陸


 一夜が明けた。首筋に寒気を覚えてユァンは目を覚ます。

 大きな欠伸をすると、机に広げた本をそのままにして部屋を出た。顔を洗ってから、霧の漂う町を歩く。

 眠気眼の景色は、霧の海に浮かんでいるようでまるで覚めない夢を見ている心地だった。

 行先は祠廟である。歩いているうちにだんだんと頭が冴えてきた淵は、入口で立ち止まると後ろを振り返った。

「無事だったのかい」

 老婆がちょうど朝の掃除に来たところだった。

 最初に訪れた時と、ほとんど同じ時刻だった。

「急で申し訳ないんだけど、清めた水を持ってないか。札を作りたくて」

「聖水かい?あるよ。あたしもよく御札は作るからね」

「よかった。なら机を借りてもいいか。道具も揃ってるならここで書き上げてしまいたい」

 老婆は左の部屋に招き、聖水や筆、硯、墨や朱を手際よく用意してくれた。

「ありがとう」

 淵は懐から何も書かれていない真っ白な札を出した。墨を磨って精神統一する。

 夜の間呪符の本を読み込み、付け焼き刃だが治癒の術の仕組みを叩き込んで来た。成功するとは限らないが、これでも道士の端くれ。霊力を込めて書く間に掴むことができれば、それなりの効力のあるものが作れると踏んでいた。

 一筋書き入れる毎に呼吸を忘れ、じっくりと時間をかけて一枚を仕上げると、淵は息を吐いて筆を置いた。

「怪我をしてしまったのかい」

 見守っていた老婆が後ろから聞いた。

叶暁蕾イェ・シャオレイが、ちょっとな」

「あれからどうなったんだい」

「幽鬼は全て祓った。かなりの大物が潜んでいたから行った意味はあったよ。まだ尸鬼が大量に残っているから、道士を呼んで山全体を清めておいてほしい。俺たちはそろそろ次の街に行かなきゃならない」

「そうかい……」

 肩を下げる老婆に、淵は改めて言った。

「なあ、もう終わったことだし、本当のことを話してもいいんじゃないか」

 何を、と老婆は眉尻を下げる。

「幽鬼を倒したと言ってもあまり嬉しくなさそうだし、叶暁蕾も疑っていたが、あの山がそのままであることに何か意味があったんだろう?」

 老婆は少し思案して何度か口を開閉させる。

「あたしはね、止められなかったんだよ」

 そうして、訥々と語り始めた。


 ◐



「まあ、どうしたのその格好。泥だらけじゃない」

 ぼうっとしながら店内に入った淵は、よく通る溌剌とした声で現実に引き戻され、目をしばたかせた。

 菓子屋の開店準備をしていた宿の奥さんが、淵の姿を見るや否や声を上げたのである。廟から出た後朝食を買って戻って来た淵は、自分の服を見下ろしへらりと笑った。

「ああ、すみません。昨日山登りをしてて」

「しっかり落としてから上がるのよ。そうだわ。飴は好きかしら。昨日お客様用にお出ししようと思ってたのをすっかり忘れてて。よかったら二人で食べて」

「いただきます」

 小皿にいくつか乗せられた蜂蜜色の飴を、淵は受け取った。

 暁蕾の部屋を訪ねると、彼女は上半身を壁に預けて髪を整えていた。毛先まで丁寧に櫛を通し、後ろに払う。

「おはよう」

「はよ。足の具合はどうだ」

「だいぶましになったよ。今日は一日大人しくしておくつもりだけど」

 確かに顔は少し血色が良くなっている。

「それがいい。さっき包子や葱油餅を買って来たんだ。どれを食べる?」

「どっちも」

 暁蕾は即答した。夕飯を逃してしまったから、実は空きっ腹のまま座っているのが足の痛みと同じくらい辛かったのだ。

 食べる元気があるのだから、確かに症状は引いて来ているのだろう。大量に購入した甲斐があった、と淵は膨らんだ包みを下ろした。

「それと、祠廟のお婆さんに会って話をしたんだ。幽鬼を祓ったことを伝えたら、君が疑っていたものが何なのかわかったぞ」

 暁蕾はまず包子に手をつけた。

「教えてくれたの?」

「ああ。幽鬼が山に留まったのは結局習性のようなものだったけど、お婆さんは……というか、町は町で後ろめたいことがあったらしい」

 五人の道士が喪われ、山が鬼の巣窟として畏怖の対象となった数ヶ月後のこと。

 ある家に女の赤子が生まれた。子の誕生は誠にめでたい事だったが、困ったことにその家は決して裕福ではなく、男ならともかく女を結婚まで養うお金がなかった。加えて姑からも女を産むなど、と残念がられる始末。圧力をかけられ、失望と不安に押しつぶされそうになった母親は、いっそ赤子の首を絞めてしまおうかと考えたが、愛しい我が子に手をかける勇気はなく、やむを得ず山に捨てることにした。

 泣き声に後ろ髪を引かれる思いで母親は一度山を離れたが、はたと我に返って引き返した。やはり置いて行けない。どんなに辛くても我が子を手放す方が何よりも心が痛かった。しかし山に戻ると、忽然と赤子は姿を消し、泣き声もいつの間にか聞こえなくなっていた。

 鬼に食べられたのだ。その噂はたちまち広がり、それから女を産んだ母親たちは、山に子を捨てるようになった。山には鬼がいるから、目の届かないところで食べてくれるだろうと。育てられない罪悪感が、悪い鬼によって少しは薄れるからと。

「幽鬼をそういう風に利用していたんだ。お婆さんはそれを知ってからそんな殺し方をしてはいけないと呼びかけたらしい。幽鬼は魄から生まれるものだからそれを懸念したんだろうな。でも誰も忠告を聞いてくれなかったそうだ。一人止めたところで女の子を育てられなくて苦しんでいる家はどこにでもあって、それが解決できなければ女の子が育っても不幸になるだけだから、どうにもできなかったんだと」

 ──全部鬼のせいなんだよ──

 老婆が恐れていたものは、救えなかった多くの子の命だったのかもしれない。

 何の力もない無力な道士は、ただ廟で祈りを捧げ、亡くなった者たちを弔うしかなかったのだ。

「でもわからないな。どうして女に生まれただけで葬られなきゃいけなかったんだ。家庭の事情とはいえ、他に方法はなかったのか」

「……なかったから、そうなったんだろうね。男は家を継げるけど、女は自由に仕事を選べないし多くは稼げない。婚姻も女の方が何かとお金がかかるから余裕がないと難しい。ここは小さな町だし、女中として雇ってくれるところも、養子を取ってくれるところも少ないだろうから、口減らしに売られたり、赤ん坊のうちに殺すこともよくある。そういうものなんだよ」

「なんだか陸は……女が不利になるように作られている気がする」

 あなたの故郷は平和だったものね、と暁蕾は過去を思い返した。

「人は普通あそこまで公平な統治はできないよ。世間では女は陰。男は陽。天に昇る陽とは違って陰は地に沈むもの。特に民間ではこの二元論は善悪と同じように考えられていて、女は災いを呼ぶと言われてる。私の故郷もそうだった」

 中庭の方へ視線をやる。

「天晨郷は天帝を崇拝しているから陽の気こそ至高として扱っているの。そのせいで女は日常的に軽視されてた。事件も頻繁に起こっていたし……、最近は子どものために保育所を建てたり対策を頑張っているんだけどね。ここにもそういうのがあれば助けられる子が増えるんじゃないかな」

「お婆さんに伝えておこう。何かしらのきっかけになるはずだ」

「そうだね」

 あ、と淵は廟でやったことを思い出し、懐にしまっていた札を暁蕾に差し出した。

「治癒の札を作ってみたんだ。効能はともかく、お守り代わりに持っててくれよ」

 さすがに一発で成功しなかった、と言う淵と札を交互に見比べ、暁蕾は呆気に取られた。

「……作った!?そんなあっさりやってのけるものじゃないでしょ。何を朝の運動がてらに一筆したためましたみたいな調子で書いてるの!?……わ。霊力だけ無駄に注ぎ込まれてて全く治癒の効能構築がされてない!」

 おかしくなってしまって暁蕾は笑った。ここまで機能が崩壊していればそもそも霊力が流れ出てしまうものなのだが、土台だけはしっかりと作られていて、形だけそれらしく出来てしまっているのが面白い。彼が努力しようとしたのが手に取るようにわかる。

「いやぁ、呪符の本を読み込んで理解したつもりだったんだけどな。他の霊符みたいにはいかなかった」

「わざわざ勉強したの?」

 それだけで基盤まで構築したというわけか。

「効き目がなくても、呪符にはそういう力も備わると俺は信じているからな」

 淵が願ったのは、彼女の足がよくなるようにという誠実な祈りだった。成功しないとわかりつつも、その祈りが作用することを信じて札を生成した。

 暁蕾の琴線が、揺るがされる。

 暖かく広がる水面の波紋が、心地よく内に浸透していく。

 両手でぐっと札を握りしめる。

 爛れるような醜態の吐露を、取り繕った言葉よりもこうした気持ちで返してくれたことに暁蕾は胸が軽くなった。

「ありがとう、藍淵」

「俺たちは陰陽の司として霊脈を正すために旅を始めたから、何もかもを話すにはまだ早いのかもしれない。でもこれから先は俺たちも想像つかないほどの長い旅路になるはずだ。頼れるのはお互いしかいない。少しずつ気を許せる関係になれたらいいと思ってるよ」

「あなたはいい人だよね。気味悪がられるのがどうしても嫌で足を隠していたけど、全然あなたのことわかってなかった」

 暁蕾は膝を立てると、膝下から足先にかけて指を滑らせた。明るい場所で見ると、木の素材は足に根を張るようにしてまとわりついていた。

「……小さい頃家の習わしで足を小さくする矯正をしていたんだけど、衛生管理が上手くいかなかったのか失敗して一部が壊死してしまったの。私は暘谷の司だから使命があるし、このまま歩けなくなるのはまずいでしょ。だから仕方なく切断して木の氣を操る道士に義足を繋げてもらったの」

「……そうだったのか」

「不思議なんだよ、水を吸わないし一生腐らないし、どんな衝撃にも耐えられるの。あの方のおかげで歩けるようになったから、恩義に報いるためにも私は強くなろうと思ったの。もっと鍛えていくらでも幽鬼を倒せるようにならなきゃ」

 暁蕾の小さな笑みを見て、淵も笑った。

「それ以上強くなるのか?勘弁してくれよ、相対的に俺が弱くなるだろ」

「何言ってるの、あなたも鍛えるのよ!術ばかり練習するんじゃなくて戦う練習もしてもらわないと昨日みたいな目に遭うんだからね」

 指で容赦なくつつかれ、淵はバツが悪そうな顔をした。

「いてて。そうだな、そうだよな。俺たちはここからだからな。伸び代はたくさんあるわけだ。一緒に切磋琢磨していこうぜ、暁蕾」

「うん!」

 拳を付き合わせた二人は、互いの未来を写す瞳を見つめ、期待に思いを馳せた。

 果てない蒼空に高く日は昇り、暮れに山の端に沈むと茜に彩られる。そうして日々は循環していく。

 彼らは長い時をかけて成長し、変わっていくのだ。


 ◐


「おいおい、もうちょっと味わって食わねえか?真心込めて作ったんだ。よく噛んで食べろ」

 鍋を振る旦那が厨房から不満を漏らした。

 あれから二日後、出発前に飯屋で最後の朝食を摂っていた彼らは豪勢な料理を囲んで食に徹していた。

 白粥をはじめ、牛肉麺、米粉、小籠包、焼売、雲呑や饅頭、胡麻団子などがテーブルに揃い、香ばしい湯気が漂う中、箸や匙が忙しなく大皿を行き交っていた。

「この雲呑がすこぶる美味いぞおっさん。ちゃんと肉汁を味わってるから心配しないでくれ」

「またしばらく食べられなかったら嫌だもの。今のうちに味わっておかないと。あ、お茶のおかわりください!」

「おじさん開店準備してるんだけど!?給仕ばっかやってられるか!」

 嘆きは虚しく煙に溶けて消えた。

 次の街への道のりは大方把握しているから、前回のように彷徨う羽目にはならないだろうが、その場所ならではの味はそこでしか味わえない貴重なものである。しっかりと食べ尽くして、思い出として舌に残しておくのも旅の一興だ。

「全く、早朝はここしか開いてないからってよお」

「もちろんここの料理が一番美味しいからに決まってるじゃないですか」

「品数も豊富だしな」

 ふん、まあ、若者がたくさん食べるのはいいことだからな、と旦那は気を良くしてお茶を注ぎ足した。

「嬢ちゃんは先日悪い奴らをとっ捕まえてくれたからな。芙蓉包をくれてやるよ。腹が減った時に食いな」

 大きな巾着がどんとテーブルに置かれる。

「わあ、こんなにいいんですか?」

「もう行っちまうんだろ。うちの店に来てくれてありがとうな」

 旦那の眩しい笑顔に見送られ、二人は店を出た。

 最後の最後に祠廟に顔を出した後、街へ続く道に向かい、濃い霧の中をゆっくりと歩いて行く。

「案外短い挨拶だったな」

「必要なことは伝えたし、あとはこの町次第だからね」

「祈るしかないか」

「というか、今度こそ目的地に着けるように地図書いてもらったから、羅針盤の札を最大限活用して三日以内に柳玄街を目指すよ。いい?」

「おお、対策はばっちりだな。下手に寄り道せずまっすぐ道なりに進もう。たぶんそれが原因で餓死に追い込まれたからな。次は絶対上手くやれる」

 自分に相槌を打ちながら淵は札の枚数を確認すると、何かを閃いた。

「そうだ、雲に乗って行くのはどうだ?歩くより効率がよさそうじゃないか」

「あ、それいいかも」

 瞳に星を散らした暁蕾はしなやかな手つきで札を投げ、雲雲ユンユンを呼び出した。

「ええ、半分冗談だったのに」

「持久力を上げる練習になるじゃない」

「それもそうだけど、ちょっと前まで君の独占だったのに」

「乗らなくていいの?淵」

 雲の上から手が差し伸べられる。暁蕾の長い髪が流れ、低い陽の光が後ろから輝く。

 淵は破顔し、強く手を握って地面を蹴った。


                  -了-

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桃源夢寐-夙夜廻流伝- 狗柳星那 @se7_sousaku

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