりだったんですけど? なんで私も出撃して伯爵みたいに戦う前提になってるんですか?」


「まあそう言うな、あの白騎士が次に何をしでかすか分からんからな、戦力が多いに越したことは無い。ロクサーナ、自覚はないかもれんが、お前は半人前とはいえ吸血鬼になったのだ。身体能力は既に人間のそれを超えている」


 サーシャに案内されて特務機関の施設内を見学して回る間、先輩吸血鬼がカラカラと笑って宥めたが、その横で本人はくちびるを尖らせていた。屋敷への侵入者を前に勇敢に斧を構えて見せた果敢な女当主も、戦闘への参加を要求されてさすがに戸惑いを隠せずにいた。


「出撃すると諸々の手当がついてお給金がぐんと上がりますよ」

 秘書のサーシャに言われ、ロクサーナはわずかに態度を軟化させた。あの郊外の広い屋敷の維持にも相当の金がかかるのが現実であった。ストルグ屋敷と言えば、ひとまずいつでも出撃できるようにそこを留守にしていることも彼女には気がかりである。


「屋敷のセキュリティは心配ない。俺が起きた以上、これまでだいたい50%くらい効果を発揮していた防御結界がフル稼働している。屍食鬼や人間が勝手に入ることもあるまい」

 ストルグ家の父祖たる怪物はそのように説明しつつ、屋敷の若い女主人の方を見て何気ない風に言った。


「ま、大統領がお前を特務機関に入れたのも、その実口封じなどではなく、俺の手綱を握るためだろう。お前を通したであれば劇薬切り札も少しは言うことを聞くだろう、というな。だからこそ、もし俺が戦闘の現場で急に反乱を起こした際にすぐ抑え込めるよう、お前を俺のそばに付けておく必要がある。ま、そのお前が俺の眷属になったのは計算外だったろうが」


 サーシャがため息交じりに首を横に振った。長命者相手に隠し事をする方が無理だと上司と国家元首をささやかに罵っている。


 特務機関の建物は、どうやらモルサナ歴史博物館の裏手にあるらしい。博物館のバックヤードには「修復室」というのがあり、さらにその中に「製造室」というブースが設けられていた。目を輝かせたのはウラディミル・ストルグで、早速担当の者に声をかけて武器の制作を頼んでいる。


 一方で、戦う心構えなどろくにできず己の胸の下あたりを撫でるロクサーナを見かねたのはコレットだった。

「そういえばロクサーナさん、昨晩は着の身着のままでこちらに来たでしょう。日のあるうちに一度自宅に戻って、着替えなどを回収しませんか?」


 そういうわけで、彼女はコレットの私用車に乗って、首都郊外のストルグ邸へと向かった。最初は魔女の申し出に少し遠慮があったのだが、備品の服を着続けるわけにもいかないのは事実だったし、久しぶりに車を運転したいと言われ、ロクサーナはおとなしく助手席に座ることにした。


 淡い水色をした愛らしい形の車が沈黙に支配されるのに耐えきれず、ロクサーナは隣でハンドルを握り年上の女に恐る恐る声をかけた。

「あの、質問をしても?」

「ええ、もちろん」

「ああ、いえ、質問というか、その……吸血鬼伯が1920年代にアメリカで暮らしてたなんて初めて知って、びっくりして。ギャツビーはリアルタイムでお読みに?」


 まごついた言葉に、魔女が頷いてにやりと笑った。自分の意図が正しく見抜かれていることに対する感心からくる笑みだった。

「さすがストルグ家のお嬢さんってとこかしら? あなたも『グレート・ギャツビー』は読破済み?」

「……訳本なら」


 ロクサーナがしかめっ面をした。声はわずかにすねたような響きがある。1920年代に発売されたアメリカ文学の金字塔、フィッツジェラルドの著作である『華麗なるギャツビーグレート・ギャツビー』に出てくる架空の地名、ウェストエッグを出されて、ロクサーナは先だっての執務室でぎょっとしたのだ。

 それから、吸血鬼伯ウラディミル・ストルグと魔女コレットの距離感にも。


 長命者らしい女がロクサーナの素直さにくすくすと笑った。

「ごめんなさいね、ちょっとからかってみたくなっただけよ。いつも一人でフラフラしてた伯爵が甲斐甲斐しくあなたの面倒を見ているみたいだったから」

 信号が赤になるのに合わせて、魔女がブレーキを踏む。かつて異端審問にかけられたらしい人が今は車を運転しているというのが何とも奇妙だった。


 魔女は青々とした葉を潜り抜けて落ちてくる初夏の光で肌や髪をまだらに染めながら穏やかに、しかし淡々と言った。

「私と伯爵はじゃないわよ。だから安心してちょうだい」

「わ、私はそんなつもりは」

 アクセルを踏みながら、魔女は焦ったようなロクサーナの言葉を遮るように言った。


「私はね、もう誰かを好きになるつもりもないし、出来るなら今すぐこの生を終わらせたいの」

 やっぱり穏やかな、けれど淡々とした声だった。他人事のような口ぶりにロクサーナは口を閉ざし、年齢不詳の女を見つめる。


「魔女なんて呼ばれるようになって、異端審問にかけられて、気が付いたらうっかり本物の不老不死になっちゃって、死ぬ方法を探してるうちに時が流れて、子どもは作らなかったけど結婚もしたし、あの人の敵討かたきうちみたいなこともしたし……私は伯爵と違ってただ不老不死なだけだし、長命であることを楽しめないから」


 打ちひしがれたような言葉はしかし、突き放すような響きで、ロクサーナはハンドルを握る女の胸中が分からないままでいる。誰にでも似合いそうな普通の恰好をしたコレットは、ありきたりな軽自動車を左折させる。 


「今は理解ある政府の庇護下にいるからようやくひとつところに落ちつけてるけど、不老不死だってバレないようにあちこちを転々とするのも疲れちゃった。またどこかに移動するくらいならもうここで……」

「コレットさん、赤、赤! 信号赤です!」


 キキィッ、と高い音でブレーキがかかって、水色の丸いフォルムの車が急停車した。さっきまで消え入りそうな声で問わず語りをしていた魔女は目を見開き、一瞬全身を硬直させて息を止めた。

 一拍後にぷはぁ、と大きく息を吐いたコレットは眉をハの字にして笑った。


「嫌だわぁ、こんな話できる人に会うの久しぶりだから気が抜けちゃって。ごめんなさいね。ほら、分析班のみんなにこんな話をするのも申し訳なくって」

 モルサナ政府特務機関の一部門を預かる女は困ったように笑った。

 わいわいと賑やかな彼らにこんな話をすれば、きっと必死で彼女をなだめたり慰めたりして、どうしようもないことを知りながらも何とかしようとするのだろうというのがロクサーナにもよく分かった。けれど、その気遣いすら魔女には重荷になるのだろう。


「昨日伯爵に聞いたわ、今のあなたは吸血鬼として半人前だから吸血は必須でもないし、不老不死でもないんですって。死ねずにずっと生き続けるのも大変だから……その時が来たらよく考えて選ぶといいわ」


 信号が青に変わって、車がゆっくりと走り出す。大人の女の手がハンドルを切ると車が右折し、うっそうと木の茂る道に入った。防護壁に囲まれたモルサナ市の端も端の地区である。高級住宅地に分類されるこの辺りも、今は人がいなくなってすっかり閑散としている。


 木々の合間に淡い桃色の壁の屋敷を見つけると、昨日の夕方までそこにいたというのに、家主は随分長く家を空けていたような気持ちになった。車を降りて門を開き、車を敷地内に招き入れ、鉄扉の外れたドアに鍵を刺しこんで邸内に入り、若い当主は大きく息を吐いた。

(オデュッセウスはこういう気持ちだったのかしらね……)


 この広い屋敷には、ギリシアの英雄のように帰りを待っていてくれる者などいないのだが。


 ロクサーナはコレットを客間に通し、毎度のように紅茶を入れて供す。屋敷の女主人としての務めを果たそうとするロクサーナに苦笑した客人が自分のことは放っておいて良いと言うので、そこでようやく彼女はガレージの隅に置いてあったキャリーケースを引っ張り出し、荷物を詰め始めた。


「私、両親を亡くしてからは何かあったらすぐに吸血鬼伯のお墓のところで泣いていて。別に今はもう平気なんですけどね、初めてあそこで泣いたのは、クリスマス礼拝でお菓子がもらえなかったときです」

 着替えや愛用の化粧品を詰めながら、ロクサーナは喋る。客間の装飾や調度品のデザインをじっくりと見ていたコレットは「ええ」とだけ返事する。


「子供向けのクリスマス礼拝に参加したんです、近所の教会の。親は教会に行きたがらなかったから、私はこっそり参加して。で、子供向けだからか、終わったらお菓子が出たんですけど、なんでかなぁ、私には無くって。びっくりしてたら、礼拝を手伝ってた近所の大人が言ったんですよ。吸血鬼の子がどうしてって」 

 ロクサーナは苦笑する。


「私、なんだか意味が分からなくて怖くて、さっきまで優しい声でお話していた神父様が怖く思えて、お菓子を受け取らずに教会から飛び出して家に帰りました」

 まだ小学校にも入らないくらいの幼い時のことを、彼女は妙に鮮明に思い出せた。

「でも、今となってはあれを全部聞かれてたと思うと恥ずかしいです」

 あはは、と彼女は気の抜けた笑いをこぼす。


「……よく、名字でからかわれました。からかわれた、というか、ううん……何ていうんでしょうね、あれは」

 分からないなぁ、と言いながらロクサーナは飾り棚を開けて睡蓮柄の茶器一式を取り出し、梱包材にくるんでいく。


「もうとっくに共産党政権も倒れて、モルサナが新しくなろうとしていた時期ですから、大人はめったにそういうこと言わないんですけどね。でも子どもは別です。うちの国では、ほら、吸血鬼って夜寝ない子を頭から食べちゃう怪物じゃないですか。化物の子、怪物の血って。そう言われて私が怒って相手の腕とか胸ぐらとか引っ掴もうものなら、やっぱり吸血鬼の子だって言われる」 


 梱包した茶器の上にさらにストールを巻き付けて、服の中に埋める。それから、いくつかの本を棚から引っ張り出して、小物入れに突っ込まれていた紐で一つにくくる。

「両親が亡くなってからは祖母が親代わりだったけど、結構厳しかったし」


 ロクサーナの手はリリィベル・ストルグの表記がある本を持っていくか否か迷って、結局傍の棚の上に置いて判断を先送りにした。

「厳しかった?」

 そこでようやくコレットが相槌を打った。


「……なんだろう、ストルグの子だから出来るはず、みたいな。自分の孫で、死んだ娘の子だから出来るはず、みたいな、期待が」

 重くて、とロクサーナが囁く。


「祖母も母も優秀でした。勉強も良くできたし、教養もあった。祖母はたくさんのものを私に与えてくれたけど、私はそれを吸い込むのに精いっぱいで……。祖母にはよく母と比べられたし、上手くできないと怒られました。こんなじゃストルグを任せられない、なんて言われて」


 言いながら、彼女は親指で光るサファイアの指輪を撫でる。金の輪に青い石を飾ったそれは、代々ストルグ家当主に継がれてきた家宝である。ずっしりと重いそれを見つめ、自嘲する。

「爵位なんて吸血鬼伯の騒動で剥奪されて、それからもう何百年も経つのに」


 けれど、祖母が思い描くストルグというあり方に沿おうとすればするほど妙に浮世離れして、中学や高校にはうまく馴染めなかった。あの子は貴族だから、なんて言われたときに彼女は悔しくて、こんな家を出て行ってやろうと思ったのに、結局いつものように吸血鬼伯の墓のそばですすり泣いていた。


「……ひどい矛盾です。ストルグが嫌いで、捨てようと思って、背こうと思って、祖母の言いつけを破って役人になったのに、私はあのとき吸血鬼伯に労われて、彼の縁者であることを喜んでしまった」


 保留にした本の表紙を撫でる。祖母の博士論文を基に書かれた研究書を収めた本棚のそばで、今は亡き彼女と口論をしたことが何度あったか分からない。ひどく頬をはたかれ、泣きながら玄関を飛び出したこともあった。


 親指の指輪を隠すようにして拳を握る。愛着があるのと同じだけ、思い出したくも無いような記憶があった。

「中途半端で嫌になる」

 ストルグ家の女当主は低い声で吐き捨てた。散々迷った彼女の手は分厚い専門書を乱雑につかみ、機械的にキャリーケースに押し込んだ。


「ああ……すみません。なるほど、赤信号でも構わず走り出してしまいそうです」

 ロクサーナが苦笑すると、コレットも同じような顔になった。丸いメガネの奥で、明るい茶色の瞳が僅かに陰る。


「人とはひどく矛盾するものかもしれないわ。私はたったひとりの夫をナチスに殺されて、復讐のためにパルチザンになって、ナチスの兵を殺したわ。魔女としての毒薬の扱いだけじゃなくて、直接銃を撃ったこともたくさんあるし、ナイフで首を掻き切ったこともある。戦局は泥沼だったけれど、モルサナという国は最終的にナチスに勝った。夫は帰ってこなくても、帰ってこない彼のために何かできたことを、私は今、誇りに思っているわ。でも、夫が帰ってこないのであればモルサナが勝っても負けても、報復してもしなくても同じだった気もする……」


 もう触れることのできないものを思い出し、そっと並べ、確かめようとするまなざしが、ロクサーナに注がれる。

「あれからもう80年以上経つのに、まだ分からないわ」

 不老不死の魔女は泣きそうな顔でほほ笑んだ。


***


 キャリーケースと大きめの旅行鞄いっぱいに荷物を詰めたロクサーナは往路と同様、コレットの運転する車で復路についた。帰り道のあいだ、運転手は分析班のメンバーや特務機関長官のミハイルやその秘書であるサーシャについて楽しげに語っていた。往路とストグル邸で語ったことには一切触れなかった。


 そしてそのまま日が暮れると、何やら武器をこしらえてもらったらしいウラディミル・ストルグがいかにも上機嫌に、ロクサーナを閉館後のモルサナ歴史博物館に誘った。本来なら立ち入れないはずだが、何やらミハイルに無理を言って鍵を借りたらしい。 

 いかに特務機関の職員たちが優秀でやる気に満ち溢れていたとしても、そうすぐにで敵本拠地に突撃できる状態になるわけでもない。せっかく時間があるのだから、とウラディミルは鼻歌でも歌いだす勢いだった。


 さて、国を挙げての避難計画「エクソダス」の実施において、紙の本の多くを捨てて電子書籍に切り替える決断を下した人は多いが、人類の遺産である美術品の類はそうもいかない。その中でも歴史、自然、民俗のまつわる展示を行うモルサナ三大博物館は空きのない収蔵スペースを何とか拡大し、不幸にも屍食鬼の襲撃を受けた街やミュージアムからから運ばれてきた収蔵品をなんとか受け入れた。どうやら人の死肉を食らう怪物たちに芸術を解する心はないらしい。


 だが、同じ怪物でもここにいる血をすする怪物は別のようだった。

「ほう、まだ残っていたか」

 靴音も高らかに、月光の降り注ぐ夜の展示室を歩き回っていた長命者が足を止めて感心したような声を上げた。あるいは、少し面白がるような声色でもある。 


 彼の赤い瞳が見つめているのは共産主義時代に破壊された教会に飾られていた磔刑像たっけいぞうだった。モルサナ史の教科書に必ずと言ってよいほど写真が掲載されるそれは古くから「モルサナで最も美しい彫刻」と称えられ、磔刑に処される神の子羊の髪の流れや腰布の皺までもが繊細に再現されていて、実際、見事なものであった。


 しかし何よりも美しいのはその顔貌と肢体そのものである。青年の顔には深い悲しみと苦しみに満ちながらも、口元や目元には微笑とも甘えとも読み取れるものが滲み、見る者に哀れみだけではない感情を喚起させる。均整の取れた身体は傷を負い、血を流しながらも若いみずみずしさを湛え、それがアンバランスな美を作り出している。


 とにかく、この像があまりに美しいため、当時のモルサナ共産党幹部は教会取り壊しの際、代表書記に黙って背面のステンドグラスとこの像をこっそり地下に埋めて隠したのだという。後にそれがバレてこの党幹部は銃殺刑に処されるのだが、この像が発見されたのは実に1992年、共産党政権崩壊の翌年のことであった。


 そんなことをロクサーナが説明してやると、不老不死の男は傍の椅子に座っては己の後ろをちょこちょことついて回る眷属に語って聞かせる。

「これが教会に納められている様といえば、それはもう美しかったものだ。チェキストどもめ、勿体のないことを」

 毒づく声には笑いが滲んでいる。それが痛快で、半人前の吸血鬼も少し笑って年長者の隣に座り、話の続きをせがんだ。


「ね、伯爵、どんな風だったんですの?」

「教会内に入るとな、壁と最奥の祭壇にびっしりとはまった色とりどりのステンドグラスが見える。晴れた昼間であれば、太陽の光があたりに満ちながら色ガラスを通してまだらになって説教台や床や椅子の上を染め上げている。人の肌や髪や衣服の上にも色が踊って、俺は天国とはこのような場所かと思ったものだ」

 わぁ、とロクサーナが吐息交じりの歓声を上げた。


「夜であれば教会内はひどく暗いが、格別なのは生誕祭の夜通しのミサだ。信者たちは捧げ持ち寄る蝋燭やランプの光を頼りに堂内に入る。するとどうだ、最奥の祭壇だけが燃えるように明るいのだ。磔刑に処された救い主の御像が浮かび上がるようにそこにあって、光輪を背負ったようにも見える。その背後に、ステンドグラスが輝き、時折、壁際の蝋燭や明りに照らされて思い出したように壁面のステンドグラスが天に使わされた子羊の起したまう奇跡の姿を見せるのだ」


 信仰の有無とは関係なく、いまだにその景色は吸血鬼ウラディミル伯の中に美しいものとして刻まれているようだった。そして、そういった景色に伯爵令息ウラディミル青年は信仰心をより一層深めたのだろう。


 だが、その青年は爵位を継いだ後、異端審問にかけられることになった。そんなある日、拷問吏の一人が言ったそうだ。

「拷問に処された俺の姿がな、この磔刑像よりも美しいというのだ。あるいは、焼き印を押されて呻き涙を流す俺の姿がこの磔刑像のように色っぽいとな」


 言われて、ロクサーナは想像する。痛めつけられ、傷を作り、血を流し、呻きながらもなお生気と精気を失わず、瑞々しい若く白い身体を苦痛に悶えさせて涙を流す美男の姿を。


 途端に彼女の腹の奥からぞわりと不埒ふらちな熱がこみ上げ、首の後ろがささやかに火照る。僅かに嗜虐を滲ませたその感覚に戸惑いながらも、顔を赤くしたロクサーナは思わず口走った。

「それ全方面に不敬じゃありません?!」 


 彼女の赤面の理由を知っているのかいないのか、美男はくちびるの端をゆがめる。意地悪く、そして妙にいやらしい笑みだった。

「だがな、それを聞いて、俺はこともあろうに、すこし喜んでしまったのだ」


「ぜ、全方面が不敬!」

 ロクサーナとてろくな信仰心を持ち合わせぬが、この磔刑像に込められ幾万の信徒から寄せられた神への畏敬の念の重さは分かる。よもやそれと一人の男とを、それも異端審問にかけられた男とを比べ、美を語るならまだしも艶を評するのは随分恐れ多いことであるし、さらにその評価に喜ぶのも大概どうかしている。だが、思わずそう口走ったのであろう拷問吏の心境も、ロクサーナには分からぬではない。その意味で、全方面が不敬であった。


 一通り愉快そうに笑った年長者は、そのまま隣に座る縁者に問いかけた。

「それで、必要な荷物は回収できたか?」

「はい」

「それは良かった。ま、日のあるうちは屍食鬼どもも好きには動けんらしいからな。道中、魔女殿とは喋れたか? 俺とは300年来の付き合いの相手だからついうっかりロクサーナにとってもそうだと思って二人きりにしてしまったが……」

「色々喋れました」


 それは良かった、と満足そうにウラディミルが言うと、しばらくの間その場を静寂が漂った。

 ウラディミル・ストルグという男は呵々大笑しよく口が回るが、その実、彼は沈黙の意味と価値をよく知っていた。むしろこの場において不意に訪れた静けさに耐えられなかったのはロクサーナの方だった。左手の親指に飾られた金の輪を弄り、指から引き抜いてみたり嵌めてみたりするのを何度も繰り返している。そしてついに、指から落としたサファイアを右手の平で転がして言った。


「あの、これ、伯爵にお返ししようと思って」

 ズイと握った右手を差し出す。かさついた声が言い訳のように重ねられる。

「私よりも、伯爵に相応しいと思うので」


 突き出された右手をまじまじと見つめ、かつてのストルグ家当主が口を開こうとした、その時だった。


 無機質なコール音が響いた。ロクサーナはビクリと肩を震わせ、ポケットに突っ込んでいたスマートフォンを取り出した。画面には特務機関長官秘書サーシャの名が表示されている。


「ロクサーナさん、ウラディミル・ストルグ伯爵もご一緒ですね?! 緊急ですが、今から出撃していただきます、急ぎ長官室まで来てください!」

 

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