これまでの戦とは違う。

 島津の本隊が本気でこちらを殺しにかかってくる。

 国衆も島津の者たちに見られていると思っているのかいつも以上に必死に戦っている。その様子を見て吉田が深刻そうな表情で後ろにやって来た。

「殿……」

「やはり総力では勝てぬか」

 紹運は頭巾から滴る汗も拭わずに島津の旗を見る。

 早く戦を終わらせんと息巻いている一万の兵は戦意のない二万の兵を相手にするよりも手強い。

「吉田。一度広間へ戻ろう。報告が来る」

 吉田はその意味を悟ったのか、唇を強く噛んでいる。

 徐々に将の死や砦の陥落の報告が入ってくる。

 何か打開策があるのかと問われても数の差がありすぎる。

 紹運にできることは、もはや座して死を待つだけだ。

「三原様、百貫島砦にて討死」

「屋山様が二の丸砦にて討死」

 続けて舞い込んだ二つの報告に紹運はしかめっ面で答えた。

 知勇を兼ね備え二人を失ったことは悲しむべきことだが、これらの報告に不可解なところがあった。

「屋山が守備していたのは虚空蔵台であろう。何故にかような地で?」

「おそらく、体勢を立て直すべきと思い、退いたのでは?」

 吉田の言に理解したと頷いたが、どうも腑に落ちない。

 屋山は岩屋城の城主として幾度となく紹運の危機を救い、彼がいる限り岩屋を落とすことは出来ないとまで謳われた。そして、決して背を向けることを良しとしない彼が撤退したのはかなりの理由があったはずだ。

(最期まで私を生かすつもりだったのか。実に愚かなことよ)

 戦が始まるより前から屋山は紹運のことを城の外に無事に出そうと企んでいた。賛同する三原と共に様々な試みをしていた。

 戦が始まり、島津の攻めが苛烈を極めてくるとそれどころではなくなり、流した血と汗と共に忘れていたと思っていたが、諦めが悪かったようだ。

 おそらく守るべき所を守って逝った三原も同じだろう。

 諦めて役目に徹し、死んだ者と主の思いと最期まで相容れないままに敵に背を向けた者。屋山の行いを後世に残せる者はいない。体勢を立て直すために撤退した時に討たれたと語られるだろう。

「殿、もはや二の丸も陥落したも同然。本丸の死守を某に命じて下され」

「いや、屋山と三原という高橋の名だたる将が死んだ。かの二人が亡き今、この城を守ることは出来ようか」

「まだ諦めるには早うござる。大友の命運がまだ掛かっていることをお忘れか」

 紹運の死にかけていた目が生気を取り戻す。曖昧に何度か頷き、苦笑いを浮かべる。

「……そうだったな。武人の血が、過ちを招くところであったわ」

 吉田の安堵した笑みが少しだけ心を穏やかにさせてくれた。同時に惜しくも感じた彼は若く、これから名を上げるはずであった。しかし、死地を共に行かんとする思いには感じ入った。

(弥七郎、すまぬな。かような者を我が下へと寄越してくれて)

 ここにいなければ、いずれ立花を支える重臣となっていただろう。若さ故に忠義に報いて功績を得たいと必死だったのかもしれない。

 吉田に本丸の門を死守するよう命じるため、鋭い目つきで彼を見る。だが、口を開く前に兵士が飛び込んできた。 

「報告、屋山様のご子息が城外へ撃って出たとのこと」

 紹運と吉田は驚き、互いに目を見合わせる。

 屋山には齢十三歳になる嫡男がいた。元服していないため、戦に参加させることは出来ないと突っぱねたが、本人が土壇場で無理矢理参加してきた。

「某が兵を率いて助太刀に参りましょう」

 紹運は頭を横に振って進言は受け入れられないと告げる。曖昧ではなく、はっきりと返したことが吉田にとっては予想外だったのか目をこれでもかと見開いている。

 小曲輪は三十人、大曲輪は百人ほどいる。それを屋山の息子に当てる余裕など無い。少しでも時を稼ぐには残っている要所を守ることだ。

「殿! 次代を担う者までも巻き込むおつもりか!?」

「ひとたび戦場に出れば齢など無い。よいか。屋山の倅は自らこの城に来たのだ。覚悟は出来ておった」

「されど、屋山殿のご子息はこれからの高橋を支える男。かような者を容易く父と共に死なせてはなりませぬ」

「良い。おそらくはあれも分かっておっただろう」

「……屋山殿が、でございますか?」

 紹運は静かに頷く。互いに黙ると戦の喧噪が近付いてきているのがよく聞こえる。

「あれが今この時に単騎で撃って出たとならば、自らに手助けはいらぬと申しておるのも同じ。ならば、その思いを汲み取るのが武人としてすべきことであろう」

 吉田の表情が歪む。込み上げる悔しさと紹運の冷徹な判断への怒りがよく分かる。

(……私とて口惜しいのだよ)

 若い者がまたさらに犠牲になってしまう。自身の無力さが何とも言えない痛みとなって心に刺さる。戦で受けた傷よりも遙かに堪えるものだ。

「ならば、屋山殿の奥方は如何致す」

「既に知っておるだろう。御身のことも心配いらぬ」

「真でございますか?」

 力強く頷いてみせるが、確証は無い。

 忠長と伊集院なら人柄と今後の利害を考えて乱暴狼藉はしないだろう。 

「吉田、直ちに本丸へと続く門の守備へと向かえ」

「……」

 無言で立ち去って行く吉田の背中から憤懣やるかたない気持ちがありありと伝わってくる。

 紹運も立ち上がって一つ息を吐く。外へ出ると島津兵の声が二の丸から聞こえてくる。見えてくるのは味方の兵が傷付いた兵を引きずっていく様と二の丸に向けて進んでいく将兵の様ばかり。

 皆の必死な形相が、否が応でも敗北へ近付いていると感じる。

 太陽の位置を見るともうそろそろ正午に差しかかろうとしている。

「今日はたしか、二十七か……」

 戦が始まったのは七月十二日。まさか半月も岩屋城が落ちないとは敵味方誰もが思わなかっただろう。

「敵がこちらの水源を断ったのと共に我らも敵の兵糧の一部を焼いた故だろうな」

 三日前にあれが自慢げに言ってきた。

 太宰府の近くにあったので戦前から目を付け、機を見て火を点けたり、水をかぶせて腐らせたと。

 なぜ教えてくれなかったのか問い詰めたが「敵を欺くには味方から」と適当なことを言っていた。せめてもの抵抗なのかもしれないが、圧倒的数の差を兵糧の一部を使えなくした程度で逆転することなど出来ない。

 敵の本隊が動かなかったのは兵糧の損害をこちらに悟られないためのごまかしだった。あの時に回り込んで奇襲をかければ空の城をすぐに落とされ、奇襲部隊も本隊にやられてしまうだけだ。

 結局、城が落ちるまで敵の後手を回らなければならなかった。先手を取れたとしても城を守れるような効果など無かった。

 あの者もそれを知っていた上で兵糧に細工を続けていた。最初の頃は何かの拍子で燃えたりしていたと敵も思っていたようだが、いい加減警戒していたようなので戻ってきたと言っていた。

 何となく籠城を始めた頃は自身の前に現れることが少なかったと思っていたが、納得した。

(なんだかんだで恩を売ってきおって)

 おかげで島津は本隊をすぐに投入することは出来ず、新たな兵糧が届くまで待機することになった。生きて褒美がほしい国人衆だけでは必死な岩屋城を落とせず、援軍を寄越さない島津との間に溝が出来たかもしれない。

 高望みが過ぎるかもしれないが、期待しても良いだろう。

(奴が死んで涅槃に来たら、詫びる他あるまい)

 褒めることはしたくない。紹運の子供じみた自尊心がそう言っている。

「さて……」

 紹運は部屋にかけてあった愛槍を手に取ると外へ出た。

 真っ直ぐ正門近くの塀に上ると既に敵兵が梯子をかけようとしている。

「上らせてはならぬ」

 指示を与え、弓や石を落とさせる。かいくぐって来た敵も紹運自ら槍を繰り出した。

 それを幾度となく繰り返す。押し返された梯子に乗っていた島津の兵が地面に叩き落とされたり、待機していた兵の上に落ちる。必死な防戦に島津の攻め手が少し緩んだ少しでも時間を稼ぐために将兵が一丸になってくれることに喜びが大きい。

「怯むな! 数で押すのだ!」

 そう叫ぶ島津の足軽大将を紹運は矢で射る。見事に喉元に突き刺さった。足軽大将は呆然とした後に痛みを自覚したのかゆっくりと倒れる。

「島津など恐れるに足らず! 押し返せ!」

 総大将自らの活躍に高橋軍の士気はさらに上がる。元より今日で最期だと知っている兵たちは一人でも道連れにしようと持ち場で暴れているが、さらに顔つきが変わった。

「殿、あれを」

 萩尾が指した先には島津の旗印がこちらに向かっている様子が見える。

「おそらくは忠長が率いる本隊であろう。攻めに加わる前に奴らを少しでも討て」

 変わらずに鼓舞するが、劣勢の戦が続く兵たちの動きが徐々におぼつかなくなっている。

 一刻程度経ったところで、紹運は気付かれないようにそっと前線から離れた。本丸の中に戻ると兵たちに守りを固めるように伝え、自らは奥の部屋へと入った。

 父より譲られた小刀を手に取り、刃を確認する。しばらく使っていなかったとはいえ、錆びてはいないようだ。

 吉弘から高橋に入る時に形見代わりと渡された物だった。いざとなれば自らを守るためにと言われたが、まさかこのような使い方になるとは思わなかった。

 実父は戦場で病を得て死んだ。

 戦場で散ったのは同じでも、まだ死地を選べたのは幸いなのかもしれない。

 紹運はそのまま部屋を出ずに目を瞑ってその時を待つ。

 人生を振り返るほど大きな功績を立てた覚えはない。大勝を収めた戦はほとんどが道雪と共にいたからこそのものだった。それを勝手に二人のおかげともてはやされるようになり、宗麟から朱槍を授けられるまでになった。

 そして、その槍に怨敵の島津の兵の血を覚えさせたのは喜ぶべきだろう。これで宗麟への恩へ報えた。

(大殿、如何に言われようと私にとっての主は他にございませぬ。先に逝くことをお許し下され)

 強く握ると柄が軋む音がする。手入れを欠かさず行い、折れることはなかったが、限界だったらしい。丁度良いと言うべきか。紹運は槍に付いた埃を払う。武具に対する思い入れはあまり持たないが、主より頂いた物となれば別だ。

(もう少しは物にこだわっても良かったかもな)

 道雪に雷切があったように何か対になる物があればもう少しは大友家中だけでなく、他の家からもその人ありと言われたかもしれない。

 統虎は雷切を受け継ぐことはないと自ら言っているが、実の親としては期待してしまう。むしろそれぐらいの者になってくれなければ大友を支え、立花という大家を守ることは出来ない。

 見届けるのは冥界でのことになりそうだと思っていると外から歓声と悲鳴が聞こえた。

「……」

 槍を側に置き、紹運は待つ。しばらくすると埃まみれになった吉田がおぼつかない足取りでやって来た。

「高橋様、申し訳ございませぬ。敵に本丸を突破され、城内に敵がなだれ込んでおります」

「……左様か」

 視線を上げれば微かに島津の兵が背負っている丸に十字の旗印が見える。

「部屋に戻る。吉田はここで敵を防げ」 

「殿、敵が既に城内に!」

 割り込むように報告が入る。

「遅かったか……吉田、攻勢を止めるよう請いに向かってくれ」

「高橋様……」

 遂に負けを認めたのかと吉田は紹運を見る。まだ戦えるから最期まで共にと他の者たちも訴えてくる。だが、紹運は努めて穏やかな雰囲気を出した。

「もう良い。皆、よう戦ってくれた。これで終いだ」

 紹運の気力が尽きたのだと吉田たちは泣きそうな顔になっている。

 これ以上戦うのは残された民たちのことを考えて得策ではないと思ってのことだが、言わずにおく。

「私は奥に戻る。あとは思うがままにせい」

「高橋様……!」

 吉田を無視して広間から出ると喧騒が近付いているのがより聞こえる。吉田が動いてくれているとはいえ急いだ方が良さそうだと足を進める。

「待たれよ」

 聞き覚えのある声を耳にして振り返る。それと同時に紹運はここで命運尽きたかと自らを嘆いた。大柄な武将が兵を差し置いて最も前に立っている。近くで見ると日焼けした美丈夫で、穏やかな目をしている。

「何故、貴殿がここに」

「将たる者、兵を率いて戦を行うもの。ならば、これもまた理に適うかと」

「それは道理だが、貴殿は別であろう……伊集院殿」

 そう言うと伊集院は口元も吊り上げる。紹運があまり好きではない笑い方だ。

「それにしても、高橋殿。昨日は見事な言にござった。我が軍の将兵は皆涙を流し……」

「敵の将自らここまで踏み込むとは……よほど島津には人がおらぬようだ」

 言葉を遮られたことに戸惑ったように伊集院の表情が一瞬固まる。だが、すぐに乾いた声で笑うと口を開いた。

「ええ、その通り。されど、言葉を返すようではございますが、かような小城に秀でた者を使うのは、鶏に牛刀を使うが如きもの」

「私のことを申しておるのか?」

「左様。この城はそなたのような大人物には相応しくない」

「それは私を侮辱しておるのも同然よ」

 紹運が選んだことを島津が知る由もない。だが、伊集院ほどの者がまさか紹運が命じられてこの城に入ったとでも思っているのだろうか。

「如何なる意味で?」

「私は自ら望み、この城を守ると誓ったのだ」

 教本通りの問答の後、これも教本にあるような伊集院の笑いが響く。紹運の後ろにいる兵が殺気立つのを紹運は目で制する。

「それは大変に失礼なことを申しました。お詫び致す」

 一つ一つの言動がわざとらしい。掴めないが、何か真意を隠していることは分かる。

「仰りたいことは如何なることでござるか?」

 自ずと眉間にしわが寄ってしまう。伊集院は島津の重臣として戦を早く終わらせるためにさっさと敵の総大将を倒したいはずだ。わざとらしいのんびりした振る舞いに疑問以上に嫌悪感を抱くほどだ。

「貴殿が降伏すれば一族も大友の脈絡をも保つことは容易となり申す」

 伊集院が穏やかな口調で何を言い出すかと思えば、昨日も他の者から聞いたような台詞だ。わざとらしく溜め息を付いて紹運は口を開く。

「高橋は大友の臣下。大友の如き大大名は敗れたなら滅ぼされるが定め」

「左様なことは致さぬ」

「敵の将の申すことなど、信用できぬ」

「否、将としてではなく、某は男として申しているのでございまする」

 紹運は目を少し大きくしたが、伊集院に部屋から出て行くように言う。決意は変わらない。また相手の重臣のことなど信用できない。

 伊集院の島津の立場上、すぐに意見を翻しかねない。それに大友は滅ぼす方が島津にとって利があることぐらい誰にでも分かることだ。そのためにわざわざ忠義に厚い将を生きたままにすることなどしない方が良い。

「言葉を返すようで悪いが、私もまた男であるが故、譲れぬものがある」

「それは武人としての意地。ならば人として如何に思うているのか。問うてもよろしいか?」

 真摯に聞いているのか興味本位なのか。全く分からない。どちらにせよ、高橋の意地としてここは乗っておく。

「乱世に大名の男として生を受けた以上、身を削って主家のために尽くし、民を安んじるのが役目。主が危機ならば命を賭して盾となる。違うと申すなら申されよ」

 伊集院は無言のまま紹運を見ている。

「貴殿もまた島津の臣下として生きている。この思いが分からぬはずもあるまい」

「……なるほど。確かにその通り。貴殿は天から与えられた仕える家を間違えた。ということですな」

 兵たちの怒りがこみ上げているのがよく分かる。紹運は何とか制そうと前に立ち、伊集院を睨む。しかし、向こうも物怖じする気配を見せない。

 そして先程は降伏を勧めつつ、わざわざ城にまで上がり込んで怒りを誘っている意図が掴めない。

「殿! せめてもの道連れにかの者を討ち取りましょう!」

 静かに首を横に振って炎のような兵たちの怒りに水をかける。伊集院の後ろには数多の兵が控えている。こちらが打ち掛かったところで伊集院に届くはずがない。 

「いやはや、某も貴殿の最期が真に惜しいと思うております。されど……他の者はどうか……」

 伊集院は背後に控える兵たちを一瞥する。鎧は汚れ、脆くなっている。とても後陣に控えていた島津の兵には見えない。

 ここまで戦果を上げさせてくれず、ましてや家臣を失った国人衆の怒りは相当なものだろう。紹運の屍を切り刻むだけでは飽き足らず、このままでは宝満城の家族にまで累が及ぶかもしれない。

 故に伊集院はせめて兵たちをこちらで討ち取り国人衆の怒りを鎮めたいのだろう。

 むごたらしく殺してやることが死んだ者たちへの棚向けとなると思っている者も少なくない。ここまで耐えてきた死からの恐怖から解放され、それを欲情に変える兵が何をしでかすか分からないのに紹運とて知らない訳がない。

 既に散らす命と決めている以上、紹運とて無粋な真似をされたくもないし、一族に累が及ぶのは望んでいない。

 そして高橋の将兵は島津に対する最期の意地を見せようと血気に逸っている。互いの思いを解消するには今のこの場は絶好の機会だ。

「分かり申した。されど、貴殿に一つだけ伺いたきことがある。偽りなく仰って下され」

「何なりと」

「何故に昨日はかようなことを平然と言うことができたのでござるか?」

「昨日は私が申したのではありませぬ……大友より寝返りし者が言ったのでございまする」

 後半の言葉を小さくした。もしやと思い、後ろに控えている兵たちを見る。やはり伊集院の背後にいる兵は島津直属の者ではない。これまで幾度も城を攻めるために山を登って来た証として足袋が擦り切れている。

 伊集院は島津の筆頭家老である地位を活かして自らの発言を揉み消す根回しを済ませた上であの言葉を言ったのだ。

「抜け目ないのは良いが、いずれ災いに転じるであろうぞ」

「ご忠告痛み入る」

「私が腹を切った後、首は貴殿が必ずや持ち帰って下され」

「言われずとも」

「されど……」

 紹運は持っていた朱槍を強く握り、島津の兵がたじろぐほどに強い殺気を飛ばす。味方も雰囲気が変わったのを背中で感じたのか、背後から緊張感を漂わせている。

「私も武人として最期まで成すべきことがために抗うつもりにございます」

「おいそれと腹を切るつもりはない……さすがは道雪殿と共に筑前に誇る大家を継いだ御方……」

 伊集院はそう言いながら手を挙げた。話していた時の動物を愛でるような穏やかな気は既に失せている。

「来るぞ」

 紹運の合図と共に皆が腰を落とす。そして伊集院の手が高橋軍に向けられた。

 島津軍が一斉に襲い掛かってくる。狙いが紹運に絞られているのは自身がよく分かる。散々苦しめられた敵の総大将の首となれば恩賞も多大なるものだろう。しかし、ただでやれる首ではない。

 槍を構え直すように振り回す。当たりたくないと敵は足を止める。一瞬で構えを作り、一番前にいる兵に突き刺す。喉元に貫いた槍を素早く抜き取ると隣の兵に薙ぎ払いを入れて首を掻く。

 狭い廊下は三人までしか前に出ることは出来ない。味方も紹運の邪魔をしないように後ろでいざという時のために待っている。

 一斉に三人で槍を向けられても紹運は受け流して一人一人確実に仕留めていく。後ろの兵も加わって槍を繰り出してくる時もあったが、簡単に距離を取ってしまえるのであまり気にならない。

 紹運は忘れていた武人として戦う感覚が徐々に戻ってくるのが分かった。御家の当主としてあまり前線で戦うことをしなくなっていたが、久方ぶりに血が騒ぐ。次々に兵を突き刺しては薙ぎ払う。

 誤って彼の後ろに倒された敵も味方によって突き刺される。

「如何した来ぬのか」

 いつか決着が付くであろうと思っていた敵兵も次は我が身と後退を始める。

「進め。下がれば斬る」

 一番後ろで伊集院が刀を抜く。板挟みになった島津兵はまとまって紹運に向かってくる。だが、臆することなく紹運は一気に槍を振りきる。兵たちが文字通り吹き飛び、後ろの兵も巻き添えになった。

 伊集院の表情に余裕が無くなっている。この粘りは予想外だったと語っているようなものだ。命令を撤回するかと思っていたが、そのつもりは無さそうだ。紹運は確かに今まで武人として暴れ回っていたが、大将としてすべきことも忘れていない。

「進め。伊集院を討つのだ」

 手薄になった伊集院への道を見逃さない。奇跡的に彼を討てば敵の一翼をもげたも同じ。圧倒的に不利な大友も少しは体勢が立て直せるだろう。

「防げ」

 突進してきた高橋軍を見て焦ったのか伊集院の動作にも余裕が見えない。簡単にやられる訳にはいかないとゆっくり下がっていく。紹運は味方から槍を借りると彼に向けて投げ付ける。

 顔を捉えたように見えたが、伊集院は躊躇なく味方の一人を掴んで身代わりにした。好機を逃したが、この狭い所では互角であることに変わりは無い。後は時間の問題だ。そう思った矢先に紹運は後ろから聞こえてくる足音に終わりを悟った。

 伊集院にも聞こえているのだろう。表情にだいぶ余裕が戻ってきた。廊下の角から味方の危機を悟った島津軍がやってくる。

 いよいよここで死ぬのか。最後の一暴れを見せようと今一度前に出ようと腰を落とす。

『行かれよ』

 伊集院の口が確かにそう動いた。逃げろと言っているのだろうか。しかし、味方の兵を囮に敵前で逃げるなど出来ない。

「止めよ」

 伊集院の手が挙がった。突然のことに敵も味方も呆気に取られている。

「高橋殿は矢止めを請われた。敵の最期を見届けん」

「伊集院様、左様な……」

「下がるぞ」

 反論を遮り、伊集院は堂々と命じる。敵には討ちたいと紹運と伊集院を見比べる者もいる。しかし、最終的に不承不承ながら従った。

「有り難く」

「見事でござった」

 目に邪推なものが見えない。先程とは違い、本心で言ってくれたのだ。

 「かたじけない」と伊集院に礼を述べ、頭を垂れる。騙し討ちされることはなかった。後ろにいた兵たちを見ると振りかぶっている者もいたが、伊集院が前にいるおかげで何も起きなかった。

「行くぞ」

 おそらく伊集院が去った後に国衆が命令を破って押し入ってくるだろう。各所に兵を置きながら紹運は城の最奥にある部屋に向かう。細長い廊下の距離がいつも以上に長く感じる。外での戦が終わったせいか蝉たちの声がよく聞こえるようになった。

 付いてきた数人の兵にも下がるように伝え、襖に手をかける。遠くから刀をつばぜり合い、そして誰かが斬られた鈍い音がした。

 いつ見ても机と書状だけの殺風景な部屋だと思っていたここが最期の場となるとは考えてもいなかった。だが、戦場の土となるのが武人にとって華のある死である。

 ならば籠もった城の最奥の部屋で散るのも誇らしいものだろう。

 見上げると殺風景な天井が映る。見ても何ら思いなどわかなかったが、これで最期かと思うと少しは風情を感じるだろうか。しかし、文化に親しみが無い自身では分からないと紹運は溜め息をつきながら筆を取る。昨日、書く機会が無いかもしれないと名簿に書いておいた句を正式な紙に認める。


『屍をば 岩屋の苔に埋めてぞ 雲井の空に 名をとどむべき』


 結局は紹運も大友への忠義だけではなく自身の功績を世の中に知らしめたかっただけだ。真意が他にあると皆に言ってもそれはただの妄言と思われる。ならば最期まで後世まで称えられるような忠義と功績を見せつけ、武人らしく腹を切って死のう。

大友に振り回された生涯だった。だが、忠義を貫き、武人としての生き様を全う出来たのはこの上ない喜びだ。だが、人としては父らしいことや家長としての務めも果たせない未熟者であった。

「せめて介錯のがおればな」 

 最期まで武人らしく死にたい。だが、叶わぬ思いを言ったところで何になるのだろう。自らが将兵を死地へと向かわせた報いが一人で辛く果てよという天の導きなのか。人として受け入れるしかないのだと紹運は腹を決めた。

「呼んだ?」

 感傷に浸っていた紹運の心の悲しみが一瞬で吹き飛ばされた。上を見ると天井からよく知っている人の顔が見える。

「いつから天井裏に忍べるようになったのだ?」

「味方の城の天井裏に忍び込めぬ草がどこにいる?」

「既に宝満に行っておったと思ったがな」

「見届けたいからな」

「……」

「何か弥七郎に言っておきたいことある?」

「お前に言っておきたいことがある」

 少し驚いたようで、口元が少し動いた。思えば今回の戦でこの者としっかり相対したのは初めてかもしれない。

「最期の時ぐらいは顔を見せてくれ」

 先程まで武人として果てたいと思っていた。

 だが、この者を見た途端に気がすっかり変わってしまった。この者に見届けられるなら最後ぐらいは素の紹運として接してから思い残すことなく死ぬ。

 紹運が「頼む」と言うと「ほぅ」と口を開いて鼻で笑った。もっと感慨深いことを言われると思っていたのだろう。

「そんなことを言うの久々だな」

「もう、お前と腹を割って話すことも出来ぬぞ」

 向こうは納得したと頷いて頭巾を取ると中性的な顔が露わになる。日焼けしたせいで少したくましさを感じさせる。

 さらに胸元から手拭いを取り、顔を拭く。すると焼けた肌や所々に戦場にいたが故にこびり付いていたはずの染みなどが消えた。紹運の目の前にいるのは正しく女性である。

 左の頬辺りにある痣のような痕が無ければ誰もが美しいと思うだろう。

「久しぶりに見たな」

「それはそうでしょう」

 このような戦場に女が堂々といるのは城に籠もって戦っているのは別として兵たちの欲を解消する格好の的だ。分かっているが、紹運が彼女の素顔を見たのは本当に久しぶりで、一ヶ月近くは見ていなかった。

「結局駄目だったね」

「そうだな」

「詫びるつもり?」

「まさか。お前も覚悟は出来てあっただろう」

「当たり前」

 そもそも耳川の敗戦を一番最初に紹運の下に伝えたのは彼女である。また紹運が岩屋に籠もると最初に伝えたのも彼女だ。

「じゃあこちらからも言いたいことがあるけど」

「何だ?」

 言った途端に快諾したことを後悔するくらいに爽やかな笑みを浮かべてきた。紹運は思わず身構えたが、求められたのは拍子抜けするような愚問だった。

「首は私が持って行っていいかな?」

「ならぬ。既に伊集院と約した」

「好都合じゃない。あなたの首が無いと島津は騒いで探すのは間違いないし、宝満や立花山まで時間を稼げるでしょう」

「ならぬ。一度約したものを違えれば伊集院も態度を変えるやもしれぬ。ましてや私を探すのは末端の兵。奴らが民に何をするか分からぬ」

「目的は大友のために時を稼ぐことでしょ? ならやむを得ないことも必要なのは伊集院も分かっているはず」

「伊集院は重臣ぞ。右を向いておる間に左に楔を打っておるわ」

 紹運が一番恐れているのは大友の未来を支える弥七郎たちに累が及ぶことだ。

 島津としても紹運の実子で、道雪の養子である彼をなるべく戦わずに手を打ちたいはずだ。寝返らせるか大友に葬らせるかどちらにせよ、豊臣との戦前に味方の数を減らしたくないだろう。

「どういうこと?」

「先程の伊集院の言を察するに、奴は豊臣とも繋がっておる」

「なるほどね。なかなかやるじゃない」

「豊臣はどれほどで来るだろうか……」

 最後まで期待していたが、僅かに残された希望の道が開くことは無かった。

「こっちを見られても困るよ」

 彼女に配下などいない。島津のことで手一杯だったために他の情報を集める余裕など無かったのだろう。

 互いの溜め息が同時にこぼれる。それから無言のまま少しの間だけ時間が過ぎる。彼女と話すのもこれが最後になる。普段、真面目な話の時以外、紹運から口を出すことはなかった。今この場において何を話せば良いのか分からない。

 向こうはこちらから話すつもりは無いと待っている。体を左右に揺らして口元を緩ませている。可愛らしいと思っているのだろうかと眉をひそめたい。とはいえ話が出来なくなるのはこちらだ。悩んだ末に紹運は平坦な口調でこう言った。

「介錯はいらぬ。早う逃げい」

「……さっき介錯が欲しいって言ってなかった?」

「お前がいたが故に言ったことよ」

 話の切り出し方に対する呆れと嘘だと決め付ける目線が痛い。その通りであることがなお紹運の心に刺さる。

「……で、いるの? いらないの?」

「いらぬ……と言えば嘘になる」

「素直じゃないねぇ」

 彼女のわざとらしい盛大な溜め息が部屋中に響く。外に漏れていないか耳を傾けるが、外はそれどころでない。

「古今東西の中でこんな介錯は初めてでしょうね」

「語られることはないだろうがな」

「いいでしょ。今も昔もこれからも、私達はそれがお似合いだから」

 二人の間柄を知っている者はいても、真の関係を知っている者は少ない。実の息子たちにも言っていない。彼らは今、母親が宝満にいると思っている。

「奴らが来た時には我らで詫びを入れねばな」

「やめてよ。縁起でも無い」

「確かに……親として今の言は良くないな」

「……外の足音が近い」

 紹運はふと襖の方に目をやる。耳を澄ましても聞こえない。正に草の耳だと感心するが、口にはしない。

 鎧を脱ぎ、服一枚になる。用意していた小刀を手に取り、目で介錯の位置に着けと訴える。 

 彼女が深く頷くと腰にかけていた鞘から刀を抜いて渡す。奪うように受け取るとすぐさま振り上げた。

「それにしても、お前が昨日とはまるで別人の如き様だな」

「何のことかしらね」

 無表情のままこちらを見ている。平然と昨日のことを水に流す態度。多少なりとも心が痛むが、素晴らしいとしか言えない。

「……弥七郎たちのためだ」

「え?」

 勝手に口が開いていた。彼女もさすがに表情を変えて驚いているだろう。そちらを見なくても口調で分かる。そこであえて何も言わずに堪えたところに格好良さを示そうと思ったが、やめた。ここでの紹運は武人ではなくただの人として彼女と接することを望んでいるのだから。

「大友をここまでにした大殿、それを支えてきた我ら。皆、乱世の収束を待たずに逝く。これより先、世の泰平を成すべきは戦をあまり知らず、ただ民のために成すべきを成す者たちこそがふさわしい」

「まさか、大殿は……」

「私は大殿に今の大友の中で最も信頼されている。故に、皆までは言わぬ。されど、弥七郎は私を頼ってはならぬ」

 何が言いたいのかわかるな、と悪戯っぽく笑ってみせる。

 向こうもこれ以上聞いてくるつもりは無さそうだ。紹運はもう一度正面を向き、静かに息を吐く。

 腹に突き刺すため、腕を伸ばした時だった。背中に何かが走り、激痛が襲った。思わず屈みたくなったが、この場でそのような態度を見せるわけにはいかない。

 だが、金縛りになったように体は動かない。

「どうしたの?」

 かけられた声で少しは楽になるかと思ったが、逆に激しくなった。

 これは彼女によって手に掛けられることへの恐れと悲しみ。それらが痛みによって実感させられるようになっている。

 紹運は先程よりも深く息を吸ってから吐く。

 大友の存亡をかけた戦なのに自らの思いと彼女の思いのぶつかり合いが最終的には一番記憶に残ってしまった。そして見事に武人としての意地を押し通した結果が痛みになって返ってきた。

 これまではどうしてと思っていたが、これでは受け入れざるを得ない。これをもし彼女もどこかに共有しているのであればすぐに解放しなければならない。

「ふんっ!」

 腹に小刀を突き刺すと背中の痛みは消えた。刺した箇所が痛むが、背中の痛みとは比べ物にならないぐらいに軽い。

「すまないな。最期まで……」

「……」

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