Paint of Love

蟻村観月

paint of love

 ソフィアの訃報を聞いたのは彼女が亡くなって十五年後のことだった。

 何も知らされていないわたしはソフィアが亡くなっていたことにも驚きだが、わたし以外の女性と付き合っていたとは思っていなかった。彼女は申し訳なさそうな顔をしていた。

 ソフィアは自分が死んでしまったことを話すのは他の人に塗り替えられた時に伝えて欲しいと事前に伝えていたようだった。

 こんな仕打ちってある?

 わたしは思わず彼女の頬を引っ叩いてしまった。彼女は毅然とした佇まいでわたしを見凝みつめる。叩き返しはしない。ただ凝然じっとわたしを見る。粛々と言われたことだけをするロボットみたいだ。

「どうしてもっと早く教えてくれなかったの」

「ソフィアが言うなと言うので。私は彼女の意思に随っただけ」

「でも反故にする謂れは貴女に無かったでしょう。どうして素直に言い付けを守るの」彼女に八つ当たりしていると解っている。それでも文句のひとつも言いたくなる。愛した彼女はこの世に存在していない。クレームを受け付けてくれる窓口は告知無くシャッターを下ろしてしまった。彼女のスポークスマンである彼女に当たってしまう。「御免なさい、貴女は悪くないのに」

「気にしないでください」彼女は言う。「ソフィアは死ぬ間際まで貴女を気にしていましたよ」

「そう」今は素直にその言葉を飲み込める自信はない。猫ではないんだから、最後くらい顔を見せても良かったじゃないと恨み言を言いたくもなる。況してや、会ったこともないおんなから言われる気持ちになって欲しい。「墓参りはさせてもらえるの?」

 彼女の顔が急激に曇り出す。言い渋っているのではなく単純に言えないのだ。

「死後に就いては貴女の重荷になって欲しくないと言っていたので、墓は建てずに海に撒いて、と言付けを受けていたのでそのとおりにしました。骨も残っていません」

「重荷になりたくないって何よ」

「輝かしい未来を自分の存在で暗幕にしたくない、出来るだけソフィア・プッキカーケの記憶を抹消してしまいたいと口癖のように言っておりました。躰が弱って行く最中、彼女は最後まで貴女のことだけを考えていました」

 私としましては少しばかり嫉妬してしまいますと彼女は瞳を伏せる。長い睫毛が瞼を覆い隠す。ダークブラウンのロングヘアが微風に揺れる。長い髪の毛はソフィアに言われて伸ばしているのだろう。

「あの娘が眠りに就いたのは何時だったの?」

「貴女と別れた二年後です」彼女は言った。

「恨んでいる?」

「いいえ。滅相もありません。私に貴女に怨嗟を抱く事由がそもそも御座いません」

「そう」わたしは呟く。「貴女はケジメ付いた?」

 彼女は伏せていた瞼を起こし、エメラルドグリーンの瞳がわたしを映す。とても奇麗な瞳だった。ソフィアそっくりだ。顔は似ても似つかないのに。

「はい。その時間は十分にありましたので。今は奥さんと子どもと健やかな毎日を過ごしています」

「それは良かった」

 本当に良かった。

「貴女はどうですか。十五年後に聴かされて、乗り越えられそうですか?」

 意地悪な質問をする。

「そうだ、貴女の名前を訊いていなかったわね。教えてもらえる?」

「ソーニャ。ソーニャ・アクタビアンカ」ソーニャは言った。

「ソーニャ、わたしは時間が掛かりそうかな」わたしは空を見上げる。「この空がわたしの悲しみを吸い込んでもらえたらどれだけいいだろう。でも澄んだ青空に十字架を背負わせるわけには行かないわね」

「母胎に悪い」ソーニャは視線を下に向ける。「何時ですか?」

「まだ先よ」わたしは笑む。「予定日はクリスマス近辺」

「楽しみですね」ソーニャは言う。

「年齢も年齢だから緊張の日々を送っている」わたし自身四十が遠くない年齢を迎えて身籠れるとは思っていなかった。ふたりの子どもを育てているけど、あの子たちも大人びて来て、母親の情況を頭だけでなく心で理解するようになり、不安があったけれど、子どもたちと夫の存在は計り知れない。家族が傍にいてくれるのがこれほどまでに頼もしく心強いとは思っていなかった。

「素敵な子が産まれて来ますよ。貴女にソフィアの加護があるのですから」ソーニャは言った。「それではまた会える日を願って、アリス。良き日を」

 ソーニャと別れる。

 彼女と会う日はもう来ないだろう。そんな予感がする。お互いの生活があるし、会わないほうが良いような気もする。

 わたしはベンチに腰掛ける。スマホを見るとメールが一件入っていた。編集者からだった。そう言えば、締切が昨日までだったのを忘れていた。メールを開くと案の定と言うか原稿の催促の文章がこれでもかと並べられていた。

 返信するか悩んでいると電話が掛かって来た。

 編集者ではなく、代理人のオーガスタから。

「アリス、原稿は仕上がっているかい? アーガスから連絡来ているんだよ。彼、機嫌が頗る悪いんだ」

「彼が機嫌いい日あった?」わたしは言う。

「いや、一緒に仕事するようになってかれこれ五年になるけど一度もないね」オーガスタは言う。「原稿の進捗具合を教えてくれるか? 催促がすごいんだ」

 業界内でもアーガスの締切に対する厳しさは有名だが、耳にしていた以上に厳粛で若干辟易しているが、彼の敏腕振りは確かだし信頼しているので期待に応えたいと思う––思わせてくれる人だ。

「終わりは見えている、というか、完成している」

「完成しているのか? そうならそうと言ってくれよ」オーガスタは当惑している。「アーガスに送信しなよ。どうして送信しないんだ」

「人に会う予定があったの」わたしは言う。「その人と会って、自分自身がどう思うかを知りたくて放置していたの。送信するかはきょう決めようと思ってた」

「それで君自身はどう思ったんだ」オーガスタの声音に怒りが滲んでいる。

「そうね……」わたしは生い茂る木々の隙間から覗く青空を見る。「書き直すことにした」

「は⁉︎ 何を言っているんだ、君は。締切を大幅に破るんだぞ! おい、待ってくれよ。私の仕事を増やさないでくれよ」

「それが貴方の仕事でしょ? まっとうしなさい」わたしは言う。オーガスタが何か言っているが、通話を切る。あとは彼がどうにかしてくれるだろう。アーガスが失神してしまわない裡にメールで教えておくとしよう。

 スマホの電源を落とす。

「ねえ、ソフィア。きょうは、貴女とはじめて会った日にそっくりの青空よ」


 大学終わりに近くの公園に寄るのがわたしは好きだった。

 木々に覆われた隙間から覗くその日の空を拝むのもそうだが、カップルたちが愛を育んでいたり、老夫婦が長い人生を振り返る姿であったり、日課のジョギングに精を出す人が公園の色彩を豊富にする。

 いつものようにベンチに腰掛ける。季節の風合いであったり、四季折々の独特の匂いを嗅ぐのが何より好きだった。この公園の風物詩である銀杏並木は紅葉の時季になると一気に多国籍と化す。

 異国の地から観光に訪れて、異国の言語で燥ぐ姿は滑稽だ。

 楽しみかたは人それぞれなので指弾する謂れはわたしにないけれど、傍から見ると滑稽に映る。

 莫迦莫迦しい。

 折角の景観を数値化でしか物事を判じれない貧相な感性に憐憫の眼差しを向けるとひとりがわたしに手を振って来る。何か言っているが異国の言語を介さないわたしが解るはずもなく、反応しないことにした。

 そして場所を変える。すると、手を振っているひとりがわたしに近づいて来る。うわ、面倒事に巻き込まないでよと思いながらその人から逃げるが捕まってしまう。

 何か話しているようだが解らない。わたしは相手に英語で話す。向こうは向こうで小首を傾げる。どうにか伝えようと身振り手振りするがまったく解らない。

 冷たく思われようとどうでも良い。この先彼らと顔を合わせることはないだろう思ったので、軽くあしらって彼の横を素通りする。

 背後で大声で何か言っているようだが取り合うだけ無駄だし、他の人に話し掛ければ良いだろう。幸いにも公園にはわたし以外に人はいるのだから。観光客も何人かいるようだし、彼らを頼れば良い。

 後ろを振り返ると彼らの姿は既に無かった。追い掛けることを諦めてくれたようだ。周囲を見渡すと公園を出てしまっていた。車の往来が激しい。道なりに歩いて公園に戻るのも莫迦みたいだが、ひと休みしたくて立ち寄ったのを異国の人間によって妨げられてしまったのは遺憾だ。まったく以て信じられない。

 対岸にカフェがあったので、コーヒーとパンでも買うとしよう。

 信号が青に切り替わったのを見て道路を渡り、カフェでコーヒーとパンを買って、公園に戻る。

 先程の場所に行くのは気が引けるので公園の開けたところに腰を落ち着けることにする。芝生の上にハンカチを敷いてその上に買ったコーヒーを置く。

 長閑に午後を過ごすのは好きだ。本来であればベンチに座って本を読んだりするのだけど、芝生に寝転がって読書をするのも悪くないかもしれない。

 パンをひと齧りしてカバンから本を取り出す。今読んでいるのはカズオ・イシグロの『日の名残』。わたしの愛読書と言って良い。『バナナフィッシュにうってつけの日』を読み直そうと考えていたのだけど、大学の課題でカズオ・イシグロの評論を書かなくてはならなくなった。前回はロアルド・ダール。その前はアガサ・クリスティ。クリスティの時は今までないほどに盛り上がった。流石はミステリの女王。

 ダールでも大いに盛り上がりを見せて欲しいのだけど、周りの人は文学に興味がなく、ミステリかSFにしか興味を示さない。世界的にも文学の価値は以前に比べて落ちている認識はあるけれど、小説の原点と呼べるのは文学だとわたしは考えている。文学を極めてこそ小説家と呼べる。人気でベストセラーになりやすいからとミステリに飛び込むのは頭が悪いと思ってしまうわたしは創作クラスで浮きに浮きまくっている。

 課題の提出日は三日後なのできょうじゅうには読み終えて二日で執筆と推敲を終わらせる必要がある。パンを食べながら––読んでいる時間すら惜しい––のだが、たまにはこうして芝生に寝転んで本の世界に浸るのも一興。

 半分まで読み進めた段階でコーヒーブレイクを取る。コーヒーはすっかり冷めている。時間は残酷だ。冷めたコーヒー好きじゃないんだよなあ。基本的に冷めたものは大嫌いだ。本来の味わいが損なわれた搾りかすを飲むのは忍びない気持ちになる。

 パンを食べようとサイドに視線を向けるとハンカチがない。

 いったい何処に行ったの?

 周囲を探すがハンカチは見当たらない。最悪だ。人気のパン故にお店に買いに行っても売ってはいないだろう。あの時間帯に売っていること自体奇跡だったのだ。売り切れの札が置いてあるにちがいない。

 諦めるしかないと考えていると、

「貴女のですか?」麦藁帽子を被ったご令嬢の雰囲気を纏った、奇麗なおんなの子が話し掛けて来た。エメラルドグリーンの瞳に吸い込まれたわたしは一瞬にして彼女に心を奪われた。

 これがわたしとソフィアの出会いだ。


 わたしの見立てどおり上流階級の人間だった。

 中流階級出身のわたしとは縁もゆかりもない埋まるはずのない深い溝がある。

 出会っていい存在ではない。雲のうえの存在と言っても差し支えない。

 そんな彼女とわたしが邂逅するのは最早映画。ここから『ロミオとジュリエット』が繰り広げられるのだ。仮令、悲劇で終わると判っていてもわたしは恋を止めることは出来なかった。

 ソフィアとは週に二度のペースで連絡を取り合っていた。電話はなし。長時間の電話がご両親ないし使用人の誰かに知られでもすれば、すぐに縁を切られてしまいかねない。中流階級出身の人間と関わると碌なことにならないと教えられているはずだ。

 周りにいる上流階級出身の同級生がそうだからだ。

 一概に言えない話だが、大抵の人間はわたしたちのような人間は見下してあたりまえと思っている。偉いのはなにも自分ではなく両親であり、もっと言えば祖先だろうにと思わなくはないが彼らにすれば家柄は自分のお陰でもあると錯覚する。

 嘆かわしい話だが事実なので仕様がない。

 しかしソフィアはちがった。

 分け隔てなく人と接する心優しき女性の印象を与える。

 実際は上流階級らしい人間性だったけれど。

 わたしでなくとも彼女に惚れるのは時間の問題と言えた。

 もしかしたら会う人、会う人がその場でひと目惚れさせているかもしれない。

 わたしは柄にもなく勝手に焦りの感情を抱いていた。同性に恋愛感情を抱いた経験がないのもあった。異性ばかりに現を抜かしていたと言っても過言ではないわたしにとってソフィアは青天の霹靂だった。雷に打たれた衝撃だった。

 この世にあれだけ美しいと表現するに相応しい女性が存在すると思っていなかった。

 わたしが女性と交際したのはソフィア以外いない。世間的にはわたしはストレートと認識されている。意図的にそう振る舞っていたのもあるけれど、ソフィアの存在はひた隠しにしておきたかった。胸の裡に仕舞っておきたかった。それほどまでに彼女の存在は特別だった。わたしにとって。

 旦那はソフィアを知らない。オーガスタもそうだ。

 この先も知らせるつもりはない。


「髪の毛を伸ばすといいわ」広場で待ち合わせをしているととおりの向こうから姿を見せたソフィアはわたしを見つけるなりそう言った。

「手入れが面倒だからショートが楽でいいけどな」わたしは言った。純真無垢さを表現しているのか、清楚であることを明確に明示させるためなのか判らないがソフィアは髪の毛を伸ばすよう執拗に言って来る。

「髪の毛が長いおんなの子は押し並べて奇麗だと思っているの。だから貴女も髪を伸ばすといい」良く判らない価値観を押し付けて来ることが多々あった。そのどれもがわたしは共感出来なかった。自分の考え、価値観は常に正しいのだと信じて疑わない。如何にも上流階級出身の人間だ。悪意がないから余計に質が悪い。「あの人もそう。あの人も。あの人は美しくなれない。あの人は可哀想に。誰の眼にも止まらない。振り向いてもらえない」

 行き交う人を景色かなにかと勘違いしているソフィアは品定めをする。偏見でものを言う癖をやめなさいと言うのだが彼女は自身の言動に疑いを持たない。

 盛大に溜息を吐き、わたしの腕に自分の腕を絡める。イエスの合図だ。

 日傘を取り出し、紫外線から守る。わたしたちは付き合っているというより、主人と使用人の関係に近い。

 溜息を吐きたいのはソフィアよりわたしのほうだ。


 ソフィアの家に招かれたのは付き合い出して二周年の頃だったと思う。

 曖昧な物言いになってしまうのは矢張り付き合っている感覚がなかった。

 どちらかが意思を表明したわけではなかったし、単に一緒にいる時間が他の人より多かっただけに過ぎない。キスをしたこともなければ、ベッドを共にしたこともない。わたしたちの関係が如何にプラトニックだったか理解してもらえるだろう。

 性欲と緊密な関係を築くことは最後までなかった。

 キスする寸前まで行ったことは一度だけあった。けど、穢らわしいとスフィアは汚物を見るような表情で口にしたのは今でも鮮明に記憶に残っている。

 淫らな行為ははしたなく、人間同士がする営みではないと心底から嫌っていた。

 あとあと事情を聞けば、彼女が身体的な繋がりを拒否する理由も理解できなくはなかった。幼い時分にトラウマを植え付けられれば誰でもそうなる。

 ソフィアの住む家はロンドンど真ん中に存在する。宮殿と見紛うほどに大きい。テニスコートが敷地内にあり、週末はジュニアのテニスクラブに使用されている。

 広大な敷地は車で移動しなくてはならない。なんだ、車で移動ってと最初は思ったものだが、何度か足を運ぶに連れて、感覚は麻痺するもの。非常識に捉えていた物事は次第に常識はオーバーライトされる。

 ソフィアはひとりっ娘できょうだいに強い憧れを抱いていると言っていた。母親に妹か弟を頼んだことがあるらしい−−微笑ましい話だ−−が、母親はタイミングが合えばねと窘めるだけで妹も弟も産んではくれなかったと怒気の混じった声で話してくれた。きょうだいがいるから楽しいかはわたしの経験上どちらとも言えない。

 年齢が離れているからそう思うのかもしれない。“姉”と認識したことは一度もない。“血縁だけれど他人”だとわたしは姉に接している。それは向こうもそうだ。ふた回り近く離れていればそうだろう。ひょっとしたら、娘と見ているかもしれない。

 わたしが誕生したとき、既に姉は結婚していた。子どもはいなかったけれど、自分の分身のように扱っていたと十七歳の誕生日を迎えた日に姉から言われた。

 年齢差を鑑みればそうだろうなと思った。

 環境が特殊なだけで皆が皆そうではないのは知っている。けれど、わたしの常識は他人にすれば非常識で異様な環境だ。そりゃあ母が六十手前で産んだ娘だ。父親はまだ二十代。異常と思われても仕方ない。そんな母親はわたしが一歳を迎える前に死んだ。

 育児ノイローゼだったと姉は言っていたけど、ちがうんだろうと幼心ながらに思っていた。父親のわたしに対する態度を見れば判ってしまう。好き好んでわたしを作ったわけではない。生まれるはずのない子どもだったのだ。

 もっと言えば生まれて来ては行けない子どもだった。

 母親は産声を聞いた瞬間、絶叫したそうだ。

 何故叫んだのか判らない。少なくとも希望の叫びではない。絶望に尤も近い叫びだっただろう。

 助産師は母親を無視したそうだが、さもありなんという感じだ。

 だからきょうだいがいる感覚の説明を希求されても困る。

 ソフィアはお構いなしに質問を投げかけて来る。困っているわたしを見て、ソフィアの母親は娘を窘めようとするが、言うことを聞かない。疑問が氷解するまで執拗に尋ねるのはいつものことだが、きょうだいを長年切望している彼女にとって、近しい間柄の人間がいるのは夢だったようだ。

 癇癪が治るまで三時間要した。

 ソフィアの母親はごめんねと謝ったけど、どこか寂しげだった。その表情の裏側を読み取ろうとしてみたけど判らなかった。


 交際五年目を祝うパーティをふたりで細やかに行った。

 はじめてキスをした。

 体を重ねた。

 幸福物質で満たされる感覚をこのときに味わった。信じられないくらいに幸せな時間だった。ソフィアはそうではなかった。不服そうな顔で漫然と行為に徹していた。上の空ではなかったがわたしが希望するので仕方なくという具合に。

 考えを改めても心の奥底にへばりついてるネガティブな感情を完全に取り去ることはできない。トラウマはそう簡単に乗り越えられるものではない。

 母性に飢えているわたしが同性に求めてしまうのも過去の出来事に起因する。

 ソフィアが感じた地獄を無かったことに出来ない。

 腫瘍となり、痼りとして一生残り続ける。

 体を重ねた半年後−−


「子どもを作らない?」


 ソフィアは『ドクター・フー』をつまらなそうに観ながら唐突に言った。

 危うく聞き逃しそうになった。ドクターがピンチに陥る場面だったからだ。

 子どもの頃から観ている作品で血液と表現して問題がないくらいに作品を愛している。わたしが小説を書く契機をくれた記念碑的な作品でもある。

 だからこそソフィアは底意地の悪さを発揮した。

 画面で躍動するドクターに嫉妬したのかまでは予測出来ないけれど、衝撃を齎す発言をすれば自分を見てくれると察知したソフィアはそれまでであれば絶対に口にしなかったであろう言葉を徐に口にした。

「……え?」握り締めていたリモコンを床に落とした。部屋の隅っこで不貞寝していた愛犬のドクター(勿論、由来は『ドクター・フー』)が音に反応して、近付いていることにすら気が付かなかった。

 それほどまでに衝撃だった。

「だから子ども作らない? 貴女とわたしの」ソフィアは表情ひとつ変えずに観たくもないドラマを観ながらそう言った。「強制はしない。簡単に出来るものではないのは重々承知している。母親はそうではないようだけど」

 冷たい言葉だった。

 ソフィアの母親は三年前に行きずりの関係のおとことセックスし妊娠した。相手はすぐに見つけた。彼女の家が本気を出せば、ワンナイトの関係の相手すらイージーらしい。そのおとこに養育費を支払わせるのかと思えば、子どもを育てるように半ば脅迫して宛てがった。

 表現が悪いが実際にそうなのでそれ以上の言葉を名付けることなど無理に等しい。

「本気で言ってる?」わたしは画面を無視して、ガールフレンドの横顔を見凝める。

「子どもを持つのは夢のひとつだし、わたしたちの年齢を鑑みればひとりくらい儲けるのもありなんじゃないかしら。勿論、貴女の仕事上、そういうわけには行かないのかもしれないけれど」

 当時のわたしは編集者として働いていた。小説家になるのを諦めたのではなく、小説を作る側に回ってみてからでも遅くないのではないかと教授に言われて、就職した。編集の仕事は大変だ。子どもを作るとなると、精子を提供してくれる人をピックアップしなければならない。ソフィアは働かずとも生きて行けるので、時間はわたしよりある。

 ソフィアにすべてを任せるわけには行かない。

 事情を話せば、そのための時間をくれるかもしれない。しかしわたしたちの関係は誰にも知らせていない。代理出産と銘打てば納得してくれるだろうがそれではソフィアは納得しない。

 わたしとの間に欲しいのだから。

「オープンにする時期なんじゃないの? 何時までも隠れるように付き合わなくてもいいと思う」わたしは言う。時代はゲイに優しくなったほうだ。風当たりは強かったりするけど、それでもわたしたちがティーンの頃に比べれば断然、生きやすくなった。

「なにを言っているのか、判らない」ソフィアは顔を向けもせずに機械のように打ち込まれた言葉どおりに口を動かす。「わたしたちはプラトニックで、カミングアウトするほどではない。いずれ、貴女は普通の人生を歩むことになる。わたしとの関係は夏の別荘で秘密の関係を築くのと相違ない。そうでしょう?」

 そこで漸くソフィアは顔を向けた。

 感情が一切込められていない。

 その顔にわたしは息を呑まざるを得なかった。

 ソフィアの言葉にわたしは言い返せなかった。

「愛の結晶を物体として残しておきたい。そう思うのは傲慢?」

「表現はさておくとして、傲慢ではないと思う。誰しもが子孫を残したいと願う」

「誰しも」どこに面白さがあるのか判断がつかなかったが、彼女は吹いた。「バージンのままこの世を去った人もいるのよ? そういう人は願望を叶えられなかった哀れな人になるのね」

「いや、そういう意味じゃなくて……」口籠もってしまう。

「意地が悪い発言をしてしまったわね」ソフィアは言う。「わたしは貴女の子どもが欲しいというのは噓偽りないわ。こうしてふたりでいられる間に形として残しておくべきだと思うから」

 このときのわたしは意味深長な発言を注意深く観測するべきだった。

 問いただすべきだった。

 深い森に足を踏み入れるべきだった。

 後悔したところで遅い。

 純粋にわたしは嬉しくなってしまった。ソフィアが他人と家族になろうと前を向こうとしている事実に嬉しくなってしまった。それ以外の思考に到らなかった。

 わたしはこの人と一生添い遂げるんだと心が躍っていた。


 けれど、そうではなかった。


「アリス。わたしと別れてもらえないかしら?」


 脈絡もなくなにかを言う癖に慣れたと思っていた。けど、慣れなどありはしない。

 心臓が喉元まで迫り上がって来た。

 冗談だよねと言いそうになった。

「子どもはどうするの?」臨月間近のお腹を撫でながらわたしは儚げな顔のガールフレンドを見る。「貴女はもう少しで母親になるんだよ? あまりに無責任じゃない? 貴女がふたりの子どもを作ろうと言い出したんだから、責任は果たして」

「タイムリミット間近の人間を前に随分な物言いをするのね」ソフィアは"失礼じゃないかしら"という顔で言う。「もっと労わってくれてもいいと思うけど」

「前触れもなしに変なことを言うからでしょう」わたしは反論したつもりで言った気でいた。しかしソフィアは否定されたと思ったのか露骨にご機嫌が斜めになる。

 付き合いもそれなりに長くなり、扱いかたに慣れたと思っていたけど、過信であったようだ。ソフィアがなにで気分を害するのか未だ理解していないのだから。自分に呆れる。

 一緒に住み出して三年になろうとしているのに……

「わたしが前置きなしになにか言うのいまさらでしょ」眼が鋭くなる。これは危険水域だ。「七年一緒にいるのだからいい加減判って欲しいものだけど、貴女には難しそうね」

 ソフィアは痛みを堪えるようにソファから立ち上がり、脇腹を押さえてリビングを出ていく。

 このときから既に彼女は闘病していた。小さな違和感に気づけない自分を恥じ入るばかりだ。そりゃ、ソフィアもあんなことを言うに決まっている。七年の歳月は関係性を深めるのに十分だ。それなのにわたしは最後までソフィアを解って上げられなかった。

 程なくして、ソフィアはマンションを出て行った。

 別れの言葉は無かった。

 空っぽの部屋はわたしの心に埋まることのない穴を空けた。

 匂いというものは残酷でその人が存在していた事実を残り香として色濃く思い出として残す。暫くの間、動けなかった。ソフィアと過ごした思い出が走馬灯のようにフラッシュバックする。涙のコックが壊れた気がした。

 その日の晩、わたしは寝付けなかった。お腹の子に何度もごめんねと謝り続けた。

 三日三晩、わたしはソフィアとの思い出に浸っていた。

 願い続けていればソフィアはひょっこり顔を出すと思っていた。

 けれど彼女はわたしの元に戻って来ることはなかった。


 ソフィアがいなくなってから三年が経過した。

 お腹の子どもは元気に会いに来てくれた。ソフィーと名付けてしまう自分に呆れてしまう。そんな我が娘も三歳を迎え、言葉を話すようになり、すべてのものに興味津々の時代だ。奇麗な花に止まる蝶々を見かけては凝然と観察しては触ろうとするが、怖いのか触れる寸前で指を離す。

 すくすくと何事もなく育っている姿に時折、涙が出ると同時にこれでソフィアが隣にいてくれれば完璧だった。彼女はいない。どこにいるのか、なにをしているのか判らない。ただ元気でいてくれればいい。

 娘が三歳の誕生日を迎えたときにはソフィアはこの世を去っているのだけれど。

 わたしは編集の仕事を退き、小説家に転身した。

 編集者時代、特に一緒に仕事をする機会が多かったオーガスタにエージェントを頼んだ。彼は快く引き受けてくれた。

 駆け出しの小説家のわたしに手厳しいことが多いけど、彼以上の人はいない。オーガスタで無ければ、ヤングアダルト作家として大成することはなかったろう。

 アリス・ローレンスはオーガスタ・スタンリーの手腕によって、形成されたと言っても過言ではない。

 キャリアを十年目を迎えた節目にオーガスタの提案でミステリを書くことになった。ミステリは馴れ親しんだジャンルではあったけど、いざ、自分で執筆するとなると話はちがってくる。一作の執筆に、十六ヶ月も費やすとは想像していなかった。

 オーガスタのみならず、担当編集––嘗ての同僚−−に多大な迷惑を掛けた。

 美談にする気はないがお陰でベストセラーになったのは僥倖。出版社とエージェントにがっかりされなくて済んだ。面目を保てたことにも安堵だが、新たな挑戦、門出を祝えたのは良かった。 

 そこから年に二冊刊行するペースを崩さずに執筆している。ヤングアダルト小説も並行して書いている。

 アリス・ローレンスは忽ち有名になった(このくらいの誇大表現は許されよう)。

 順調にキャリアを築いていると実感するとともに生活に変化が訪れる。

 三十を半ばを迎えようとしているなかで素敵な出会いがあった。

 決してソフィアを忘れたわけではないが、何時までも彼女に固執するのも良くない。彼女は永遠にわたしのところに帰って来ることはないのだから。諦めて次に進むしかない。自分の人生をより豊かにするために。なにより娘のソフィーのために。

 わたしは広告代理店で働く、ブルーの瞳が特徴的な男性と結婚した。

 結婚の決め手はソフィーが懐いたこと。これまでも何人か交際したりしたけど––そのなかに女性もいた––誰にも懐かず、仕方なく破局した。しかし彼はちがった。最初からソフィーは懐いた。それだけでは勿論ないのだが、決め手にはなった。

 家族が出来るとソフィアとの思い出は薄れていく。はじめはそのことに悩んだりもした。ふたり目が出来て、考えが変わった。

 過去を引きずるのではなく未来を前を向かないと。家族に対して悪いと思うようになった。考えが変われば、言動に変化が生まれる。

 それまでの苦悩が馬鹿馬鹿しく感じるようになった。

 ある日––メッセージが届いた。

 ソフィアの訃報だ。

 文章を眼にして、心臓が止まりかけた。数年前、心臓の病気で入院したことがあるので、ソフィアが迎えに来たのかと思った。

 会わない選択もあったと思う。

 ソフィアの名前を見たのは数十年ぶりだ。

 二度と彼女と交わることはないだろうと思っていた––実際にそうだったわけだけど、こんな形になるなんて思わなかった。

 わたしはすぐに会う約束をした。

 待ち合わせの場所に現れたのはソフィアの恋人を名乗るソーニャという愛くるしいほどに奇麗な外見をした人物だった。わたしと年齢はさほど変わらないはずなのに、老いを知らない女性だった。

 ソーニャはソフィアの訃報は十五年後に知らせるようにと言い残していた。

 死んでもなお意地悪だ。

 聞きそびれてしまったが、どうして十五年後だったのだろう。

 ソーニャは理由を知っているだろうか気になり、メッセージを送ってみたけど、送信エラーで理由を聞けなかった。

 電話を掛けてみたが機械音声でお使いの電話番号はーのメッセージが流れる。

 いったいなんだったのだろう。

 幻? 夢?

 彼女は本当にソーニャ・アクタビアンカなのだろうか。

 ネットで彼女に就いて検索を掛けてみたが、彼女の情報はひとつも出てこなかった。SNSも具にチェックした。ひとつもヒットしなかった。

 彼女はいったい何者だったのだろう。

 もしかしたら彼女はソフィアではないだろうか。

 そのような憶測が脳裏を過ぎるのは自然だ。

 確かめる術がない。

 彼女の実家を訪ねるのもひとつの手立てだ。しかしわたしは敷地に足を踏み入れることを禁止されているので、確かめようがない。


 あの日以来、ソーニャが気になって仕方がない。

 毎日のように彼女のことを考えている。公園で元気に遊んでいる子どもたちを眺めている最中であろうと。シチュエーションお構いなしに。旦那にどうしたんだと不思議がられる場面が格段に増えた。

 その度になんでもないふりをする自分に嫌気が差す。

 ソフィアの呪縛に囚われたまま。


 仕事にも支障を来たしはじめたときには自分が怖くて仕様がなかった。

 どうにかしないと行けない状態まで来ている。

 意を決してわたしはソフィアの実家を訪ねた。

 締切を数ヶ月遅らせた小説家の取る行動ではない。

 玄関に姿を見せたのは––


「良く気が付いたわね」


 ソーニャ・アクタビアンカではなく––ソフィア・プッキカーケ、その人だった。

 

 死んだと聞かされた相手が実は生きていました、なんて二流のミステリ小説を読まされている気分だ。

 読者を莫迦にした態度だ。

 ソフィアは"日差しが眩しくて堪らない"と言わんとするように眼を細める。口元は歪んでいる。

「わたしを弄んで楽しかった?」宿敵と対峙する主人公みたいなセリフを口にする日が訪れようとは思わなかった。「偽名を名乗り、別人の振りをしてまで死を偽装する理由あった?」

「十二分に」底意地の悪い笑みをうかべる。「そもそもは貴女が悪い。自覚ある?」

「わたしにすれば、悪いのは貴女。なにも言わずに去って行ったの根に持ってる」

「そのお陰でわたしがよりいっそう恋しくなったでしょう?」ソフィアは微笑む。「あー、でも、愛する旦那さんとわたしの子どもと––もうひとりそして新しい命を宿しているから、別に寂しくも恋しくもなかったか」

 ソフィアは大きくなりつつあるお腹に視線を向ける。

 思い出しているのかもしれない。大変な時期に出て行ったことを。

「そんなわけないでしょ」頭で考えるより先に口が動く。石段を下りようとするソフィアの動きが停止する。「貴女が去ってからずっとわたしの脳にこびりついて離れなかった。ずっとわたしのところに帰って来ると願ってた。そしたら、別人の振りをした貴女が現れるなり死んだことを聞かされて、冷静でいようと思ってた。けど、内心は動転してた。別れた二年後に病気で亡くなったと聞かされて、気が気でなかった。旦那に不思議がられる日々をここ最近送ってた」

「母親に敷地を踏むことを禁止されているにも拘らず来てしまった」ソフィアは言った。「確かに貴女の言うとおり、悪いのはわたしね」そう言ってソフィアは両手を広げる。いまにも飛び込んでしまいそうになるのを必死に堪える。わたしには大切にすべき家族がいる。ここで踏み止まり、踵を返して、笑顔で迎えてくれる家族の元に帰らないと。そして締切を過ぎている執筆に取り掛からないと––

「貴女は––ソフィアはどうだった? わたしを待ってくれてた?」意味などないと判っている。それでも訊かずにはいられなかった。「わたしにずっと恋焦がれてた? わたしよりいい人いなかったでしょ?」

「……こんなこと貴女を前に言いたくなどないけれど、そうね、いなかった」

 そのひと言で十分。

 それ以上の言葉はもはや不要と言える。

 子どものママと呼ぶ声が脳内に響き渡る。

 広い庭で子どもたちが自由に遊ぶ姿がありありと思い浮かんだ。

 両腕を目一杯に広げるソフィアの胸にわたしは飛び込んだ。

 久しく嗅いでいない懐かしく愛おしい匂い。

 少女時代に戻ったような気がした。

 アーガスには悪いけど、小説の完成はもう少し先になりそうだ。

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

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Paint of Love 蟻村観月 @nikka-two-floor

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