第10話 ダイヤモンド(6)

「ホタル!」

 予想だにしない展開にシオンが目を剥く。

 心臓のある場所に穴を開けた彼女は、一度体を大きく震わせた後、声もなく地面に崩れ落ちた。

 シオンは肩の痛みも忘れて立ち上がり、ホタルの元に駆け寄った。ひざまずき彼女の上半身を膝の上に抱え上げるも、腕が力なく地面に落ちる。シオンの袖にじわじわと彼女の血が滲み、広がっていった。腕の中にある濃厚な死の気配に、がたがたと震える。

「おい、お前はそんなことをしている場合じゃないぞ」

 ヒッシャの呆れた声が降ってくる。

「そんなことって……」

 顔を上げて思い切り睨み付けると、ヒッシャは両手に聖剣を持っていた。

 右手に剣の柄を、ホタルの血に塗れた左手に剣先を。

「な、にを……」

 悪魔の両手に禍々しい光が灯った。ホタルの血を燃料としたかのようなその光は赤黒く燃えている。

 右手と左手、二つの光がヒッシャの胸の前で合わせられた。すると化学反応のように光は一層強く激しく燃え上がり、聖剣は炎に包まれた。全身に炎をまとった聖剣はヒッシャの手を離れ、空中でしばらく燃え続けた。

 やがて炎の勢いが収まったとき、聖剣は柄と刀身とが再びつながっていた。

 だが元通りというわけではない。一度折れた部分から先が凄まじい速度で回転している。その勢いは指一本でも触れようものなら、すぐさまその指が削り飛ばされそうだった。

 一目見てわかる。凶悪な武器だ。

「さあ、受け取れ。ホタルの置き土産だ」

 ヒッシャが腕を組み、顎で聖剣を指し示す。

「……」

 シオンは逡巡した。

 聖剣はホタルの命でもって修復され、さらには強化された。この剣を受け取れば、今腕の中にいる彼女の死を決定づけてしまうように感じられたからだ。

「どうした?<ダイヤモンド>はすぐ側に迫っている。お前がこの剣を受け取り、奴を倒さなければホタルは本当に無駄死にだぞ?」

 ヒッシャは実に楽しそうだ。シオンの迷いを面白がっている。これこそが悪魔が望む悲劇であり喜劇なのだ。

「……くそっ」

 どんどん近づいてくる<ダイヤモンド>の足音に、ついにシオンは決心した。ホタルの身体を先程まで自分が寄り掛かっていた木の根元に横たえる。

 それから手を伸ばすと、生まれ変わった聖剣は当然のように持ち主の手元に戻ってきた。 前より幾分重く感じる。それはきっと彼女の命の重さだ。

『随分と手間を掛けさせおったな、ソーヤの血を引くものよ』

 声は随分と近くで聞こえた。ついに<ダイヤモンド>がシオンに追いついたのだ。

『逃げるのはやめたのか?そういえばお前の先祖も逃げることしかできない男だったな』

 シオンが振り返ると、地獄のように美しい<ダイヤモンド>の眼が彼を見下ろしていた。 弱い人間の最後のあがきをせせら笑っている。

『逃げて、逃げて、火山の噴火口まで逃げて、卑怯にも我を溶岩の海へと落としおった。一度も自分の力で戦おうともしなかった。情けない男だ。お前も同じか?』

「いや、同じじゃない。俺の方がソーヤより情けない」

 ソーヤは初めから自身の力を見極め、作戦として逃げた。最後には火山の力でもって竜を征伐した。

 それに比べ自分は、<ダイヤモンド>の力を侮っていた。聖剣さえあれば必ず勝てると。

 だがそうではないと気がついたとき、ただ逃げることしかできなかった。生まれて初めて竜に負けるかもしれないという恐れに心を支配され、勝つための戦いをしようとしなかった。

「でも、もう逃げない」

 ユリは市民を逃すために去り、アカザは果敢に戦い敗れ、ホタルは聖剣のために我が身を捧げた。結果がどうなろうとも、ただ一人残された自分は彼らに託された想いを全うしなければならない。

 この決意は嘘じゃない。

 だが、たった一人残って、竜と相対してはっきりと自覚する。

 自分はきっとこの瞬間のために生まれてきた。聖剣に選ばれた勇者とはそういうことなのだ。

 たった一人にしか握れぬ聖剣で、たった一人にしか倒せない相手を倒しに行く。

 シオンの存在意義は竜と戦い、勝利することだけだ。そこから逃げていたのでは、たとえもし生き残ったとしても自分の人生は既に死んだも同然だ――――!

「俺の名はシオン。ソーヤ王国第三王子にして、竜殺しの英雄ソーヤの末裔。聖剣の使い手。そしてこれから本当の意味でお前を殺す男だ」

 <ダイヤモンド>殺しの英雄。

 シオンは自らをそう名乗る。

『ほう、大きく出たな。では我も竜の本分でもってお前のその尊大な発言に応えてやらねばならんだろう』

 <ダイヤモンド>が閉じられていた両翼を広げる。ホタルがかけた蜘蛛の悪魔の戒めが解けたのだ。

 もう竜を抑えるものは何もない。透き通った鱗の一片一片が輝き、顎からは体内で燃える炎の煙が漏れ出ている。

 たった一人の英雄を殺すために、研ぎ澄まされた竜の形がそこにあった。

『来い。全身を切り刻んだ上で、その肉片の一つも残らぬほどに燃やし尽くしてやる』

 シオンが聖剣を構える。剣がウゥン……と唸り、刀身の回転が速度を増した。

「はあああっ」

 大きく剣を振りかぶり、<ダイヤモンド>へ向かって走り出す。

 <ダイヤモンド>は背後に飛び上がり、地上へと炎を吹き出した。火炎が押し寄せる波のように地上に降り注ぐ。それを避けながらシオンは走り続けた。

「<シェル>!」

 走りながら、ホタルの傍に寄り添っていた<シェル>を呼び寄せる。この人間に忠実な竜は古来の竜の王に脅えながらも果敢に炎の中をシオンの元に馳せた。

 <シェル>が脇につくや背中に飛び乗り、胴を叩く。<シェル>は小さく鳴いて、空中に飛び上がった。

『ふん、人間が我と同じ高みに登るなど五百年早いわ』

 空中で間合いを詰めようとするシオンに対し、<ダイヤモンド>は不快そうに鼻を鳴らす。一際大きく胸を膨らませて、炎を吐いた。

 今度は火炎の波どころか、火炎の壁だった。シオンの前方を塞ぐようにして巨大な炎が広がった。

 今度はシオンは避けなかった。

 聖剣を大きく一閃。炎の壁が切り裂かれ、そこから飛び出した。

 新しい聖剣は刀身が回転することによって風を起こしている。今のシオンはまるで竜巻を手にしているようなもの。その風によって炎を蹴散らしたのだ。

「俺の力を取り込んでいるわけか。まったく無駄に才能があるな」

 傍観者に徹していたヒッシャが面白くなさそうに呟く。

 ヒッシャは風を操る悪魔だ。彼は契約者であるホタルの血を媒体にして聖剣を修復したわけだが、その血に混ざり込んだ彼の魔力が聖剣に定着したらしい。

 普通の人間の血ではこんなことは起こらない。それだけホタルの血液が悪魔と相性が良いということなのだろう。

 シオンがさらに中空で剣を奮う。すると聖剣が生み出した風が<ダイヤモンド>に向かって打ち出された。

『ぐ……っ』

 風の塊が<ダイヤモンド>の脇腹を打つ。風の刃は竜に大きな傷こそ与えはしなかったが、硬い鱗の何枚かを弾き飛ばした。衝撃に<ダイヤモンド>がひるむ。

 そのわずかな時間にシオンは着実に距離を縮めていた。<シェル>の上で立ち上がり、再び剣を振り上げる。

『させるかっ』

 <ダイヤモンド>が吠えると同時に、シオンは横から強い衝撃に襲われた。

 それは<ダイヤモンド>の尾だった。竜が尾を振るい<シェル>ごとシオンを打ったのだ。

 丸太ほどもある尾で打たれれば、衝撃も並大抵のものではない。<シェル>は悲鳴すら上げることもできず、地面に叩き付けられた。そこからもうもうと土煙が上がる。

『やっと死んだか……?』

 <ダイヤモンド>が地上を見下ろす。この勢いで地面に打ち付けられれば、人間は確実に死んでいるだろう。

 だが土煙が全て収まったとき見えたのは、<シェル>の死骸だけだった。

『……どこへ行った!?』

 その時になってようやく<ダイヤモンド>は自身の背中に違和感を感じた。痒みのような不快感。

 振り向くと、シオンが自身の背中を鱗を足場にして這い上っていた。

 シオンは<ダイヤモンド>の尾が打ち付けられるその瞬間、<シェル>から敵の尾に飛び移っていたのだ。とんでもない身体能力である。そして密かに尾から胴へと少しずつ登っていた。

 竜は硬い鱗で覆われているため、触覚が鈍い。<ダイヤモンド>がシオンに気がつかなかったのはそのためだ。

 竜は長く生きていて初めて、人間が虫に身体を這われるときに感じる気持ち悪さを体験した。思わずめちゃくちゃに身体を動かす。首を降り、翼を激しく動かし、空中で二転三転した。

<ダイヤモンド>がどんなに激しく暴れようと、シオンは竜の胴体に取り付いたまま決して離れようとはしなかった。それどころか、さらに上へ上へと竜の背中を登った。

『くそっ、やめろ、やめろ……っ』

 竜の首に達すると、そこを両足で挟み込む。聖剣を両手で逆手に持ち、


「終わりだ」


竜の頭頂に突きつけた。

 かつての聖剣ではここまで追い詰めても、<ダイヤモンド>を殺すことはできなかった。<ダイヤモンド>の古い牙から生まれた聖剣では同じ<ダイヤモンド>の新しい鱗を貫くことができないからだ。

 しかし今度は違う。

 聖剣の刀身が最大の速度で回り出す。シオンの両手の中で高密度の竜巻が発生する。人間の手に収まる大きさであっても、威力は大地を疾る竜巻と変わらない。それを全身全霊で真下に叩き込んだ。

『あ、あ、あ、あ、あぁ――――――――…………っ』

 森中に絶叫が響き渡った。

 鱗が割れ、弾け飛ぶ。速度が硬度を凌駕する。刃は皮膚の柔らかい部分に達し、頭蓋を打ち砕き、脳味噌を撹拌する。切っ先は顎を貫き、鋭い牙を粉々にする。

『……、…………、………っ』

 串刺しにされた顎からは、火炎どころかもはや声も出ない。ぷすぷす、と気の抜けたような一筋の煙が漏れ出たのを最後に、竜はふらりとよろめき、地面へと落下した。


 <ダイヤモンド>は墜落した。


 その衝撃はソーヤ王国、ヒガン王国のみならず、大陸全土の大地を震わせた。避難の途中のフーシン市民らは思わず動きを止めて、不安げに顔を見合わせた。

「シオン……アカザ……、ホタル…………」

 避難の支援にあたっていたユリは森の方を振り返った。森林の上空にもうもうと立ちこめる土煙を見ながら、胸の前で手を握り、目を閉じた。

 どうか神様、あたしの仲間が皆、無事でありますように。



「終わったようだな」

 腕を組んで一部始終を見ていたヒッシャが静かに呟く。

 周辺一帯の木々は折れ、その上に<ダイヤモンド>の巨体が横たわっていた。

 竜の頭はちょうど、ヒッシャの方に向いていた。かっと見開かれた両目には、今もなお禍々しい赤が灯っている。まるでまだ生きているかのような生々しさだ。

 シオンは竜と共に落ちている間もずっとその頭蓋を貫いた聖剣を握りしめていた。墜落の衝撃が大きかったのだろう。同じ姿勢のままうなだれている。

 だがヒッシャの声を聞き付けるやいなや、顔を上げ<ダイヤモンド>から降りた。

「ホタル……っ」

 彼女を残してきた場所は<ダイヤモンド>が落ちた場所から少し離れていた。最後に見たときと同じまま、木に寄りかかり眠るように目を閉じている。

 彼女の頬にそっと触れると、明らかに温もりが失われてきていた。

「……!」

 先程までの戦いによる興奮は消え失せ、死のもたらす冷たさにただただ身体が震える。

「おい、そこをどけろ」

 ゆっくりとシオンの後ろを歩いてきたヒッシャが冷たく言った。

「契約は成った。聖剣を修復し、お前は<ダイヤモンド>を倒した。俺は約束通りそいつの魂をいただくんだ」

「頼む、ホタルを助けてくれ」

 シオンは振り返って、なりふり構わずヒッシャに懇願した。目には涙を浮かべ、必死で頭を下げる。

「話を聞いていたか?お前にはわからんだろうが、悪魔と魔術師の契約は絶対だ。与えたものは返してもらわなければならん。ホタルだって了承済みだ」

 聖剣の使い手たる高潔な人間が、悪魔に慈悲を請う。

 その姿があまりにも滑稽で、長い年月をホタルに費やしてきた甲斐があったとヒッシャはこの上なく満足した。

「これですがすがしく契約満了。俺としては随分楽しませてもらったから、良い取引だった。他人がとやかく人の商売に口を挟むんじゃない」

 とっとと去れ、とばかりに手のひらをひらひらとさせる。

 だがシオンは諦めなかった。

「じゃあ俺と取引しろ」

「は?」

「俺を殺して、ホタルの命を助けてくれ。それなら取引が成り立つだろう」

 命には命を。それで等価だろうとシオンは言う。

 しかしヒッシャは、

「いいや。成り立たんね」

と即座に否定した。

「いつも言っていただろう。俺はとびきりの悲劇が好きなんだ。お前が死んだ程度の悲劇では、まあホタルはひどく悲しむだろうがありきたりすぎてなあ。人間一人生き返らせるほどの労力の対価にはならん。どうせならもっと面白い趣向を……」

 そこまで言って、はたとヒッシャは気がついた。

 あるではないか。ここからさらに悲劇を加速させることのできる筋書きが。

「そうだ。お前の『人を愛する心』を寄越せ。それならあの娘を生き返らせてやろう」

「え……」

 思わぬ言葉にシオンは目を瞬かせる。

 自分が、ホタルを想う心?

 つまり……ホタルと話している時、彼女が笑った時に不思議と心に湧いてくる温もりを失うということか。

 惜しいとは思う。だが自分がそれを失ったとしても、彼女自身は何も失わない。彼女は無事に助かり、この後の人生を歩んでいく。元に戻るだけ。何も悪いことはないだろう。

「そんなもので良いのか?」

 勢い込んで聞き返すシオンに、ヒッシャはにっこり笑う。それは実に悪魔的な笑みであったが、ホタルを助けたいばかりのシオンが気づくことはなかった。

「ああ。むしろそれが良い。そっちの方がきっと……面白い」



「う……」

 全身を泥のように覆う痛みに、ホタルの意識はゆっくりと浮上した。わずかに目を開け、周囲をうかがう。まだ頭がはっきりとしない。身体も上手く動かせない。

 だが、

「目が覚めたか」

という声に彼女は急速に覚醒した。

「シ、シオン様……っ」

 シオンがこちらを見下ろしている。その顔は普通で……、普通だ。

 彼女は混乱した。

 確か先程までシオン班は伝説の竜、<ダイヤモンド>と死闘を繰り広げていた。その最中で聖剣が折れ、自分はそれを修復するためにヒッシャに魂を売り渡したはずだった。

 なのに自分は今も生きている。そしてシオンはいつも通りの笑みを浮かべていた。まるで先程までの出来事が夢みたいに。

「<ダイヤモンド>は……?」

 おそるおそるシオンに尋ねる。

「ああ、無事倒した。君もよくやってくれた」

 あっさりと彼は答える。

「たった今、ユリから知らせが入った。<ダイヤモンド>討伐成功を確認して、フーシンの市民達が街に戻っていると。アカザも火傷がひどいがなんとか生きている。待機していた竜騎士団の医者が診てくれているそうだ。俺達もフーシンに戻るぞ」

 そう言って街に向かって歩き出す。

「わ、わかりました」

 ホタルは痛む身体に鞭を打ち、慌ててその背中を追うも、言い知れぬ違和感を拭い去れなかった。

 いつも通りの、班長の顔。いつも通り……?彼女は首を傾げる。

 最近は二人も打ち解け、上司というより同輩といった距離感ではなかったか。いたずらっぽい少年の顔を見せることも増え、時々その視線にひどい優しさを感じることもあったのではないか。

 だけど今の彼は……。

 いや、やめよう。ホタルはそこで思考を打ち切った。

 まだ自分は覚醒したばかりでぼんやりしている。この状態で何を考えても無駄だ。それに<ダイヤモンド>を倒したからといって全てが終わったわけじゃない。後始末がいろいろあるはずだ。切り替えなければ。

 ホタルはシオンの一歩後ろにつく。シオンは特に振り返らなかった。

 ホタルが先程まで根元で眠っていた木の上では、カラスの姿に戻ったヒッシャがとまっていた。彼はここまでの二人のやりとりを目を細めて聞いていた。

(まだまだ楽しませてもらうぞ)

 そう独りごちると、機嫌良く彼らを追って飛び立ったのだった。

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竜退治に恋は必要ですか? ウール100% @wool100percent

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