伍
あとどれくらい持つだろうか。
傾斜に逆らって飛ぶように走る。足場が悪い所で相手をするのはごめんだった。ただでさえ分が悪いというのに、これ以上不利になってはたまらない。
巨体が細い枝に絡まり尸鬼を貪っている。無理やり登っているから先程のように木が倒れて来たのだ。攻撃すると決まって捕食し体力を取り戻そうとしている。どれほどの効果があるかはわからないが、逃げる隙は作りやすい。
できれば開けた場所に戻りたかったが、玉陽で攻撃を回避するので精一杯で、雲を出すのは難しい。二つ同時に術を発動させるのは不可能ではないが、双方を制御するとなると至難の業だった。
陰陽術は五行の基本的な術に比べ根源的な側面が強く、一定の境地に達しなければ術を発動することすら困難な仕組みになっていた。加えて天晨郷、地宵郷の種族のごく一部のみに伝承され、その中でも選ばれた者にしか扱うことが許されないのだから、術者がいるだけでも奇跡と言える。
単体で正確に操れるだけでも、道士としてかなり貴重な分類なのだ。
ぐっと霊符に力を込める。
「“萬陽……寵招”!」
暗闇に花咲く靄。眩んだ隙に死角へ入り込み、大きく後ろへ回って振りかぶる。
しかし長い足が鋭く伸びて、
「っぐ」
耐えて暁蕾は足を掴み、前転して骨を折る。躰が近い。もう一枚の霊符を貼り付けようとするが、体を倒され、振り落とされる。
そしてまた追いかけられる。ずっとこの繰り返しだ。正面からまともにやり合える相手ではないのに、これでは埒が明かない。
冷や汗が出ているのは恐怖からではなく、足の痛みが時間が経つにつれ増しているからだった。長時間あらゆる幽鬼を倒して走り回り、体力も削られた上でこの珍妙な敵に手を焼いてしまっている。休む暇も与えてくれない。あんなものは幽鬼ではなく化け物だ。
尸鬼の突然変異か何かで巨大化することを覚え、何年もかけてぬくぬくと繭の中で成長した、鬼ですらない何か。歪が発生させる霊脈の乱れがそうさせたのだろうか。もし放っておけば、そう遠くない日にこの生き物は山から降りて町を蹂躙していただろう。祓いに来て正解だったのだ。
苔を踏んでしまい、素っ頓狂な声を上げて暁蕾は派手に転んだ。これでは淵の二の舞だ。
幽鬼が狂ったように奇声を轟かせた。
「玉陰」
背中を貫こうとした幽鬼の足が、急激に速度を落として痙攣を起こした。
幹に手をついて顔を上げると、頭上には足先に凝縮して玉陰が円を描いていた。巻き上がった何十枚もの木の葉の向こうでは、服を土まみれにし、肩で息をする
彼が霊符を突き出す。
「
答えて彼女は玉陽を呼んだ。
今度こそ奴の動きを止める。
白の光と黒の影が交差し、高速で循環する。
風が吹き荒れた。術が掛け合わさり、太極の円盤となって幽鬼を覆う。
暴れていた足が完全に機能を停止し、幽鬼は悶える。
今なら届く。
「“有為万象”」
霊符を直接当てることで魄そのものに干渉する陰陽術の大技。全ての万物は展開する法輪の内で無限の時にかけられ、本来の形を取り戻そうと生滅の輪を巡る。
黄金の円環が幽鬼を囲んだ。
前髪を払って淵も札を投げる。
「“無為滅却”!」
幽鬼の躰にぶつかった途端、弾かれたように身が波打った。
霊力が干渉し、内側から切り裂かれて中身が露わになる。魄が外に飛び出すと、そのすぐ下に亀裂が入り、虚空が目を開く。
万物は展開した空間を前に抗うことはできない。魄を浄化し、正しき場所へ還るのがこの世の理。
姿が歪み、存在が曖昧になり、魄は洗われ──……幽鬼は赤子の悲痛な叫びを残して、ぷつり、と消えた。
葉が舞い落ちる。風に流され、これまでのざわめきとは違う優しい囁きが辺りを包んでいた。
息を整えながら淵が歩み寄る。
「悪い。すぐに立て直したんだが、追いつけなくて」
「……大丈夫。目をつけられたのが私でよかった。あなたじゃ、すぐに食べられてたもん」
葉の下で尸鬼たちが蠢いている。
「立った方がいい。まだ尸鬼も残ってるからな。それに歪をまだ閉じていない。最後にあそこに戻ってここを出よう」
「うん」
暁蕾は大きく息を吸って、慎重に立ち上がる。
「……?平気か」
「さすがに疲れたね」
札に息を吹きかけ、
「霊力が切れかけてるんじゃないか。俺が玉陰で上を守るから歩いて……」
「もうだいぶ暗くなってる。危ないから早く済ませて下りよう」
元々薄暗かった山の中は日が傾くにつれて、外の景色よりもほんの少し先に夜が訪れようとしていた。右も左も定かでは無いうちに下手に歩いて迷ってしまえば、余計時間がかかってしまうだろう。
真っ暗になってさらに方向がわからなくなれば遭難することも有り得る。暁蕾に負担をかけてしまうのは忍びなかったが、淵は素直に従うしかなかった。
◐
赤ん坊の声が、児玉する。
空気が冷たい。
暖かな腕から離れ、寒空の下、二度と誰にも振り向いてもらうことなく木の根元で泣き続ける。人が立寄ることの無い山の中。懸命に泣き続ける声が、虚しく自然に紛れ、掻き消されていた。
小枝が折れた。からからと不気味な音を立てて奥から何かが歩いて来る。肩はだらりと下がり、首は妙な方向に曲がって足を引きずる奇っ怪な影が、無垢な赤子へと一歩一歩近づく。
ああ、おいたわしや、おいたわしや……。
今にも落ちそうな顎を動かし、かちゃかちゃ、声にもならない音を鳴らす。かたかた、不器用に手……らしきものを伸ばし、抱擁ともとれる形で赤子を持ち上げる。
影は子を食らおうとせず、捻り潰そうともせず、ただ山頂に向かって一歩ずつ、去って行った。
魄の性質により鬼は如何なる姿にもなりえる。そしてその生態もまた、千差万別だ。
「暁蕾!」
山道の入口である。
やっとの思いで帰って来た矢先、雲が何の前触れもなく消えると、暁蕾は着地も適わず崩れ落ちてしまった。
咄嗟に支えた淵は呼びかけたが、力なく首を振る彼女に焦りを覚える。
「無理するなって言っただろ。もっと手前で下ろしてくれたってよかったのに。霊力切れしてまですることじゃない。ほら、肩貸すから」
手を取って自分の肩に回すが、暁蕾は微動だにしない。
「……どうした。もしかして怪我してるのか?」
暁蕾はどこか耐えるように声を潜めて言った。
「歩けない……」
ただの霊力切れにしては様子がおかしかった。戦闘でかなり体力を消耗していたが特に目立った外傷はなく、なのに今は立ち上がる力もない。むしろなくなっていたからこそ雲に乗ることにこだわっていたのだろうか。
彼女に何が起こっている?
「わかった」
何にせよ足を痛めているのに変わりは無い。淵は彼女をおぶって宿まで歩いた。
とうに限界が来て、暁蕾の足は激痛に襲われ、燃えるように熱くなっていた。
歪を閉じた辺りから怪しくなっていた足の具合は、降りるにつれ徐々に痛みが増していき、最終的には何度も針で刺されるような、電気が走る痛みへと悪化した。
ここまで酷くなるのは滅多にないことだった。しかし連続で幽鬼を祓った上に、化け物を相手に決してなだらかではない地面を走らされていたから、そうしているうちに相当な負荷がかかっていたようだ。
暁蕾は長丁場の戦闘に向いていないのが唯一の欠点だった。ただ歩くだけならいくらでも耐えられただろう。だが今回は様々な悪条件が重なり足に不利に働いたのである。情けなかった。彼に身を委ねてもなお、冷や汗が止まらない。
この程度で使い物にならなくなるとは、なんて脆いのだろう。苦しみと悔しさがせめぎ合い、暁蕾は歯を食いしばった。
淵は急いで宿に帰ると、中には入らず中庭を通って部屋に面する縁に暁蕾を座らせた。
「足をやられたんだな?医者を呼ぼう。この時間ならまだ開いているはずだ」
「いい……大丈夫。痛むだけだから」
「立てなくなるほどなんだろ。それとも霊力切れも影響してるのか……?」
暁蕾は何とも答えられず項垂れる。
「休めばどうにかなるよ」
どうにかって……と、問い詰めたい気持ちを堪え、淵は切り替える。
「とりあえず中まで運ぶから……沓脱がせるぞ」
触れようとしたその手を、ものすごい力で暁蕾は止めた。どきりとして淵は顔を上げる。
「だめ」
解れた前髪の間から覗く淡い瞳が、まっすぐに彼を見つめた。
「やめて」
怯えを孕んだ言葉に、淵はたじろぐ。掴まれた手の冷たさが、手首に食いこんだ。
彼女の触れてはならない領域。踏み込んではならない場所。その境界がここにあるのは薄々気づいていたことだった。
だからといってどうということはない。知らないふりをして何事もないように過ごしていたのは自分なのだから。安易に越えてはならないものなのだと頭で理解しておきながら、怖くて隅に追いやり、深く考えるのを止めていた。そうまでして避けていたのは、自分たちが出会ってまだ一ヶ月にも満たない半端な関係だったからだ。
どうして立ち入った話を聞くのが許されるというのか。
所詮自分はここまでなのだと、まざまざと見せつけられた気分だった。
「……ごめん」
引くしか、ない。
沈んだ表情を見下ろし、暁蕾は逡巡した。
いつまでも隠し通せるとは思っていない。けれど一体どこまで打ち明ければ彼は納得してもらえるのかと、考えれば考えるほど痛みで分散し、いつまでも答えにまとまりがつかなかった。
鼓動が早まる。緊張と不安がひたすら喉を掻きむしり、いたずらに締め付ける。どんな顔をされるだろう。どんな風に思われてしまうんだろう。
だってこの足は。
「私も、ごめん」
暁蕾は自ら沓を脱いだ。
まず踵から外され、それから足先が露になると、軽い素材の沓が転がる。
そこにあるのは、想定された女性の足の形をしたものではなかった。
爪も生えていなければ五本の指もない。泥で隙間を塗り固められたように表面は滑らかになっていて、彼女の腕と同じきめ細かな肌すら見当たらなかった。まるで沓に収めるために作られたような、人工的な形。
暗がりに目を凝らすと、どうやら木目らしい模様が入っていて、穴が空くほど見つめた淵はやっと、それが義足であることに気づいた。
暁蕾は勢いでもう片方の沓も脱ぎ捨ててしまうと、足を縁に上げようとする。羞恥に見舞われ、逃げ出したい気持ちでいっぱいになった。
するといきなり体を抱えられ、淵にあっけなく持ち上げられる。
何か言おうとするも声にならず、淵も黙ったまま静かに部屋の中へ入った。
布団の上に寝かされ、暁蕾は横に体を向ける。
「そうだ。治癒の効能がある札は作ってないのか?」
淵は明かりに火を灯した。ぼんやりと部屋の容相が照らされ、彼の横顔が縁取られる。
「……ない」
「ああいうのは怪我を治せるものじゃないけど、痛みを和らげるくらいの効果はあったはずだ。……俺も持ってないな。試しに作ってみるから待っててくれ」
「聖水がないと無理だよ。それに書法も基本とは違うし、」
「じゃあ、どうすればいい」
遣る瀬無い感情を、淵はぽつりと呟いた。
無表情とも悲しげともとれる目が、燃える明かりに映える。
「何もしなくていい。治療法なんかない。接続部が一時的に炎症を起こしているだけ。休んでいれば勝手に治るから」
「いつもそうなのか?」
「今日は暴れすぎただけだよ」
布団を引っ張り、暁蕾は下半身を隠した。
「もう大丈夫だから、戻っていいよ」
顔色を悪くして何度も口にした言葉を言う。それに対して気遣っていながら彼女を安心させることも、実際に助けることもできなかった淵は、己の不甲斐なさに閉口する。
「……何かあったら呼んでくれ」
躊躇うには十分すぎるほどの事情だった。この日が来るまでひた隠しにしていたのはそれほど彼女にとって知られるのが恥ずかしかったのだろう。沓一つ脱ぐだけにどれほどの勇気がいることだったか。気の利いた言葉もかけられず、頼られもしなかった自分が今さら何が出来るというのか。
月明かりも届かない部屋の中、隅に置かれた荷物を認めると、淵は中を漁って机へ向かった。
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