鬨の声が城の各所から聞こえる。どうやら完全に岩屋の命運は尽きた。

「ま、分かっていたことだけど」

 傘と布で顔を隠したまま彼女は岩屋城を見続ける。彼女が立っている一つ隣の山の中腹にある木の陰から島津の旗が本丸に立っているのがよく見える。

 火を点けないところを見るとやはりここを宝満城攻略の拠点にするのだろう。時間を稼がれた挙げ句、被害も相応のものになったが、恨みを優先させないのはさすが島津の統率力だ。

 岩屋城の将兵は全滅し、中には任務を果たさずに我こそ紹運の解釈をと動いた盲信者もいた。だが、それも主を守らんとして動いたと美談に変えられるだろう。

「それをするのは私の役目か……大友の士気を上げるためとはいえ、嫌な役目ね」

 特に紹運へ密かな気を持っていた生臭坊主は自身にとって最も受け付けられなかった。

 衆道に走り、誰にも気付かれないように紹運を狙っていたと醜聞を流してやりたいが、出来ない。

 家臣の過ちは主の過ちでもある。

 知られれば心無い者から高橋の主は家臣の邪な想いを見抜けなかった愚か者と言われるだろう。

(それだけは御免被る)

 彼を支えることに生涯をかけてきた以上、死んだ後の名跡も守っていかなければならない。

 豊臣がいよいよ毛利を動かしたという報告を昨日、島津の陣中で聞いた。

 結局言わなかった。

 この時期、この辺りの風は時間に関係なく向きを変える。彼女が言わなかったのはこの風のような気紛れだった。

 言えば紹運の気が緩むかもしれない。直感がそう囁き、言おうか言うまいか迷っている中で紹運は彼女の前で腹を切った。

「言ったところで気が変わるような人じゃないって分かってたのにね……」

 言えば喜んで紹運は主家のために死ねたと言うだろう。

「……なるほどね……私も馬鹿だ!」

 足下の石ころを無造作に蹴り上げる。斜面を転がっていくのを見ながら彼女は眉間のしわをつまむ。

 言わなかったのは叶うはずが無いただの願望だった。

 身内贔屓だが、紹運は名将だ。与えた被害やこれから攻略しなければならない宝満城や立花山城にかかる日数を計算することなど容易い。

 豊臣の援軍が間に合うと分かれば彼はすぐに決死隊を率いて島津の陣へ突撃をかけたか城に火を放っただろう。

 岩屋城と宝満城は二つで一つの城。本城である宝満城を落とすには岩屋城は絶対に必要な城だ。それを防ぐために当然の措置を取るだろう。

 おそらく島津も城がそっくり奪えるとは思っていない。最後まで足掻いたが故の代償だ。

 単純に彼女は紹運に一日でも生き延びてほしかった。

 あわよくば豊臣の援軍が来るまで持ちこたえて平和な高橋の地で残りの人生を謳歌したいと思っていた。

「全部叶うはずが無いのに……」

 さらに蹴った小石が転がっていき、夏の青々とした葉の中に消えていった。

 昨日の行為は彼女の最後の悪あがきだった。駄目なら潔く諦めるつもりだった。しかし、人の心はなかなか未練を捨てさせてはくれない。忘れようにも、もしこれを乗り越えていればという暮らしを想像してしまう。

 甘過ぎる願望に自分が嫌になる。どうしてこんなことを考えたのだろうか。戦国の世に生まれた武人は必ず戦場で死ぬことを望むことなど分かっていた。

 自身も武人の娘である。いずれ覚悟は出来ていたはずなのに。

「そういうことなのかな……」

 活発で他の大名の女のように嫁がされて裏で大人しく出来るような性格ではない彼女を密かに修行に出したのは他でもない紹運だった。

 化粧などに興味を持たずに武芸を見てはしゃぐことを実家でも理解してくれる者がおらず、押さえ込まれるようにさっさと婚姻させられた。

 自身の手で頬を触る。先程、紹運に撫でられた感触はもう思い出せない。逃げるのに必死だった。いくら島津が略奪を禁じても兵の全員がそれを守る訳がない。だが、せめて最期の感触ぐらいは覚えておきたかった。

(だから生きてほしかったのかな……)

 顔に残る醜い痣のような痕の所を紹運は慈愛に満ちた表情でさすってくれた。その感覚をもう一度だけでも良いから味わいたかった。

 わがままだと思う。自身が紹運に対してそう言ったように。結局、人は変わらないまま生涯を終える。隠していても土壇場で本性が出るものなのだ。

 彼女は紹運の実家、吉弘家と同様に大友の家臣であり斎藤家の出だった。紹運と出会った後に疱瘡にかかり、残った痕のせいで台無しになった顔を理由に婚約を取り消した。にもかかわらず紹運は両家を説得し、結局婚姻を結んだ。

「容姿ではなく美しき心に惹かれた」

 両家を説得したこの言葉を親たちは武人の鑑と讃えていたが、裏を返せば心から好いてくれたことだ。武人の妻というのは政略の道具となる。

 紹運は違った。一度だけ見合いをして気に入らなければ断ると父親にもはっきり言って望んだ。最初は誠実そうだしと決めた。

 病を得て後遺症が残ると分かった時、彼女は正直嬉しかった。婚約を破棄出来てましてや実家からも要らないと思われる。自由を手に入れて好きに人生を送れる。武芸を磨き、適当に生きていける素晴らしい将来が待っていると思っていた。

 だが、紹運はそれ以上に自身のことを想ってくれた。飾り気の無く、体を動かすことにしか頭に無かった己を。

 断られるつもりだったため、かなり動揺したが、紹運に従うと父にも伝えて嫁いだ。どうせ家に残ったところで腫れ物扱いされるなら、付いて行ったほうが何か楽しいことが待っているかもしれない。

 それでも彼女の中で疑念が晴れることはなかった。紹運がもしかすると徳のあると自身を世間に思わせるための見世物にされたのではないか。

 気になっていた彼女は思い切って嫁いだその日にいつ心に惹かれたと感じたのか聞いた。すると紹運は恥ずかしげも無く「筋を分かっていると話をしていて感じた。それに、言いたいことを偽り無く申すところが清々しく、私と同じで思うがままに動くが好ましいと思ったが故」と言った。

 そのようなことを感じさせる言動を取った覚えが全く無い。紹運は一度だけの見合いでそこまで見抜いたのだ。認めざるを得ないと彼女は思った。嫁いでみれば紹運は政略結婚をした自身のことを案じてかなり慎重に接してきた。

 心底惚れたのであれば早く押し倒せば良いのにと首を傾げたが、彼なりの誠意を示そうとしてきたのだろう。彼女自身が疱瘡によって心がまだ傷付いていると思い込んでいたようだ。全くそのようなことは無いと言っても、もしかすれば心底では気付いていないだけかもしれないと言って聞かなかった。

 そうこう過ごしている内に彼女は紹運が随分と我がままだと感じるようになり、次第にお節介なのだと気付いた。我がままということにしておいたのは周りが彼の過ぎたる慈しみを好意的に受け止めていたからに他ならない。

 結果的に彼の誤解を解き、軽口を言い合えるようになるまで半年ぐらいかかった。

 人が彼のためならば役に立ってあげたいと思い、大友の将来を支えると噂していたのも頷けた。彼女を含めた家族には家臣ら以上に世話を焼き、皆から愛されていた。

 そして、彼女もまた彼を支えたいと思いようになってしまった。不自由なく過ごしてもらいたいとしつこいぐらいに気に掛けてくれているのが嬉しく思うようになり、恩返しをしたいと思うようになった。

 そして彼女もまた我がままである。この顔では紹運のような大物になる妻に相応しくない。そもそも疱瘡になった時点で自分は生涯生娘のまま自由に暮らせると思っていた。

 それが無くなってしまった以上、紹運の妻として振る舞う必要がある。どうすれば良いか考えた結果、鏡で顔を見ながら彼女の出した結論は自ら興味を抱いたことを磨き、役に立つことだった。

 皆からの反対を押し切って家を密かに抜け出し、九州にいた忍の修行を受けた。実家は紹運を通して早く帰って妻としての役目を果たせとしつこく言ってきた。紹運もまた左様なことはせずに安心して暮らしてほしいと気遣いをもらった。

 だが、全てを無視し続けたおかげで彼女の要望のままになり、師から許可を得るまで妻の影を立てるという前例にないことをすることになった。

 彼女が修行を終えた後も子供を生んだ後も必要な時は影が化粧を施して城で待っている。

「けど、もう必要なくなったね。どうしよう」

 このことを知る人間がもうこの世に自身と影の二人しかいなくなった。

 夫を助け、より意識を共有したいと思い、飛び込んだ世界だが、もうその先に求める人はいない。

「普通に私の侍女にしよう」

 紹運が死んだからと簡単に口を割るような女ではない。冷徹に亡き者としてこのことを永遠に知られないようにするのもありだが、そのようなことをするほど彼女の心は冷酷ではない。

 生温いかもしれない。しかし、誤ってはいないと信じている。そうでなければ彼女は生き延びた意味が無い。たとえ何が起きようとも生きていくことで幸福を得られる。

 それが乱世を裏で見てきた彼女の信条であるから。

「不自由ばかりさせたからな。それなりに楽な生活をさせてあげないと」

 顔を知っている侍女がいるかもしれないが、痣の化粧を落とせば露わになることはないだろう。

「にしても、意識を共にしたいと思っても最期は結局互いの我がままの拗れか……」

 島津の旗の一部が山を下りている。本陣に向かっているのだ。紹運の首もそこだろう。扱いがどうなるか分からない。

 忠臣として島津からも賞賛されるか国衆からの犠牲の恨みが勝り、一族郎党に危害が及ぶかもしれない。

 影から見ていた限りでは島津忠長以下、直臣たちは丁重に扱うだろう。首実検をするはずだが、伊集院の言動を見るに大丈夫であると信じたい。

 あわよくばいずれ豊臣の援軍と共に島津を倒した後、紹運の首を送り返してもらいたい。そしてよく頑張ってくれたと彼を愛でたい。本当なら生きて互いに九州が平定された後、共に謳歌したいと思っていた。

「いつまで後悔するのかしら……」

 口でぼやいても永遠に心では思い続け、空想の中で彼の生きている姿を見るのだろう。

「醜い顔で醜いくらいに清い愛を願った罰かな?」

 痣をなぞりながら、らしくもないと鼻で笑う。そもそも忍びたる者、常に仕える主の意志に従い、水の如き心で冷徹に物事を成せ。そう師によく言われた。

 その掟を破り、自らの願望に走った時点で叶えられないように天が運命を定めたのかもしれない。

(契りを交わした者への想いも捨てないといけない……もう金輪際、草の中には入らないわ)

 草として生きてきた。豊臣の内部のことも風の噂も含めて聞いている。おそらく豊臣の下では長らく泰平は続かないだろう。

 乱世に逆戻りしても、愛する者も戻ってくることはない。そんな世の中で影に生きても意義などない。これからは彼のことを思いながら息子たちの行く末を見守ることになるのだろう。 

 子供たちも可愛いが、既に皆が一人前になっている。これから先は何も知らないように振る舞いながら城内でつまらなく暮らす。いざとなれば息子たちのために動くかもしれないが、親馬鹿は過ぎない方が良い。

「それにしても……」

 夏の暑さで枯れた花を見下ろしながら溜め息を吐く。

 役目を終え、土に帰る様は自分のようだ。

「こんなにも別れが呆気ないとはね……」

 彼女は右手で首を押さえる。

 昨日までと違い、不思議と痛みが無い。

 紹運が腹を切ろうとした時に感じたあの痛みは何だったのだろう。

 ゆっくりと山の中へと入って行くが、立花山のある北へ向けての道のりはずいぶん険しい。

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業の果て 北極星 @hokkyokusei1600

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