我継ぐは怪物の血

鹿島さくら

第1話 吸血鬼、再現

 月に照らされた東欧の森、唸り声をあげる狼の群れに囲まれて、黒づくめの男が哄笑している。色白の顔貌がんぼうは若く秀麗だが、血のように赤い瞳をぎらつかせ、大きく開いた口から鋭い牙をのぞかせて笑うその表情は、どんな名俳優も人間である限りできないであろう顔をしている。


 狼の内の1匹が土を踏み鳴らし、唸りながら男の喉笛めがけて跳び上がった。しかし彼は眉一つ動かさず、それどころか笑みを深めると悠々とした動きで黒いインバネスコートの下に隠していた腕を出した。


 腕が影をまとって巨大化する。鋭い爪をそなえた悪魔じみた形のそれは、狼の鼻面をひっつかむとそのまま毛むくじゃらの身体を地面にたたきつける。続けて飛び込んでくる残りの狼たちを視界に認めると、男は肩をすくめつつ巨大な腕を振るった。獣の身体から噴き出した体液が月光を反射して病的なまでの輝きをまとって飛び散り、男の白皙はくせきの頬を赤く汚した。


「ははははは、いかにこのウラディミル・ストルグであろうと寝起きに犬の遊び相手をするのはこたえるものだ」

 ひどい悪人面をした美男はひどい謙遜を口にしながら、返り血をぬぐうこともせず、自身の傍に立つ若い女を見下ろした。

「どうだロクサーナ、お前の父祖たるこの吸血鬼ウラディミル・ストルグの戦いぶりは?」


 女――ロクサーナは親指に大きな指輪を飾った左手で自称吸血鬼のインバネスコートを掴み、斧を握る右手を震わせながらも、なんとか声を絞り出した。

「お話と違わぬ勇猛ぶりに、いっそ呆れかえる心地です。これならかつてナチスドイツ軍を相手に伯爵お一人で進軍を阻んだというのも納得です」


 ロクサーナの答えが意外だったのか予想通りだったのか、吸血鬼伯爵ウラディミル・ストルグは立ち上がった狼を蹴り飛ばしながら、今度は無邪気に笑った。あたりに満ちる血の匂いに、人間の女はため息をつく。 

(なぜこんなことになったのか……)


 ことは、その日の夕方ごろにまでさかのぼる。


***


「ここが怪物屋敷だってよ」

「ふぅん、このお屋敷があの吸血鬼伯爵ウラディミル・ストルグの家って?」

「化け物の家ってことは、今あっちこっちに出て人間を食ってる屍食鬼グールもこの家の奴のせいかもしれないわね!」

「みんなして屍食鬼グールに怯えて少ねぇ家財抱えて移住して、小せぇアパートメントで暮らしてるってのに、こんな庭付き豪邸に住みやがって。いいご身分だぜ」

「この家のやつは共産主義時代よりずーっと昔からの生粋のお貴族様ブルジョワなんだってよ。何せご先祖様が吸血鬼だからな。知ってるか? ストルグってのは古いモルサナの言葉で怪物って意味らしいぜ」

「にしても落書きだらけで汚い塀ねー」

「おい、日が暮れる前に早くやるぞ! 夏とはいっても、さっさとしねぇと屍食鬼グールが来ちまう。みんな、ペンキとスプレーは持ったな!」

「オウよ!」


 家の表から聞こえる若者たちの騒ぎに、怪物屋敷の裏手にいた女は全身を緊張させた。名はロクサーナ・ストルグという。歳はようやく20代半ばに手が届こうかという具合だが、背が低く童顔であるために実年齢よりも幼く見える。無法者たちがわぁわぁと大声ではやし立てながら石塀への落書きにいそしんでいることが耳で確認できると、彼女はそばの墓石をそっと撫でて早口で囁いた。

「あの人たちがいなくなるまで家に隠れてますね」


 彼女はサッと立ち上がると夕方の曇天の下、波打つような黒い癖毛をなびかせて庭園墓地を駆け抜ける。裏口から静かに家に入ると素早く鍵を閉め、表玄関にも鍵をかけながらポケットに入れていたスマートフォンから電話をかけつつ、2階に上る。家の表側に面した部屋のひとつに入ると、レースカーテンの合間からそっと外を覗いてため息をついた。

「あの人たちが帰ったら塀を綺麗にしなくちゃ。……車をガレージに仕舞って正解ね」


 庭に置いていたら、塀を蹴りつけるあの若者たちに壊されていたかもしれない。

 それにしても、と腕を組んで、怪物屋敷のたった一人の住人は窓辺から離れる。

「毎回思うんだけど、スプレーやらペンキやらを調達するお金と体力と気力があるなら食料とか衛生用品とか護身用の銃とかを買いなさいよね」


 怪物屋敷の女主人は暖炉の上に飾られた、今は亡き両親や祖父母、さらにその父母と祖父母、そして親戚たちの写真に視線を向ける。ロクサーナ、と笑顔で呼んでくれた彼らの声を忘れかけていることにほっとしながらも唇をかむ。


 窓の外から聞こえる、この家の住人を罵る声がいっそう高くなった。

「人食いの化け物め、さっさと屍食鬼どもを引きつれて冥界にでも地獄にでも帰りやがれ!」

「教会の坊主どもを呼んで異端審問をしてやろうか!」

「吸血鬼のすえく去るが良い、近く訪れる終末で汝は裁かれる! 救い主と共に訪れる千年王国にお前の居場所は無いだろう!」


 もう会えない親戚や血族たちの写真から目をそらし、左手の親指にはまったサファイアの指輪を隠すように拳を握る。怪物のすえが漆黒のまつげを伏せると、深い青の瞳に影を編んだ。

「……私だって、好き好んでこのストルグの家に生まれてこの屋敷に住んでるわけじゃないわ」 

 怪物屋敷の女主人、現ストルグ家当主ロクサーナ・ストルグが低い声を絞り出す。


 しかし感傷に浸っている暇はなかった。表の罵声に塀に取り付けられた鉄扉を叩く剣呑な響きが混ざり始める。そして、そのすぐ後に彼らが庭に進入したのだ。


 この2年間、時に警察や弁護士を頼りながらこの手の迷惑行為にじっと耐えていた気丈な乙女の顔が青ざめた。屍食鬼グールがはびこり人間を食らう今の世において、この手のやからが怪物屋敷の噂を恐れて塀を超えてくることはこれまで一度もなかった。それが、今日は違う。


 しかしそれでもロクサーナ・ストルグの身体はそれでも良く動いた。顔には少年じみた苦い笑いを浮かべ、脚は部屋を出て螺旋階段を駆け降り、玄関ホールからガレージに入る。そして迷わず床の物入れの中の古びた斧を手に取る。最近はめっきり使わなくなった、大ぶりの薪割り用斧だ。しかしただの斧ではない。今は亡き祖父母の話を真に受けるならフランス革命より昔から有事の際には武器としても使われてきた代物である。


(まあそれも、現在に至るまでに最低でも刃の部分は3回、柄は4回交換されているのだけど)

 最後に笑いながらそう言って種明かしをした血族達を思い出し、ストルグ家の娘は刃物の柄を握る手に力を込めつつ深呼吸して苦笑をこぼした。

(こんな時でも考えるのは自分の血脈のことか)

 表玄関の方から怒声が聞こえているというのに。


 ガンガンと扉を固いものでたたく音がする。ストルグ邸の玄関扉はアールヌーヴォー風のデザインで大きな曇りガラスをあしらっているが、その上を孔雀をかたどった繊細な図案のアイアン格子で覆っているため、ここがすぐに突破されるということはない。しかし、限度はある。


 ロクサーナは大ぶりの斧を両手で構え、玄関ドアの前に立った。侵入者たちを殺す気は毛頭ないが、屋敷内に入れたくはない。その一心である。

(とにかく脅せ、入ったその瞬間に大声でも唸り声でもいい、威嚇しろ)


 扉の向こうからガシャン!音がした。ロクサーナは曇りガラス越しに、はめ込まれた孔雀柄のアイアン格子が外れて倒れるのを見た。外では、あの若者たちが倒れこむ巨大な鉄の飾りに驚き、その場から離れようとしている。


 その瞬間、ストルグ邸の女主人の青い瞳が鋭い光を放った。

(今だッ!)

 素早くドアのかぎを開けると、彼女は斧を片手にパッと外に飛び出し、足元に孔雀の格子を踏みつけながら怒鳴った。

「今すぐここを出ていけ、一昨年にこの家に落書きをした奴らには30万の罰金を払わせたぞ!」


 震える腕を内心で叱りつけながら斧をことさらにちらつかせると、若者たちのうち、玄関ポーチから一番離れていた者がヒィ、とか細い悲鳴を上げた。

「や、やべぇよ、斧なんか持ち出しやがった、あの女!」

 言うや否や、一目散にこの敷地内から逃げようと走り出す。ロクサーナは深呼吸しながらわざとゆったりとした足取りで一歩前に出て、大音声を上げた。


「お前たちは知らぬと見えるから教えてやろう、これは我が一族に伝わる怪異殺しの斧!」

 でっちあげもいいところである。しかし、彼女はそれらしく見えるように片手で斧を振るって地面に突き立て、大きく息を吸い、口上を重ねる。

「この斧の前に立てた怪異も人間もひとつとしていない! さあどうだ、この屋敷から何か奪うと言うのならこの斧が相手をしよう!」


 さあ!とさらに一歩前に出ると、カラースプレーや木製のバットを手にしていた侵入者たちが後ずさる。あたりに響き渡る彼女の声や堂々とした振る舞いが小柄なロクサーナに実物以上の存在感と威圧感を与え、それは無法者たちすら恐れさせた。


 怪物屋敷の主がそのままくちびるを真一文字に引き結び、斧を身体の正面に構えると、ついに彼らは絶叫を上げ、敷地の外をめがけて走り出した。塀の外では型落ちの6人乗りの車が必死にクラクションを鳴らしている。

「早く乗れ、やばいぞその女!」

「なんだよ、ちょっといたずらしただけじゃねぇか!」

「化物って言って悪かったわ!」

「吸血鬼だなんてもう言わないから許して!」

「頼む、命だけは~!」


 しかし全員が車に乗り込むよりも早く、向こうの方からパトカーのサイレンが響いた。

「止まりなさい、全員その場に止まりなさい」

 マイクアナウンスが響いたかと思うと、濃紺に赤のラインが入った制服を着た警察官たちが飛び出し、その場で不法侵入者たちを制圧した。それと同時に、胸に勲章をずらりと飾った退官も間近と見える恰幅の良い男が、女性警察官や現場検証用のスタッフたちを引きつれて、斧を持ったうら若い女の傍に駆け寄った。


「通報してくださったロクサーナ・ストルグさんですね?! ご安心を、犯人たちは既に確保しております。怖かったでしょう、もう大丈夫です」

 一団の総責任者らしいこの髭の警察高官は、人のよさそうな丸い顔いっぱいに労りを滲ませてロクサーナを宥める。


 しかしストルグ邸の女主人はなおも警戒を解かず、塀の向こうで拘束された侵入者らがパトカーに乗せられているのを自分の目で確かめると、そこでようやく全身の力を抜いてその場に膝をついた。

「そっか……良かった……」


 斧を手放し、茂る青草の上にへたり込んで肩で息をする。いまさらになって手や腕、脚が震えている。勲章を下げた髭の高官がこの蛮勇の徒のそばに膝をつき、肩に毛布を掛けながら微笑んだ。

「お一人で心細かったでしょう、怖い思いをなさいましたね。立てますか?」

「いえ……ああ、いえ、立てます。立ちます」

「色々お話を聞かなくてはなりませんし、ひとまず家の中で休みましょう」


 家に入ろうとすると、向こうの方から走ってきた若い警察官が上司に来客を告げた。

「長官、特務機関長官のミハイル・ケルテス氏がいらっしゃいました」


 特務機関という耳慣れない組織について、ロクサーナが聞く暇もない。若い紺の制服姿の後ろから、スーツを着た背の高い中年男が現れた。白髪交じりのヘーゼルナッツ色の髪をオールバックにして眼鏡をかけた、理知的だが親しみやすい雰囲気の男だ。男は髭の丸い老人に握手を求めた。


「遅れてすみません、警察庁長官閣下。特務機関長官ミハイル・ケルテスが参りました」

「おお、これはケルテス氏。焦ることはない、ロクサーナお嬢さんも気丈にふるまっておられたようだが、大変な不幸に見舞われた直後で動揺している。落ち着いていこう」


 年かさの男たちは何食わぬ顔でやり取りしているが、ロクサーナはぎょっとなって好々爺然とした勲章の男を見上げた。

「警察庁長官? どうしてこんなただの通報に長官なんかが」


 彼女の指摘はもっともだった。国家権力組織の長を務める老人は困り切った顔になる。

「腰を落ち着けてお話したいと思っています。ケルテス氏と後ろの部下たちと私をお宅へ上げていただけますか?」

「……分かりました、上がってください」


 この場では口を割りそうもないと判断し、ストルグ邸の女主人は客人たちを邸内に招いて客間のソファに座らせた。

「紅茶でよろしい? いまコーヒーを切らしていて」

「あ、ああ、おかまいなく……」

 特務機関などという物々しい組織の長らしいミハイル・ケルテス氏やその傍にいる部下たちは真面目そうな顔に僅かに戸惑いと緊張を滲ませている。しかしこの場で最年長の警察長官はさすがの年の功というべきか、ストルグ邸の客間の豪勢さや大きな窓から見える庭を楽しんでいる。


「表の庭は最低限しか手入れが行き届いていなくて恥ずかしい限りです。どうにも裏の庭園墓地にかかりきりで」

 そう言いながら、キッチンから出てきたストルグ邸の若い女主人は茶器を乗せた盆をテーブルに置き、大きなポットから揃いのカップに茶を注いでいく。特務機関長官の秘書らしい女性職員が配られたカップを持ち上げ、目を見張った。


「このご時世でも我がモルサナが世界に誇るハリヤ工房のティーカップにお目に書かれるとは」

 感じ入ったような秘書の態度に、ロクサーナが声を弾ませる。


「この睡蓮柄のティーセットは私の一番のお気に入りなんです。せっかく夏なんだし、この居間の装飾もアールヌーヴォー風だからぴったりだと思って。……ハリヤ工房もウェッジウッドやロイヤルコペンハーゲンも、この屍食鬼騒ぎで窯を大幅に減らすことになりましたから、こんな状況だというのにますます手放せなくなっています」

 最後には声を沈めて苦笑し、ティーカップに口を付けた。僅かに沈黙があった。


「実は今日」

 話を切り出したのはスーツの男、特務機関のミハイル・ケルテスだった。

「実は今日、我々はあなたに、ロクサーナさんにお願いをしにこちらに伺っていました。その道すがら、警察にあなたの方から通報が入ったという流れでして」


 何度も目をそらしながら紡がれた言葉に彼女は「はあ」と気の抜けた返事をした。警察庁長官がその言葉を継いだ。

「本当に突然のこと、しかもあんなことがあって混乱しておられるところに申し訳ないとも思うのですが、あまり時間の猶予もありませんもので」

「お願い、と仰いましても、私のような小娘があなた方のお力になれるとは思えませんが」

「いえ、あなたにしかできないことです、ロクサーナ嬢。そしてこれは警察や特務機関という組織として、つまりモルサナ共和国政府からのお願いです」


 突然話が大きくなり、ストルグ家の娘はカップをソーサーに戻し、正面に座った政府高官らしい2人組を睨んだ。形の良い眉を吊り上げ、眉間に深くしわを刻み、ふさふさとしたまつげに囲まれた目から放たれる鋭いまなざし。その迫力に特務機関長官ミハイルは僅かに身をよじらせた。沈黙に耐えかねたのか、口を開いたのは警察庁長官だった。丸い顔に冷や汗をかきながら手にしたハンカチを膝に握っている。


「分かっています。モルサナという国は社会主義国家時代に、ブルジョワ反革命吸血鬼怪力乱神の血族とも言われたストルグ家に対して人権や市民権を損なうような不当な対応を行い、市民からストルグ家に対して行われたリンチや誹謗中傷をも放置しました。1991年代に共産党政権が崩壊したとはいえ、我々の現政府が変わらずモルサナの名を冠する以上はその咎も引き継ぐ覚悟があります。そしてこれらの咎について、ストルグ家からの許しがもらえるとも思ってはおりません」


 そこはさすがに組織の長にまでのし上がった人物である。己の欠点やミスを先に述べることで、ほんのわずかだがストルグ家の年若い女当主の困惑と怒りを和らげることに成功した。そのわずかな間隙を狙い、特務機関長官がズイと身を乗り出して言った。

「しかし、しかしです、ロクサーナ嬢。ことはこの国全体のみならず、世界の行く末を左右することです」


 ロクサーナはソファに背を預け、壁に視線をやった。そこには美しい南の海を描いた風景画やかつての当主が狩った大きな鹿の首などが飾られているが、一番目立つのはコウモリをあしらった盾の形をした紋章である。それを見つめ、彼女は静かに目を伏せる。


 ストルグ家がモルサナと冠する王国と社会主義共和国によって定期的に苦汁をなめさせられたのは、その裔である彼女も良く知っている。前者の時代は吸血鬼の血統と噂され、伯爵位を剥奪され、領地のほとんどを奪われた。異端審問にかけられて帰らぬ人となった者もいるらしい。後者の時代にはロクサーナの曾祖母に当たる人物が共産党政権への忠誠を示すために女性兵士として従軍し、ナチスドイツを相手に前線で戦い勲章を得たという。しかし、それでストルグ家に対する視線が改善されることは無かったらしい。

 そうして、ストルグという血脈はモルサナを名乗る国を憎み続けた。


(……だけどこの国が今の体制になってから、私は国からの理不尽を直に体験したことが無い。自分が体験していないことを必要以上に憎むのは筋が通らない。それに、私はストルグの家名と血を憎んでもいる。憎らしいものの過去の感情に配慮してやることも無いのだ)

 ストルグ家の若い女当主は自分にそう言い聞かせると、一つ息をついてソファに座りなおし、姿勢を正した。

(そして何より、このままでは世界の終末も近い)


 今日は平日、時間はようやく夕方5時を過ぎようかという頃。さすがに政府高官が公務の時間を使って与太話をしに来たわけではあるまい。屍食鬼と呼ばれる化け物がはびこる世の中のことも考えれば、ロクサーナにも、目の前の人々が本気であることを承知する以外なかった。彼女とて、このままゆっくりと世界が崩壊していく様を見るのはご免である。


「お話を聞きましょう。私へのお願い事とは?」

 しかめっ面でしばしの沈黙を貫いていた年若い娘がようやく発した言葉に、特務機関長官ミハイル・ケルテスも警察庁長官もその部下たちもほっと息を吐いた。


 隣にいた女秘書から茶封筒を受け取ったミハイルがそれを机の上に置いた。そして一拍の沈黙の後に、一世一代の大勝負と言わんばかりの顔で決然と要求を提示した。

「ロクサーナさんに、吸血鬼ウラディミル・ストルグ伯爵を目覚めさせるお手伝いをしていただきたいのです」


 思ってもみない要求に吸血鬼の裔は顔をしかめ、強張った声で問うた。

「何のために?」

「地上にはびこる屍食鬼の発生源を叩くためです」

「軍が屍食鬼の排除にあたっていると報道されているけれど?」


 今度は警察庁長官が答える。

「現状、人間の軍ができるのはあくまでも対処のみです。そして、屍食鬼の発生率が高いいくつかのポイントに軍をやりましたが、こちらが戦闘状態に入るよりも早くグールや火砲が浴びせられ、近づくことさえできず壊滅状態に陥りました」

「壊滅?」

「作戦行動に参加した者の半分が負傷、死亡などで行動不能。……もはや人の身には対処しえない、これはもう吸血鬼伯を頼る以外ないと、大統領を交えた秘密会談で結論が出ました」


「……そもそも、政府高官と政府最高指導者、国家が吸血鬼を本気で信じておいでで?」

 吸血鬼伯ウラディミル・ストルグを父祖に仰ぐ家の当主は首を横に振った。


 21世紀を何だと思っているのだ、と言ってやりたい。しかし夜になれば屍食鬼などというゾンビのような生き物があちこちを徘徊する今の世を思えば、それは批判や嘲笑としては大いに精彩を欠く。それに、彼女は何か人には言いづらいような悩み事があったときには裏の庭園墓地の一番奥まったところにある「吸血鬼伯の墓」に相談するのが習慣になっていた。別に本当にその中で眠る吸血鬼伯が答えをくれるなどと思ってはいないが、どこかで超常の者にすがりたい気持ちがあったのも事実だ。それを考えれば、ロクサーナは彼らをあざける権利を持たない。その上、特務機関などという仰々しい組織の長が言うのだ。


「信じているというよりも、他の吸血鬼はともかくウラディミル・ストルグという吸血鬼は実在するのです。この資料にある通り」

 ミハイルが証拠として机の上の茶封筒をロクサーナの方に押しやるので、ついに彼女は呆れ交じりの批判を口に出す機会を失った。


 封筒から出てきた紙はやや日焼けしているものの、充分に読めるものだった。その一番上に大きく描かれた見出しと、その下に小さく添えられた日付を見るとロクサーナは目を見開き、そのまま食い入るように本文を読み始めた。視線がその短い命令書を5度ほどなぞったところでついにロクサーナは「まさか!」と声を上げた。

「旧モルサナ社会主義国軍が吸血鬼伯ウラディミル・ストルグに対ナチスドイツ防衛戦を命じた? 嘘でしょ、この書類本物ですか? 共産主義は宗教や迷信、怪物、そういうを認めない思想でしょう?」


「誓って申し上げますが、本物です。国防省の記録科の書庫の非公開データベースから特別に取り寄せた書類原本です。この時の担当者に確認のご連絡しましょうか?」

 特務機関長官ミハイル・ケルテスが眼鏡の奥の目をわずかに潤ませながら、絞り出すような声で言った。これにはさすがのロクサーナも納得するしかなかった。


「じゃあ我らが吸血鬼伯が本当に存在していたとして、今はどこにいるの? そもそも今も生きているの? 目覚めさせるって言ってたけど、どういうこと?」

「おや、ロクサーナお嬢さんはご存じありませんか? 吸血鬼というものは不老不死なのですよ」

 警察庁長官が優しい祖父のような口ぶりで言った。

「そして吸血鬼伯が戦ったのは、モルサナ兵とナチス兵の誰一人として生き残れなかったという『決死の草原戦』でした。その後さすがに戦いつかれた伯爵はご自分の墓で寝るとおっしゃったそうです。こちらのメモにそのような表記が」


「……自分の墓?」

 ストルグ屋敷の女主人は指令書類と一緒に入っていた小さなメモを見ると、裏庭の方をまじまじと見つめて片眉を上げた。思い当たる場所など一つしかない。

「つまり、彼が埋葬された、この屋敷の裏にある庭園墓地ってこと?」

「おそらくは」


 はあ、と彼女はまたもや間抜けた返事をした。自分が定期的に語りかけていたあの墓石の下に生きている吸血鬼伯が眠っているなど、あまりに現実味が薄い。胡乱もいいところだ。けれど目の前にいる政府高官たちは本気でこの胡乱なものに国家と世界の命運をゆだねようというのだ。なら、それは与太や胡乱でなく決死の覚悟に他ならない。


 ロクサーナは首を縦に振った。

「ご協力しましょう。それで、何をすれば良いの? 今すぐ行えるのですか?」

 高官たちはほっとした顔で激しく首を縦に振り勢いよく立ち上がったが、カップに紅茶が残っているのに気づいてグッと飲み干した。屍食鬼被害で流通の滞るこのご時世、茶や酒、チョコレートと言った嗜好品は高級品になりつつあった。

「そう手間のかかることではありません、今すぐ行えます」

「では参りましょう。ロクサーナお嬢さん、裏庭の案内を頼めますか?」


 夏の東欧の日没は夜8時を過ぎる。ようやく夕暮れ時らしくなった空の下、ストルグ邸の女主人は色とりどりの夏の花々に囲まれた白い墓石たちの間を縫うようにして客人たちを先導する。

「ここにはストルグ邸に最期まで住み続けた方々の墓が集まっています。古いものほど奥にあります。この一番新しいのは2年前亡くなった祖母のもの。その隣が私の両親です」


「……ロクサーナさんのご両親は確か、15年前の路面電車トラム同時多発毒ガス事件で。あ、いえ、その、今回のお願いに来るのに失礼ながらあなたの身辺調査を行っていまして」

 気まずそうな特務機関ミハイル長官の言葉に、15年前のテロ事件の遺児は「お気になさらず」と寂しげに笑った。


「仰る通り、両親は15年前に亡くなっています。あの事件を起こすのと同時に、神を自称した首謀者が信者を道連れに集団自殺を行ったのが今となっては一番許せません」

「……そうですね、本当に凶悪な事件でした。事件を起こしたカルト教団を正統に裁判にかけ、モルサナ国法に則って裁くことができなかったのは警察としても本当に悔やまれることです」

 警察庁長官が眉間に深く皺を刻んだ。


 事件のあとにのこっていたカルト教団の関係者といえば、被害者と遺族たちと、それからロクサーナと同い年か少し年上の、教祖の娘だけだった。その子もある意味でロクサーナと同じ、テロ事件の遺児いじである。


「随分立派な墓ですな」

 特務機関長官のミハイルが一番奥にある三つ並んだ大きな墓を指さして感心しきった声を出した。

 墓石と言いはするが、大きな屋根が備わり、その下に天使の像がしつらえられた三連のモニュメントはもはや東屋という表現の方が正しいかもしれない。あたりに咲く薔薇やアザミ、ヤグルマギク、ダリヤ、ペチュニアやジキタリス、ゼラニウム、ユリやレースフラワーといった花々が余計にその印象を強めている。この家の庭園墓地は専用に墓守を雇ってもいいくらいの規模であった。


「あれらの大きなものはこの家がまだ爵位を持っていた頃の当主たちの墓です。吸血鬼騒動があって爵位を剥奪されてからは、当時のモルサナ王国法にしたがって地味なお墓になったんです」


 歴史研究者だった祖母の言葉を思い出して語りながら、屋敷の女主人兼墓守はそれらの横を通り過ぎて、菩提樹リンデンバウムの葉をかき分けた。木立の影に隠れるような、赤いバラの花に囲まれて土に寝そべる小さな石板には、その下に埋められた吸血鬼ウラディミル・ストルグの名が刻まれている。


「吸血鬼のそしりを受けて教会で異端審問にかけられた方ですから本当は墓など作ってはいけなかったけれど、吸血鬼伯の妹や弟がこっそり風雨にさらされた彼の身体を盗んでここに納めたんですって」

 言いながら彼女はいつものようにその場にしゃがみこみ、手にした古びたメモを見ながら首をひねる。吸血鬼伯の「寝床」を記したメモの裏側だ。


「それで……墓碑銘に私の血を塗って起きてくれって声をかけるんですか? 簡単すぎません? どう思います、モルサナ特務機関長官閣下?」

「それは私も思う。これじゃ子供だまし以下だ」

「ううーん、私、正確には吸血鬼伯とは血がつながってないんですよねぇ。それでもいいのかなぁ」

 ぼやく彼女からメモを預かったミハイルが「そうなのですか?」とやや焦った声を出した。


「吸血鬼伯の件の妹君の子どもたちのそのまた子孫が私なんですけどね、ウラディミルという少年は、当時子供が無かったストルグ家夫妻が拾ってきた、捨て子だったらしいです。妹や弟というのは、彼が拾われた数年後にできた夫妻に子供らだとか」

 そんなことを言いながらも、ロクサーナは渡されたナイフで利き手とは逆の手の親指に傷を作り、それを墓碑銘に塗りつけた。


「ええと……伯爵、吸血鬼伯、我らが父祖ふそウラディミル・ストルグ殿。ストルグのすえ、ロクサーナが伯を起こしに参りました。お目覚めになり、地上にあってお顔をお見せいただければ大変光栄に存じます」


 生憎、ロクサーナは吸血鬼の起こし方など知らない。そんなもの義務教育では習わないし、修士論文を書いても分からなかったし、先代ストルグ当主だった祖母ですらそんなことは教えてくれなかった。なのでもう、頼りになるのは幼いころに母に言われた「礼儀を守ること、礼儀を尽くすことが自分の身を助けるときがある」という言葉だけである。


 あまりに仰々しい彼女の言葉に土の上にいる人々は半ば呆れた顔をしたが、土の中からの反応は違った。「ハ!」と声がしたかと思うと、呵々大笑がそれに続いた。笑いは尾を引いて、まるでそれに導かれたように風が吹いて菩提樹リンデンバウムの葉がざわざわと音を立てる。じきに陽は沈もうとしてして、あたりは薄闇に包まれようとしている。


 ギィ、ギィ、何か固く重いものを動かす音がどこからか、否、土の下から聞こえている。それがしばらく続いたかと思うと、ゴトンと重々しい音がして、それからあたりが静かになった。


 黙り込んだ彼らの耳には聞こえている。ざりざり、ざりざり、何かをかき分ける音が。

 誰もが固唾をのんで土の上に寝そべる墓石を見つめている。


 不意にボコンと音がした。墓碑銘の傍に手が生えている。色白の、大きな男の手だ。手は数度指を閉じたり開いたりしてから墓碑銘を掴み、それを思いっきり引っぺがした。誰もが思わずあとずさり、さすがのロクサーナも黙って目をみはるばかりである。


 土に横たわっていた墓碑銘の置かれていた土が崩れ、そこに開いた暗い穴から黒いものが這い出した。

 黒いものは墓碑銘をひっくり返してロクサーナの隣に置くと、そこに腰かけて優雅なしぐさで肩や腕についた土を払う。そしてようやく顔を上げ、自分の周囲にいる者たちをぐるりと見まわした。


 誰もが言葉を失った。

 たった今、古臭いゾンビ映画の導入のように墓場の土の下から出てきたものが恐ろしく、そして同時に美しい男だったからだ。年のころは20代後半か30代前半か、夜の闇よりなお暗い髪に、酸化した血のような赤い瞳、満月のように白い肌。柳の眉に品よくとおった鼻梁、血色の良い薄い唇が、精悍な頬に彩を添えている。


 一同を見回し、青年がくちびるを吊り上げる。覗いた八重歯の鋭さに、人間たちは確信する。彼こそが吸血鬼伯爵ウラディミル・ストルグその人であることを。


 あたりを見回し状況を確認していた赤い瞳が、青い瞳の乙女のところで止まった。寝物語に、あるいは日常の節々で聞かされていた自らの父祖たる怪異を目の当たりにし、ロクサーナは魅入られたようになって身動ぎひとつ出来ずにいる。


「……ロクサーナ、俺を起こしてくれたことに感謝する。そしてリリィベルを亡くしてからこの2年、屍食鬼はびこる世でたった一人よく頑張ったな」

 沈黙を破って、人外は開口一番そう言った。低く滑らかな声で紡がれる思いがけない言葉に、ロクサーナはいっそう目を丸くする。そのまま大きな手で頭を撫でられると、今日一日気丈にふるまい続けたストルグ家当主の目に涙がにじんだ。こくんと首を縦に振る仕草に吸血鬼は微笑し、指輪の飾られた彼女の左手を捧げ持った。


「この屋敷に留まり続けた覚悟にも深く敬意を表する」

 そのまま手の甲にくちびるを落とすと、泣き出す前の子供はにわかに赤面した。だがそのかわりに彼女がそれ以上泣く様子がないのを確認すると、ウラディミル・ストルグは満足そうに笑う。人外というにはあまりに人間臭い仕草である。


「それで? この地上に居座る屍食鬼グールども駆除をこのウラディミル・ストルグに頼みたいと?」

 顔を上げた人外は牙をのぞかせ、意地悪く笑う。宵の風が吹いて彼の黒髪を持ち上げると、その下に尖った耳が覗いた。


「話が早くて助かります。あなたにお頼みしたい、伯爵、かつてナチスドイツ軍をお一人で足止めなさったあなたに」

 特務機関の長が答えると、吸血鬼のくちびるがさらに吊り上がった。

「足止め? 言葉は正確に使うべきだな。あのとき俺がナチス共に対して行い、今お前たちが俺に対して望むのは鏖殺おうさつだろう?」


 皆殺し、などとあまりに剣呑な単語を怪物の祖は嘲笑じみた笑いを含んで口にする。政府高官とその部下たちの深い沈黙は同意そのものだった。


 悔しがるような、こらえるような顔を見て、吸血鬼伯爵は「懐かしい」とつぶやいた。だがその顔に浮かんでいるのは悪魔のような笑みだ。


「ハハハハハ、共産主義思想にのっと怪力乱神を否定していたチェキストどもが怪力乱神にナチス戦への助力を頼みに来た時も、そのように情けない顔で俺に頭を下げていた!」

 赤い舌が蠢いて嘲笑する。


「教えてやろう、俺が奴らの頼みを聞いてやったのはな、自分が存在を否定し排斥したものに頼らざるを得ない事実が、あいつらの屈辱に歪んだ顔があまりに滑稽だったからだ。自分が否定した者に救われたと知ればチェキストどもはもっと滑稽な顔を見せるに違いなかったからな!」 


 怪物は長く尾を引く笑いを上げると、薄ら笑いを浮かべたまま、今度はもっと遠いところに視線を巡らして、政府高官たちに軽い調子で命令した。

「俺は今からこの辺りの獣どもを狩る。お前たちはその間にこの国の最高責任者を連れて来い」


 吸血鬼はそれ以上は彼らの方に見向きもせず、ロクサーナの左手を取った。

「立ち上がるのにもう一口分足りんらしい、貰うぞ」

 傍若無人とはこのことである。言うや否や、指輪の飾られた親指に滲む血を舐め取り、いかにも美味そうに喉を上下させた。


 もう何が何やら、である。ロクサーナは顔を真っ赤にしているが、吸血鬼はそれに気づいていないのかあえて無視しているのか、彼女の手を取ったまま立ち上がる。その一連の流れに客人たちが唖然としていることに気づくと、勝手気ままな人外は意地悪く笑った。


「何をぼぅっとしている、お前たち。社会主義国家時代でさえ、自国の命運を俺に託すのにモルサナ共産党書記長が怪力乱神この俺に頭を下げて筋を通したのだぞ? なら、今の国家元首もその程度の筋は通すべきだろう」


 それは実際その通りだった。連絡のため自分たちの乗ってきた車に戻る彼らを尻目に、ウラディミル・ストルグはロクサーナに喋りかけた。ピクニックにでも行くような明るさで。

「では、俺たちは狼狩りと行こうか」 

 

***


 そして、今。

 こともなげに狼を狩り、彼らの霧状になった血を自身の影へと取り込む吸血鬼ウラディミル・ストルグの横顔を見上げながら、ロクサーナ・ストルグは額に手を当て首を横に振った。


(……とんでもないことになったなぁ。おばあ様があれだけ嫌がってたのに国の役人なんかになったのがダメだったかなぁ)

 ロクサーナ・ストグルはこの夏、国立大学の修士課程を卒業したばかりの身である。秋にはここ黒海のほとり、東欧モルサナ共和国の、モルサナ国立歴史博物館に勤める予定だった。つまり彼女は公務員だった。


 誇り高い先代ストルグ家当主リリィベルは、ロクサーナが幼いころから役人になるのだけはやめろと言い続けた。それもストルグ家とモルサナという国の歴史を考えれば当然のことではあったが、結局、筋金入りの役人嫌いの祖母を亡くした彼女はその言いつけを破らざるを得なかった。


 3年前、突然世界各地に屍食鬼と呼ばれる化け物が現れた。日光を嫌い人間を捕食するこの化物相手に防戦一方の今日、就職先をえり好みしている場合ではなかったのだ。

 そのうえ政府高官からの頼みに抗えず、吸血鬼伯の復活に手を貸した。


 ロクサーナは斧の刃に革製のカバーをかぶせつつ、自身のお粗末な「お手伝い」の結果をチラと見上げてから視線を落とす。それをどう思ったのか、当の怪物は彼女の頭をなでる。その手つきが幼いころに亡くなった父や母を思い出させ、彼女はじんわりと胸を熱くした。


 不意に向こうから車のクラクションの音が聞こえた。ヘッドライトが差し込み、吸血鬼の足元に積み重なる干からびた狼達の姿が露わになる。

(これが、本物の吸血鬼……) 

 目のやり場に困り、結局顔を上げ、ストルグ家の娘は向こうから走ってきた車に手を振った。

 

 モルサナ共和国は貧しい国ではなかったが、屍食鬼グールがはびこる世界全体の情勢に加えて、「狂喜の共産主義時代」への反省がある。1980年代後半まで続いた、行き過ぎた共産党書記への個人崇拝や、非科学的なもの、つまりふるい迷信を語る者や教会への厳しい排斥などが続いた社会主義共和国時代への反省として国の備品はやや心許なかった。寄越された縦長の公用車は高級車だったが型落ちもいいところで、クラシカルが過ぎる。しかしその傍にインバネスコートを羽織った美男の吸血鬼ウラディミル・ストルグが立つと妙に絵になった。


「それで? 大統領閣下はきちんとおいでか?」

 車に乗り込むと、開口一番吸血鬼はくちびるを吊り上げて言った。コの字型の座席に護衛に囲まれて眼鏡の老人が、壊れたおもちゃのようにガクガクと首を縦に振っている。ロクサーナは黙って吸血鬼の隣に座り、傍に斧を立てかけると軽く目を見張りながら車内に忙しなく視線を巡らせた。いつもテレビで見るこの禿頭の眼鏡の大統領を生で見るのは初めてだったし、天井には何やら大きな箱が取り付けられている。


(なんだろ、あれ)

 ロクサーナが首をひねっていると、座席の隅に座っていた特務機関長官が柔らかい声で言った。

「あの箱には対戦車用ロケットランチャー、つまり、分厚い装甲を撃ち抜くための武器が入っています。このご時世ですから、いざという時のために、これ以外にも大統領専用車両には銃の類を装備しているんですよ」


 そのまま、気まずい沈黙に支配された車内の空気を和らげるように口元に笑みをたたえながらウラディミルとロクサーナをねぎらう。さっきまでと違い堂々としたミハイルの態度は慣れと言うより、どうにでもなれというやけっぱちな諦観混じりの覚悟からくるものだった。


「それはそうと伯爵、そこの金具を引っ張ってシートベルトを締めてください。安全装置など無用なのは重々承知していますが、交通取り締まり中の新人警察官に不死者だからシートベルト不要、などと説明するわけにはいきませんからね」


 モルサナ共和国交通法はこの非常事態にも有効である。ミハイルが怯えた様子もなく人外に注意した。それが本当に愉快だったのだろう、当の吸血鬼伯は鋭い犬歯をむき出しにして声を上げて笑う。

「あーっはっはっはっは……小言を言われるなど何百年ぶりか。で、ええと?」

「これですよ、伯爵。引っ張ってそこに差し込んでください」

 背もたれのあたりで色白の手をさ迷わせる吸血鬼を見かねてロクサーナがシートベルトを引っ張り指差しで指示すると、人外はまた喉の奥を震わせた。


「助かる。シートベルト、事故防止用の安全装置か。使い方も覚えたぞ。いささか窮屈だが、そうだな、郷に入っては郷に従い、当世風に振舞うことも不死者の楽しみだ」

 そういうと、吸血鬼伯爵ウラディミル・ストルグはゆったりとシートに背を預けて長い脚を組んだ。そのあまりに堂々とした姿に、ロクサーナは見惚れてしまう。


「ああ、やはり人間の世は楽しいな。それを考えれば、我らがストルグのすえの娘のたるお前の様子も見ずに墓で惰眠をむさぼっていたのは間違いだったか? なあ、ロクサーナ」

 どう猛さをにじませた顔で微笑まれ、彼女の頬が熱を持った。心なしか左手の親指まで熱い気がする。けれどそれらをごまかすようにくちびるを真一文字に結んでから答えた。


「いえ、いえ、眠りの浅瀬に身を浸すことが楽しみとなる瞬間もあるかと」

 ストルグ家の父祖たる怪物はすっかり恐縮した様子の乙女の頭をそっと撫でてから、今度はこの国の最高権力者の方を見て言った。


「それで? 俺がお前をここに呼んだ理由は分かるな?」

 あまりに横柄な物言いだったが、そう思うのは人間の都合だ。長命の人外は見下すような笑みを浮かべてこの場で2番目の年長者を見つめている。

「わ、分かっております」


 舌をもつれさせた大統領の目の下には濃い隈ができていた。屍食鬼グール被害への対処と度重なる殲滅作戦の失敗、周辺各国との連絡や協議、国民からの不満への対応に追われ、心の休まらぬ日が続いているのは明らかだった。だからと言って屍食鬼がはびこり社会に慢性的な不安と混乱が満ちるいま、内閣を解散して大統領選挙をする余裕は金銭的にも精神的にも時間的にも無い。さしあたっては4年の任期を最後まで務めあげることが彼の目標となっているが、それはいまこの地上にあるいかなる課題よりも困難に思われた。


「まずはウラディミル・ストルグ伯爵、並びにロクサーナ・ストルグ嬢、そしてストルグ家に、これまでモルサナが国家として行ってきたストルグ家への様々な理不尽と差別行為を深くお詫びし、二度とあのようなことがないことを誓います。そして、その上でお頼み申し上げます」

 国家元首が深く頭を下げた。禿げ上がった頭のてっぺんには僅かに汗がにじんでいる。


「我が国、否、この大陸にはびこる屍食鬼グールの殲滅を、吸血鬼ウラディミル・ストルグ伯爵、あなたにご依頼したい。そしてロクサーナ・ストルグ嬢、あなたにはこの事情を知る者として、モルサナ政府特務機関の一員として働いて頂きたい。吸血鬼がいる、などと万が一にも世間に漏れた場合には……」

 老人は泣きそうな声を上げると、うつむいて顔を覆った。


 ふむ、と声を上げた年長者はこの場で一番幼い者に視線を向けてさとした。

「俺の結論は既に決まっている。ロクサーナ、お前はお前がしたいようにすると良い。これ以上は国に手を貸さないことでリリィベルへの義理を通すというのなら、それも良かろう。咎める者はおらん」


 言われて、彼女はおずおずとストルグの祖に問いかけた。

「伯爵はどうなさるのですか?」

「うん?」

「……私、伯爵と」

 言葉は中途半端に途切れた。車の天井に衝撃が加えられたからだ。


 ガシャン、と重々しい音がするのと同時に天井が大きく凹み、照明が明滅し、天井に取り付けられていた器具が緩んでロケットランチャーの入った箱が中途半端にぶら下がった。ウラディミルは素早くロクサーナを抱きこみ、SPたちは狼狽しつつも懐に入れていた銃を手にして要人の傍に身を寄せ車窓からの景色を睨んでいる。そのまま二度、三度と同じ場所で叩きつけるような音がしたが、物々しい武装が完全に外れてしまった以外の被害が無かったのはさすがに大統領専用車と言うところだろう。しかしそれもこのまま続けばどうなるか分からない。


 吸血鬼が鋭く指示を出した。

「車を止めろ、俺が出る。上にいる奴が車から降りたらすぐにこの場を離れろ!」

 そうと決まれば特務機関長官秘書の判断は早い。車体の後部が浮き上がる勢いでブレーキをかけ、手元の銃を差し出す。ウラディミルはそれを断り、扉を押し開けて外に飛び出した。


 夜闇の中、吸血鬼はチラと視線を上に向けそこにあるものを見ると、一瞬きょとんとしてから呵々大笑した。目覚めてから今まで笑ってばかりの人外のことであるから、車内から後部のリアウィンドウ越しに様子を見守る人間たちはそれが何を示しているのかさっぱり判別できないでいる。しかし次の瞬間、彼らの戸惑いは驚愕に塗り替わった。それも、絶望にほど近い驚愕である。


 白く鋭い刃のようなものが月光を眩しく反射しながら伸びたかと思うと、まっすぐに吸血鬼の首を搔き切った。


 哄笑こうしょうを上げる生首が、血を吹き上げながら転がり落ちる。だが身体の方は無くなった頭に構わず、インバネスをヒラつかせて腕を変形させた。


 車内はシンと静まり返っている。その静けさたるや、車の天井がわずかに立てたギィという音が妙にはっきりと聞こえるほどだ。車内の人間たちが視線をリアガラスから上に向け、そしてまた元の場所に戻す。車の上に乗っていたモノがそこから降りたのだ。


 車窓から見えたその姿は、いうなれば。

「……デカい、甲冑?」

 誰かがぽつりと呟いた。頭のてっぺんからつま先までを純白の装甲で覆った巨大な騎士、それがこの車を襲った者の姿だった。兜の上には王冠のような形の飾りがあり、そこからひも状の飾りが垂れている。


 ロクサーナが足元の斧を小脇に、柔らかいフロアマットの上に転がっている重火器入りの箱を両手に抱えて車の外に飛び出したのと、運転手が吸血鬼伯の指示に従いアクセルを思いっきり踏んだのはほぼ同時だった。土の上に顔面から転げてもんどりうちながら、ロクサーナは斧に被せていたカバーを乱暴に外し、頭を無くした不死者に向かって放り投げた。

「伯爵、これを!」


 車を襲った巨大な白甲冑は突然の闖入者に僅かにたじろいだようだった。


「ロクサーナ、なぜ出てきた!」

「素手でこんな甲冑を相手にするのは無茶です!」

 ウラディミル・ストルグの身体は巨大な怪物の腕で飛来した斧をしっかりと握ったが、地面に転がっていた頭は予定にない行動をした年少者を咎めた。しかし彼女も負けじと言い返す。しかしそんな彼らの事情を無視して、白い巨大甲冑はガシャン、と機械じみた音を立てて五指の付いた腕を剣に変形させる。目の部分に取り付けられたランプが白い光を放っている。


「中に人間がいるかと思ったが……この音、機械人形か!」

 純白の剣が刺突の構えで黒衣の人外に迫る。吸血鬼伯爵は面白がるように言うと素早く斧を構え、絶妙な角度で第一撃を受け流した。刃と刃が絡まり合いながら火花を散らして滑る。黒衣の吸血鬼は身体だけで白甲冑に肉薄しながら言った。


「なるほど刃物にはこういう使い方もあったな。しかし火器は好かん!」

甲冑装甲を貫ける武器が必要でしょう!」

 言いながら、ロクサーナは手元の箱を引き寄せて開く。さすがにすぐに発射できるものではない。だが、小さな冊子が添えられている。


「弾が無くなったら鈍器に成り下がる」

「鈍器も良いじゃないですか! というか手段を選んでいる場合ですか、人には聞こえぬ狼の声を、土の中で眠りながらも私の声を聞いていたあなたの耳が、この白甲冑が飛来するのを聞き取れなかったのですよ!」


 ロクサーナの指摘は図星だったが、それが伯爵のプライドを傷つけることは無かった。斧で白刃を受け止めながらそれもそうか、と彼は呟く。そのまま次の行動を取ろうとしたその時だった。


 純白のかぶとの上の王冠飾りから垂れているひも状の飾りがぶわりと持ち上がった。ひも飾り、否、コードのようなそれが電撃をまとってバチバチと激しく音を立てながら首のない吸血鬼の身体に突き刺さる。


「スタンガン?!」

 月光とスマートフォンの明かりを頼りに、箱に入っていたマニュアル片手にロケットランチャーの発射準備をしていたロクサーナが悲鳴じみた声を上げた。だが人外の刺々しい黒い腕は落ち着き払った仕草でコードを掴み上げ、そのままグイと力いっぱい引っ張った。重量があるのだろう、甲冑は倒れず地面に直立不動になっている。けれどあまりの張力に耐えかねて、コードがぶちぶちと千切れた。


 吸血鬼の腕が電撃をまとって夜闇に光りながら唸って、白甲冑の首をひっつかんだ。

「少し寝ていろ」

 首元のあたりでバリバリと音がし、目元のランプを激しく明滅させながら、機械の身体が激しく痙攣した。


 次の瞬間、吸血鬼伯爵が消えた。否、周囲に黒い靄のようにコウモリの大群が飛び交っている。夜を埋め尽くさんばかりのそれらはロクサーナの傍に来るとひとつに合わさって、元のウラディミル・ストルグの形になった。今度はきちんと首が付いている。


「素晴らしい! よく頑張った」

 ロクサーナの手元を見た不死者は声を弾ませると彼女の頭を撫で、慣れた仕草で巨大なロケット弾をランチャーにセットした。遠慮なく繰り出される褒めに、彼女はぎこちない声で何とも気の利かない返事をした。

「……伯爵は器用ですね」


「たしかに俺は300年ほど生きているが、これでも1940年代には現役兵士だったからな。……ロクサーナ、耳を塞いでしゃがみ、なるべく頭を低くしろ」

 人外が肩に近代兵器を担いだ。神経質に照準を合わせる必要はない。夜闇の中でも巨大な純白の甲冑は月光に照らされて良く目立った。


 ナチス軍からモルサナ共和国を守ったという英雄が、ためらいなくロケットランチャーのトリガーを引く。すぐに火砲を手放すとしゃがみこんでコートを広げ、その内にロクサーナを匿った。これ以上ないほどに丸くした目を白黒させていた彼女だったが、すぐに本能じみた動きできつく目をつぶる。対装甲弾が電撃で動かなくなった目標にぶち当たり、凄まじい爆発が起こったからだ。


「大丈夫か? 人の身にこの熱気は辛かろう」

 囁くような声で言って、人外は懐に招いた人間の娘に笑いかける。保護者めいた振る舞いに彼女は顔を上げると少し笑って首を縦に振ったが、すぐにその顔が凍り付いた。


「伯爵、後ろ!」

 吸血鬼がとっさに背後を振り返る。彼が見たのは、燃え盛る炎と煙を切り裂いて、足裏のジェット噴射を駆使して弾丸のように飛び込んでくる白甲冑の姿だった。さすがにロケットランチャーが直撃して無傷というわけにはいかないらしい。だが、取れかかった首にも構わず白甲冑は左腕を再び剣の形に変化させる。ウラディミルは再び斧を手にしてそれを迎え撃つ態勢を取る。


 しかし、機械仕掛けの甲冑人形の動きは彼らの予測を上回った。

 剣が割れた。否、刀身の内側に仕込まれていたワイヤーが伸びたのだ。刃をまとったワイヤーは鞭のようにしなり、ウラディミルの背後に回る。


「ッ!」

 息を飲むその音は誰のものだったか。


 蛇腹剣じゃばらけんは月光に照らされながら鋭く跳ね上がり、そのままロクサーナに直撃した。

 鮮血を撒き散らしながら乙女の小さな身体が吹き飛んだ。


 吸血鬼がワイヤーを握って引きちぎろうとするが、純白の甲冑は右腕をガトリング銃に変形させて黒衣の人外の腹に銃口を当てて弾を打ち込んだ。怪物の腹に打ち込まれた銃弾は勢いを殺しきれず背中からこぼれ落ちる。ワイヤーを握った手から力が抜け、純白の蛇腹剣に赤い汚れを残していく。機械仕掛けの騎士は右腕を元の長さと形に戻し、吸血鬼の方をチラと見ると合成音声を発した。

「わが剣は主の栄光に捧げられた剣。貴様のような怪物は、神の代理人として振り下ろすこの粛清の剣の前に倒れる定めにある」


 それだけ言い残し、純白の甲冑は足裏からジェットを噴出し、夜の空に飛び立っていった。


「……生きているか?」

 文字通り蜂の巣になった腹を再生させながら、吸血鬼はロクサーナの傍に歩み寄る。彼女の身体は地面に倒れ、腹や胸から鮮血がとめどなく流れている。そばの青草は血だまりに沈み、月光に反射して奇妙なまでに輝いている。このまま放置すれば失血死は免れないだろう。本人は何とか体を起こそうとしているがそれは叶わず、頬や二の腕を青草の上に擦り付けうごめいている。


「神、だと? クソッタレ、が」

 芋虫のように悶えながらロクサーナが吐き出した吐息も同然の罵声だった。これまで墓石の傍で零した独り言にすら含まれたことがなかった彼女の品の無い言葉づかいに、ウラディミル・ストルグは両眉とくちびるの端を上げた。


 牙をむき出しにして笑う怪物に、瀕死の乙女が僅かに身動ぎして視線を向けた。血の香りがいっそう強く香る。

「はく、しゃく……」

 風の音に紛れるような呼び声。けれど確かにそれに応えて、ウラディミルは彼女の傍に屈んで体を起こしてやる。


「わ、たし」

 本人はもう、自分の声が正しく出ているのかすら理解できていない。あまりの痛みに意識が途切れかけているうえに寒くて仕方がない。それでも霞む視界の中、赤黒い血の色で光る瞳を見つめて血でぬらぬらとつやめくくちびるを動かす。


「わたし、伯爵と、いっしょ、が、良い、です……」

 力なく彼女の手が蠢き、人外の体に触れる。青い眼から涙がこぼれ落ちた。


「俺のような怪物と?」

 ささやかに髪とコートがこすれ合う音がした。首を縦に振ったのだろう。

「わたし、も怪物ストルグ、ですもの」

 ロクサーナが僅かに目を細め、口元に弧を描く。赤い曲線の内側に真珠のような歯が覗いた。とろけるような微笑だった。


「……それもそうだ」

 吸血鬼は優しく同意し、ロクサーナの手を握って己の首に回してやる。そのまま血が飛び散った彼女のシャツの襟元をくつろげる。血の気を失った首元は月光に照らされて白磁のようにも見えた。


 吸血鬼がロクサーナの首元に牙を突き立てる。痛みからか、人間の娘は息をつめ、僅かに頬を紅潮させた。


 静かな夜の森に、血をすする音だけが響く。ジュルジュル、ジュルジュルという獣じみた音の合間で吸血鬼はせわしなく喉を上下させ、首筋を零れていく血まで余さず舐め上げ、その味に耽溺たんできする。


 実に60年ぶりのまともな食事であった。先の狼の血など、食前酒アペリティフにもなりやしない。しかしこの吸血行為は食事であるのと同時に、重大な儀式でもあった。


 腕の中の女の血を最後の一滴まで飲み干すと、赤く汚れた吸血鬼のくちびるに笑みが浮かんだ。

「ハハ……」


 血を飲み干した吸血鬼はロクサーナを抱えたまま立ち上がる。

「ハハハハハ」


 バサリ、と打ち付ける音がして、その背に黒いコウモリのような羽が生えた。

「ハハハハハハハ! 楽しみだなロクサーナ、人間の世は俺たちの狩場で遊び場だ。それを潰されてはかなわんからな、デカい顔をしている屍食鬼どもはあの白騎士もろとも早いところ片づけるに限る!」


 気安いような、愉快なような、恐ろしいような怪物は、今日一番の喜びを表した。そして翼を一つはためかせ、吸血鬼は夜の空に哄笑を響かせながら飛んで行った。

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