第8話 ダイヤモンド(4)

 シオンは動けなかった。

 目の前から巨大な爪が迫ってくる。それがわかっているのに動けない。

 聖剣で切れない竜はいない。自分に倒せない竜はいない。

 そんな、生まれてからこの方ずっと抱いていた常識が崩れ去ったのだ。衝撃は大きかった。

「シオン、しっかりしろ!」

 正面から両肩掴んで揺さぶられ、はっと我に返る。

 アカザだった。

 彼は<ダイヤモンド>が襲いかかっているにも関わらずシオンが身動き一つしないので、慌てて助けに入ったのだ。

 <シェル>を駆ってシオンを竜の上に引き上げ、その場を離脱する。<ダイヤモンド>の爪はシオンが元いた場所に虚しく突き刺さった。

『ち……っ』

 <ダイヤモンド>が舌打ちし、もう片方の爪を繰り出そうとする。

 だが、

「ムゲン!」

同じように<シェル>に乗って駆けつけたホタルの声が飛ぶ。

 竜の目の前を巨大な蛾が横切り、すぐさまその場に黒い霧が立ちこめた。彼女の使い魔による目眩ましだ。

 再び竜の爪は空中をすかっと切った。

「助かった、ホタル」

 アカザがほっとしたように言う。

 だが彼女は眉を曇らせたまま話さない。代わりに彼女の肩に乗ったヒッシャが冷たい口調で言った。

「ほんの一時しのぎだ。あの修道女の白光結界とは比べものにならん……もって数十秒ってところだな」

 ユリの白光結界――――光の矢に内蔵されていた結界は、ここぞという時のために編み上げていた強大な白魔術の塊だ。一本つくりあげるだけで半年以上かかっている。だからこそ、それを行使する時に必ず<ダイヤモンド>は仕留めなければならなかった。

 一方、ホタルの黒い霧は今さっき呪文の詠唱すらも省略して呼び出したものだ。前者がきちんと土台と骨組みのある家であるとすれば、後者は掘っ立て小屋といっても良い。当然ながらあっという間に打ち破られてしまうだろう。それでも無いよりはましというだけだ。

「大丈夫、あんた達!」

 ユリも<シェル>に乗って駆けつけた。顔が紙のように白い。普段どんな状況でもあっけらかんとした彼女だが、今回はひどく動揺しているようだ。

 だがそれはシオン班全員がそうだった。シオンは茫然自失し、アカザはこの幼馴染みの初めて見せる様子に困惑し、ホタルも再び無口な娘に戻ってしまったようだった。

 シオン班にとって未だかつて無い危機だった。やはり伝説の竜<ダイヤモンド>の名前は伊達では無かった。聖剣があり、今まで何匹もの竜を倒してきたという彼らの自信は見事に打ち砕かれた。

「とにかく撤退だ。一度<ダイヤモンド>の捕捉範囲から離脱して、立て直すしかない」

 そんな中、年かさのアカザがすぐさま今できる判断を下す。

 だが、

「いや、離脱はない」

と反対したのはシオンだった。

「シオン?」

 アカザは驚いた。先程まで彼に抱え上げられたままずっと黙りこくっていたのだ。顔を覗き込むと、シオンの目には再び強い光が戻ってきていた。

「俺達が逃げればすぐさま奴はフーシンの街を襲いに行くだろう。竜騎士団に助けを求め、差し出したはずの王女を取り戻したのは契約違反だってな。そうすれば何万人もの人間が死ぬ。

……それなら俺達が少しでも長く奴の気を引いて、その間に市民を避難させるしかない」

 アカザに寄りかかっていた身を起こし、ぴっと指笛を吹く。するとシオンの<シェル>が飛んできた。それにひらりと飛び乗る。

「ユリ、お前は街に戻ってくれ。市長に全市民の避難を進言しろ。アカザは俺と一緒に<ダイヤモンド>と戦ってくれ。ホタルは後方支援を」

 先程までと打って変わって班員にてきぱきと指示を出す。どうにか立ち直った姿は、さすがは班長といったところだ。

「ちょっと。あたしだけここで逃がすとか言うんじゃないでしょうね」

 一人だけこの場から離脱しろ、と言われたととったユリが、不満そうに口を挟む。

 攻撃手段を持たない白魔術を生業としているが、彼女とて竜騎士なのだ。皆が命を賭けている状況で、自分だけ役に立たないと言われているように感じて腹立たしい。

「お前が一番適任だからだ。一般市民の避難にはお前の白魔術が役に立つ。彼らが安全な場所にたどり着けるまで支援するんだ」

 冷静に理由を告げるシオンに、彼女はしぶしぶ頷く。シオンの判断は受け容れがたいものだったが、それでも彼の様子が元に戻ったことで安心もしていた。

「……わかった。武器をちょうだい。気休めだけど強化するわ」

 アカザが自分の剣と弓矢をユリに手渡す。彼女はそれを受け取ると呪文をいくつか唱え、強度を一時的に上げる術を施した。

 一方でシオンは折れてしまった聖剣の刀身を鞘に仕舞った。もう使うことはできないが、国にとっての宝であるし、自分にとっても思い入れのある剣だ。死ぬときはこの剣と共に、ととうの昔に決めていた。

 アカザがユリから返された武器を受け取って、

「剣はお前が使え。俺は弓を使うから」

と自分の剣をシオンに渡す。

「ああ」

 聖剣が無い今、アカザから剣を借りるしかない。

「じゃあ、また後で。ここで最後だなんて許さないからね」

 怒ったようにユリが言う。その目は真剣で、うっすら涙が浮かんでいるようだった。

「何、らしくないことを言っている。戦うからには、俺達は勝つつもりだ」

 平然と応えるシオン。そして「当然だ」と迷いなく同意するアカザ。いつもの頼りになる二人の様子にユリは、

「あっそう。それなら良いわ」

とあえてつっけんどんに言った。

 最後にくるりとホタルの方に向きを変え、彼女の耳元で囁く。

「ホタル……二人のこと頼んだわよ」

「わかった」

 ホタルは唇を噛み締め、小さく頷いた。その顔を目に焼き付けて、ユリは<シェル>をフーシンへと飛ばした。

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