島津が城を包囲してから半月が経とうとしている。

 相も変わらず戦を国衆に任せて本隊は後ろで様子を伺うばかり。

 そろそろ反発が起きても良い頃合いではないか思っていたが、忠長や伊集院らが手を回しているのだろう。

 広間の中で敵の陣営に見立てた黒い碁石を眺める。

 打開策がないか思考を巡らせるが、全く浮かばない。

 砦陥落の報告が徐々に多くなり、碁石を動かすと追い詰められていくのがよく分かる。

 鬨の声が聞こえる。音からして二の丸を攻めている頃だろうか。一度、戦の状況を目で見ようと顔を上げる。広間には誰もいなかったはずだが、いつの間にか吉田が膝を着いていた。


「高橋様、敵方より使者が参られ、お目通りをと願っております」

「またか……いい加減、諦めれば良いものを」


 紹運は溜め息を吐く。半月の間に島津から三度、息子の統虎と豊臣から二度、計五度の降伏、撤退勧告の使者が代わる代わるやってきている。全てを丁重にもてなして送り返した紹運だが、さすがに六度目ともなると辟易としてしまう。

 いっそのこと門前払いするか弓矢で追い返すべきか。考えていると吉田が「御免」と上座に上ってきた。


「それが、此度の使者は……」


 そして耳元で聞かされた名前と場所を聞いて目を見開いた。すぐに吉田に本丸の士気を任せて敵の使者がいるという二の丸方面へと向かう。

 城一帯の櫓を守備している萩尾大学と合流して城内と城外から姿が丸見えになる櫓の上に立った。

 味方は危険だとと声を上げ、敵は無言で鉄砲と矢を向けている。だが、鉄砲も矢もここまで届くことは不可能。届いてもかすり傷が出来る程度。

 そう思っているとやはりというべきか、敵が構えていた飛び道具を下ろし、道を開けた。すぐに奥から矢止めを請う声が聞こえてきたため、紹運は味方に武器を下ろさせる。

 島津の隊列が左右に割れ、間から馬に乗った一人の武将がやってきた。


「某、伊集院掃部助と申す。貴殿は高橋紹運殿で相違ないか?」

「如何にも」


 敵の軍師とはいえここで騙し討ちをするほど、主家の名に泥を塗るような真似はしないだろう。


(そう思うが、はたして……)


 紹運は背筋が冷たくなる。伊集院の背後や周りの影に注目するが、気配は感じられない。

 だが、釣りの伏せといった伏兵戦法は島津の得手とするもの。先の戦いも大友の敗因はその戦法にはまったのが原因だった。

 目をこらして島津が伏兵を置ける場所を探りたいが、敵の使者を目の前にそのようなことをできるはずもない。


「高橋殿。かような形式での会見となることにお詫び申し上げる。されど、こたびは腹をくくって話をしとうござる」

「よろしい。早速、話されよ」


 伊集院は有り難いと一礼すると口を大きく開いた。


「大友きっての勇将に名を知られているとは恐悦至極。高橋様には回りくどい言い方は致しまぬ。降伏せずとも開城して下さらぬか?」

「それは幾度も申した。私に降伏や城を明け渡す気はござらぬ」

「それでは貴殿も貴殿の兄と同じ道を歩むことになりますぞ」


 想定外の人物が上げられ、紹運の表情が少し揺らぐ。

 兄の吉弘鎮信は耳川の合戦で討ち死にしている。


「開城を勧めに来たにもかかわらず、何故に我が兄のことを申される。筋が見えませぬな」

「大友宗麟殿が南蛮の宗教に狂信し、神社仏閣を壊した非道を貴殿も知らないはずがなかろう。確かに大友は九州六国を支配するほどの繁栄を誇り申した。されど、それも過去の話。大友家が斜陽の時なのは誰の目にも明らかにございましょう」


 紹運は決して口を開かず、相槌も打たない。伊集院の口調は明らかに紹運を煽っている。その真意がはたしてどこにあるのか。降り注ぐ真夏の日差しの中でそれだけが明らかにならない。


「対して我らが島津は、破竹の勢いで九州統一を目前にしており、主君の義久様は家臣からの信頼篤く、また和を重んじる御方。高橋殿ほどの勇将ならばむげにはされませぬ。大友家にとって、貴殿は正に宝の持ち腐れ。ここで死なせるには実に惜しいかと」


 微動だにせず伊集院を見る。こちらが返答しないと感じたのか言葉を続けてくる。徐々に目つきが変わっているように感じた。


「将兵達の命も助命くださるよう、義久様に願い取り計らう故、高橋殿、この城を明け渡して投降してくだされ」


 そう言うと伊集院は深々と頭を下げる。敵を眼前にして急所を差し出すのはよほどの覚悟があるということだ。


 だが、伊集院に降伏して欲しいと誠意を見えない。今までの使者の態度の方がどうせ降伏するだろうという驕りが見えたが、最低限の誠意は見えた。だが、伊集院の言葉遣いや態度は全く使者としてのへりくだりが無い。味方の兵には今にも伊集院に鉄砲を撃ちかけようとしている者もいる。萩尾に目で合図を送り、その兵を奥へと下げる。


「何度も聞いた言葉でございますな。その程度の言葉で私の心は揺らぎませぬ」

「ならば、言い方を変えましょう」


 伊集院がわざとらしく大きく息を吸っている。皆が固唾を飲む中でこの場を非常に楽しんでいるように見える。


「あくまで大友家に忠誠を尽くすというか!? 高橋殿、それは異教におぼれ、南蛮に国土を売り渡さんとした大友の過ちを見過ごすことと同じである! 貴殿が築きあげてきた武勲と名声、そのすべてを溝に投げ捨てるおつもりか!?」


打って変わって伊集院の口調は紹運を罵倒するものになった。高橋軍のみならず、島津軍の将兵が呆然としている。


紹運は伊集院の誘いに乗ってはならないと頭に上りそうな血を抑える。怒らせ、何か綻びを見つけて城から誘き出すつもりだ。一つ息を吐いて冷静さを保つように言い聞かせる。


「主君の過ちは、それを糾すことができなかった臣下の過ちでもあります。過ちを知ってこれを改めず、それこそ過ちであるとは古人の説くところ。そして、改めるとはみずからの過ちを棚に上げ、主君の過ちを責めたてることでは御座いませぬ」

「では、もはや救いようが無い主君に殉じると申すか!? ならば、貴殿の死は犬死として語られ、末代までの恥となろう!」


 伊集院は勝ち誇った笑みで返答を待っている。櫓からだと敵味方関係なく将兵の表情がうかがい知れる。

 城内の者たちは怒りで顔を赤くし、紹運が声を上げれば伊集院に向けて攻撃しようと身構えている。

 外の島津は一応伊集院の身を案じて守るような態勢を取っているが、どこか覇気が感じられない。先程の言葉は同じ武人として主の為に身を捨てる者に対してあまりにも侮辱的すぎる。


「殿、ご命令を」


 萩尾が後ろから声をかけてくる。語気から感じられる怒りは正に岩屋城城内にいる将兵の総意だ。しかし、この籠城の目的を忘れていけない。ゆっくりと首を横に振る。


「皆に武器を下げるように伝えよ」

「しかし……!」

「命に背く者がいれば捕らえておくように」

 

 話はそれまでだと萩尾に下がるよう手で示す。

 伊集院に視線を戻すと相変わらず嘲るように笑っている。


「貴殿のお考え、よく聞かせて頂いた。ならばこちらの考えも申そう」

「お聞かせ願おう」


 伊集院が挑発的な口調を続けていると命令を待たずに仕掛ける者が現れるかもしれない。そうなっては後ろに控えている忠長が一声でこちらに総攻撃を仕掛けてくるだろう。だが、ここで撃ち掛けることを禁止すると声にしてしまえばそれを口実にさらに挑発してくる。

 早々に彼の言を上回らなければならない。少しでも矛盾したことを言えば伊集院はそこを突き返してくる。そうなっては紹運でも城内に漂う怒気を抑えることは出来ない。最大の華の戦が最期の汚点に堕ちる。

 気を落ち着かせるために紹運は深く息を吸うとゆっくり大きく口を開けた。


「主家が盛んなる時は忠誠を誓い、主家が衰えたときは裏切る。そのような輩が多いが私は大恩を忘れ鞍替えすることは出来ぬ。恩を忘れることは鳥獣以下である。故に……」


 『我はこの城を最後まで守り通す』とまで言おうとしたが、それは出来なかった。敵味方問わずの歓声が山々一帯にこだまするほどに響いたからだ。


(聞いておらぬ……)


 複雑な心境ながらも表情に出すわけにはいかない。堂々とした振る舞いを貫き、歓声が落ち着くのを見計らってもう一度口を開く。


「伊集院殿、こたびは言葉で答えた。されど、次は弓矢でお迎え致す。ゆめゆめお忘れなきよう」

「承知。ならば明日までに遺言を認めておきなされ」


 雰囲気が少し白けた。

 苦し紛れにしても醜い。せめて黙って立ち去る方が格好は付いた。だが、明日には命が無いと岩屋の将兵にはっきりと伝えたことは恐怖を煽るには十分だろう。

 こちらの士気を下げることで島津の兵の犠牲をこれ以上増やさないためには効率的なやり方だ。


(武人としてではなく、島津がために泥を被ることも辞さぬか)


 実に良い軍師だと敵ながら見事だと思う。総大将の失態があったとはいえ耳川で角隈を殺めただけはある。


「顔付きすら変えず、こちらに背を向けて行くとはな」


 味方の兵の中にも伊集院の発言に白い目を向けた者もいるだろう。その中を堂々とした姿勢で帰って行くのはさすがに島津の筆頭家老といったところか。見事だと紹運は頭巾越しに頭を軽く叩く。だが、まだ紹運にはやるべきことがあった。


「殿、今が好機。あの愚者に武人の筋を見せましょうぞ!」


 萩尾が怒りのままに訴えてくる。迫力はさすがに高橋随一の猛将といったところだ。だが、紹運の冷静さは変わらない。


「ならぬ」


 伊集院を囲うように隊列が戻っていくが、まだ姿をはっきりと認められる。味方の兵は弓や鉄砲を構え、今か今かと紹運を見ている。


「構えているものを下ろし、勝手に撃ってはならぬと伝えい。逆らう者は斬る」

「されど敵の兵をご覧下され。伊集院のことを守らんとしている者はほとんどおりませぬ」

「よい。捨ておけ」

「殿、かの者は島津の軍師であり、筆頭家老でございましょう」

「この場で討つことで島津の気勢を削ぎ、少しでもこれより先の戦を楽にせんと?」

「御意」

「ならぬ」

「殿……!」

「くどいぞ」


 目を充血させている萩尾を見ても紹運の心は動かない。

 確実な判断をすれば伊集院は殺さなければならない仇である。大友の主だった優秀な家臣を亡き者にしただけでなく、岩屋城下の民の結束を乱した。

 ここに先立った大友家臣らの御霊がいれば何故殺さぬと紹運を責め立てるだろう。もしくは見えていないだけでそう言っているかもしれない。

 だが、最後まで武人として騙し討ちや暗殺ではなく、戦場で敵将を倒す姿勢を貫きたい。


(難しいものよ。奇襲や夜襲は良しとされ、毒や刺客を放つことはならぬとは)


 父より教えられたことだが、子供の頃は幼さ故に疑問に思うことは無かった。年を重ねるにつれ、悩むようになり、道雪に尋ねたこともあったが、笑われて終わった。今思えばおそらく彼も分からなかったのだろう。

 その謎は未だに分からないままだが、どうやら得心しないまま生を終えることになりそうだ。


「永久の謎やもな」

「はっ、何か?」


 何でもないと斜め後ろにいる吉田をごまかし、島津軍に背を向けた。

 櫓から下りると紹運は喝采を浴びた。皆が好き勝手に賛辞を送っている。しかし、当の本人には全く響かない。

 明日、高橋や大友の命運をかけた戦が行われることが現実的になった。情報は既に得ていたが、確信するとまた違う緊張感が身を包む。

 落城することは定めである。しかし、その運命を先延ばしにするためにここまで死闘を繰り広げてきた。

 それも明日で終わる。死を目の前にやはり恐怖から逃れられないとよく聞くが、やはり例に漏れることはないようだ。

 だが、それは人の心としてだ。

 武人としての本望は主家のために死ぬことだ。その思いを一度心に言い聞かせれば心は冷徹に死ぬことを欲するようになる。

 今は乱世である。武人として乱世に生まれた以上は死して主に報い、名を残して泰平の世の礎となることが本望だ。


「吉田、すぐに主立った者を全て広間に集めよ。砦を守備しておる者も皆直ちにだ」

「それでは島津が攻め入ってきた際にまともに迎え撃つことが出来ませぬ」

「よい。急ぎ集めるのだ……早うせい」

「……御意」


 吉田は去り際まで納得のいかない顔をこちらに向けていたが、馬の方へ向かった。真意が読めずとも、命令を変えることはしないと分かってくれた。

 島津が攻め入るとすれば明日。おそらく伊集院は今日の内にこちらの心を攻め、一気に落とすつもりなのだろう。ならば、するべきことはただ一つである。紹運は兵糧庫の守備をしている小隊の長を呼んだ。


「兵糧はいかほどだ?」

「あと一ヶ月はもつかと」

「全てを将兵に振る舞えるようにしておけ」

「されど、そのままでは腹を壊しかねませぬ」

「良い。その時はその時よ」


 炊くために必要な水が無い以上、まともに食べられる量も限られてくる。焼き払うべきかと考えたが、生でも最期ぐらいは皆で米の味を楽しむのも一興かもしれない。

 笑っている紹運を見て、兵糧の監督者は訝しげな目を向けてくる。それに気付いてすぐに本気だと頷いてみせる。あまり納得していないようだが、承諾してくれた。


「それから酒がまだ残っているものが奥にあったであろう。あれを出し、兵たちに一杯ずつ振る舞うよう支度せい」

「はっ」


 小隊長が複数の兵を連れて行く。一人になった紹運はそのまま評定の間に向かう。日が西に向かっているにもかかわらず、暑さが和らぐ気配は無い。冷水を求めて川へ向かいたいぐらいだ。


「立花を継いだ道雪殿とは異なり、私には人の心を掴むことが出来なんだか……そもそも、格が違うか……」


 足が不自由だった道雪はその身に甘んじることなく厳しさと優しさを巧みに操り、人心を掴むことにはかなり長けていた。

 それ以上に戸次家の者であった時から宗麟の側近として活躍し、雷を切ったという逸話があるほど西国では名の通った将だった。

 立花の者たちが道雪に背かずにいたのもその才と名声故だ。

 比べて紹運にはまだそれほどの名声が無い。宗麟から父や兄の血を継いでいるという理由で高橋に送られたと思っている者もいた。

 陰口を打破するために戦に政務に精を出していたが、自信を持って人心を完全に掌握できたと思える時は無かった。ここに残ってくれた者たちも所詮は武名を遺すためにいるのだろう。

 だが、後悔とは後先がある者がしてこそ意味がある。もうやめようと紹運は首を振る。外の音がよく聞こえるようになった。ひぐらしがもう夕刻が迫っていることを教えてくれる。微かに聞こえる兵の足音もいつになく静かだ。


(何もかも最期なのだな)


 声や音、生きているからこそ感じられる感覚はもうじき失われる。一人でここにいられるのもあと少しだ。ぼんやりと耳を澄ましていようと思っていたが、外からこちらに近付いてくる足音が聞こえてきた。


「殿、失礼致す」

「三原か。思うたより早いな」

「この三原紹心、殿の命とあらば火の中水の中を構いませぬ」


 深々と頭を垂れる三原を見ると、これまで心の中を見せてくれなかった彼が最も頼もしく感じる。


「思えば、お主は私をよう諌めてくれたな」


 唐突に出た言葉に三原は驚いている。紹運としては当然のことであったため、目を見開かれると不謹慎であったと勘繰ってしまう。だが、我に返った三原がこちらに向け、額が床に着かんばかりに頭を下げてきたことですぐに気の回しすぎだと安堵した。


「……ありがたきお言葉にございまする」


 珍しく声が震えている。めったに感情を表にしない彼の感激している様を見るのは初めてかもしれない。

 死に時が近付くと珍しいことが起こるものだと笑ってしまう。残念なことに紹運が笑った時に出た声で三原は自らの言動に気付いたのかすぐにいつも通りの冷静な表情に戻ってしまった。少しばかり口元が緩んでいるが、言わずにおく。


「して、如何なることで?」


 三原の声がいつもより緊張感を増している。おそらく先ほどの伊集院との対面の様は既に聞いているだろう。切れ者の彼は伊集院の真意を悟っているはずだ。そのため紹運も静かに立ち上がり、包み隠さず言った。


「今宵、末期の宴ぞ。支度を整えよ」


 三原は一度驚いた顔をしつつもすぐに溜め息を吐く。

 穏やかな笑みを浮かべて首を横に何度も振る。親が子を見守るような、死が近付いている者の表情ではない。


「いよいよ来ましたな」


 そう言うと三原は頭巾を取った。坊主頭が露わになり、日差しに反射して眩しい。


「これまでお世話になり申した」


 深々と三原は頭を垂れる。突然の行動に紹運は言葉を挟むことも出来ない。


「殿には真にお世話になり申した。我ら家臣、皆感謝致しておりまする」

「……左様か」


 少し動揺が声になってしまうほど、三原の言動は恭しく感じる。正直まところ紹運からすると三原との思い出があまりない。

 常に冷静でここぞという時に助言を授けてくれた。しかし、いつの間にかそれを忘れてしまうような人物だった。慇懃無礼な態度を時折見せていたが、それすらも鼻に付かない。実に不思議な性質を持っていた。

 紹運に対する言葉も何となくだが簡単に受け入れられた。現に彼の助言は的確で筑紫の時のようなこともあった。


「私も貴殿らには感謝している」

「有り難きお言葉」


 答える三原の声は実に嬉しそうだ。普段から策略に長けていて助言を欠かさない彼からは想像できない。純粋な笑顔が逆に何かるのではと勘繰ってしまう。以前のように生かしてこの城から自身を連れ出す企みを続けているのではないかと。


「殿、某と屋山がこと、最期まで黙して頂き感謝致しておりまする」


 不安に思っていた矢先にこの言葉を聞いて安堵した。もう彼らはあの企みを捨てたのだろう。やはり島津に攻められている間に城の外に出すのは難しい。そう考えると紹運はよく粘れたと自身を褒めた。


「良い。もはや過ぎたこと。共にここまで戦いしこと嬉しく思う」

「有り難きお言葉。この三原紹心、そのお言葉を頂けただけでも心置きなく冥土に行けまする」


 声が震えているのを聞いていると三原もさすがに諦めてくれたいた。


「まだ戦が終わってはおらぬ。その言葉は聞かなかったことにする故、最期まで秘めておけ」

「かたじけのうございます」


 紹運は眉をひそめた。三原の動きがどこか落ち着いていない。発する言葉は普段通りだが、目がよく動いていて手先が震えている時もある。


「如何した。どこか優れぬのか」

「いえ、ただ時が来たのかと心が踊っているのでございます」

「左様か。されど、あまり考えることはない。死する時は共にだ」


 少し考えたが、三原が邪な考えを持つとは思えない。ましてや戦が終わる時に寝返るなど恥として極まりない。

 三原の表情が一気に明るくなった。自身を信用してくれたと喜んでいるのだろう。確かに誰かから信用されるのは嬉しい。

 しかし、紹運自身に対してはどうだろうか。未だに拭えない外様としての劣等感は心の底でくすぶっている。はたして今宵、それを見定めることは出来るのだろうか。

 せめて確認してみようと三原に目を向ける。しかしそれよりも先に「ところで」と口を開かれてしまった。


「されど、宴にはまだ時が早いのでは?」


 外は日が傾き始めているとはいえ空はまだ青い。宴をしているのが悟られれば島津に急襲される。

 だが、三原の表情は何か期待しているようだ。不安要素が強いはずなのにどうしてだろう。疑問に思いつつも紹運は目的を告げる。


「皆と明日如何にすべきか話すためだ」


 一気に三原の表情が暗くなる。

 紹運は先程までの不安を一度胸にしまうことにした。確かめるのは皆と共にいる時が良い。駄目ならば駄目とすぐにはっきりする。

 実に華麗な終焉となるだろう。名誉を汚されるのは、はたしてどちらになるのか。らしくもないと自覚しながらも紹運は心が躍るのを抑えるのに必死だった。


 村の規模が小さければ小さいほど、噂はあっという間に広まるように岩屋城でもある話が広まっていた。将兵の数は千にも満たないようでは当たり前だが、下々の兵にも島津の総攻撃は知れ渡っている。

 常に評定を行っている部屋も張りつめた緊張感によって皆の背筋を伸ばさせ、不意に言葉を呟けば隣の者に斬られるようで、異様な雰囲気になっている。


「敵の動きは?」

「これまでよりも我らに挑発する声を上げ、城より打って出ることを望んでいるように見えまする」

「兵の様子は?」

「厳重に命じている故、打って出る者はおらぬでしょう」


 屋山の声が部屋をより重苦しくする。普段なら沈黙を嫌う彼が冗談の一つでも飛ばすところだが、今日はそのようなことをする素振りもない。

 使者とのやり取りを紹運はありのままに伝えた。相手が何者であるかまではさすがに言わなかったが、やはり最後の使者であることを皆も察していたのだろう。言い終える頃には目が血走り、獲物を見つけた猪のような気を発していた。戦が始まってから既に幾日も経ったが、ここまで殺気だった城内の雰囲気は初めてだ。

 家臣を見て、紹運は密かに安堵した。これまでの戦は敵も士気の低い国人衆との戦いであった。明日からは島津の本隊が相手となる。このような砦のようでかつ兵の少ない城を落とせないとなれば末端の兵まで笑い者にされる。そうならないようにするため、敵も必死に戦ってくる。

 紹運が恐れていたのはそのことで家臣たちが臆して城から逃げ出してしまうことだった。


「明日にでも島津は総攻めを行う。本来なら、酒宴を開きたいところだが敵は島津。隙を見せれば筋など解さずに攻めてこよう」


 紹運は一度言葉を止めると両手の拳を着き、頭を下げる。


「皆、これまでようやってくれた。お主たちにも守るべきものあろう。生きて、それを守りたいと思うなら、私がこの頭を上げるまでに去るが良い」


 皆に鼓動が聞こえないようにしなければならないのに必死だった。普通なら人に心音が聞こえるなどあり得ない。しかし、緊張のあまり思考する力が普段の半分以下になっている紹運にそのことを馬鹿馬鹿しいと思える余裕などない。そのため、最も近くから聞こえてきた鼻で笑う声に体を震わせた。


「この屋山中務少輔。殿が高橋の主となられてより、武人として最期までお仕え致すと誓い、戦に身を置いてき申した。今さらさようなことをされても覚悟はとうに出来ております」


 耳を傾けながらも紹運の目は他の者たちに向かっている。幸い誰も先程の失態を誰も失態と思っているようには感じていないようだ。おそらく鼻で笑った屋山の方に目が行っていたのだろう。


「この吉田左京。屋山殿と思いは同じ。死ぬまで殿に殉じる所存」


 少しの沈黙の後に続いた吉田に続き、我も我もと皆が声を上げて頭を垂れていく。声が重なり、誰がどのようなことを言っているのか分からない。

 紹運は最後まで何もせず、ぼんやりとしている三原に視線を向ける。他の者は深々と頭を下げているため、三原がこちらではなく、正面を向いていることに気付いていない。「そなたはどうだ?」と問いかけようか。一瞬考えたが、三原によって口は開かずに済んだ。

 こちらを向き、三原は小さくだが、力強い首肯をしてきた。わざわざこのような座興めいたことをせずとも良いと言わんばかり。

 安堵した。

 家臣たちの忠誠心が仮のものではなく誠のものであった。主にとってこれほど嬉しいことはない。それ故に不安と隣り合わせの行動だったが、これまでの心遣いが報われた。

 大名の下に仕える家の主は主家の命令と自身の家の者たちの利害の間に常に挟まれている。それが長い伝統を通じて絆を深めていったのであれば家臣も不平不満など無い。だが、紹運にとって高橋は縁も所縁も無い。

 元は吉弘家の次男だった彼が宗麟の命で高橋家を継いで十年ぐらいになる。裸一貫からの始まりで苦心の末に最期の戦で人心を掌握出来たことを証明できたのは正に集大成と言えるだろう。


「皆、よう言ってくれた。感謝致す」


 声を震わせないようにするにはこれ以上の言葉を発することは出来なかった。


 流れで軍議が終わり、家臣たちの足音が消えた途端だった。


「見事な演技だったな。拍手したかったよ」

「聞いていたのか……」

「恥ずかしがるなって。二人の仲でしょうに」


 紹運が僅かながらに頬を染めるのを見てからかってくる。腹立たしいが、確かに緊張していたのは確かだ。


 舌打ちをわざとらしく鳴らすとさすがにやり過ぎたかと咳払いをしている。案外素直なところがあるのがこれの良いところでもある。そう思っていると急に真剣な雰囲気で話しかけてきた。


「そういえば水源を絶った裏切者を見つけたよ」

「いらぬことを……」

「本心で言ってる?」

「ああ」


 呆れたと言わんばかりの盛大な溜め息が聞こえる。だが、水源を絶たれた原因を作った者を今さらあぶり出したところで戦況に影響など出ない。


「悪いけど、思っている以上にお前は民に慕われている」

「話の筋が掴めないな」


 察しが悪いと向こうは思ったのか、やれやれと息を吐く。


「岩屋の城下の民も、水源が絶たれたことは承知している」

「島津が吹聴させ、我らではなくあちらに協力するよう仕向けただけのこと」

「民たちは表向き従いながらも、実際には下手人探しをしているのだが?」

「なに?」


 ようやくここで紹運の目つきが変わった。民たちは内通者を探すことはこれまで岩屋を高橋に対するせめてもの手向けとなると思っているのだろう。

 だが、それは島津に対する敵対への表れである。戦に疎い彼らでも高橋の趨勢はもう分かっているはずだ。


「何故にそこまでのことを……」

「それはお前が慕われているからだ。何度も同じことを言わせるな」


 紹運の施政は常に領民を慈しむことであった。

 宗麟が領内の寺社に弾圧をしたことはない。だが、思い込みの噂ほど、あっという間に周りに広まる。主家の顔を伺い、眉をひそめつつも従っていた他家の者とは違い、平等を貫いた。

 評判は尾ひれを付けて回るものだ。善政は大友の政略を貶めながら評判を呼んだ。


「民を思えばのこと。殿もそうだ」

「この期に及んで立てることを忘れないとはね……立派な忠誠心だこと……」

「心根より思うてることを言ったまで」

「ま、それはどうでも良い。それより民は既に下手人を見つけ、追い詰めている」


 紹運の顔つきが変わった。


「お前なら、止めることが出来よう」

「出来る。でも、しないよ」


 紹運は相手がいる方向を睨み付ける。しかし、向こうは動じずに言葉を続ける。


「ここで止めるような真似をすれば、これまで尽くしてきた民の心を裏切ることになる」


 紹運は強く床を叩いた。


「否、もはや城下一帯は島津が制している。島津に背く行いがあれば略奪をされても文句は言えぬぞ」

「まるでもう負けるような物言いだな」

「……」


 違うと言いたいが言えるはずもない。負けることなど戦の前から分かっていたことだ。いくら苦戦させているとはいえ、もう兵糧も武具も備蓄されていない。ましてや降伏の使者をして島津が総攻撃を始めるのは明日だろう。

 言い争いに負けを認めるとはいえ、ここは黙り込むしかない。下手に口を滑らせれば向こうはますます痛いところを突いてくる。


「……なぁ、外に出ないか?」

「なに?」

「この城はもはや明日までのもの。なら、最期に裏切り者の顔ぐらい見てみないか」

「馬鹿を申すな。どうやってここから城外へ出る?」

「尾根沿いの林や草むらに島津の兵は注意を払っていない。別に一人や二人の鎧を奪えばそれだけで済むさ」


 悪戯をしに行くような笑みを浮かべているのだろう。声が弾み、今か今かと待っているのが壁越しに感じられる。

 純粋な心は行くべきだと訴える。裏切り者を殺めることを止め、これからは島津の民として一時の屈辱に耐えて欲しいと言いたい。しかし、冷静になるとそのようなことをしてはならない。

 島津の兵に化けること自体が難しい。たとえ助けがあってもはたしてその後はどうするのか。領民に見つかれ憎き相手と追われ、違うと主張しても決して信じてもらえない。そもそも、処刑を止めようとしたところで紹運であると言って、現実的にそうだと跪く者などいるだろうか。

 紹運がきっぱり行かないと伝えると向こうは「つまらないね」とあっさり諦めて気配を消した。

 再び誰もいなくなった部屋で紹運はその場に座り込み、腕を組む。

 降伏しない以上、もはや城は落城を待つだけとなった。しかし、周囲が三日ともたないと思っていた岩屋を半月ももたせたのだから報いたと言っても良いだろう。島津一族の忠長か筆頭家老の伊集院どちらかを隙を突いて討とうと考えたが、それは残念ながら出来なかった。


(やはり油断しているとはいえ、数万の大軍を突破するのは無理があったか……) 


 少数が大軍を破る例は多くある。だが、やはり千以上の兵がいなければ歴史になぞることは出来ないと痛感した。

 頭を振ってもし兵が集まっていればという妄想を追い出す。自ら戦略的に援軍はいらないと言ったのだ。ここで悔やんでも自らの無能さを晒すだけ。そもそも全軍を挙げての奇襲が成功するなど千回の戦で一度だけだ。

 心の内ではこの戦でもし勝利をすることが出来れば確実に大友の危機を救ったことになり、英雄として後世にも名を残せた。大友の家臣たちには立花道雪や吉岡宗歓らとも勝るとも劣らぬと言われている。しかし、紹運は彼らのように衝撃を与える逸話や戦歴も無い。

 だからこそ、この戦が最期の好機と見ていた。時は十分に稼げただろうし、島津もまさかこんな小城に手を焼くことになるとは思わなかったはずだ。

 聞けば既に島津は数千の負傷兵を抱え、島津の直臣も怪我を負っているため、岩屋城を落としても態勢を立て直さなければならないようだ。

 だが、豊臣が未だに兵を寄越さない以上、時間をかけているのは無駄骨になりかねない。あちらにはあちらの事情があるとはいえ、いい加減にしてもらわなければこちらも苛立ちを抑えることも難しい。

 紹運も無論その例外ではない。豊臣が九州征伐に動いた。その言葉だけでどれだけの兵の士気が上がるか。嘘を付くことも考えたが、それはただのはりぼての砦のようなもの。この状況でどうやってそのような情報が分かるのか兵であっても疑念を抱く。

 その鬱憤を晴らすために日夜島津の猛攻に当たってきた。それに付き従ってきた将兵はもう限界である。こうなってはもう紹運にも打つ手が無い。

 口にはしないが、ここ数日はずっと同じようなことを思っている。紹運の鬱憤は日に日に溜まってきている。それを晴らす場は戦場となっているこの城内では無い。


「あくまでも鬱憤を晴らすだけだ……死を前にしても致し方ない願望故な」


 興味がないと言えば嘘になる。誰がいったい城の中を危機的状況に陥らせたのか。水源を断たれたことは高橋軍を真綿で首を絞めるように効いている。気概で喉の乾きを誤魔化せるほど人は強くない。


(奴は誰がとも申さなかった……まったく……)


 紹運は廊下に出ると控えていた兵にしばらく一人になりたいと離れるように命じた。


 

 かの者とはもう長い付き合いになる。紹運の生来の性格である好奇心の強さを活かしてあえて正体を言わなかったのだろう。

 それが水源を断たれたことと民に裏切られた悔しさを少しでも晴らそうという心遣いなのも分かっている。しかし、復讐をしたところで紹運は明日にでも死ぬのだから意味など無い。

 だが、この鬱憤は今にでも爆発しそうだ。ならば少しでも鬱憤の要因を除くべきだ。あくまでもそういう判断である。

 岩屋城は四王寺山の中腹にある。周辺一帯は林に囲まれており、隠れながらの行動はしやすい。

 紹運は慎重に尾根を伝って山を降りる。島津は険しい所に陣を置いておらず、見回りの兵も少ない。また村の者たちが着ているような薄汚れた服をまとっている。茂みと同化しやすく気付かれにくい。


(奇襲をかけようにも、配置できる兵も少なすぎるからな。口惜しい……)


 地形を見ると歯痒くなるが、堪える。どうにか山を降りていくと水源近くの村落に入る。標高の低いところにあるが、他の村と違い、山を降りきったところではない。そのため閉鎖的な雰囲気を感じる。

 木陰から様子を伺うが、紹運は眉をひそめた。この時期は秋の収穫に向けて皆が畑で汗を流しているはずだが、やけに静かだ。

 やはりか、と紹運は辺りを探す。小さな村落故に目的のものはすぐに見つかった。老若男女問わずに集まっている村落の長の家の塀越しに中央の庭を覗く。中心を若い男たちが固め、件の人物を威圧し、遠くから女子供が道端の糞を見るような目をしている。


「この婆めが……」


 村人の声に反応するように紹運は少し身を乗り出す。確かに円の中心には老婆が一人震えている。

 あの老婆には紹運も見覚えがあった。たしか自分よりも先に息子やその嫁も孫も戦で亡くし、周りからの助けで生きている。それを紹運も視察の時に知り、老婆に対して一度だけ兵糧米の一部を与えたことがあった。


「御実城様から散々恩を受けてきたのにどうして裏切った?」


「……」


 一番体格の良い齢四十程の男が熊のような顔つきで問うが、全く老婆は答える気がないようだ。首を横に振っている。そもそも震えているだけかもしれないが。

 その態度をおそらく紹運がここに来る前から続けてきたのだろう。男は盛大な舌打ちの後に掴んでいた胸倉を乱暴に離す。

 老婆はずっと視線を落とし続けている。胸倉を掴まれても変わらないままだった。放心状態の原因は果たして露見したことへの絶望感だろうか。そもそも老婆はどうして裏切ったのだろう。

 それだけは紹運も知りたかった。民には精一杯の慈しみをかけてきた。

 平穏のみを求め、忠義などない民の心は移り変わりやすい。故に慈悲を持って接することで平穏を与え、それを求める欲を忠誠へと変えろと父や道雪から何度も言われてきた教えだ。ここまでの絶望的状況を二人は経験したことがない。しかし、家臣たちが皆付いてきてくれているのだから民も付いてきてくれている。そう考えていたが、甘かったようだ。


「婆の家に金があったぞ!」


 足音の方を向く。若い男が袋を抱えて輪の中に飛び込んできた。

 庶民にとって金は生涯見ることがあれば良い方だ。しかも長らく大友の商人との取引を見てきた紹運だから分かるが、あれはかなり質が良い。収穫直後の米なら十年二十年は買い続けることができる。いざとなれば屋敷を建てることも可能だろう。

 途端に紹運に怒りがこみ上げてきた。あの老婆はとてもではないが、あの金を使い切れるほどの寿命があるとは思えない。欲をかきすぎれば必ず後で災いが訪れる。

 物欲の強い者がこの世には必ずいるものだが、まさかあんな弱々しい老婆にそれほどの欲があったとは。


(いや、故にかもな……)


 弱々しい老婆はおそらく孤独の苦しみが反転して心のどこかに生まれた物欲を満たそうと考えていたのだろう。それが紹運からの恩恵に始まり、足りないと分かればすぐに島津の誘いに乗った。


「てめえ……こんなのに釣られたのか!?」


 老婆の顔に蹴りが入る。誰も止める者はいない。紹運は腰を上げかけたが、ここで止めるのは愚行だ。格好は既に島津兵なのだ。行けば確実に殺される。

 老婆は相変わらず体を震わせて俯いている。あれは問い詰められている恐怖なのか。それとも金を失ったことへの絶望感か。今すぐにでも城に連れ帰り、問うてみたい。


「吐け! 何だってこんなことした!?」


 先程から四十ほどの男が怒鳴りつけている。背後に幾人かの老人がいるが、おそらく村の長の者だろう。代わりに尋問をしている男の後ろから持っていたぼろい杖で老婆の背中を叩いた。


「お主とは長年の付き合いになる。どうして御実城様を裏切るのだ?」


 しわがれ声だが、男よりも威圧感があり、眼に殺気を感じる。おそらく若い頃は戦にかり出されていたのだろう。


「お前たちだって……」


 ようやく口を開いた老婆の声は徐々に細くなっていき、聞き取れなくなってしまった。それは村民も同じだったようで、中年の男がまた胸倉を掴み、怒鳴り付けている。

 老婆はおずおずと顔を上げる。顔は染みだらけで歯も何本か抜けてしまっており、まさに廃人の風貌だ。目を向けられた老夫は黙ったままさらに目つきを鋭くさせている。


「わしはもう嫌なだけだ。こんな惨めな暮らしなど……だから……」


 促されるように口を開いたが、最後の方は声が小さくなっていったため、全く聞こえなかった。だが、周囲の者たちの顔を見れば許せないことを言ったのがよく分かる。


「御実城様が生涯の俺らの殿様だ。それを裏切ったのは許せねえ。城が落ちたらすぐに殺してやる。御実城様への向けだ!」


 中年男の号令を止めることは出来ない。

 老婆の気持ちは戦場に出ていればよく分かる。民にとって最も迷惑なのは戦だ。敵味方問わずに村を襲われれば物資を奪われ、女は連れて行かれ、抵抗すれば殺される。

 惨めな風貌老婆は正に民の乱世での生き様の体現者だ。たとえ領主が善政を敷こうとも戦に弱ければ必ず戦火に巻き込まれる。


(あの老婆は戦を嫌った……長らく岩屋にて戦を見てきたのだろう……)


 岩屋は九州の要である太宰府に近く。古来より戦の起きやすい地だった。その悪しき伝統がこのような裏切りを招いたのだろう。


(かくも古来よりの習わしとは恐ろしいものなのか……幾度となく習わしを見てきたが、よもや私の身に災いが降りかかろうとはな)


 運命に抗えない人の様を見てしまうと心が痛む。しかし、高橋家の主として老婆を庇えるほどの理などない。

 今、紹運が出来るのは乱世を生きた老婆と守り切れなかった村民たちに詫びとして頭を下げ、静かに去ることだけだ。

 老婆の行く末を哀れみながら彼らに背を向ける。自身が死ねば老婆も死ぬ。心が痛むが、もし孤独な老婆を死によって救済出来ると思えば良いかもしれない。

 だが、死が救済になるとは思えない。主に報いることを本旨とする武人ならともかく、乱世に振り回されてきた老婆は違う。一時ぐらい自らが手の中で何かを転がしてみたいと思うはずだ。

 思うようにならないものだと溜め息をつきながら紹運は林の中に身を隠す。老婆の姿はもう見えないが、村が見えるだけで心苦しい。

 しばらく歩き、そろそろ島津の兵に気を付けなければと思った時だった。


「まさかな……」


 草場の影から漂う殺気に紹運は身構えた。しかし、既に遅かったと同時に悟った。影にいた者は紹運の脇腹に小刀を突き付け、一歩でも動けば深手を負わせられる所で屈んでいる。


「お前、それが最初から目的だったか……」

「仕える者としては主を死なせるなど忍びないことをしたくはない」

「……」


 民たちは既に老婆を置いてどこかに去っている。今なら助けられるかもしれない。しかし、一歩でも動けば本当に刺しかねない殺気がそれを許してくれない。


「……あの者らに老婆のことを言ったのはお前か」

「いかにも」

「島津が仕組みし調略を容易く民に暴かれたのかと疑っておったが……そういうことであったか」

「やったことを悪いとは思っていない」


 否、と言いたいところだが、筋の通った反論が出来ない。民たちは紹運を慕ってくれた。彼らが高橋に対する裏切りを許すはずもない。そして高橋の主も同じくだ。

 だが、今はそれとは関係の無いことを彼は求めている。紹運の底にある活動的な性格を利用して城外に誘い出して彼を生かす。真意を掴めなかったのは不覚の極みだが、思いに反することをおいそれと受け入れることなど出来ない。


「何故にかようなことを……と聞くまでもないか」

「悪いが、お前を……」

「私をいずこかへ連れたところで残るのは我が汚名のみぞ」


 振りかぶろうとしていた腕が止まるのを感じる。紹運が逃げたとすれば武人としての役目を捨て、命を惜しんだと誰もが思う。

 それを知って喜ぶのは島津と権力を狙う大友の佞臣だ。島津から筑前の国人衆に伝われば大友に味方する者などいなくなり、佞臣たちは残った高橋や立花を弾劾し、大友の危機はさらに深まる。


「私を救わんとし、盲目に成り下がったか……」


 紹運が生き延びて良かったのは戦が始まる前までだった。敵前逃亡という恥をさらすようなことを大友の中で知らない者がいない彼に出来るはずがない。

 向こうの様子を伺い、動かないと悟ると歩みを再開する。しかし、殺気は徐々に近づいてきている。


「何故に死にこだわる?」

「我が死は宝満や立花山を守ることにあらず。大友を守らんがためにある。左様なこと、既に知っておろう」

「その御託をいつまで並べる?」


 さすがに怒りが限界を迎えているのか突き立ててくる小刀の感触が徐々に強くなってくる。一つ息を吐くと紹運は口を開く。


「私が死ぬことは宗麟様なら分かってくれておる。されど、若様は違うだろう。多くの家臣が消えた今、これまでの如く皆に甘えておるようではならぬ。あの御方には威厳を持ってもらわなければ……この死をもってあの方の目を覚ますだろう。いつまでも父君のご威光にすがっていては大友の将来はあの方の代で終わってしまう」

「……それほどまでに本心を閉ざしたいか?」

「これを知れば生きてやっても良い」

「見え透いた嘘は嫌いだな」


 遠くに見える村民たちの群がりは老婆を連れてこちらから見えなくなった。すかさず紹運は影から距離を取る。奇襲で遅れを取っても、堂々と相対すれば勝てる。それを知っている向こうも動く様子はない。


「私にはやるべきことがある。それを邪魔するというのか?」

「死のうする者と生かさんとする者。相反することをすれば当然のことだ」

「邪魔ことに変わりない」

「何とでも言え。これは業だ」


 紹運は鼻で笑うしかなかった。儀礼に厳しい者とそうでない者、自分に厳しい者と甘い者に日向で生きる者と影で生きる者。


 昔から噛み合わない者同士と思っていたが、決裂を生むまでにだったとは予想外だった。もうじき戦も終わる。必要なのは死を共にする者だけだ。ならばこの者に伝えることは一つしか無い。


「去るが良い。もうお前の役目は終わった」

「良いのか?」

「くどい。去れ」


 少しすると殺気も気配も消えた。もう生きて会うこともないだろう。家臣らとも違い、全幅の信頼を置いていたあの者との別れがかようにも呆気ないとは。

 紹運は再び歩き出す。最初に去れと言った時、かの者の殺気が揺らいだ。向こうもまさかあのような終わり方になると思っていなかったのだろう。紹運自身も予想だにしなかった。


(されどこれで私の邪魔をする者はいなくなった)


 正直なところかの者だけは死を共にしたくなかった。

 唯一吉弘家にいた頃から長らく戦場を共にしてきた仲である。それにあれは必ず生かしておきたいと紹運は思っていた。

 元々、この戦に参加させるつもりもなく、勝手に城に来たのだから。無事にここから逃れたのか心配だが、大丈夫だろう。

 そう思っていた時、紹運は真下に落ちていた木の枝に注意を払っていなかった。


「誰か!?」


 島津の兵の声が遠くの開けた所から聞こえる。獣道を辿っていたためか周りに隠れやすい場所が無い。

 声を上げた兵につられて二人ぐらいの兵が集ってきた。木の陰に身を潜めながら進みたいが、隠れられない茂みが多くあるせいで進めない。

 三人の兵は二手に別れて音を立てた場所の左右からやってくる。持っている槍を下に向け、当たれば草木に当たった時とは違う音を立てるようにして。

 遠くを伺うと島津の兵が行ったり来たりしている。三人なら太刀打ち出来ないことはないが、感付かれると面倒だ。走りきって城に駆け込むのは味方からも不審がられてしまう。

 全員を隠密に倒すには隠れられる場所が無い。一か八か駆け出して城の裏側から回り込むのが一番最適かもしれない。

 だが、城に向かうために辿って行かなければならない獣道は一本道で、木々があちこちに立っている林の中でも姿は見られやすい。後ろから槍を投げつけられた時のことを考えると立ち上がる勇気が無い。

 やはり乱戦覚悟で仕掛けるべきかと兵たちの様子を伺っていると別の方向から音が聞こえてきた。紹運が登ってきた所よりも下の木の幹に何かが当たったようだ。


「そこか!?」


 その方向に向かって兵たちは走り出す。死角となる位置に移動しながら紹運は木の間を移動して距離を取る。音がした木を見てみるとかなり斜面が険しく、滑りやすそうな所だ。

 兵たちはその辺りを槍で叩きながら探している。しかし、誰もいないと分かると首を傾げ合っている。

 すぐに走り出したい気持ちが足を震わせるが、兵たちとの距離を考えるとすぐに気付かれてしまう。三間ほどの距離を確実に離していきながら様子を伺う。

 何か話し合っているが、聞き耳を立てる余裕など無い。こちらが視界に入らないと確認してすぐに移動をする。また危険だと思うと足を止めて様子を伺うを繰り返す。

 結局、兵たちは他の兵から声をかけられ、元の場所へと戻っていった。胸をなど下ろす暇も無く、紹運は城を目指す。

 それからは細心の注意を払って進んだ。兵に遭遇しそうにもなったが、どうにか目立つ音を立てずに城の裏から入り込むことができた。

 部屋に戻り、普段の鎧姿になると今日分の少ない水を一気に飲む。僅かに残っている水面の揺らぎを眺めながら先程のことについて思い返す。

 あの木から聞こえてきた音は動物が立てたものではない。野生の動物が人に近付くことはない。ましてや何日も前から人が行き来をしている場所に興味本位で来るなど有り得ない。

 紹運は鼻でここからいなくなった者を笑った。心配をして着いてきていたのか、たまたま最後の手助けをしてやったのか。

 前者であることを祈りつつ紹運は横になる。部屋に差し込んでくる夕陽がいっそう目に入ってきた。


「殿、おりまするか?」

「屋山か? 何用で参った」

「はっ、別れの席が出来ました故、参上した次第にございます」


 寝たまま外を見る。もう少し日が沈んでからと思っていたが、島津も今は攻撃してこないだろう。屋山がいるということはそう判断してに違いない。


「分かった。すぐに行こう」


 静かに起き上がると紹運は襖を開けて屋山と共に広間に向かう。この往復もあと指で数えられる程度だ。

 夜まで行われた宴はささやかで、何も起きずに終わった。警戒していた屋山も三原も特に動くことは無かった。



 最期の日というのに変わることのない日差しは朝から容赦ない暑さを大地に送っている。

 この時期は暑さの中でも野風や夕立が訪れるのが毎年の例だった。来てくれないのは天が紹運の死期が近付いていると知り、それを早めているのか。それとも天下泰平を目指す豊臣の進軍を早めようと助けているのか。

 後者だと誰もが思うだろう。高橋という大友の家臣にすぎない家の危機など日ノ本の主たる豊臣の威光と比べるまでもない。

 昨夜は久々に鎧を外して寝た。夜襲は無いと判断してのことだが、寝心地が全く違う。体の疲れや眠気が寝ている間に落ちている。寝返りが打ちやすかったし、楽な姿勢を整えることも出来た。

 最期の戦が万全の体調で挑めるのは嬉しいことだ。これで冷水を使って顔や足を洗えればなお良いのだが、贅沢が過ぎるというもの。

 しばらく部屋でぼんやりしていると兵が起きていることを確認して朝餉を持ってきた。いつも通りの握り飯二個に小さな湯呑みの半分にも満たない分の水だ。


「紹運様、お目覚めでございますか」

「吉田か。入れ」


 鎧に身を包んだ吉田が入ってくる。脱がないで寝たのか、体の動きが昨日よりも疲れているように見える。


「よく眠れたか?」

「はっ、島津の夜襲を気にしておりましたが、幸い何事も無かった故」


 「左様か」と返しつつ生真面目な武人だと感心してしまう。こちらはまだ鎧を持ってきてもらってもいない。


「動きは何か来ているか?」

「まだ何も」

「日の出と共に動くと思うていたがな。おそらくは日が昇りきってからであろう」


 吉田の表情が少し曇る。敵が伊集院の宣言通り夜襲もせず、来たる決戦も朝掛けも無いまま攻めてくるのが気にくわないと顔に書いてある。弄ばれているように感じるは紹運も一緒だが、それを気にしても仕方が無い数の差だ。

 いずれにせよ、敵の後手に回りすぎないようにすることが大切だ。控えていた兵に鎧を持ってくるように伝える。握り飯を食べ終えると水を一気に飲み干す。 


「吉田、伝令を飛ばし皆に伝えよ。思うがままに戦え。と」

「御意。紹運様、他に伝えておくべきことは」

「無い」


 今日、今生の別れになるだろう。せめてここに来ることが出来ない将兵たちに何か声をかけるべきだ。

 吉田の思うことは分かるが、紹運は決して今日が最期だと思っていない。まだ別れになるかもしれないからだ。もしかすれば明日にも命を繋げることが出来るかもしれない。

 もっとも、今日終わってしまえば何の意味も無いのだが。それでも構わないと紹運は思っている。


「誰か。先に皆に名を認めさせた書状の写しを」


 渡された名簿を調べ、吉田と共に援軍で来た者を分ける。あえて差別して彼らが立花の者として立派に戦ったことを島津にも示すためだ。

 誤りがないことを確認すると紹運は筆を持ってこさせて最後に追加であることを認めた。


「あとは、これが焼き払われぬことを祈るばかりだ」


 そう言いながら紹運は書状を丁寧に丸めて最奥の部屋に持って行く。

 戦が始まってから聞くことのなかった烏の鳴き声が耳に入ってきた。

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