とある夜の出来事、それはごっこ遊びのようで

 大学で行われる試験の結果は、全て事務室の前にある掲示板に張り出される。紙には受験者の実名と点数まで記載されており、公開処刑というわけだ。

 一週間前の「幻想動物学」の試験は、前日に冬璃と勉強したおかげでまあまあ解けた。だから、私は全く不安を感じていなかった。合格を確認するつもりで気楽に事務室に行くと、掲示板の前で数人の同級生たちが騒いでいた。彼らがいなくなるまで待つことにする。ぼんやりと立っていたら、彼らの話が妙な方向に進み出した。

「知ってるか? 磯田教授、学生とラブホから出てくる所を写真に撮られたらしいぞ」

「なんかSNSに流れて来たわー。あいつ、枕営業の噂あるよな。女ばっかり贔屓してさ」

 磯田先生とは、幻想動物学の教授だ。温厚で講義も分かりやすいと人気があり、私は悪いイメージは全く抱いていなかった。枕営業の話は初耳で、つい耳をそばだててしまう。

「倫理観がないんだよ、あの教授は。女だけ十点加点してるのは明らかじゃん。ここで全部見えてるのによくやるよ。それでも点数が足りない女は、ラブホに誘うんだろうな」

 同級生たちはがやがや愚痴を言いながら、食堂の方へと去っていった。動悸がした。名前と点数が書かれた表を目で追うが、滑ってばかりでなかなか自分の名前を見つけられない。手で胸を押さえてふうっと息を吐いたとき、

「あれ、秋、落ちてるじゃないか」

と後ろで声がした。いつの間にか現れた冬璃が、私の両肩に手を置いて首をひょいと出す。彼女の滑らかな髪が頬に触れた。おさまりかけていた心臓がまた、跳ね上がった。苦しい。

「四十五点って……」

 冬璃が絶句する。彼女の点数は七十八点だった。一緒に勉強したのに、どうしてこんなに差が開くのか。冬璃は怒ったり呆れたりしているだろうか。私の固くなった背中を、彼女がそっとさすった。

「ごめんなさい、冬璃」

「大丈夫。再試験もあるからさ。泣くことなんてないのに」

 ポケットに入れてあったスマホが震えた。服の袖で目を拭い、取り出す。思わず、ひっと声が漏れた。磯田先生からメールが来ていた。スマホが小刻みに揺れる。冬璃に手をそっと握られて、自分の体がガクガクと震えていることに気付いた。

「今日の夜、カワラダ駅の改札に来てくれませんか、って書いてる。どうしよ、私……」

 さっき聞いた話が、頭の中をぐるぐると回った。私は、容姿はあまり整っていない。薬の副作用のせいで、太り気味だし肌のあちこちに痣もできている。だから、その、女として求められることなんてないと思う。さっき動悸がしたのは、自分が教授に害されるという不安ではなく、信頼し憧れていた人に裏があると知ってしまったことによる動揺だったのだと思う。

「さっき、男の子たちが愛人って」

「私もその話、知ってるよ。真偽は分からんけどな。写真も見たことないし」

「私、磯田先生のこと――」

 冬璃がひらりと体を回し、私と真っ直ぐに向き合った。少年漫画の主人公のように、不敵な笑みを浮かべていた。

「私も一緒に行く。何かあったら秋を守る。大丈夫だ」

 そして、恥ずかしそうに口をすぼめた。

「かっこつけちまったぜ」


 十月の午後七時の街は、既に冬の香がたちこめている。私は秋物のワンピースの上にカーディガンをはおって部屋を出たが、歩いていると首元や耳がひどく冷たくなってしまった。駅の中を、下り列車に乗る通勤客や学生たちの群れをかき分けながら歩く。足音や人々の明るい声は絶えず鳴っているのに、どこかしんと空気が張りつめている。思わず、両腕を胸の前でぎゅっと組んだ。泣いてしまいそうだった。改札の外で、柱にもたれかかって無表情でうつむいている冬璃の姿を見たとき、ふっと温かいものが頬を伝った。

 私は、冬璃のことが大切なのだと思う。自分でもよく分からない。でも、これまでの人生で、私をこんなふうに扱ってくれたのは彼女が初めてだと思う。冬璃の前では私は、あるべき自分じゃなくてありたい自分でいられる。それは本当の自分とは違う、のかもしれない。大嫌いな自分とは違う、まるで

 ごっこ遊びのお姫様のような――

「冬璃」

 私は彼女の名を呼ぶ。彼女はハッとしたように顔を上げ、ふにゃりと表情を溶かす。寒さのせいで、白い顔の頬だけが赤く染まっている。

 私たちはしばらく、柱のそばでぼんやりと並んで立っていた。やがて、磯田先生が少し息を跳ねさせながら改札から出て来た。中年太りで丸眼鏡をかけた、温厚そうなおじさんである。私は少しひるんだ。優しそうに見えるだけで、本当はひどい人なのかもしれない、という考えが頭をよぎった。

「あれ、近藤さんも来てたんだね」

「えへへ、困りますか?」

 冬璃が、張り付いたような笑顔で軽いジャブを打つ。

「いやいや、良いんだよ。むしろ、嬉しいかな。じゃ、行こうか」

 どこに向かっているのだろう。私たちはオレンジ色の温かい光に包まれた駅前商店街を抜け、街外れへと進んでゆく。道中、ずっと冬璃と磯田先生が楽しそうに雑談をしており、私は二人の後ろをぼんやりとついてゆく。話の内容は全く聞いていなかった。ただ、現実感のなさの中で漂っていた。

 やがて、住宅街の中にこんもりと木の生い茂った場所が見えてくる。先生の目的地は、そこだった。

「静かに」

 先生がささやく。私たちは、すんっと息を詰める。

 落ち葉に覆われた小道を、足音を立てないように歩いてゆく。冬なのに落ちない常緑樹の厚く滑らかな葉の重なりの向こうに、ゆらゆらと青い光の粒が現れる。小さな光の点が少しずつ増えてゆき、線状になって針のように外側に伸びたと思った次の瞬間、視界がぱっと眩しくなった。目が慣れてくると、穏やかな青い光に意識が溶け、静寂の中鳥の羽ばたく音に包まれていることに気付く。

 そこは、小さな池だった。光っているのは、白い水鳥の翼だった。数十匹の鳥たちが、水面の上を低く滑るように飛んでいる。一枚一枚の羽の辺縁が光っているようだ。

「求愛行動だよ」

 先生がぼそりと呟く。不意に、一匹が光の粒を池に落としながら空へと飛び立った。落ちた光はしばらく漂った後、燃え尽きた。同じように、また一匹、また一匹と鳥たちが去ってゆく。全ての光が消えるまで、私たちはほとんど息もせずにいた。


 夕飯は、マクドナルドで先生がおごってくれた。私はてりやきバーガーセットを頼んだ。冬璃は、バーガーを五つとナゲット、ポテトのLサイズを頼み、ものすごい勢いで食べ始めた。先生は驚いたような顔で、自分のバーガーに手を付けないまま冬璃を見ていた。

「君、大丈夫かな? 大学では無料でカウンセリングも受けられるよ」

「吐いたりしませんよ」

 冬璃はかなり痩せている。

「私、消化管が弱くて、栄養をほとんど吸収できないんです」

「そうかね」

 先生はうなずき、気を取り直したように私の方に向かって微笑む。

「きれいだっただろう。幻想動物学の面白さ、ちょっとは分かってもらえたかね?」

「先生、そのために連れてきてくださったんですか」

 ほっとして、コーヒーが入った紙コップをそっと両手で包んだ。

「再試験、頑張って満点取ります」

「期待しているよ」

 先生と別れ、駅のホームで冬璃と二人、電車を待つ。

「冬璃、今日はありがとう」

「良かったな、先生が良い人で。まあ、私は――」

 そのとき、電車が滑り込んできた。冷たい風に、冬璃の言葉と髪が吹き上げられて散った。

【つづく】

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