第8話
▽
「えー! じゃあチェス部に入るの!?」
「うん。ちょっと小春、声大きいって」
――翌日、雨雲が遠のき久しぶりによく晴れた空の下。
中庭で小春とお昼ご飯を食べながら昨日の出来事を話したらとんでもなく驚かれてしまった。
僕のネクタイをビヨンビヨン引っ張りながら、小春はイヤイヤと首を振る。
「なんでよー! 入らないって言ったじゃんー!」
「いやそれがね、ちょっと事情があって……」
僕は頭の後ろに手をやって、小春に高校選手権について説明をした。話を進めるにつれて頬を膨らませて聞いていた小春の表情が徐々に変わっていき、最後には目をキラキラさせついに叫び出す。
「それって……イワン選手が日本に来るってコト!?」
「そうなんだよ」
「じゃあマサキ、イワン選手と対局するためにチェス部に……? っはあーー! それはアリ! アリ寄りのアリ! がんばって!」
「あ、ありがと」
小春も応援してくれるみたいだし、今日の放課後は頼人くんに入部届けを出そう。ラヴーシュカには部活が終わった後顔を出して、ナージャの様子を見てから帰ることにする。お手伝いの時間が減る分、閉店準備は全部やるつもりだ。
バクバクとおにぎりを頬張っていると、突然どこかから鋭い視線を感じた。一瞬驚いておにぎりを丸呑みしそうになったけれど、その視線の正体はすぐに判明する。
「星華先輩?」
渡り廊下からじっとこちらを見つめる星華先輩がいた。
眉間にシワを寄せ、不可解なものを見る目を向けてくる。そしてしばらくしてからジリジリとこちらに寄ってきた。
「ねえあなたやっぱり昨日の?」
「え? ああ、はい。僕、堀部真咲……」
「男だったの? じゃあ昨日は女装してたってこと?」
「ええと、昨日は女だったので……。僕ちょっと性別が曖昧なところあって」
こういう時は説明に困ってしまう。周りの人を混乱させたくないのにどうすればいいのか分からない。でも星華先輩は直接聞いてくれるからまだいい。ヒソヒソあることないこと邪推されるより断然マシだ。
「ふーん……。そうなんだ」
星華先輩は僕の頭のてっぺんから爪先までじっと目で追って、最後に何故か僕の顔を右から左から眺める。
「へー。昨日も思ったけどあんた顔綺麗よね」
「はあ」
「あのー! 私達ご飯食べてる途中なんですけどお」
どんどん顔を近づけてくる星華先輩を止めるように小春が言う。星華先輩は小春を一瞥してから、「彼女?」と僕に聞いた。
「友達です」
「そう。マサキ……だっけ。昨日は負けたからって八つ当たりして悪かったわ。チェス部入るのよね? じゃあまた放課後にね」
ヒラヒラと手を振って去っていく先輩の背中を見て小春がぼそりと「やな感じ」と呟いた。
「あれ三年の城ヶ崎先輩でしょ? 男好きってウワサだよ。マサキ気をつけてね」
「男好き? なら僕は大丈夫だよ。先輩昨日の僕も見てるし」
「いやいやさっきの感じどう見ても大丈夫じゃなかったって! ロックオンされてたよ! あーもうああいう顔だけで人を選ぶ女キライーー!」
ジタバタする小春を宥めながら僕は昨日の星華先輩とのやり取りを思い出す。
確かに昨日の方が辛辣だったけれど、それは昨日の僕にチェスで負けたから。女だから態度が悪かったというわけではないと思う。
ただ、小春の言うとおり、さっきの妙に見定めてくるような視線は気になった。
「いい? 女っていうのは綺麗な女性が男装するとドキドキするものなの。某歌劇団なんかもそう。昨日は平気でも今日のマサキを見てビビッときちゃってもおかしくないのよ!」
「ええ……? そんな単純な」
「人間は思ってるより単純なの! はあ……イワンさま、あなたのマサキが目をつけられています。私は一体どうすれば」
「イワンさまって」
小春の中でイワンの格がどんどん上がっている気がする。でも僕の想像するイワンは、小春が思っているより僕に興味がない。
僕から会いにいかないときっと向こうからは来てくれない。
「ええと、話は戻るけど――そういうことだからしばらくはチェスに集中することになると思う」
「うん、分かった。私にできることがあったらなんでも言って!」
ドンと胸を叩く小春に「ありがとう」と言うと、少しはにかんだ表情が返ってくる。
「当たり前だよ。だって友達だから」
▽
――放課後、白樺館に足を踏み入れると待ってましたとでも言うように頼人くんに捕まった。
「マサキ、俺に渡すものは?」
満面の笑みで催促してくる彼の手に僕はそっと一枚の紙を乗せる。
入部届と書かれたそれを頼人くんは大事そうに受け取って、「顧問に提出してくる!」とルンルンで本校舎へと走っていった。
部室に入るとさっそく星華先輩がチェス盤を広げて待ち構えていた。
僕が星華先輩の向かいに座ると星華先輩が対局時計を押し、言葉もなくゲームが始まった。
先手、星華先輩の白e4に対し、僕は黒e5を指す。
「――ねえ、性別が曖昧ってことはつまり、男でも女でもあるってこと?」
白のナイトを動かしてから星華先輩が言った。僕はこくりと頷いてからビショップを斜めに走らせる。
日によって心の性別が変わる。僕はそのことを隠していないし、僕に関わる人には知っておいてほしいとさえ思っている。その人がどう受け止めるかはともかく、ただ、隠す必要はないのだとナージャに教わったから。
だから星華先輩にも簡単に説明をした。今日は男で明日は女だということ。
先輩はしばらく黙っていたけれど、突然意を決したように盤上から視線を上げた。僕はその真剣な表情に少しだけ驚いて、思わず対局時計を止め損ねる。
「あのさ――お願いがあるの。きっと他の誰にも頼めない」
「僕にですか?」
「できれば男の時に……私と、付き合ってほしいの」
コツン、とペンが棋譜ごと床に滑り落ちる。
放たれた言葉を頭で処理している間、星華先輩は居心地悪そうにチェス盤の隅っこの方を見つめていた。
「昨日は試すような態度をとって悪かったわ」
スラリとしたモデルのようなスタイルに、涼しげな短い黒髪。切れ長の目を縁取る長いまつ毛と鼻筋の通った顔。
性格はキツイけれど、正に美人という言葉が服を着て歩いているような存在が、僕になんと言った?
「付き合うって……そういう意味の付き合うですか?」
「そう。男の時だけで構わないから私の彼氏になってほしい」
星華先輩は僕の方を全然見ずに、じっと俯いている。
突然告白された衝撃よりもその理由が気になるのは、「僕にしか頼めない」という言い方が気になったからと、もう一つ。
「でも先輩彼氏いますよね?」
彼氏持ちが何故そんなことを言うのかということ。
昨日頼人くんと見た先輩の彼氏はごく普通の人だった。遊んでいるようにも見えないし先輩も楽しそうにしていた気がする。でも星華先輩は顔を伏せたまま、ゆっくりと対局時計を止めた。
「別れたいの……今の彼と。でも、言っても全然別れてくれなくて、次の相手がいないならいいじゃんとか言って、そのままずるずる……」
「はあ」
つまり僕が先輩の次の相手だということにして、今の彼氏とキッパリ別れたいということだ。
どうしてそんな面倒なことになってしまったのか聞こうとして止めた。
星華先輩が涙を浮かべていたからだ。
勘弁してほしいという気持ちと僕が泣かせたみたいな罪悪感がぐるぐると胸に渦巻いて、チェス盤に涙が落ちる頃、僕はとうとう「詳しく聞かせて」なんて口走ってしまっていた。
「最初はいい人だったんだけど、私のアメリカ留学が決まった途端に態度が変わったの。どうせ向こうで新しい男を作るつもりだとか、勝手な妄想膨らませて。そんなつもりはないって言ったら証明しろって言われて……」
そして肉体関係を持った。ところが相手はさらに言いがかりをつけてきて、星華先輩を縛りつけるようになった。
ということらしい。先輩がなんだか大変な恋愛をしていることは分かった。
「それにしたって、新しい彼氏役はどう考えても昨日今日会ったばかりの僕じゃない方がいいと思うんですけど……」
星華先輩のような人が困っていたら助けてくれる人なんてたくさんいそうだし、何よりもっと強そうな見た目の人に頼んだ方がいいのではないか。
やんわりとそんな内容を伝えると、星華先輩はかぶりを振って涙をこぼした。
「できないの!」
「な、なんで?」
「写真……撮られた」
先輩は悔しそうに唇をぎゅっと噛んで、痛々しい表情でこちらに訴えかける。
「本気で別れたいなら新しい男を連れて来いって……でもその時! 私のっ……シてる時の動画とか……はだかの写真をそいつに見せるって!」
僕は目を見開く。聞く限りではいわゆるリベンジポルノというものだ。そもそも高校生のそういう写真を撮って脅している時点で犯罪なのに。
「警察に相談しましょうよ」
「だってそうしたらネットにばら撒くって」
完全に脅迫だ。しゃくりあげて泣く星華先輩を見て、先輩が僕にしか頼めないと言った理由を理解した。
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