弐
三十四年前、持病を患っていた老婆は養生のため家族のいる宇関町に引っ越して来た。山の近くにある町は空気が澄んでいて過ごしやすく、夫は妻の体が良くなるようにと定期的に祠廟に訪れては祈っていた。時たま、当時廟祝を務めていた道士に頼んで健康に関する呪符を書いてもらい、言われた通りの方法で使用していると、五年後、奇跡的に病気が完治し、夫婦は喜び合った。それを期に老婆は自分を治してくれた神のために道士を目指すことになった。
運動のために外へ出るようになると、全快する半年前に人攫いが起こっていたことを知った。ある家の息子が昼に山を登りに行ったきり帰って来なくなり、後々幽鬼の目撃情報が出たことから攫われたか、または食われてしまったのではないかと噂になっていた。息子を失い悲しみに暮れた両親はどうか助けてくれと廟に訴えかけ、最初は渋ってなかなか依頼を受けようとはしなかったが、大量のお布施が払われることを約束すると、道士の五人が立ち上がった。術の中でも強力な霊符を扱える道士を交え、三人で調査を始めた。
しかし、彼らは夜になっても帰って来ることはなかった。
「様子を見に行くと言った残りの二人も、札を持たないからよっぽど注意して行っただろうけどね、案の定山に消えてしまったんだよ。町のみんなはすっかり怯えちまって、あの子の親も可哀想だがこの件を忘れることにしたんだ。あたしは道士さま方にたくさんお世話になったってのに、代わりに廟の掃除をすることくらいしかできなくてね。みんなも薄情なもんだよ。十年もすりゃそんな事件も神様のこともすっかり忘れちまってさ……」
あくまでも山を降りず、山に入った者だけを襲う鬼。
「繋がらないな。どうしてそこで信仰を捨てるんだ。いくら道士がいなくなったからって」
「偶像に祈るより山に祈願した方がいいと思ったんだろうさ。道士も布教に積極的ではなくてね、信仰がどれだけ大事なことかほとんど理解している人はいなかった。あたしは教えようとしたんだが、あの頃はまだ未熟でね、誰も話を聞いちゃくれなかった」
箒を入口に立てかけた老婆は像の前に立った。気難しい顔つきから一変し、同情と悲しみを孕んだ目で見つめる。
「人が襲われ、信仰が移り、霊域が失われても幽鬼は見向きもしない、か」
「一旦山に戻ってみる?」
「そうだな。どちらにせよ不安要素は消しておくべきだし、実際に見た方が早い」
「やめときな。いくら力があると言ってもね、道士が死んでるんだ。危険だよ」
「私たち山の低いところを歩いて来て、既に一匹遭遇してるんです。簡単にはやられませんよ」
「ものすごい嫌な予感がするんだよ。あんたたちまで帰って来なかったらあたしはどんな気持ちになるか。それにもし幽鬼を刺激して降りて来てしまったら」
当時の出来事を老婆は今も鮮明に覚えていた。簡単に道士たちを飲み込んでしまう常軌を逸した力。抵抗できる能力を持った者でも太刀打ちできない無力感。人々は見えない敵に怯え、信仰は奪われ、もはや山そのものが畏怖の対象となり、供物が捧げて災いを避けていた。
暁蕾は向き直る。彼女もまた似て非なる予感がしていた。しかし何よりも優先すべきことがある。
「心配しないでください。日が沈むまでには必ず帰ると約束します。少し様子を見に行くだけですから」
「引き際を見極めるのは得意だからな」
彼らの歩みに躊躇いはない。
「たまたまこの町に来ただけなんだろう。どうしてそこまでするんだい」
無論、これが二人に課せられた役目だからに他ならない。
◐
「とはいえ、山篭りする幽鬼なんて聞いたことないけどね」
「その姿形は千差万別って言うもんな。そんな怪しい鬼がいるなら最初から狩り尽くしておけばよかったな」
「その前に行き倒れてたよ」
それもそうだ、と淵は肩を竦める。昼時に開店するのを待ち、点心を売る店で包子を手に入れた二人は、食べながら霧が晴れた道を歩いていた。
人間の魄から生まれる鬼はその魄の性質に従って様々な形を成す変幻自在の生き物である。そのため生態も鬼の数だけあるが、無防備な人間を襲わず過ごしているのは非常に奇怪で、観測されたことはないであろう部類だった。
「ところで何で雲に乗ってるんだ?」
「ちょっと触らないでよ、嫌がってるじゃない」
「生きてたのか?これ」
雲の上に座って宙を漂う暁蕾は、いつもより少し高い目線で淵を見下ろす。
「私の飼い犬みたいなものだからいたずらは止してほしいの。ねー
「名前だったんだそれ……」
心做しか、呼ばれた雲が後ろの縮れたしっぽを揺らした気がした。自我がないのであれば、これは目の錯覚なのだろう。
「移動の時たいていそれに乗ってるよな。どんな術なんだ?俺にも乗らせてくれよ」
暁蕾は得意げに鼻を鳴らす。
「駄目。これは天晨郷の秘伝の術だからうちの者以外は扱えないの。山道は大変だから体力は温存しておかないとね」
「ずるいぞ君だけ」
その点淵は体力だけは十二分にあるため問題はなかったが、地宵郷にいた頃には滅多に見られなかった雲がこうして目の前で漂っているのが不思議で、こっそりしっぽの部分をくるくると指で回した。
「やるんだったらさっさと片付けて宿で休むのが理想だけど、なにせ得体が知れないから不安よね……」
遠くを睨みながら暁蕾は二つ目の包子を食べる。
「今朝のようにはいかないだろうって?」
「
「確かに気軽に戦えそうもないな。今日は下見程度に済ませておくか」
包子を食べ終えた頃に、彼らは再び山の中へ足を踏み入れた。
雲の少ない晴れの日でも、高く伸びた木々は細かく枝分かれして空の隙間という隙間を縫って光を遮っていた。こうして身を寄せ合う自然の内側に入ると、守られているような抱擁感と同時に異界に足を踏み入れた疎外感が胸をざわめかせた。
それが、最初の違和感だった。
来た時にはなかった人の侵入を拒むただならぬ雰囲気。
風が吹き始めたのは自然からの抑圧とはまた別のものだった。歓迎されていないのは道士ではなく、元々内側にあった何かだ。
「霊脈の乱れが上から流れて来てるな」
山道に沿って登ってしばらく、何かが異様な存在感を放っているのを肌で感じた。ざわりと生温く泡立たせる、修行を積んだ道士にしかわからないであろう、警戒しろと言わんばかりの独特な波。二人はあえて霊脈の流れから外れ、迂回する形で山を登って行った。行きは鬼に遭遇しないようにと無意識に低いところを通っていたから、気づかずにいたのだろう。
「これ、迷わないか?俺たち」
「
「そんなものが見えるのか」
細長い指がすっと伸びて、雲の縁をなぞると空を掴んで彼の目の前に持ち上げた。
「見える、じゃなくて、自分の操る力の形を覚えておくんだよ。普通は術を放てば自然の中に霧散してしまうけど、形を知っておけば大気の中に混じったそれを読み取ることが出来る。こういうのを氣読術って言うんだけど、修行で習ったことはない?」
柔く、まろやかで今にも溶けてしまいそうなそれに淵が手を伸ばすと、感じる間もなくすり抜けて消えてしまった。
「ないな……天と地ではそもそも術式形態が違うんだろうな。君の扱う術はどれも俺が学んできた法則に当てはまらない。今度その氣読術ってやつ教えてくれよ。なかなか便利そうだ」
淵が笑うと、暁蕾はつられて笑いかけて、ふと視線を下げた。
「道術はあなたの方がずっと上手いし、その気になればすぐ習得できるよ」
木の葉が意図するように騒いでいる。迂回する間も乱れを見逃さないよう追っていると、ある地点で淵が足を止めた。
どうしたのかと声をかけると、淵はしゃがんで何かを拾い上げる。
「何だ、これ」
黄ばんだ乳白色の、渦を巻いた小さな物体が彼の手のひらに収まっていた。木の実のようでも、菌類のようでもない。地上の植物に詳しくない暁蕾はよくよく観察しようと顔を近づけた。
「あ」
はっとして淵がそれを地面に投げ捨てる。
「何?」
「まずい」
彼の手から離れた渦は、転がる勢いでぐるりと体を伸ばし、何本も生えた足で歩き出した。落ち葉に紛れて見えなくなると、傍にまた軽い音を立ててひとつ落ち、またひとつ落ち、同じ渦が蠢いて地を這って行く。
「
淵は咄嗟に踵を返した。慌てた背中に暁蕾が問いかける。
「どういうこと。何であんなにたくさん」
「これでだいたいわかった。幽鬼の正体が。どの
霊脈の乱れにより活発化した幽鬼の活動により、氣の歪みを利用して切り開かれた謎の虚空が各地に点在していた。それが歪である。
歪に通じるのは冥界と言われているが、極まれに別の空間に繋がることもあるのだという。
「あれは蒼林にいた幽鬼の幼虫だ。間違いない」
地宵郷の洞窟を出た先にある森のことだ。彼の故郷は冥界の門を守っているためとりわけ幽鬼が湧きやすく、淵は修行の間何百もある鬼の種類を頭に叩き込まれていた。山は地宵郷から決して近いとは言えないが、何かの拍子に空間が繋がったのではないかと淵は思った。
通常、尸鬼は人間の魄に寄生したのちに亡くなった肉体を乗っ取って幽鬼となるが、寄生せず穢れを蓄積して成長する個体もいる。尸鬼が一匹いれば何十、何百も繁殖していると考えた方がいい。つまりこの山は養殖場と化しているのだ。下手に深入りする前に逃げなければならない。
「祓ってたらきりがなさそうだね」
「それだけじゃない。あいつらは本能的に人間がいると、肉を突き破ってでも寄生しようとしてくるから危険だ。あのまま手に乗せてたら穴が空くとこだったぜ」
「何それ怖すぎ!早く言ってよ」
駆け足で降りていく淵を追っていると、突然彼が大声を上げて仰け反った。目の前で尸鬼が落ちて来たのである。
飛び退いた末に苔で足を滑らせ、あらぬ方向へ体が傾く。
「どぅおわ!」
「
湿気た落ち葉でどこまでも滑り、木を掴もうと試みるも見事に失敗し、窪みの部分に投げ出される。ぐは、と情けない声が下に落ちた。
「ちょっと無事?毎日筋肉鍛えてるくせにバランス崩すなんて、らしくないよ」
「苔に勝てるもんか!やっぱり山道を歩いておくべきだったな」
覗くと、上半身を起こした淵が頭を振って葉を散らしていた。受身を取ったのか大した怪我はなさそうだった。
「何言ってるの。幽鬼にこっちの存在を知られたらいけないから遠回りしてたんじゃない」
登って来れるか、と続けて言おうとしたところで、暁蕾ははたと気づく。
「私、尸鬼の生態について詳しくないんだけど、親玉と意思疎通できるんだったら私たちのことばれるんじゃ」
「嫌なところに気づいたな。尸鬼が繁殖するのは幽鬼が親になっているからという説もある。情報が渡るのも時間の問題だな」
「なら急がないと──」
淵は崖に近づこうと動いたが、絶妙な急斜と枯れ草で滑ってしまい、思うように動けない。飛びついても苔で崩れてしまいそうで、とても登れそうになかった。
仕方なく木に手をかけて上に登ろうとすると、足元にひやりと風が過ぎる。注意が逸れた途端、木の葉が舞って形のない力が淵を掬い上げた。
「おぉ!」
「これでいいでしょ。行くよ」
雲から降りていた暁蕾は軽やかに道を下って行く。
「いい乗り心地だな、面白い!」
背後では相変わらず、尸鬼の落ちる音が聞こえていた。
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