混線する世界と、秋から冬へと沈む季節。

雨希

白い錠剤は、ミルクのように零れ落ちた

 白い錠剤が、ぽろりと私の手からこぼれて床に落ちた。茶色いカーペットの上で、それはまるでこぼれた一しずくの牛乳のように光っていた。じっと見つめている間に、一体どれだけの時間が経っただろう。私はため息をつき、錠剤を拾い上げた。口に放り込むと、すぐに崩れて甘みとも苦味とも言えないような味がする。嫌いな味だ。一口の水で喉の奥へと流し込む。

 私は、このちっぽけな薬に生かされている。吞まなくなると、きっとまたすぐに、この世界じゃないどこかに迷い込んでしまう。

 私の命も、生活も、人生も、未来も、何もかもが、たった一粒の白い薬によって成り立っている。

 なんて、不安定なんだろう。私はなんてもろい存在なのだろう。

 嫌だ。もう、自分を失うのなんて御免だ。どうか、どうか。

 どうか、私をこの世界の一員にしてください。生きていて良いと認めてください。

 たくさんの人からの賞賛も、自分を愛してくれる人の存在も、何も求めないから。

 ただ、私をみんなの仲間に入れてください。


 ふっと涙がこぼれそうになったとき、玄関のチャイムが鳴った。私は慌てて服の袖で目をぬぐい、部屋の入口のカギを開けに行く。ドアを押し開けると、明るい笑顔が向けられる。大学の同級生である近藤冬璃(こんどう とうり)は、近所にあるコンビニの袋を軽く持ち上げてみせた。何やら、ぎっしりと詰まっている。

「お菓子、いっぱい買って来た。勉強すると、お腹がへるからな」

 こんなにたくさんのお菓子、一体いくらしたのだろう。

「ごめんなさい! 割り勘にするから、値段教えて。私、そういうの全然気付かなくて。飲み物も用意してないし……。本当にごめんなさい」

 平謝りする私を、冬璃は困ったような顔で見下ろす。

「大丈夫だから、とりあえず部屋に入って良い?」

「ごめんなさい!」

 また失敗してしまったことが、辛くてどうしようもなかった。私はいつも自分の感情に振り回されて、周りの人に迷惑をかけてしまう。

「大丈夫、大丈夫」

 冬璃が私の背中を優しく押してくれる。私が住んでいるマンションの部屋は二十畳一間で、真ん中にちゃぶ台を置いてある。彼女はちゃぶ台の上に袋をのせると、あぐらをかいて座った。私も、彼女の向かいに座る。

「試験の前日にバイトが入るなんて、最悪だよな。講師が一人風邪ひいて、塾長がどうしても代わりに出勤して欲しいって言うから。秋(あき)、私のいない間に勉強進んだか?」

 高校生向けの学習塾でアルバイトをしている冬璃は、今日も黒いパンツスーツ姿だ。色白で痩せていて、どこか中性的な雰囲気の彼女には、よく似合っている。

「実は、あんまり進んでない。考え事しちゃって」

「一人だと、はかどらないよなー。仕方ないよ。ほら、もう九時だ。始めようぜ」

 私たちは【幻想生物学】の講義で配られたレジュメをちゃぶ台の上に広げ、定期試験の過去問集を見ながらマーカーで線を引いてゆく。緑色のマーカーを引いた所は赤い下敷きを通すと真っ黒になり、文字が読めなくなる。そうやって、必要な単語を覚えてゆく。大学受験生だったころから、よく使っている勉強法だ。私たちは手分けして、試験に頻出する単語を拾い上げてゆく。

 五分ほどで、集中力が切れてしまう。私はちらりと顔を上げ、向かいに座る女の顔を見ようとする。

「え、あれ?」

 そこにいたのは、冬璃じゃなかった。外見はよく似ているが、全く違う人がいた。見知らぬ彼女は笑顔で鼻歌を歌いながら、紙に線を引いている。

 ヤバい。世界がぶれたのだ。さっき、ちゃんと薬を飲んだのに。

 頭を抱える。額をちゃぶ台に押し付ける。戻れ、戻れ、戻れ……

「秋、秋、起きろよ」

 ハッと、顔を上げた。冬璃が、身を乗り出して私の肩を揺さぶっている。

「私、寝てた?」

「ああ。気が付いたらテーブルにつっぷしてた。エナジードリンクも買ってるけど、飲むか?」

 うなずく。最近学生たちの間ではやっているモンスター・エナジーは、甘ったるくて薬品くさかった。私が吞まなければならない錠剤に似た味がした。

 こういうことが、たまにある。前触れもなく私の意識が現実ではない異世界に迷い込み、その間、現実の体は眠りに落ちている。所かまわず眠ってしまうので、この病気を発症したばかりの頃は生活に支障をきたしていた。病院を受診し、薬を飲み出してからは、ほとんど起こらなくなったけれど。

 混線病と呼ばれるこの病気の症状を、私は「世界がぶれる」と呼んでいる。百人に一人がかかる珍しくない病気だが、症状を持たない人には患者の感覚を理解し辛いためか、偏見が根深い。まだ良い治療薬がなかったころ、意識だけ異世界に行ってしまった患者の体が夢遊病のように歩き回る姿を、心ない人たちはゾンビと呼んだ。そして、ゾンビは何をしでかすか分からないからと社会から隔離し閉じ込めた。

 私も、もし生まれるのがもう少し遅ければ、一生を牢で過ごすことになっていただろう。

 だから、誰にも言えない。自分が病気だということは、決して、言えない。目の前にいる、この大切な人にさえも。


 私たちは朝の五時ごろまで勉強をし、三時間ほど眠ってから定期試験にのぞんだ。試験の内容はほぼ去年のものと同じであり、楽に解くことができた。試験終了の二十分前に途中退室し、重い体を伸ばしながら自動販売機のあるテラスへと向かう。冬璃の後ろ姿が見えた。椅子に座って缶コーヒーを飲んでいる彼女の後ろから、

「お疲れ様」

と声をかける。彼女は振り返ると、にこりと微笑んだ。

「秋のおかげだ。多分、満点だろうな」

「私はちょっと分かんない所あったよ。でも、合格点はとれてると思う」

 私は、冬璃の隣にある椅子に座った。

「お疲れ様会、【森の中カフェ】でやる?」

 私たちの行きつけのカフェだ。昨日のお菓子のお代を受け取ってもらえなかったので、今度は私がおごるつもりだった。

 なぜか、冬璃がきょとんとする。そして、言った。

「森の中カフェ、ってどこ?」

 そのとき、私は気付いた。今、世界がぶれている。周りをみわたすと、そこは大学のテラスではなく、見知らぬ建物の中だった。窓からは、すぐそこにある砂浜と海が見えた。私の通う大学は、海から遠い山の上にある。

「なんで……私……」

「秋、大丈夫か?」

 目を開けた。冬璃の心配そうな顔が、視界いっぱいに見えた。

「自動販売機にお金を入れたのに、ボタンも押さないでぼーっと立ってるからびっくりしたぜ」

 窓から差し込む木漏れ日。白い壁。談笑する学生たち。当たり前の現実世界。

「今から、【森の中カフェ】行くか?」

 私はほっとして、うなずいた。スカートのポケットに手を入れる。頓用の薬が、指先でつるりと滑った。


【つづく】

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