第117話 アイデンティティ
僕は唐突に、グリモーナで最初に目覚めたときのことを思い出した。
気が付くと森で倒れていて、目の前にはジュリアがいて。
しばらくすると、ウィルとオリオがやってきたんだ。
「君、名前は思い出せる?」
そう尋ねたのは、オリオだった。
そのときの僕はピンとくる名前を求めて、なくなった記憶を手探りした。
するとある名前が浮かび上がった。
だから、それを口にした。
「僕の名前は、ロミ」
でもあのときの僕は、誰がその名前を呼んでくれたのか、思い出すことができなかったし、思い出そうともしなかった。
「ロミュール。あなた何もかも、全部忘れてしまったのね。ああ、これからどうすれば・・・・・・」
回想から引き戻されると、途方に暮れているお母様が目の前にいた。それでも彼女はなんとか感情を押さえつけて、慎重に言葉を選んでいく。
「あなたの名前は、ロミではないわ。ロミなんて呼び名は・・・・・・愛称よ。そう、ただの愛称。あなたの本当の名前はロミュール。あなたの名前はロミュール・モンターニュというの」
そう言ってしまった直後、彼女は栓が抜けたように勢いづいて、早口になった。僕はようやく知った自分のフルネームを口に出そうとしていたけれど、慌ててそれを飲み込んだ。
お母様は、次から次へと情報を出した。住んでいる場所や誕生日、学校名、学年、成績、交友関係。自分の知らない自分の話が、ひねりっぱなしの蛇口のようにとどまる暇なく溢れ出してくる。全て話せば記憶が戻るとでもいうように、彼女はあらゆることを話して聞かせた。語るにつれてお母様の口調は、だんだんと熱を帯び、必死さが色濃く現れた。
しかし一方の僕はというと、話が進むにつれて背筋をゾワゾワと冷たい感覚が伝いはじめていた。
初めのうちは、お母様の話を一言も聞き漏らすまいと、意識を張り詰めていたけれど、今は動き続ける彼女の口元をぼうっと見つめているだけ。
それくらい、話が頭に入ってこなくなっていた。
なぜならお母様は僕の話をしているはずなのに、その口から出てくるのは、見たこともない人や、聞いたこともない生活のことばかりだから。
まるで御伽話を聞かされているようだ。
現実味が少しも感じられない。
いや、違う。
頭ではもちろん、分かっている。
現実味を失っているのは僕の方だ。
お母様の話している僕こそが、本当の僕なのだ。
でも。
「あなたは勉強熱心で、特に科学の成績はいつもトップクラスなのよ」
それは本当? ウィルが言うには、僕が得意なのは魔法だよ。
「お友達も、生真面目で優秀な人が多くて」
そうかな。オリオは生真面目というより、おおらかで明るい子だったよ。
「将来はお父様みたいに、著名な政治指導者になりたいって」
いや。僕がやりたいのは、そんなことじゃない。
ウィルの前で宣言した通りだ。
ほんの細やかな幸せでいい。それを、誰かに届けられるような人になりたいんだ。
違う。違うよ。何もかも。
そんなの、僕が知っている僕とはまるきり別人だ。
ねえ、お母様。
あなたは一体、誰のことを話しているの?
そんなことを考えているうちに、目の前で話しているお母様の顔ですら、見覚えのないものに思えてきた。
この人、本当に僕のお母様なんだっけ?
本当に?
僕は逃げるように目を逸らして、自分の両手を見下ろした。するとその手すらも、普段とは大きさや形が違って見えた。ギョッとして息を呑む。
この体って、本当に僕のものなんだよね?
誰か別人の肉体に、間違って入ってしまったなんてことはない?
そこでようやく、僕はハッと我に返った。
慌てて馬鹿げた疑念を振り払う。
そんなことあるわけがない。現世鏡で見たときにこの病室に横たわっていたのは、間違いなく自分の肉体だったじゃないか。目の前にいる女性だって、ちゃんと僕のことを「うちの息子」と呼んでいた。
それにこの両手も、落ち着いて確認すれば見慣れた自分のものだ。きっと光の加減か何かで、違うふうに見えただけ。手も足も胴体も、藍色の前髪も、グリモーナで見た自分と同じだ。
大丈夫。この肉体は、僕のもの。
それでも僕は胸の内にあるゾワリとした感覚を、完全に追い出すことはできなかった。
だって僕の名前はロミだ。
覚えている限りずっと、僕はロミとして生きてきた。
ずっとロミだったんだ。
ロミュールなんて人、僕は知らない。
でもこの肉体は、ロミュール・モンターニュという人のものらしい。
ならこの魂は・・・・・・・?
自分を「ロミ」だと信じて疑わない
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作者コメント:
冒頭の回想シーンは記念すべき第1話です。
懐かしいですね。
ロミと木 world is snow@低浮上の極み @world_is_snow
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