四、イミテーション・ラヴァーズ
第7話
日はもう暮れていたけれど、ラヴーシュカに寄って帰ることにした。一日でも早くナージャにイワン宛の郵便チェスを託すためだ。
煉瓦道を歩きながら私はイワンのことで今日感じた心のもやもやを思い出す。
イワンが私とオンラインチェスをするつもりがないことは、郵便チェスが今日まで続いていることからして明らかだ。
日本の学生と対局するのはもちろん仕事の一環なのだろうけど、それなら私と対局してくれてもいいじゃないかとも思う。
子供のころからのライバルだと思っていたのは私だけ?
考えれば考えるほどドツボにはまっていく。そうこうしている内に店に着いたので、私は浮かない顔でドアベルを鳴らすことになってしまった。
「ナージャー。私だよー」
いつもどおり声をかけると、閉店準備中のナージャがひょっこりと顔を出した。
「いらっしゃい。今日は遅かったわね」
「うん。ちょっとね……」
私はそのまままっすぐにピアノの方に足を進め、照明を反射するピアノの背をそっと撫でる。
「ただいまー。希先生」
「マサキ、随分お疲れじゃないの」
ぐてーっとピアノに顔を伏せると、ナージャが淹れるコーヒーの香りが漂ってきた。私は忘れないうちにカバンから封筒を取り出す。
「そうだ、ナージャこれ。イワンに手紙送る時一緒にお願い」
「いつものやつね。了解よ」
それからはいつもどおり、コーヒーを頂いてから閉店の手伝いをする。途中で今日起こったことをナージャに話すことにした。
頼人くんが私のクラスまで来たこと。
私の性別のことを頼人くんに打ち明けたこと。それをどっちでもいいと言ってもらえたこと。
チェス部に誘われて先輩と対局したこと。
――イワンと戦うためにチェスの高校選手権に出たいということ。
ナージャは私の話す全てにゆっくりと相槌を打って耳を傾けていた。
「ねえナージャ。私ってイワンに嫌われてるのかなあ?」
「まさか! そんなことないわよ。じゃないと何年も郵便チェスなんてしないでしょう」
「でもさ、オンライン誘っても反応ないし」
「きっとマサキとゆっくりチェスがしたいのよ。イワンもプロになってから厳しい戦いの中に身を置いているのだから、純粋に楽しむためのチェスが必要なんだと思う。私もそうだったから……」
「ナージャも?」
ゴミをまとめる手を止めてナージャを見ると、アイスグレーの瞳が柔く微笑む。
「私も海外リーグ現役時代、なかなか勝てずにピリピリすることがあってね。そんな時はよく日本に居た希と郵便チェスをしていたの。なんだか初心に帰れるというか、肩の力が抜けるのよね。返事が来るだけで嬉しいし」
「ナージャと希先生が郵便チェスを……」
私はナージャの部屋に飾られている若い頃の二人の写真を思い出す。孤独に戦うナージャが辛い時、日本にいた希先生がそれを支えていた。素敵な話だ。特に手紙に書くこともなく無言で勝ち星を競っている私とイワンとは大違い。
「その頃はもう――希先生のこと好きになってたの?」
ナージャは私の問いにしばらく考えた後頷いた。
「ええ。愛していたわ」
「そうなんだあ」
ナージャと希先生がお互い好き合っていることは子供の頃から知っていた。
女同士なのにって言う人も周りにいなかったし、二人は仲のいい友達にも見えたから、私はなんの疑問も持たず二人は家族同然なんだと思っていた。
日本では同性同士は籍を入れられないとか、そういうこともよく分かっていなかったものだから、一緒に住んでいるから二人は家族なんだという子供ならではの簡単な捉え方をしていたのだと思う。
だからというわけでもないけれど、私の性別のことを初めて相談したのはナージャと希先生だった。まあ、後から聞いたら、二人はうすうす気づいていたらしいけど。
二人は私の拙い言葉にゆっくりと耳を傾けてくれて、私よりも私のことを理解してくれた。私の親にもやんわりと伝えてくれて、私が不安にならないようにしてくれた。
ナージャと希先生は私にとって大切な存在で、チェスとピアノを教えてくれるだけでなく、性別を超えた生き方のようなものも教えてくれた。
だから心の天秤が揺れっぱなしでも私は、こうして生きている。性別なんて関係ない二人の愛を知っているから。
「それってナージャは遠く離れた恋人と郵便チェスをして癒されてたってことでしょ。私とイワンはガチガチの真剣勝負をしてるんだから全然違うよ」
「そう? 向こうはそう思っているかしらね」
ナージャの含みのある言い方に私はむっと唇を尖らせた。
それって、イワンが真剣じゃないってこと?
あの郵便チェスは単なる息抜きだって言うの?
むむむと唸りながらまとめたゴミを外に捨てに行く。雷雲はもうどこかに行ってしまったようで、湿度の高いじっとりとした空気が肺を満たした。
本当に高校選手権に出ることになったら、次の郵便チェスにそのことを書いたメモでも添えてみようか。
「イワンのやつ、本当は私に負けたくないだけかも」
郵便チェスならいくらでも調べてトラップ対策ができる。現にイワンは一度も罠にかからない。けれどオンラインで対局したらそうはいかないはずだ。全てのトラップへの対策を研究してこない限り。
私はイワンに直接言わなければいけないことがある。できればナージャの手を借りずに。
「ナージャ、だからこれから店に来るの遅くなる……ナージャ!?」
ゴミ捨てから戻りナージャに話しかけようとすると、ナージャはイスに座ってぐったりとテーブルに伏せていた。私は慌ててイスのそばにしゃがんでナージャの様子を見る。
「ナージャ、大丈夫?」
「ええ……。ちょっと疲れちゃったみたい」
「あとはやっておくからナージャは休んでて」
「ありがとう、ごめんねマサキ」
「いいっていいって」
ナージャの具合はやっぱりよくない。
私はこのことについてどうすればいいかずっと悩んでいる。
イワンとオンラインで繋がりたいのも、高校選手権で会うチャンスがほしいのも、すべてはナージャのことを相談したいからだ。
ナージャがこんなに辛そうにしていることを、外国にいる彼女の親族は知っているのだろうか? ナージャのことだから黙っている気がしてならない。なら、イワンにこのことを伝えられるのは私だけなんじゃないか。
郵便チェスに手紙を忍ばせる方法はナージャに見られてしまう恐れがあるから避けたい。国際電話をかけるにしても結局ナージャに番号を聞かないといけない。ナージャのことをこっそり相談したいのに、当の本人に手を借りてしまっては意味がないのだ。
「イワンがメールさえくれたら一発で解決するのに……!」
毎回郵便チェスに添えているメールアドレスに連絡さえくれれば。そうすれば高校選手権に出ず、今までどおりナージャの店を手伝えるのに。
あの堅物は私の気も知らず、のん気に私からの郵便チェスを待っているんだと思うとやっぱり腹が立つ。
「絶対に会って文句言ってやるんだから」
看板をくるりと裏返して店を閉めると、もうすっかり夜になっていた。
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