第9話

 僕は性別が揺らいでいるせいで自分の性的嗜好がどうなっているのかよく分からない。


 男の人が好きなのか女の人が好きなのか、それとも好きになった人が好きなのか。


 きっと、多分ではあるが、先輩のはだかの写真を見たところでなにも思わない。自分だって体は女なのだから。


 先輩も僕の女の部分を頼って僕に頼んでいるのだ。


 どうしたものかと唸っていると、部室の扉がバンッと開いて浮かれた様子の頼人くんが入ってきた。


「チェス部存続決まりました〜イェーイ! ……ってなにこの雰囲気」


「――っ今日はもう帰る」


 頼人くんと入れ替わるように部室を出て行ってしまった星華先輩を呆然と見送って、僕らはお互いの顔を見合わせた。


「マサキ……もしかして先輩泣かせたの?」


「僕じゃないんだけど結果的にはそうかも」


 話の内容的に頼人くんに相談はできない。僕は誤魔化すように頼人くんの手を引っ張ってチェス盤の前に座らせた。


「今日の格好のことなんか言われた?」


 そう言って僕のネクタイを見る頼人くんにゆるく首を振る。


「そっか。まあ先輩ちょっと気難しいところあるけど上手くやっていこうぜ」


「う、ん」


 上手くやっていけそうか、僕があのお願いを聞くかどうかにかかっているのならば。


 一体どうすればいいんだろう?


 止まらない思考の間、押し忘れた対局時計だけが虚しく進んでいた。


 ▽


 性が混乱する居心地の悪さ。


 相対する体の成長。


 解決しない悩みを抱えて十年。人に縋るということの難しさを知った。


 だから心のどこかで星華先輩の頼みを断り切れない自分がいる。


「今日は浮かない顔ね?」


 ナージャにビショップをピン(動けなく)されたことに気付き、ようやく僕は盤の上に意識を集中させた。


「ナイトd5」


 ナージャの言うとおりに駒を動かし、僕の手番が回ってくる。


 ナージャの指導を受ける時、基本的に僕が全ての駒を動かして、ナージャはデータを取りながら口頭で次の手を指す。


 手を動かしにくいナージャのためにでもあるが、主な理由は僕が白と黒の手を覚えやすいから。


 集中を欠く状態でナージャに勝てるはずもなく、あっという間に追い詰められてしまった。


「ううー」


「今日は終わりにしましょ」


 髪をぐしゃぐしゃかき乱す僕に、ナージャは一冊のノートを差し出して言う。


「この前話した希との郵便チェスの棋譜なんだけど見る?」


「見る!」


 大切に保管されている年代物のノートを受け取り、ナージャの筆跡を目で追ってみる。ゆっくりと時間をかけて交わされる頭脳戦の跡が、数字と外国語で刻まれている。


 その量なんと数十試合分。記録と考察を含めると途方もない時間がかかったはずだ。


「これ……本当にエアメールで対局してたの? 大変だったでしょ?」


「好きでやっていたから苦ではなかったけれど、やっぱり相手のことを考えながら次の手を考えていると、どうしても会いたくなってしまうのよね」


 それだけが辛かった、と言うナージャ。


「ねえ、人を好きになるってどんな感じ?」


 僕の突然の質問にナージャは瞠目した。


 人を好きになって、恋人になって、上手くいかないと星華先輩みたいにこじれてしまうものなのだろうか。


 痴情のもつれが犯罪に繋がるケースなんていくらでもニュースになっているのにどうも現実味がない。


「どんなって、マサキが恋すれば分かるわよ」


「じゃあさ、別れる時って普通はどうするの?」


「私がお別れした時は、どうもできなかったけど……」


 そう言ってピアノの方に視線をやるナージャを見て僕は自分の言葉を後悔した。


「ごめん、そういうつもりじゃなかったんだ」と言えばナージャは笑って頷く。


 ナージャは希先生と死別したくてしたわけじゃないのに。なんて馬鹿な話題を振ってしまったんだろう。


 いつもなら踏み抜かない地雷に思い切り飛び込んでしまった。顔を覆う僕をナージャは面白そうに眺めている。


「珍しいわね。そんなに混乱して。告白でもされた?」


「……なんで分かるの」


「やっぱり! 相手は男子? 女子?」


「多分ナージャの想像してるのとは全然違うんだけどね」


 期待されているであろう恋バナはできないが、ことのあらましを説明する。


 良くない話の流れになるとナージャは笑顔を消して真剣に耳を傾けていた。そして案の定、警察への相談を促される。


「僕も言ったんだよ。警察にって。でもその人ネットにばら撒くって脅されてるんだ」


「だからといってマサキがそんな犯罪者に立ち向かう必要はないでしょう。関わらない方がいいわ」


「そう、だけどさ」


 ナージャの言うことはもっともだ。僕が余計なことをする必要はない。僕が。


「ちょっと考えてみる」


 ▽


 翌日、考えすぎて寝不足状態のまま頼人くんを捕まえた。


「ないとの連絡先が知りたい?」


 頼人くんが目を丸くして私の台詞を繰り返す。


「うん。交換してたでしょ? 向こうに私のID教えてくれないかな」


「それはいいけどさ。あいつと対局するなら俺も行きたい」


「じゃあ日にち決まったら誘うね」


「おー」


 頼人くんにはそんな嘘をついた。古城くんの連絡先を教えてもらったのは、最低限自分の身を守るための策。


 一晩経って得た結論は、やっぱり星華先輩を見捨てられないということだった。


 今まで誰にも頼れなくて、ようやく縋ることができたのが私なのだとしたら、それを突き放すなんて冷徹さは持ち合わせていない。


 とりあえず何かが起こってもなんとかなるように、手を回しておくことは悪いことではないだろう。


 放課後、顔を合わせた星華先輩は酷く罰が悪そうな表情をしていた。


「昨日は急に悪かったわ……忘れてちょうだい」


 深くくまが刻まれた目元をコンシーラーで隠していて、ちゃんと寝ていないことが伺える。私は先輩の言葉に首を傾けて反論した。


「私も寝ずに考えました。明日、そのクソ彼氏を呼び出して下さい。男の私が話します」


「でも……」


「ただし、ひとつ条件があります。もしも、話し合いがヒートアップして、万が一、私が相手に暴力を振るわれたりしたら――」


 私は星華先輩の手首をぐいっと掴んで、顔のすぐ横まで持ち上げる。びくりと肩を跳ねさせる先輩の目を見て、条件を突き付けた。


「先輩が、この手で、警察に通報して下さい」


 ごくりと先輩は息を飲む。突き付けられた内容に戸惑っているのか、うんともすんとも言わない。けれど、私はこの条件を譲る気はない。


「先輩?」


「う、……」


 星華先輩は可哀想なくらい追い詰められた表情で、普段の高飛車な態度が見る影もなくなっていた。


 当然だと思う。警察を呼べば経緯を聞かれ、動画や写真の件も言わないといけなくなる。


 そうすれば警察を通して先輩の家族にも話がいくだろう。必死に隠そうとしていたことが、明らかになってしまう。


 怖いと思うのはよく分かる。ただ、先輩を犯罪の餌食にされたままではおけない。先輩に覚悟を決めてもらわないと私もその場に出るに出られないのだ。


「先輩、返事は?」


「あ、あ……」


 手首を掴んだまま、私は星華先輩に詰め寄った。そのまま壁まで追い詰めて、先輩の瞳を覗き込む。


 ボロリとその目から涙が一粒溢れると、それを皮切りに先輩はボロボロ泣き出してしまった。


「先輩」


「――っわ、わかっ……わかり、ました」


 ようやく聞けた返事に安堵し、私は先輩との距離を取る。先輩はかくんと体の力を抜いて、ずるりと壁にもたれ掛かった。


 さすがにちょっとかわいそうだったかなと思い、顔を伏せたままの先輩の頭に手をポンと乗せる。


「よくできました。言わせてしまってすみません。でも少し策があるので、まあ任せて下さい」


 返事はない。まただんまりかと思い目を遣ると、そこには顔を真っ赤にしてプルプル震える星華先輩がいた。


「だ、大丈夫ですか?」


「……、るぃ」


「え?」


 先輩が何か言っているが全然聞き取れない。耳を寄せて聞き返すと、突然ぐわっと星華先輩の顔が迫った。


「ずるいずるいずるいーーー!!」


「うっわ!? ちょ、声でか!!」


 ドンっと体を突き飛ばされたと思ったら、星華先輩は走ってドアから出て行こうとする。すれ違った時耳まで赤くなっているのが見えて、私は泣かせすぎたと反省した。


「あっ星華先輩、明日呼び出しお願いしますね!」


 ドアをくぐろうとする先輩は私の言葉にぴたりと動きを止め、そっと、ちらりとこちらを振り向いて言った。


「せ、星華って……呼んで」


「は?」


「は? じゃないわよこの馬鹿ーー!!」


 バタンッ!と勢いよく閉まったドアを見て、しばらく私は呆然としていた。






(四章までお読みくださりありがとうございます。続きは書き終わり次第アップします。どうぞお待ちください。)

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