第9話 ダイヤモンド(5)

 ユリが去り、魔術の霧が晴れてきた。

『さて、作戦会議は終わったようだな……っと』

 <ダイヤモンド>が薄れ行く霧の向こうに見たのは、森の中、背中を向けて逃げていくシオン班の姿だった。

『ふん。ここまで待ってやったのに逃げるしかないとは情けない。まあ良い、せいぜい楽しませてもらおうか』

 木々の中をちらちらと見える竜騎士団のマントを追って、<ダイヤモンド>は足を踏み出した。

 竜の一歩ごとに大地は揺れ、木々が踏み倒された。茂みからは小鳥や小動物が驚いて逃げ出す。

 この時、シオンらは<シェル>を使って空を飛ばず、あえて森の中を走らせていた。

 なぜならば空中であれば何の隠すものもなくすぐに見つかり、攻撃される可能性が高まるからだ。その点、森の中を走ればこんもり茂った草木が姿を隠してくれる。

 また竜の翼は未だホタルの魔術によって封じられているため、地上を走ることしかできない。巨大な木々は<ダイヤモンド>にとって障害物となり、少しでも迫る速度を抑えてくれるのだ。

 フーシンから十分に離れたと判断したところで、シオンが<シェル>から飛び降りてくるりと振り返り、剣を構える。

『……む』

 不審に思いつつも距離を詰める<ダイヤモンド>が踏み出した足下で、地面が丸い形に発光した。それはホタルが逃げている途中で急いで描き上げた魔法陣だった。

「ヒッシャ!」

 ホタルの呼びかけに「はいよ、仕方ねぇな」とぼやきながら、彼女の肩から飛び立ったカラスが魔方陣の放つ光の中に入る。そして翼を何度かはためかせた。

 すると強力な風がその場で巻き起こった。無数に作り上げられた空気の塊が弾幕のように一斉に<ダイヤモンド>に繰り出される。

『悪魔の風か……!』

 豪速で飛んでくる鋭い風が竜の全身を打った。

 この程度で名高い<ダイヤモンド>の鱗が砕かれることはないが、全身を針で刺されるような不快感に竜が苛立たしげに首を振る。

「さすが<ダイヤモンド>。他の竜なら穴だらけなんだがな」

 感心したようにヒッシャが言って、ホタルの肩に舞い戻る。第一級の悪魔の魔術が魔法陣によってさらに強化されていたのだが、致命傷には至らない。

 代わってシオンが竜の首を狙って刃を振るう。

「……っ」

 当然ながら固い鱗に弾き返される。竜は止むことのない風の弾丸に苛まれながら、爪でシオンを迎え撃つ。

 凶悪な爪がシオンの右肩をかすった。だが彼はひるまず、竜の胸元に潜り込み第二撃を繰り出す。これも効かない。

 どれか一撃でも傷を与えられたなら良いとばかりに、シオンは何度も剣を打ち付けその度に弾かれた。

「ふん、自暴自棄になったか。聖剣でも傷一つつけられなかった我を、そんななまくらで切れるわけがなかろう」

 全身に打ち付ける風と、目の前をちょこまかと動き回り時折叩き付けられる切れ味の悪い剣。どちらも鬱陶しく目障りなだけで、<ダイヤモンド>になんの攻撃も与えることはできない。すっかり呆れてしまい、わざわざ殺すために一歩を踏み出す気もしなかった。

 せっかくここまで付き合ってのんびり森の中を追いかけてやったというのに、結末がこんな無意味な抵抗ではつまらない。もう相手の魔力切れか、疲れて動けなくなったところを待って一息に殺せば良いだろう。

 そう考えて動きを止めたところで、ふと気がついた。

 確か当初追いかけていたのは三人のはずだ。ソーヤの子孫と、黒魔術師と、最初に弓を引いた男――転々あの、射手はどこへ行った?


 ブゥン、という風を切る音。


 それを聞きつけた瞬間、<ダイヤモンド>は片目が熱くなるのを感じた。

『ぐ……っ』

 左の視界が赤く染まり、何も見えない。首をぐるりと回し音がした方向に振り向く。そこには<シェル>の上で、弓を構えたアカザがいた。その姿を見てようやく、左目を矢で射られたのだと気がついた。

 竜は全身を鱗で覆われ、生半可な武器では傷を付けられない。だが目は別だ。剥き出しになっている柔らかい部分は、竜にとって最大の弱点。聖剣を持たない一般の竜騎士が真っ先に狙う場所だ。

 だが的は小さい。そのためアカザは一度、他の二人と逃げている途中で分かれ、確実に竜の目を狙える場所に陣取った。そしてシオンとホタルは無意味と思える攻撃を繰り返して竜の油断を誘い、その場で動かないようにしたのだ。

「やった!」

 シオンとホタルが拳を握る。

 守備は上々。見事、竜の片目を潰すことに成功した。だが息の根を奪うにはほど遠い。さらに眼窩から強力な攻撃を打ち込んで、竜を内側から破壊する必要がある。

 アカザはすぐさまもう一本の矢を矢筒から取り出す。今度はホタルが魔力を込めた矢だ。

 ヒッシャの魔術が閉じ込められた矢尻は、竜の目に刺さればそこから体内に嵐を吹き起こし、内臓を切り刻む――――はず、だった。

『ふざけるなよ、人間風情が……っ』

<ダイヤモンド>の顎が大きく開かれる。はっと息をのんだホタルが、「逃げて、アカザ!」と叫んだが、もう遅かった。

 竜の喉から強大な火炎が吐き出される。

 炎は凄まじい勢いで空中を疾走し、アカザを、彼の乗った<シェル>ごと灼いた。

 炎の帯が消えた後、宙に浮いて煙を上げる黒い物体だけが残った。それもすぐに地上へと落ちていく。

 遠くでどさり、という乾いた音がしたのを、シオンも、ホタルも呆然として聞いていた。 一拍の恐ろしい静寂。

 そして、


「アカザ――――――――!」


シオンの絶叫が森に響き渡った。

『飛び道具がお前達人間だけのものとでも思っていたようだな』

 その言葉に我に返ったシオンは頭上を見上げた。左目からだらだら血を流した<ダイヤモンド>が、自分の頭を潰そうと振り下ろした爪が迫ってきている。

 確かにシオン班が<ダイヤモンド>と対峙してから、竜はずっと爪での攻撃しかしてこなかった。そのために彼らの頭の中から、「竜が炎を吐く」という当たり前のことが頭から抜け落ちていた。そのことを悔いると共に、<ダイヤモンド>が結局今まで全力ではなかったという事実に思い至って絶望した。

 今度こそシオンは戦意を喪失した。

 自分が立てた作戦は失敗で、そのためにかけがえのない仲間を失ってしまった。聖剣を失い、もう戦う手段がない。

 終わりだ。

 0.5秒先の死を受け容れようとした。

 だが、

「シオン様……っ」

少女の声。それを聞いて自分にはまだ何を失っても守らなければならないものがまだ残っていることを思い出した。

 <ダイヤモンド>の爪の下を、<シェル>に乗ったホタルが駆け抜ける。自分の竜の上にシオンを引っ張り上げ、振り向きざま、

「ムゲン、<ダイヤモンド>をそこから動かさないで!一秒でも長く」

と竜に杖を向ける。

 杖を伝うようにして飛び出した蛾の悪魔は妖しく光る鱗粉をまき散らしながら、<ダイヤモンド>の周囲をぐるぐると回った。

『こしゃくな……!』

 蛾の悪魔がまき散らす鱗粉によって作り上げられた黒い霧が竜を包む。すると上下左右が歪み、耳鳴り、目眩、吐き気、あらゆる混乱が竜を襲った。

 ただでさえ片目を潰されているのだ。<ダイヤモンド>は一時的に正常な世界認識が不可能となった。これでしばらくは動けないだろう。

 その間にホタルはシオンを連れて森の中を逃げる。遠くへ、少しでも遠くへ。

「今度は長く保たないぞ」

「……わかってる」

 呆れた声色のヒッシャに、ホタルはかすかに苛立たしさを滲ませて応えた。

 <ダイヤモンド>相手にムゲンの霧を使ったのは二度目だ。向こうも耐性が着いてきているはずだ。先程よりも足止めできる時間は短いに違いない。

「結局は戦うか、死ぬかだ。俺としてはその王子をここに置いて逃げることをお薦めするね。そうすれば少なくともお前だけは助かる」

「馬鹿言わないで」

 ホタルがぴしゃりと言い返すが、

「いや……、その悪魔の言う通りだ」

とシオンがかすれた声でカラスに同意した。

 彼はホタルの背中に寄りかかるようにして<シェル>に乗っていたが、わずかに身を起こして彼女をじっと見つめた。

「シオン様!?」

「ホタル、逃げてくれ。俺は<ダイヤモンド>を倒せなかった。アカザも失った。この上、君まで失えない……」

 ぎょっとするホタルに、シオンは言いつのる。

 先程、<ダイヤモンド>の爪が抉った肩から血が滲み出ている。心身共に限界なのだろう。その顔は苦しみに満ちていた。

 見ていられず、ホタルは再び前に向き直る。

「私は、シオン様が苦しいときに支えられるようにと竜騎士団に志願したのです……最後まで共に戦います」

 前だけを向いてその言葉をはっきり口にする。

 相変わらず目を合わせるのは苦手なようだが、随分と自分の意思をちゃんと示すようになったな、と。こんな時だというのに、シオンの口元には笑みが浮かんだ。

「君がそういう女性だから、なおさら俺は失えないって思うんだ」

 その言葉にホタルは胸を衝かれる想いがした。彼の顔を見ていないのに、どんなふうに笑っているか見える気がして、今なら彼の言うことを何でも聞いてしまいそうだった。

 だが彼女は自分の意志を曲げなかった。

「失えないと思うのは、私だって同じです」

 そう言って、<シェル>の首を軽く叩いて足を止めさせる。シオンに手を貸して竜から下ろし、手近な木の根元に寄り掛からせた。

「ホタル……?」

 怪訝そうに見上げるシオンに、彼女は柔らかく微笑んだ。

「シオン様がそう言ってくれるのは嬉しい……でも、<ダイヤモンド>を倒せるのはシオン様だけですから」

 ひざまずき、シオンの腰から折れた聖剣が収められた鞘を手に取る。

「ヒッシャ」

 そして彼女が黒魔術を学び始めて以来、ずっと共にあった悪魔に呼びかけた。

 ユリはフーシンに戻る前、「二人のことを頼む」と言った。アカザもまた、彼らと別れる前に「シオンを助けてやってくれ」と言っていた。

 自分が最後にシオンと共に残ったのは、きっとこのためだ。

「私の魂を今すぐ持っていって良い。だからあなたの全ての力でもって、シオン様の剣となって」

 竜は地上の者だが、悪魔は魔界の者。<ダイヤモンド>は聖剣でしか倒せないが、それはあくまでも地上のルールだ。そこに異なる世界のルールを持ち込んだら?

 通常、人間は黒魔術という枠組を通して悪魔の力を地上に現出させる。魔界の原理で動く力を、地上でも許容できる姿かたちに変換して行使しているのだ。結果、地上で観測される悪魔の力は、真の実力の半分にも及ばない。

 だがホタルには確信があった。

 ヒッシャは魔界でも一、二を争う高位の悪魔だ。彼女という優れた黒魔術師が自身の魂を差し出すことによって、彼の力を100パーセント近く引き出すことができる。そしてそれは地上最強の竜、<ダイヤモンド>に比肩しうる力であると。

「ふむ……」

 カラスはちらりとシオンを見た。

 彼は先程、「おっ」と思ったのだ。この男、案外ホタルのことを好いているのではないか、と。シオンはそういう情緒を持ち合わせていないように思っていたが、これでどうもホタルに対して並々ならぬ感情を抱き始めているようなのだ。

 好いた女の魂が奪われればこの男、ひどく嘆き悲しむだろう。それはきっと……面白い。

 口元に笑みが浮かぶ。随分長くホタルに付き合ったがようやく良い具合に、ヒッシャ好みの悲劇になってきた。

「良いだろう!」

 カラスがホタルの肩から飛び降りたかと思うと、黒ずくめの若者へと姿を変えた。

 額に四本の角、背中に黒い翼。肌はいっそ青白いと言えるほど白く、切れ長の目はどこか艶やか。それはこの世ならぬ不吉な美しさだった。悪魔ヒッシャの本来の姿である。

 彼は地面に降り立つと同時にくるりと振り返り、

「……!」

ホタルの胸を片腕で貫いた。

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