夜の底に沈む【終】
その日は特に、寒かった。私は冬璃が誕生日に贈ってくれたロングマフラーをしっかりと首に巻いて、早朝の冷たく清浄な町へと歩き出した。住んでいるマンションの最寄りのバス停には、誰もいない。いつもなら私より早く着いている彼女の姿もない。今にも壊れそうな椅子に座って、リュックサックを抱きしめる。白くなった息を、斜めに差すオレンジ色の朝日が溶かしてゆく。枯れた水田に両側を挟まれた二車線の道路は、通る車さえほとんどない。ただ、乾燥した風が落ち葉やほこりをゆっくりとどこかへ運ぼうとしている。
うとうとしていた気がする。ふと目を開けると、目の前に路線バスが停まっていた。慌てて乗り込む。他に乗客はいない。一番後ろの席に座る。暖房の効いた車内は厚手のコートを着たままでは暑すぎたけれど、脱ぐのは面倒だった。ミトンで包んだ両手を膝の上で重ね合わせて、ぼんやりと見つめていた。運転手のブレーキのかけ方が雑なので、しょっちゅう激しく揺れる。バスは田園地帯を抜け、街の中心部へと入ってゆく。次のバス停では、セーラー服姿の少女が一人だけ乗り込んできた。彼女は真ん中あたりの椅子に座った。私はしばらく無意識に彼女を見ていた。ハッと気が付いて、視線を逸らす。知らない人間にじっと見られているなんて、気持ち悪いだろう。あの子はきっと、私を気味の悪い変なおばさんだと思っている。昔の私だったら涙をこぼしていた。今は、ただ胸が乾くだけだ。
大学正門前のバス停で降りた。キャンパス内の木々は、気が早いことに既にLEDで飾り付けがなされている。クリスマスまでは、もう一か月半あるというのに。私はいつも暗くなる前に大学を出るので、LEDがどんな色なのかを知らない。
磯田先生の部屋に入ると、じんわりとほうじ茶の香りに包まれた。石油ストーブの上で、薬缶が湯気を立てていた。奥にある椅子に座っていた先生は、穏やかだけれど寂しそうな目で私を見た。
「どうして呼び出されたか、分かるね?」
「再試験の点数が、合格点に達しなかったんですね」
先生は何も言わず、手を伸ばしてソファに座るよう促す。
「君は講義をさぼらないし、実験演習も熱心にやってくれる。休日、図書館で勉強している所もよく見かける。なのに――」
「私、病気なんです。一日の上に何度もこの世界からぶれてしまうので、今いる世界の常識がどれなのか分かりません。先生は、『医学動物学・寄生虫学』の教授ですよね。でも、私は『幻想動物学』の教授の先生とも会ったことがあります」
「そうか」
先生はうなずくと、机の上に置いてあった一枚の紙を手に取った。この前の再試験の、私の答案用紙だった。
「自由記述の欄の、翼が光る水鳥の話はとても面白かったよ。僕も、」
先生が、微笑んだ。
「僕も、ぜひこの目で見てみたいと思った。ところで、近藤さんはどんな様子かな?」
「まだしばらく、退院できないみたいです。昨日会いに行ったら、すごく痩せてました」
先生は答案用紙を置き、机に造り付けられた本棚から、一冊の本を取り出した。そして、私に差し出す。
「これは、君と同じ病気だけれどノーベル賞を受賞した研究者の伝記だよ。ぜひ読んで――」
「必要ありません」
自分でもびっくりするぐらい、明るい声が出た。けれど、次に口を開いたときは、嗚咽が混じった。
「私は、私です。自分の人生は、自分で切り開くので」
あれは、数週間前のことだった。三日も冬璃が大学に出て来ないので、私は彼女の住むマンションの部屋に行った。郵便受けには、新聞が何日分も無理やり詰め込まれていた。いないのだろうか、と思いながらインターホンを押す。返事はない。けれど、中で何かが動く気配がした。私は、彼女からもらった合鍵を初めて使った。
「冬璃!」
彼女は、部屋の隅でうずくまっていた。立てた膝の間に頭を押し付け、ぐったりと腕を投げ出していた。彼女の周りには、空になった菓子パンの袋がいくつも散らばっていた。
「冬璃……」
「私、昔から大食いなのに痩せてるだろ。それって、重い病気のせいらしい。治療には長期間の入院が必要だって、ネットに書いてた。放置したらかなり危険だって」
「そう、なんだ」
ぐすっ、と冬璃が鼻をすする。
「……嫌だ。嫌だっ。私は病気になんかなりたくない。今入院したら、試験を受けられなくて卒業できないだろ? 元気だけが取り柄だったのに! 運動も控えないといけないって、陸上部やめろってこと? 大好きな酒もやめろって? どうなんだよ。なんでなんだよ。私はずっと普通だった。病気なんかじゃない。おかしくなんか――」
私は、膝をついた。冬璃のすぐそばに座り込んで、けれど彼女に触れることはできなかった。ただ、今、言わなければならない気がした。それだけが、私にできることだと思った。
「冬璃だけじゃないよ」
「は?」
「私も病気なんだ。治らない病気なの。一生、薬を飲み続けなくちゃならないの。今なら分かるけど、冬璃は気付いてたよね。その上で、私と普通に関わってくれた。それにどれだけ救われたか。今までの人生で、そうじゃない人にたくさん会って来たから。私は冬璃の前でだけ、なりたい自分でいられた。本当に、本当に、救われてたんだよ」
だから私にも冬璃を救わせて、と言いそうになって、口をつぐんだ。冬璃が顔を上げる。濡れた真っ赤な顔で、彼女は笑おうとしていた。
「気付いてなかったよ」
その言葉が本当なのか、私は知らない。
冬璃が退院したのは、クリスマスの数日前だった。私たちはお揃いのマフラーを巻いて、大学構内を歩いていた。磯田先生の部屋でお茶をいただいている間に、すっかり日が落ちてしまっていた。
校舎から出て広場に降り立ったとき、私は思わず息を呑んだ。広場を囲む木々には、無数の青い光がともっていた。
「きれいだな」
冬璃の言葉に、私はうなずく。何かが指先に触れた。伸ばされた手だった。私は、きゅっと彼女の指を握り返した。
ゆっくりと、ゆっくりと歩いてゆく。光がしんしんと、雪のように降る。夜の底に沈みながら、それでも確かに、私たちは歩いているのだった。
【おわり】
混線する世界と、秋から冬へと沈む季節。 紫陽花 雨希 @6pp1e
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