参
日が茜に染る前に廟に戻ると、老婆は心底安心した様子で二人を迎えた。
「道士が立て続けに亡くなった理由はこれだろうな。ああいった形で繁殖するのは珍しいことだ。知識がないと油断して寄生されてしまう」
「なんてことだい……そんな恐ろしいものが」
老婆は言葉を失った。廟の左側にある部屋の中には、長机と椅子が二脚置かれており、机の上には占いの本や呪符の見本が複数枚並べられていた。
「尸鬼は幽鬼と違って狩る本能がない。住処に一箇所でとどまって人間から近づくのを待つ。だから降りて来たりはしないけど、どれだけ繁殖してるかによっては手こずるかもな。計画を練って明日また行ってみよう」
「……もういいじゃないか。あんたたちがそこまでする必要ないんだよ」
「歪があれば閉じなきゃならない。尸鬼も放っておけば何があるか分からない。ここからは完全に俺たちの仕事だ。最後まで責任もってやらせてもらうぞ」
「そんな」
「やっぱり襲われないと確信しているみたいですね」
緩んでいた皺がくっと引き締まり、気難しい顔つきに戻る。
「そんなわけないだろう。あたしはあんたたちを心配して」
「町が襲われない秘密があったりするんじゃないですか?」
老婆は大事な部分を言及しようとしない。どんな生態であれ鬼は人を食らう。それが避けられる条件が今のところそろっていない。聞いてもぼかしたり誤魔化そうとするから余計穴が目立つ。
「全部鬼のせいなんだよ」
いっそうしわくちゃにして力ませる。
道士に理解のある人が、ここまで話しても危機感を持ってくれないのは不自然ではないだろうか。
「鬼が惑わせているのさ。そうやっておびき寄せて人を少しずつ減らして恐怖で支配しようとする。騙されちゃいけない。そういう鬼なんだ。今にも取って食われるに決まってる」
いいや、寧ろ誰よりも恐れ慄いているからこそ、鬼を怒らせまいとしているのかもしれない。神に祈りつつも、背後に聳え立つ鬼から逃げたがっているのだ。
来るものも来ないのに?
老婆の本当の恐怖はどこにあるのだろう。
◐
「まあ、あのお婆さん?あの方は悪い人ではないんだけど、頑固というか真面目というか、信仰に篤すぎるところがあって」
やがて日が沈み、暁蕾は部屋を借りようと宿屋を探すと、菓子を売りながら兼業して宿を営業している店を見つけた。接客に出た主人の妻に旅人を名乗ると、興味深げに内容を聞かれ色々と話しているうちに、老婆の話へと話題が移った。
「みなさんは祠廟にお祈りされてないみたいですね」
「そうねぇ。もう使わなくなって随分経つんじゃないかしら」
「どうして使わなくなったんですか?」
「あまり効果がなかったものだから、みんな信じなくなってしまったのよね」
「だから代わりに山を信仰している、とか?」
まさか、と女は笑う。
「昔事件があったから恐れはしても、崇めたりしないわ」
売場で子どもがはしゃぎ回っている。
「信仰は鬼から身を守る効果があるんです。このままでは危ないかもしれませんよ」
同じことを言うのね、と困った顔をする。
「でも大丈夫よ。定期的に供物を捧げれば鬼も満足してくれるわ」
「供物?それはどんな」
詳しく聞こうとすると、そうねぇと考える仕草をして店内を見回し、商品にいたずらをする子どもを注意しに行ってしまった。
「おーい、買ってきたぞ。というかまだここにいたんだな。とっくに部屋で休んでると思ったよ」
そこへ淵が大きな包みを抱えて店の中へ入って来た。子どもを捕まえた女はあやしながら、
「あら、お連れ様ね。部屋は同じでよかったかしら」
微笑んだまま二人は固まった。
「別々でお願いします」
──この町はどこか不穏だ。
朝に立ち込める霧のように、上手く霞ませて全容を見せまいとしている。余所者だから話せないのか、それとも後ろめたいのか。
それぞれの部屋に通され先に風呂を済ませると、二人は縁に顔を出した。明日の備えに作戦を立てるためである。
淵が先程の包みを広げて
「ねえ
淵は一口食べると難しそうに眉を寄せた。
「俺はあれについての知識はあっても実物を見るのは初めてなんだ。上から勝手に降ってくるものなんて対処しようがない」
歪を封じると意気込んだのはいいものの、そこに辿り着くまでにどう尸鬼を退けるかに二人は頭を悩ませていた。一匹でも取り憑かれてしまえば終わり。下手すれば幽鬼よりも厄介な相手だ。
「蒼林ではどう祓っていたの?」
「繁殖を防ぐために定期的に巣を焼き払ってたらしい」
とても参考にならない方法である。そもそも規模が山の方が大きく、既に繁殖してしまっている後であるから、一網打尽にする手段は使えない。
「人間の気配に敏感だから遠くから呪符を飛ばすんだ。それで一帯を浄化して火をつけて祈る」
「さすがに山は燃やせないもんね」
「祓うだけならまだしも、歪を見つけるまで持つかが問題だよな」
「方向はわかってるから、
淵は二口で饅頭を食べるとまた一つ取り上げる。
「そうか、雲なら早く移動できるな」
「遮蔽物が多いからあまり急げないけど、あなたが尸鬼を駆除してくれれば効率よく進めるよ」
「それって俺も乗せてくれるってことか?」
期待に満ちた顔で淵が振り向く。よほど雲に乗るのが楽しかったのだろう。また機会が回ってきたという喜びがあからさまに表情に出ていた。彼は暁蕾より二つ上だというのに、時々少年を思わせる無邪気な性格が垣間見れた。もっとも、暁蕾の知る限りでは彼は大人な振る舞い方をしたことはない。
「あなたの方が術の施行が早いから、雲雲を操作してる間にあなたが祓ってくれたら確実だと思うの」
格闘において優れた身体能力を持つ暁蕾に対し、鍛えた体を持ちながら、実戦経験の少ない淵が得意とするのは霊符を使った道術だった。霊力を巧みに扱うその繊細な技術は、道士であれば誰もがため息を漏らすほど鋭利に美しく磨かれているが、長らく地宵郷の洞で暮らしていた彼の優秀さを知る者はごく僅かである。惜しいと思うと同時に、暁蕾は常々その才能を羨ましく思っていた。
「そうだな、明日はそれで行こう」
「うん。じゃあ氣読術の練習しよう。早いうちに学んでおけば戦闘に役立てられるよ」
「お。何を準備すればいい?」
「いつもの御札を用意して。私も持って来る」
一足先に立ち上がった暁蕾が中へ入ろうとすると、淵はふと視界に入った彼女の足に違和感を覚えた。
裾が膝下まである寝巻きの下には、いつも外で身につけている
「以外と潔癖だったりするのか?」
戻った時に冗談混じりに言うと、返って来た反応は予想外のものだった。
「いいでしょ別に。ほらさっさと座って。始めるよ」
心做しか一歩引いたような声色に、淵は間違いを犯したような気持ちになった。反省して暁蕾先生の指導を真面目に受けることにした。
「まず術を励起させて、手のひらの上で円を作って循環させるの。その内側に霊力を注ぎ込むつもりでもう片方の手をかざして」
暁蕾は
「こうか」
見よう見まねでやってみるも、思ったより円にするのは難しく、ぎこちない波が螺旋を描く。
「最初は不安定でもしょうがないよ。あなたは感覚で術を使っているから意識的に扱うのに慣れてないんだろうね。でも一度掴めば、わかるはず。あなたの陰の氣は下から上へと循環するもの。霊力の重心は下にあると考えて。そこを終点として、回し続けるの」
淵は目を瞑り、両手の中央に神経を集中させる。
鼓動に合わせて波が揺蕩っている。惑わされてはいけない。それは上から落ちるものではなく、下から湧き上がるもの。そして波の下に潜ることで帰結し、再び下から始まる。
だんだんと冷たい波は浅くなり、螺旋は円に近づく。
「そう。流れの理解が氣読術の基本」
「ああっ、もう駄目だ。意外と疲れるな、これ」
集中が切れると円が消滅し、淵は脱力した。使った事のない筋肉を急に動かしたような感覚だった。
「これから整うまで毎日練習して。そうしたら次の段階に行くから」
「これ以上のものがあるのか。大変過ぎるだろ……」
ひとまず今夜は早く休むことにして、二人はそれぞれの床に就いた。
◐
柔らかな布団の中で眠ったのはいつぶりだろうか。そう思うくらいに昨夜はよく眠れた。やはり野宿ばかりでは体は持たない。よく寝てよく食べてたくさん体を動かす。その三つが揃えば健康的な生活を送れる。旅というのは体が資本なのだから、次の町へ行く際には道のりをしっかり把握しておかなければならない。
「ここから一番近いのは
「どのくらいで着きますか?」
「三日はかかるんじゃないかね」
旅はそう甘くないものである。暁蕾は二つを諦めて食だけを最優先に生きることにした。
朝のまだ霧が出ている時間帯に、携帯食を手に入れるため町を徘徊していた暁蕾は、干し肉を購入すると一旦宿へ帰ろうと近道に路地へ入った。別行動で店を訪ねている淵と合流し、その後幽鬼討伐へ挑む予定だ。
しかし入った場所が悪かったのか、思いの外入り組んでいて横に曲がったり、斜めに進んだりと先が見えなかった。昨日食べた拉麺を思い出させる油臭い匂いを払いながら、店の裏を通り過ぎると、角を曲がったところに大人が二人、立ち話をしていた。
「騒ぐなよ。大人しくしておけばひでぇことはしねぇよ」
「すっかり明るくなっちまったがどうする。行くか」
「まだ大丈夫だ、人通りも少ないし今のうちに出てしまえば怪しまれない」
地面には大きな籠が置かれ、傍には女が座り込んでいた。手後ろで縛られ、猿轡を噛まされている。
──これは。
「誰だ」
咄嗟に壁に引っ込んだが、遅かったようだ。一人が駆け足で近づいて来る。
あれは人身売買の類いだ。暁蕾の脳に刻まれた記憶からその言葉が一瞬にして導き出される。
昔一度だけ、実家で働いていた女中が失踪したことがあった。異変に気づいた暁蕾は彼女が足繁く通っていた廟まで探しに行き、裏道までくまなく調べると、暗い建物の中であのような形で縛られていたのを見つけたのだ。
女が拐かされ、売り飛ばされる例は故郷では日常茶飯事だった。天晨郷は特に陽の象徴である天帝を信仰し、陰の気を持つ女は軽視される傾向にあった。自分の郷が特殊なのだとこれまで思っていたが、残念なことに大陸でもその価値観は同じらしい。
暁蕾は腰から札を取り出し、曲がり角に向かって投げた。
「
「あぁ!?」
雲が渦を巻いて飛び出し、男の視界を晦ました。その隙に脇を潜ってもう一人の男の方へ走る。
止まれ、と鋭く警告が飛ぶも、構わず暁蕾は地面を蹴って、ふわりと宙で半回転した。
遠心力で勢いよく横に薙いだ踵が、男の右頬に直撃する。
頭から吹っ飛んだ体は反対側の壁にぶつかり、あまりの痛みに男は背中を丸めて悶絶した。まさか年頃の少女が蹴り技を食らわすとは夢にも思わなかったのだろう。細腕を捕まえてひねり揚げてしまえば、怯えて言うことを聞くと勘違いしたのが仇となった。
着地した暁蕾は急いで女性を立たせると、表で助けを呼ぶように言って先に行かせた。さて、と振り返ると、ちょうど雲から逃れた男が倒れている仲間を認め、あっさり彼を置いて逃げ出したところだった。
ため息を吐いて、暁蕾は後を追う。
こういう時、修行で身につけた技が役に立って心からよかったと思う。
自分の身だけでなく他人を……理不尽な目に遭う女たちを、助けることができるから。
「逃げられないよ」
不意に頭上が陰り、男は見上げてあんぐりと口を開けた。
そこには、ありえない高さから見下ろす少女の、澄んだ蒼い瞳があった。
後頭部に衝撃が走り、背中から体重をかけられ男は倒れる。
一人目は久々に人間が相手だったため加減を失ってしまったが、今度は上手く倒せたようだった。
助けた女性が人を集めてくれたおかげで男達は拘束された。そのうち自警団が到着し引き渡されることになるだろう。縄を解かれた女性はお礼として、お手伝いしている家でこさえた団子を暁蕾に渡した。
「朝っぱらから暴れたみたいだな」
「静かなところだと思ってたのに、どこに行っても悪い人はいるものだね。団子食べる?」
騒ぎを聞きつけてやって来た淵が、差し出された食べ物にぱっと目を輝かせて一つ摘み上げる。
「子どもではなく大人が拐われるなんて珍しいな」
「そうでもないよ。女中や売春をやらせるために女性を売るのは割とよくある」
「……そうか」
「藍淵は世間知らずだね」
揶揄うように言った暁蕾は、猫目をすっと細めて笑った。
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