肆
どこへ行っても同じだと思うのは、決まって負の種を撒く人間がそこかしこにいるからだ。環境や文化、政治や信仰がいくら違っても、人が抽出する悪は似通った傾向を辿る。天晨郷から落ちて陸を歩き回っていた頃、そうして他種族として認識していた彼らが、自分たちと大して変わらない生物であると知り、暁蕾は失望した。
「
人間の悪そものもである幽鬼は、善良の皮を被り悪を巧妙に隠す人間よりかはある意味純粋な存在なのだろう。
穿った目で対峙せずに済むのだから楽だ。
「山頂までは余裕で飛べるよ。術を使う時は氣をぶれさせたくないから降りてもらうけど、あなたはとにかく尸鬼に食われないように集中して。私はとにかく気配を追うから。……いけそう?」
「もちろん。術の対策は考えてある。まかせてくれ」
風を切って上へ向かう。やはり暗雲のような気流が下に向かって流れている。早速人の気を察知して尸鬼が大量に落ちて来た。後ろに乗っていた淵は反応して中腰になると、霊符を上にかざして唱える。
「“
すると、雲雲の真上に限定して尸鬼の落下速度が急激に落ちた。通り過ぎると何も無かったかのようにごろごろと地面に転がり、それらは二度動き出すことなく次々と溶けて消滅して行く。
雲の制御に集中する暁蕾の視界の端を、時折過ぎる黒い影、
霊力に当てられた尸鬼はまず己という現象を奪われ
黒い影に明確な形はないが、頭にあたる部分には白い点があり、ぎょろりと影を駆け巡っては尸鬼に目掛けて突進する。まるで意思があるかのような動きは全て、淵による精巧な制御技術で成り立っている。彼は霊符を挟んだ指を構えたまま仰ぎ続け、降りかかる尸鬼を一匹も逃さず見事に退いていた。
弾かれる音を聞いていた暁蕾は、まさか自分は傘の下にでもいるのではないかと錯覚し、口端を歪めた。多少は落ちてきても対応できるよう霊符を握っていたものの、使う隙すら与えてくれない。これだけの才能を持っておきながら氣読術の基礎すら手こずっているなんて笑わせてくれる。
しかし霊力は有限だ。早いうちに歪の場所を特定しなければならない。
緩やかな曲線に沿って飛んでいくと、やがて山の裏側まで回り、霊脈の濃度が高まっているのを感じた。着実に近づいている。だが比例して尸鬼は増えるばかりだ。
「
「問題ない。けれどそろそろ休憩を入れないと君も……」
淵は忙しなく目を動かしていると、左斜め後ろからぞわりと粟立つ気配を察し、即座に玉陰を放った。
的確に対象を捉えた玉陰はそれを影で覆い尽くすが、掻き乱されて霧散する。
ほとんど同時に気づいた暁蕾が札を構えた。
「幽鬼だ」
下には四つん這いになってこちらを見上げるおぞましい妖がいた。
人間を模した骨格を異様な角度に曲げて四肢とし、からからと顎を鳴らしながら走っている。雲もそれなりの速度で飛んでいるはずなのに、あの個体は相当俊敏なようだ。
「止まらなくていい。俺がやる」
一か八かで“無為滅却”と書かれた霊符を投げる。案の定幽鬼は横に飛んであっさりと避けてしまった。虚空が展開しても当たらず手元に舞い戻る。
幽鬼を足止めする分には空陰寵招で事足りるが、無為滅却の虚空に還さなければ核である魄は祓えない。淵の実力があっても尸鬼から身を守りながらでは手数が足りないのだ。
「無理だな」
「正面から叩いた方が早そうだね。一旦降りよう」
暁蕾はそう言って一足先に地面に着地すると、二度蹴って高く飛び上がった。
幽鬼の後ろに回り、横腹に蹴りを入れる。身軽な動作の直後とは思えない強烈な瞬発力で、幽鬼は避ける間もなく木に激突する。
「よく初手から詰められるな」
自分ではとても真似できない芸当だと淵は感心した。戦いの前線にいる彼女はいつも、優れた身体能力で敵を圧倒させる。修行は積んでいるものの実戦経験のない淵は、その分霊符で戦力を補い後方からの援護をするのが関の山だった。
幽鬼を祓うには霊力だけでなく体術の習得も必須となる。敵の攻撃から身を守る術がなければ、相対するものによっては命を落とすこともある。だからこそ道士は長い年月をかけて修行に励む。しかし洞に半ば閉じ込められる形で生活していた淵は、ひたすら霊力を磨き上げて過ごしたせいで能力が偏り、そればかりが得意になってしまっていた。修行中に鍛えた体はただ丈夫になっただけだった。
対して暁蕾は偏りなく、寧ろ並以上の力を兼ね備えどんな局面でも打開しうる経験値を持っていた。きっと同じ修行を受けていても、彼女のように空を舞うことはできないだろうと淵は思った。
「“萬陽寵招”《まんようちょうしょう》!」
薄暗い林の中に光が煌めいた。
暁蕾の霊符から広がった扇状の白い靄……
二元のうち陽の性質を持つ彼女の陰陽術である。この世のあゆるものを流転の理に従い、生と死の終わりなき円環へ導く。玉陽に触れた鬼は本来現世にあるべきではない躰を浄化され、肉体の再生と腐敗を延々と繰り返し自由を奪われていた。
ついでのように尸鬼を巻き込んで祓ってしまっている。一人でも十分に強いじゃないかと淵は構えた。
「“無為滅却”」
暁蕾とて霊力が決して劣っているわけではない。そうでなければ陰陽の司として選ばれることはなかったのだから。
虚空が空間を割き、幽鬼は飲み込まれて行った。
「わああっ」
「こっちに来い」
暁蕾の手を引き、淵は玉陰の下に立たせた。幼虫の雨は相変わらずだった。
「待って……
「乗って行かないのか?」
「だいぶ近づいてる。乱れもそうだけどそれとは別の幽鬼の気配もしてるの。ここから先は慎重に歩いて行こう」
二人がある方向に顔を向けると、中心部へと伸びる霊脈が、いくつもの淀んだ波を作って木々を縫い、大輪の花を咲かせていた。
◐
近づく事に幽鬼は現れ、計四匹の鬼が二人の手によって祓い清められた。
斜めに道を歩き、そろそろ着くだろうかという頃になって、暁蕾はある事に気づいた。
雲を除けると、それまでしつこかった尸鬼がぱったりといなくなっていたのである。
正確に言えば、尸鬼が繁殖している範囲から抜けたというのが近いだろう。おそらくは深部にいる鬼を囲うようにして幼虫は産みつけられていたのだ。
乱れの根元は、もうすぐそこにある。
「かなり手間をかけさせられたな。もう日が落ち始めたか?」
「わからない。ここからだと空が見えづらいし」
無風の中で、木の葉がざわめいている。侵入者を咎めるような囁きが、歩を進める毎に強くなった。
「腹が減ったからそろそろ暮れだな」
「腹時計ってやつ……?団子余ってるけどいる?」
「いる!」
あの時大量にもらっていたので、巾着にはまだたくさん団子が余っていた。暁蕾も気分転換に口に放り込む。噛めば噛むほど程よい甘さが疲労を癒してくれた。非常食として持って来て正解だった。
「なあ、あっちに川が流れてるぞ」
周辺を観察していた淵は、木の葉が擦れる音の間からせせらぎを聞きつけて、窪みのある部分へ近寄り片膝をついた。
「飲めるかな、これ」
「幽鬼がいる山の水とか不味そうじゃない?」
同意しつつも、喉の乾きに抗えないのだろう。試しに少し口に含んでみると存外問題なく、淵は大袈裟に美味いと褒めたたえた。
暁蕾も彼が飲んでいる隣で水を掬った。町に来る前にもこんな会話をしたような気がする、と数日前のことを思い返した。外での生活など慣れていなかったはずなのに、妙な順応性の高さを発揮して積極的に水や食料の確保に挑んでいた。獣を捕らえるのは暁蕾の役目だったが、捌いて美味しく調理をしてくれたのは淵だった。どこでそんな能力を身につけたのかはわからないが、その背景にあるものを考えると、暁蕾がそうだったように、彼も懸命に生きなければならない時があったのだろう。
その時、手のひらに乗った水が、震えた。
──泣き声である。
赤子のような、いたいけな、思わず駆け寄ってあやしたくなるようなか弱い声。
だがざわめきに混じって波紋を広げ、そこかしこに響き始める。
「何……?」
「幽鬼か?」
本物の赤ん坊などいるはずがないのだから、そうなのだろう。自分たちを誘い込もうとしているのか、はたまた威嚇か、方向感覚を奪われそうな喧騒に押されるようにして、二人はさらに乱れの根元に迫った。
「あ……」
いくつかの木々を掻き分けた先には、急に開けた場所があった。空は、傾いた日が浅い青を半端に橙色に染めようとしていて、まだ夜には遠い時刻だった。ここに来てやっと自然の風が髪を払ったが、暁蕾はそんなことを気にも留めず、中央にあるそれに目を奪われていた。
まず、歪があった。尸鬼が繁殖した根本の原因とされるものである。霊脈の流れを束ね、空間に亀裂を走らせて虚無の空洞を開けている。淵の無為滅却にどことなく似ているのは、どちらも幽鬼のいる冥界に繋がっているからで、それらは出口か入口かの些細な違いでしかない。
問題は歪にまとわりついている大きな、繭だ。
大人二人分ほどはあるだろうか。幾重にも重ねられた糸が歪から伸びて、丸々と太った白い塊をぶら下げている。動く気配はないが、道士としての勘がこれは幽鬼だと訴えている。
「倒した幽鬼はこれを守るために山に留まっていたのか?」
「そんな生態を持った鬼なんて聞いたことない……でもそうじゃないと辻褄が合わないよね」
だとしたらこの赤子の声は?
「とりあえず祓うか」
淵が懐に手を入れると、ぞろり、とムカデが地を這うが如く、尸鬼が連なって歪から出てきた。
やはりここから増えていたかと思ったのも束の間。繭から真っ黒な細い棘が伸び、小さな尸鬼の体を貫いた。
不意を突かれて唖然とした二人だったが、次の瞬間には本能的に距離を取って札を構えた。
「どうして今動くの」
「霊力に反応したのか、それとも」
棘……のようなものは関節を動かし、尸鬼を手前に引きずる。繭の中身は蠢いて次々と棘を生やし、ぱきぱきと乾いた音を鳴らして糸を裂いて、やがて地面へずり落ちた。
激しい音を立てて、八本ほどある足を四方八方に振り回す。蜘蛛や蠍を連想するその姿は、明らかにこれまでの鬼とは違う異質な妖気を放ち、洞穴のような口を開いて土もろとも尸鬼を食らい尽くした。
「尸鬼はこいつの食糧か」
「いくよ藍淵」
玉陽が閃く。靄の中にある黒点が、幽鬼を睨みつけ一直線に飛んだ。
続いて玉陰が足元を縦横無尽に駆け回る。これで大抵の鬼が錯乱状態になり動きを封じられるが、異様な形態の鬼がその程度で屈しないのは、概ね察していた。
泣き声が奇声となって耳をつんざく。暴れ出し、幽鬼の足が数本こちらへ伸びた。
どっと地面が割れ砂埃が舞う。いくら鬼でもここまでの威力を出す個体はそうそういない。これまでのやり方では通じないか、と暁蕾はすんでのところで避ける。が、横では攻撃を受けた淵が宙へ飛ばされていた。
「玉陽!」
札を持つ腕を振り、幽鬼の足に巻き付かせて麻痺させると、体勢を整え、かかと落としで関節を折る。
まずは二本。
「藍淵、生きてる?」
砂を払いながら、淵はひょっこりと立ち上がった。
「いやぁ驚いた。よく避けられたな、君」
「あれを受けて無事なのもどうかしてる。乗って」
度々彼は常軌を逸した体の丈夫さを見せつけてくるから恐ろしい。直撃すればひとたまりもないというのに、痛みは伴っても体は傷一つつかない。本人曰く気合いで耐えているそうだが、暁蕾は信じていなかった。
雲に乗って山を下る。幽鬼は残りの足でありえない速さで二人を追った。時々落ちている尸鬼を食らいながら器用に、獰猛に霊力を狙う。
「とにかく足に術をかけて動きを鈍らせるの。陰陽で合わせれば止められるかもしれない。その間に私がやるからあなたは──」
ふっと視界が陰り、二人は上を見た。
「ああぁあ!?」
絶叫した。こちらへ向かって大木が倒れて来る。横に逸れるも、枝にぶつかり暁蕾は雲から投げ出される。
最後に互いの焦る顔が、瞳に写った。
ぐるりと世界が回転し、枯葉の上を滑り落ちる。
木に引っかかるかと思ったが、坂だからか止まらない。どこか既視感があった。
「
喉から絞り出して呼んだ雲に背中を押してもらい、ようやく暁蕾は静止した。
赤子の声も、木のざわめきも、何もかもが止んでいた。
また別の木がめきめきと軋んで倒されている。林の中に戻ったのは失敗だったか、と暁蕾は後悔した。
高いところから落ちてしまったが、淵であれば下手なところをぶつけない限り平気だろう。それよりこれからどう対抗するか策を練らなければ。
幽鬼の落窪んだ目が、ぎょろりと暁蕾を捉えた。
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